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計量計測データバンク ニュースの窓-445-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-445-コミンテルンにおける密告と粛清――野坂参三による山本懸蔵ら「日本人スパイ」告発事件の真相――
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要旨
日本共産党の指導者として戦前・戦後を通じて党の象徴的存在であった野坂参三(1892-1993)は、1930年代後半、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の中枢部にあって、同じく在ソ日本人共産主義者の幹部であった山本懸蔵(1895-1939)らを「日本陸軍のスパイ」であるとソ連当局(内務人民委員部=NKVD)ないしコミンテルン指導部に虚偽の密告を行い、その結果、山本は逮捕・処刑されるに至った。この事実は、ソ連崩壊後のコミンテルン文書公開によって1992年に明るみに出て、日本共産党は同年12月、野坂を除名処分とした。本稿は、この事件の経過を史料に基づいて時系列的に整理し、事件が生まれた歴史的背景(スターリン体制下の大粛清とコミンテルンにおける相互密告の構造)、発覚に至る経緯、党の対応、そしてこの事件が日本の共産主義運動史に残した教訓について論じるものである。
キーワード:野坂参三、山本懸蔵、コミンテルン、NKVD、大粛清、日本共産党、密告
一、問題の所在
日本共産党の歴史において、野坂参三という名前は特異な位置を占めている。戦前はコミンテルン日本代表として国際共産主義運動の中枢に身を置き、戦後は帰国して党の第一書記、議長、名誉議長を歴任し、衆参両院議員として約30年にわたり日本の政界にも足跡を残した人物である。1993年に101歳で死去するまで、日本共産党の「生き証人」として、また国際共産主義運動の生き残りとして、一種の権威を帯びた存在であり続けた。
しかし、その死のわずか1年前にあたる1992年、野坂は自らが長年率いてきた党から除名されるという、日本の政党史上でもきわめて異例な結末を迎えている。除名の理由は、単なる路線対立や規律違反ではない。かつての盟友であり、同じくコミンテルンで活動した幹部党員・山本懸蔵らを、根拠のない「日本のスパイ」という嫌疑によってソ連の秘密警察に売り渡し、結果としてその生命を奪う一因を作ったという、党員としての最も基本的な信義を裏切る行為であった。
本稿では、この「野坂参三・山本懸蔵事件」ないし「野坂参三密告事件」として知られる出来事について、公開されている史実を整理し、事件の構造とその歴史的意味を検討する。
二、歴史的背景――コミンテルンと在ソ日本人共産主義者
事件を理解するためには、1930年代のソ連とコミンテルンをめぐる歴史的環境を踏まえる必要がある。日本共産党は1922年の結党以来、非合法活動を余儀なくされ、多くの幹部が国内での検挙を逃れてソ連へ密航した。山本懸蔵もその一人である。茨城県出身の労働運動家であった山本は、1922年に日本共産党に入党した後、同年にソ連へ密航して赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)の大会に参加し、その後も日本国内での検挙(1928年の三・一五事件など)を逃れて再びソ連に渡り、モスクワにおける日本共産党代表部の中心人物の一人となった。1936年2月には野坂参三と連名で「日本の共産主義者への手紙」(いわゆる「三二年テーゼ」に続く重要文書)を発表するなど、野坂とは長年にわたり協働関係にあった同志であった。
一方、野坂参三は1931年にソ連へ入国し、コミンテルン本部で日本代表として活動するようになった。両者はモスクワにおいて、亡命日本人共産主義者コミュニティの中核をなす存在であった。
