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計量計測データバンク ニュースの窓-352-
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旧制高等学校と福島新吾、大島太郎、飯塚幸三



計量計測データバンク ニュースの窓 目次

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計量計測データバンク ニュースの窓-352-旧制高等学校と福島新吾、大島太郎、飯塚幸三


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「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2026年2月12日号「日本計量新報週報デジタル版」

福島新吾 大島太郎 飯塚幸三

福島新吾 大島太郎 飯塚幸三

福島新吾
福島新吾は1921年(大正10年)5月2日生れ。旧制麻布中学から、旧制東京第一高等学校から旧制東京大学に進み太平洋戦争中に学徒出陣を経験。1947年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京大学社会科学研究所助手(1947年から54年)を経て専修大学に移り、1960年より専修大学法学部教授。同法学部長を務めた。

政治学原論専攻。「学徒出陣」落第記 福島新吾著。オリジン出版センター(1993/11発売)。第2次大戦下、学園から兵営に投げこまれた青年たちが、いかに生きたか。また、陸軍病院の環境にどう自己を対応させていったか。その日記と解説は、ユーモアをさえまじえ、ユニークである。目次。きまじめ学徒の兵隊記(兵営の夜閉ざす 学徒出陣 迫られた覚悟 その日 一心に訓練 幻滅の芽生え 陰惨な私的制裁 あきれた形式主義 検査、検査のしごき 脱出願望 ほか。よわむし学徒白衣の記(入院 陸軍病院 まず休養 知的生活がよみがえる 患者にも検査の負担 無為の集燥 心の支え 落ち幹の居直り 病気を悪化させる巡視 ほか)。


大島太郎
大島太郎は1929年3月31日生れ。旧制群馬県立太田中学校4年修了で1945年4月に旧制浦和高校在学中に理科に入学している。1945年4月に旧制浦和高校に理科に入学、1947年に旧制浦和高校文科一年二組に転科留年、1949年3月に卒業。同年4月に旧制東京大学法学部政治学科に入学、1952年3月卒業。(1931年6月1日生れの人より3学年上であり、四修で高等学校に入学すると4学年上になる。二年修了で文転すると、二年がゼロになるために文転後の在学中は二学年上の生徒となる。

飯塚幸三
飯塚幸三は 1931年6月1日に生れ。旧制東京府立第四中学校 、旧制浦和高等学校を経て新制の東京大学理科1類へ進学、工学部応用物理学科の計測工学専修へ進む。1953年に東京大学を卒業。

熊井啓
1930年6月1日生れ。熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)
長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)生まれ。田町小学校、県立松本中学校(現長野県松本深志高等学校、松本高等学校 (旧制)から学制改革により信州大学文理学部卒業。

松本高等学校 (旧制)
1949年5月 信州大学発足にともない包括される。
1950年3月 廃止。

北杜夫
北杜夫1927年5月1日生れ。北 杜夫(きた もりお、本名:斎藤 宗吉〈さいとう そうきち〉、1927年〈昭和2年〉5月1日 - 2011年〈平成23年〉10月24日)
学歴
青南小学校卒業。
麻布中学校4年修了。
東京帝国大学臨時附属医学専門部入学。
麻布中復帰。
松本高等学校理科乙類(新制信州大学文理学部の前身)卒業(『どくとるマンボウ青春記』の前半の舞台)。
東北大学医学部卒業(『どくとるマンボウ青春記』の後半の舞台)。
博士論文「精神分裂病における微細精神運動の一考察」により医学博士(慶應義塾大学、1960年)。


[資料]

大島太郎、福島新吾と旧制高等学校 夏森龍之介

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学制改革 - Wikipedia

旧制高等学校 - Wikipedia
戦時中の臨時措置
太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年、43年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。ただし、終戦直後の1945年9月に再び修業年限3年に改められたため、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。
1940年4月入学→1942年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1941年4月入学→1943年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1942年4月入学→1943年11月仮卒業→1944年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1943年4月入学→1945年3月卒業(正規2年)
1944年4月入学→1947年3月卒業(正規2年・1年延長)
1945年4月入学→1948年3月卒業(正規2年・1年延長)
1946年4月入学→1949年3月卒業(正規3年)
1947年4月入学→1950年3月卒業(正規3年)
1948年4月入学→1949年3月修了


