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計量計測データバンク ニュースの窓-446-
宮本顕治の中国渡航をめぐる資料的検証(改訂版)
―1966年公式訪中団と、国谷哲資回想記が伝える「広州の邸宅」証言の検討―
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宮本顕治の中国渡航をめぐる資料的検証(改訂版)―1966年公式訪中団と、国谷哲資回想記が伝える「広州の邸宅」証言の検討―


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計量計測データバンク ニュースの窓-446-宮本顕治の中国渡航をめぐる資料的検証(改訂版)―1966年公式訪中団と、国谷哲資回想記が伝える「広州の邸宅」証言の検討―

宮本顕治の中国渡航をめぐる資料的検証(最終版)

―1966年公式訪中団の実態と、国谷哲資回想記が伝える「広州の邸宅」証言―

2026年9月19日 執筆 夏森龍之介

要旨

日本共産党元議長・宮本顕治(1908-2007)の中国渡航については、1966年に党代表団を率いて訪中した事実が、党機関紙および当時の代表団随員自身による回想記によって確認できる。これとは別に、日中両党が「蜜月関係」にあった1963年から1965年頃、中国共産党が宮本に対して広州市内の邸宅を提供し、そこに宮本の実子・太郎(重い小児麻痺を患っていたという)が約一年間滞在したとする具体的な証言が、当時北京の日本共産党非公然機関に在籍した国谷哲資氏の回想記「北京追憶――若者が体験した戦後日中関係秘史――」に記録されている。本稿はこの回想記を中心資料として、宮本と家族の中国滞在の実態を再構成するとともに、資料としての性格・限界、および史料中に紛れ込む重要な人物同定上の陥穽(同姓同名の別人物の存在)についても検討する。

1. はじめに

本稿の課題は、「日本共産党の宮本顕治の親子三人での中国への渡航」という言説について、確認できる資料に基づきその実態を明らかにすることにある。中心資料は、国谷哲資氏(1932年生、旧満洲からの留用者で、1953年から1967年まで北京の日本共産党非公然機関・自由日本放送等に勤務した人物)による回想記「北京追憶」である。同回想記は、下関市立大学・飯塚靖教授による研究報告「戦後中国長期残留者の軌跡と記憶」(公益財団法人JFE21世紀財団、2019年度アジア歴史研究助成報告書)において学術的な調査対象ともなっており、単なる個人の回顧談ではなく、一定の史料的検証を経た人物の証言として位置づけうる。

2. 宮本顕治の経歴と家族の概要(前提事実)

宮本顕治は1908年、山口県生まれ。1931年に日本共産党入党、1933年に党中央委員となったが、同年末に検挙され、いわゆる「日本共産党スパイ査問事件」(党員・小畑達夫の査問死事件)に関与したとして無期懲役の判決を受け、敗戦まで獄中生活を送った。戦後は党の指導的地位につき、1958年書記長、1970年幹部会委員長、1982年中央委員会議長を歴任した。

家族関係については、最初の妻は作家の宮本百合子(獄中結婚、1951年死去、子はなし)、後妻は文芸評論家の大森寿恵子(ウィキペディアによれば1956年5月結婚)であり、両者の間に生まれた長男が太郎(1958年7月13日生、後の中央大学法学部教授・政治学者)である。

3. 史料上の重要な陥穽――もう一人の「宮本太郎」

本稿を進めるにあたり、まず史料批判上、看過できない点を指摘しておかなければならない。国谷回想記には、「宮本太郎」という人名が複数箇所に登場するが、これらは実は二人の全く別人を指している。

一人は、宮本顕治の実子であり、1958年生まれで、1963~65年当時はまだ5~7歳の幼児であった太郎である。もう一人は、回想記の第2章(6)・(8)に登場する「宮本太郎」で、こちらは「所感派の国内残留組の中央幹部」であり、1953年末から54年にかけて紺野与次郎・河田賢治らと共に北京機関に姿を現し、モスクワに赴いて第6回全国協議会の決議原案作成に加わり、1955年末の自由日本放送終了後も北京機関に残留幹部として留まった人物である。この人物は、ウィキペディア「宮本太郎(日本共産党中央委員)」項目に記載のある、1910年生まれ・2008年没・読売新聞記者を経て日本共産党に入党し、ハノイの日本共産党代表なども務めた人物と同定できる。すなわち、宮本顕治の実子とは生年も経歴も全く異なる、単なる同姓同名の別人である。