しかし1930年代半ばから後半にかけて、ソ連国内は「大粛清」(1936-1938年を中心とするスターリンによる大規模な政治弾圧)の嵐に見舞われる。この弾圧は自国民のみならず、モスクワに拠点を置く各国共産党の亡命幹部やコミンテルン職員にも及んだ。外国人であるという立場そのものが「外国のスパイ」という疑惑の温床とされ、NKVDによる摘発の対象となりやすかったのである。この時期、亡命中の日本人共産主義者も次々と「日本のスパイ」の嫌疑をかけられて逮捕・処刑されており、社会衛生学者で共産主義者であった国崎定洞(1894-1937)もその犠牲者の一人であった。
注目すべきは、国崎定洞の逮捕(1937年8月)に先立ち、モスクワの日本共産党代表であった山本懸蔵自身が、国崎を「日本のスパイと結びついている」としてソ連当局に密告していたという事実である。国崎はその後、同年12月10日に銃殺された。この事実は、大粛清下のコミンテルンにおいて、外国人共産主義者たちが自らの身の安全を図るため、あるいは取調べの中で強要されて、互いに「スパイ」として告発し合うという、疑心暗鬼と相互密告の連鎖構造が存在していたことを示している。山本自身が密告者であったという事実は、後に彼自身が野坂によって同じ運命に陥れられることになるという、この事件の悲劇性と歴史の皮肉を一層際立たせている。
三、山本懸蔵の逮捕と処刑
山本懸蔵は1937年11月2日、NKVDによって「大日本帝国陸軍のスパイ」の容疑で逮捕された。ソ連当局はこの逮捕に基づき取調べを進め、1939年3月10日、山本を銃殺刑に処した。ソ連当局は当時、山本の死について「1942年4月に病没した」という虚偽の公式発表を行っており、真実は長らく隠蔽されたままであった。山本の妻もまた、粛清の巻き添えとなり過酷な運命をたどったとされる。
戦後長きにわたり、山本の消息は日本共産党内でも正確には把握されず、彼は「大粛清の犠牲者」として漠然と語られるにとどまっていた。この逮捕の背後に、盟友であったはずの野坂参三の密告があったという事実が明らかになるのは、ソ連崩壊後、実に半世紀以上を経てからのことである。
四、野坂参三の関与――ディミトロフ宛書簡
ソ連崩壊(1991年)に伴うコミンテルン関連文書の情報公開によって、野坂参三がコミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフに宛てて送った書簡の存在が明らかになった。野坂はコミンテルンでの活動を経て1938年以降アメリカに拠点を移していたが、この間、ディミトロフ宛の書簡などを通じて、モスクワに残る山本懸蔵ら日本人同志について、事実に基づかない讒言・密告を行っていたことが、公開された文書によって裏付けられたのである。
この密告が、既に外国人共産主義者に対する猜疑心が極度に高まっていたコミンテルン内部の状況とあいまって、山本の「日本陸軍のスパイ」という容疑を補強し、その逮捕・処刑という結末に直接につながったと考えられている。野坂がなぜ盟友であったはずの山本を陥れる密告に及んだのかについては、大粛清という異常な恐怖政治の中で自らの身の安全を確保しようとした自己保身説をはじめ、研究者の間でなお議論が続いているが、いずれにせよ、密告という行為そのものと、それが山本の死という結果を招いたという事実関係については、公開文書によって否定しがたい形で裏付けられている。
なお、野坂をめぐっては、この密告事件とは別に、党の自主独立路線に反してソ連軍関係筋から個人的に秘密資金を得ていたとの疑惑も指摘されており、これらは野坂という人物とソ連との間に、党の公式路線とは別の隠された関係があったことを示唆するものとして、あわせて論じられることが多い。
五、発覚の経緯――ソ連崩壊とコミンテルン文書公開
この事件が白日の下にさらされる契機となったのは、1991年のソ連崩壊に伴う公文書公開である。長らく非公開とされてきたコミンテルン関連文書やNKVDの記録が閲覧可能となったことで、山本懸蔵の逮捕記録や、野坂参三がディミトロフに宛てた書簡の内容が研究者やジャーナリストによって発見されるに至った。
日本国内では1992年9月、週刊誌『週刊文春』が野坂参三とソ連・NKVDとの関係を扱う連載記事を掲載したことが、直接的な引き金となった。この報道を受けて日本共産党は事態を重く見て、独自にロシアへ調査団を派遣し、現地でコミンテルン・NKVD関連の一次史料にあたって事実関係の確認を進めた。
六、日本共産党の対応――名誉議長解任から除名処分へ