旧制浦和高等学校 理科から文科に転科した事例(男)

社会科学者の高橋彰(専修大学名誉教授)

旧制浦和高等学校(現在の埼玉大学の前身の一つ)において、理科から文科へ転科(いわゆる「文転」)した著名な事例として、社会科学者の高橋彰(専修大学名誉教授)が挙げられます。
具体的な事例
人物: 高橋彰(経済学者、農業経済学、フィリピン研究)
経歴:1947年(昭和22年)に旧制浦和高等学校に入学した際は理科でした。中学時代から物理や化学を好んでいましたが、入学後の思想的な遍歴や、クラスメートの共産党員との議論をきっかけに関心が社会科学へと移り、後に文科へと転じました。
旧制高校における転科の背景
旧制高等学校(修業年限3年)は、帝国大学への進学を前提とした予備教育機関であり、入学時に「文科(甲・乙)」または「理科(甲・乙)」を選択しました。
制度:原則として入学時の科類に従いますが、個人の関心の変化や適性により転科が行われるケースは他校(一高など)でも見られました。
浦和高校の特色:当時の浦和高校は自由な校風で知られ、学生同士の議論や読書を通じた教養主義的な雰囲気から、高橋氏のように思想的影響を受けて転向する学生も存在しました。

作家・劇作家の飯沢匡(いいざわ ただす)

旧制浦和高等学校において、理科から文科へ転身(いわゆる「文転」)した著名な事例として、作家・劇作家の飯沢匡(いいざわ ただす)が挙げられます。
飯沢匡は、旧制浦和高等学校の理科乙類(医学・農学系、主にドイツ語選択)に入学しましたが、在学中に演劇や文学への関心を深め、卒業後は文化の道へ進みました。
飯沢匡の事例
経歴: 理科から芸術・文学の道へ転身。
その後の進路: 旧制浦和高校卒業後、東京文化財研究所や文化学院に関わり、後に朝日新聞記者を経て劇作家、小説家として活躍しました。
特記: NHKの「おかあさんといっしょ」内の人形劇『ブーフーウー』の原作・脚本を手掛けるなど、児童文学や演劇界で大きな足跡を残しました。
旧制高校における「転身」の背景
旧制高校では、理科生であっても「教養主義」の影響から哲学・文学などの人文知に深く沈潜する学生が多く、理科から文科的な職業(作家、評論家、ジャーナリスト等)へ進むことは珍しいことではありませんでした。浦和高校出身者の中にも、理系から転じた文化人は複数存在します。

文転 - Wikipedia
植田和男 - 経済学者。東京大学理学部卒業後、東京大学経済学部に学士入学。日本銀行総裁。東京大学名誉教授。
宇沢弘文 - 経済学者。東京大学理学部卒業後、スタンフォード大学で経済学に転じる。東京大学名誉教授。

旧制中学校から旧制高等学校への進路の方法 四修、五修
旧制中学校から旧制高等学校への進路の方法 四修、五修
旧制中学校(5年制)から旧制高等学校への進路は、通常5年修了(五修)が一般的でしたが、大正7年(1918年)以降、4年修了(四修)での受験・進学が可能となり、優秀な生徒は1年早く飛び級しました。四修は名門難関校(一高、三高など)へ進む「秀才」の道として知られ、高等学校は大学への予科としてエリート教育を担いました。
1. 四修(4年修了・飛び級)
概要:1918年の高等学校令改正により、旧制中学校の4年を終えた時点で高等教育機関(高等学校、大学予科など)を受験する資格が得られた制度(Wikipedia)。
特徴:四修での進学は「秀才」と見なされ、特に東京府立第一中学校などの名門校は多くの四修進学者を輩出した( Wikipedia, 立命館大学)。
比率:全国の高等学校への入学者のうち、四修の比率は約2割弱で推移した(Wikipedia)。
2. 五修(5年修了)
概要: 中学校の修業年限である5年間をすべて修了し、卒業した後に高等学校(3年制)を受験する通常のルート(新潟県立図書館。)

旧制中学校(5年制)から旧制高等学校(3年制)への進学には、大きく分けて「四修(ししゅう)」と「五修(ごしゅう)」の2つの進路がありました。
これらは、中学校を何年目で修了(または卒業)して高校へ入学したかを表す通称です。
1. 進学の仕組み
五修(ごしゅう)
旧制中学校の正規の修業年限である5年間をすべて修了して卒業し、高等学校へ入学することです。当時の最も一般的な進学ルートであり、中学校卒業後に高等学校の入学試験を受験しました。
四修(ししゅう)
旧制中学校を4年修了した段階で、1年早く高等学校へ入学することです。
1919年(大正8年)の制度改正により導入され、優秀な生徒を早く上の学校へ進ませるための「飛び級」のような役割を果たしました。
4年修了時の成績が優秀な生徒(概ね上位数%〜10%程度)に受験資格が与えられることが多く、非常に狭き門でした。
2. 進学状況と割合
四修による進学は、制度導入後の1920年代半ばにピークを迎えましたが、時代とともにその割合は変動しました。
最高割合:1925年頃には、官立高校入試において合格者の約30%が四修者となることもありました。
その後の推移:以後は徐々に低下し、1934年以降は20%を割り込むようになりました。
著名な例:物理学者の湯川秀樹などは、京都府立第一中学校から四修で第三高等学校に進学した代表的な例です。
3. 歴史的背景と意義
目的:エリート教育機関であった旧制高等学校や帝国大学へ、優秀な人材を早期に送り込むことが目的でした。
廃止:戦後の学制改革(1947年〜1950年)により「六・三・三・四制」が導入され、旧制中学校・高等学校の制度とともにこれらの進学区分も消失しました。

旧制中学校 - Wikipedia

三 新制大学の発足:文部科学省
国立大学については、二十四年に第一学年から発足し、毎年の学年進行を経て、二十七年に四年制大学として完成したが、旧制の学校は、入学者が全員卒業するまで新制大学に従前のまま包括されて存続した。二十六年度には、旧制高等学校卒業者で旧制大学に入学できなかったいわゆる白線浪人対策として、新制国立大学への臨時編入学試験が文部省作成の問題により、全国一せいに実施された。これは、旧制大学が廃止されたため、新制大学の編入学という形をとらざるを得なくなったものである。

第6章 旧制七年制高等学校の解体 | 根津育英会 武蔵学園百年史 | 根津育英会武蔵学園百年史
 私立の旧制七年制高等学校、武蔵、成蹊、成城、甲南はそれぞれ新制中学・高校と新制大学となったが、それに至る過程はやや複雑であった。

 学制改革において、三年制の旧制高等学校が廃止され、そのかなりの部分は新制大学に移行した。大学の専門課程にほとんど自動的に進学できる高等教育予科機関としての高等学校は完全に消滅した。従来これらの高等学校に進学してきた学生層は、新制高校から新制大学(しかも多くは旧制からの伝統ある総合大学)に直接進学するようになった。多くの旧制高等学校は、教員だけが残って、単科大学や文理科大学をつくり、従来の旧制高等学校進学者とは違う層に、専門課程を含む教育を施すことになったのである(四高、五高、六高、七高などの例)。また一部の旧制高等学校(一高、二高、三高、八高など)は新制総合大学の一般教育課程になっていった。こちらの方は、学校の伝統と様態は完全に失われたが、実質的な教育内容は従来と大きくは変わらなかった。