日本共産党の対応は迅速であった。1992年9月20日、党は野坂の名誉議長の職を解任した。その後、ロシアに派遣していた調査団が同年12月24日に帰国し、その報告を踏まえて党中央委員会は12月27日に緊急会議を開催、翌28日、野坂参三を除名処分とする決定を発表した。
党の公式見解は、野坂の行為が「党員であることと到底両立しない」というものであった。野坂本人は、当時すでに100歳という高齢にあったが、弁明の機会において「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べたと伝えられている。それ以上の詳細な弁明や説明を公にすることのないまま、野坂は翌1993年11月14日、101歳でその生涯を閉じた。
長年にわたり党の生き証人として権威を保ってきた人物が、死の直前になって、自らがかつての同志を死に追いやった張本人であったことを事実上認め、除名という形でその政治的生命を終えることになったという結末は、日本共産党史上でもきわめて重い意味を持つ出来事であった。
七、歴史的意味と教訓
この事件が示すのは、第一に、スターリン体制下の大粛清というものが、単に独裁権力による一方的な弾圧としてのみ機能したのではなく、被支配者側の相互不信と密告の連鎖をも生み出す構造を内包していたという点である。山本懸蔵が国崎定洞を密告し、その山本自身が野坂参三によって密告されるという連鎖は、極限的な恐怖政治の下では、革命運動の同志であったはずの者同士が、生き残りをかけて互いを売り渡す関係に転じうることを如実に物語っている。
第二に、この事件は、戦後日本共産党が「自主独立路線」を掲げ、ソ連や中国など外国の党からの干渉を排する立場を確立していく過程において、皮肉にも党の最高幹部自身がかつてソ連の秘密警察機構と特殊な関係を有していたという事実を突きつけるものであった。野坂が戦後、党内外で築いてきた権威と実際の歴史的行為との落差は、政党史における「英雄」の内実を、後世の視点から批判的に検証することの重要性を示している。
第三に、事件の発覚と党の対応の経過は、歴史的事実の隠蔽がいかに長期間可能であり、また体制の崩壊という外的要因(ここではソ連崩壊とそれに伴う文書公開)によって初めて明らかにされうるかを示す事例としても興味深い。野坂の密告から発覚までには半世紀以上の歳月を要しており、その間、山本懸蔵の名誉は回復されることなく、彼の死の真相は歴史の闇に埋もれ続けていたのである。
八、おわりに
野坂参三による山本懸蔵ら密告事件は、単なる一党内部のスキャンダルにとどまらず、20世紀の国際共産主義運動が内包していた恐怖と相互不信の構造を象徴する事件として位置づけられる。日本共産党が1992年、当時101歳に迫る高齢の名誉議長を除名するという異例の決断を下したことは、たとえ半世紀以上を経てであっても、党史の負の側面と正面から向き合おうとした姿勢の表れとして評価しうる一方で、山本懸蔵をはじめとする犠牲者たちの名誉が、その死から長きにわたり回復されずにきたという事実の重みもまた、忘れてはならない。
本事件の全容解明にはなお史料的な制約もあり、野坂の動機や密告の具体的な範囲・時期については、今後のコミンテルン文書研究のさらなる進展が待たれるところである。
主要参考文献・出典
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├計量計測データバンク ニュースの窓-441-ソビエト連邦の実際 ― その民主制と民主主義の実態、ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲 ― 歴史的検証
├計量計測データバンク ニュースの窓-442-ソビエト連邦の実際 ― その民主制と民主主義の実態
├計量計測データバンク ニュースの窓-443-ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲——歴史的検証
├計量計測データバンク ニュースの窓-444-レーニンの功績と歴史的制約がもたらしたもの、そして汚点に属する事柄
├計量計測データバンク ニュースの窓-445-コミンテルンにおける密告と粛清――野坂参三による山本懸蔵ら「日本人スパイ」告発事件の真相――
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