 さて、私立の七年制高等学校は、この学校の尋常科(中等科)に入学できれば、旧制大学の専門課程にほぼ自動的に進学できるという極めて特権的な学校であった。学制改革により、その存在の根拠は完全に失われた。そこで、おそらくは二つの方途をめぐって、旧制七年制高等学校の内部で論議が戦わされたと推察できる。

国立大学については、二十四年に第一学年から発足し、毎年の学年進行を経て、二十七年に四年制大学として完成したが、旧制の学校は、入学者が全員卒業するまで新制大学に従前のまま包括されて存続した。二十六年度には、旧制高等学校卒業者で旧制大学に入学できなかったいわゆる白線浪人対策として、新制国立大学への臨時編入学試験が文部省作成の問題により、全国一せいに実施された。これは、旧制大学が廃止されたため、新制大学の編入学という形をとらざるを得なくなったものである。

連載 日本の物理教育150年 初年次基礎教育:旧制高校と新制大学 中山正敏 九州大学名誉教授
https://www.jstage.jst.go.jp/article/peu/29/3/29_112/_pdf/-char/ja

旧制高校は,文部省の高等学校令によって「高等普通教育」を行うものとされた.いわゆるナンバースクールから出発したが,大正期に大幅に拡充され,1944年には33校,生徒数2.7万に達したが,エリート教育には違いない.

物理、化学の授業内容はつぎのとおりである. 第十四条物理、化学ハ自然ノ現象ニ関スル智識ヲ与ヘ其ノ法則ヲ理解セシメ之カ応用ヲ示シ兼テ観察工夫ノ力ヲ養フヲ以テ要旨トス
物理ハ力学、物性、音響、熱、光、磁気、電気ヲ授ケ又主要ナル実験ヲ課スヘシ化学ハ無機化学及有機化学ヲ授ケ又主要ナル実験ヲ課スヘシ

新制大学への移行―東大の例 東大駒場は、教養学部だから別格だと思っている方もいるかもしれない.しかし、前期課程の教育に当たる物理教室は、最初は学科目制であり、研究費、旅費などは勝木の文献にあるように、理学部の半分程度であった.スタッフは、第一高等 学校(一高)、東京高等学校からが大部分だが本郷から落合騏一郎(久保亮五の先生)、木内政蔵(分光学の大家、物理学会会長)が移籍してた.特に木内は、学生実験の整備に尽力し、教書をつくった.また、小谷正雄らが『物理学概 説』という教科書をつくった.力学は山内恭彦、電磁気学は宮島龍興などの執筆で、筆者は学生時代講義をさておいて、この本で勉強した.木 内編の『物理実験』には、十数項目のテーマがあり、その大部分が実際に開かれていた.助手になって知ったが、駒場では理論の助教授と教授以外は理論の助手でも学生実験の指導を行った.また、当時笠耐が実験指導専門の助手で在任し、若手を鍛えていた.

物理の基礎教育は、要するに古典物理の教育である.これは19世紀の遺物だという方が多いだろう.しかし、人間のやる物理学は古典物理的な方法でしか認識を進められない.精密な量子力学的実験、宇宙の観測、計算機シミュレーション、いずれも人間が見たり、触ったりできる現象を通してしか認知できない.もちろん、これは客観的な過程であり、人間がその場で主観を働かすことは必要ではない.また、物理学の成果の応用も古典物理的なことを通じてしかできない.実験装置、観測装置、計算機、どれをとっても古典物理的なものである.そここそが人間が知恵を働かせる場所である.計算機の活用は重要である.しかし、AIによって流行テーマを推定し、実験装置を発注し、計算ソフトを使うということでは物理学は成り立たない(人間の役には立たない)のである.そうやっても論文は結構生産されるだろうが、それですめば物理学者は不要である.それを見ている若者は、物理学をやろうとは思わない. 大学の物理教育 29(2023)



夏森龍之介のエッセー

田渕義雄エッセーの紹介

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日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する

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