この点を明確にしておかないと、回想記中の「宮本太郎」への言及を、あたかも宮本顕治の幼い息子が1953年頃から北京機関やモスクワで政治活動に関与していたかのように誤読しかねない。両者を峻別したうえで、以下、宮本顕治の実子・太郎に関する記述のみを検討の対象とする。

4. 1966年日本共産党代表団の公式訪中

国谷回想記によれば、1966年2月10日、宮本顕治を団長とする日本共産党代表団は、中国の貨物船「紅旗」号で上海に到着した。国谷氏自身は広州で代表団に合流し、通訳としてベトナムへの随行を務めた。代表団は中国側が用意したプロペラ機で広州からハノイへ移動し、レ・ズアン第一書記率いるベトナム労働党代表団と会談(この会談にはホー・チ・ミン主席も同席した)、さらに朝鮮労働党との会談を経て北京に立ち寄った。

日中両党会談は3月3日から8日まで行われ、中国側は劉少奇(団長)、鄧小平、彭真、康生、廖承志ら、日本側は宮本顕治以下の代表団という顔ぶれであった。焦点は、対米国際統一戦線にソ連共産党を含めるか否かであり、意見の一致を見なかった。ところが北京側は一転して日共代表団歓迎の大衆集会(3月26日、北京)の開催、共同コミュニケの発表、毛沢東主席との会見を提案し、共同コミュニケ案は日中両党の小委員会で合意され、送別レセプションも釣魚台迎賓館で行われた。しかし上海での毛沢東との会見において、毛沢東は「修正主義を批判するなら名指しでソ連修正主義と書くべきだ」「北京の連中は軟弱で無力だ」とコミュニケ案を批判し、合意は覆された。この決裂を機に、日本共産党と中国共産党の関係は事実上断絶し、日本共産党は「自主独立路線」へと転じ、中国派とされた幹部の除名が相次いだ。

この1966年の訪中は、党の公式代表団による外交活動であり、随員も国谷氏をはじめ複数の党関係者からなる集団であった。家族同伴の私的渡航ではない。

5. 国谷回想記が伝える「広州の邸宅」証言

これとは別に、1963年から1965年頃、日中両党が「蜜月関係」にあった時期についての記述の中に、本稿の主題に直接関わる証言がある。国谷回想記第3章(5)「日中両党の蜜月関係」は、次のように記す。

「中共中央対外連絡部の招待所にも、中央委員・岡田文吉の夫人とその子供2人、西沢隆二の息子ナポリも入って、子供は中国の小・中学校に通うようになった。特筆すべきは宮本顕治への厚遇であった。肺炎とかの療養のためと言って、広州市内にある室内プールつきの大邸宅が与えられ、やがて重い小児マヒの息子・太郎も一年ばかり住み、保母2人(そのうち一人は私の母)や医師が世話をした。日共関係の訪中団も、当時香港経由の帰国を待つ間、この邸宅に宿泊した。」

この一節から確認できる事実関係は、次の三点に整理できる。

第一に、宮本顕治自身が、「肺炎とかの療養のため」という名目で、中国共産党から広州市内の室内プール付きの大邸宅を与えられた。「とかの」という国谷氏の表現には、この名目自体への懐疑がにじんでおり、実質的には日中両党の蜜月関係を背景とした政治的な特別待遇であった可能性を示唆している。

第二に、宮本の実子・太郎(当時5~7歳、重い小児麻痺を患っていたという)が、「やがて」この邸宅に「一年ばかり」滞在し、保母二人(うち一人は国谷氏の母)と医師の世話を受けた。

第三に、この邸宅は宮本一家専用の施設ではなく、香港経由での帰国を待つ日共関係の訪中団の宿泊にも用いられており、中国側が日共要人に提供した迎賓施設的な性格を持っていたことがうかがえる。

なお、この直前の一文には、中央委員・岡田文吉の夫人と子供2人、西沢隆二(ぬやま・ひろし)の息子も北京の招待所に入り、中国の学校に通っていたことが記されており、幹部子女が中国側の施設に滞在する例は、この蜜月期には宮本家に限らず複数存在したことが分かる。また同章(1)には、1963~65年にかけて北京語言学院に中央幹部(酒井貞吉、藤井貞治、田代文久ら)の子女が派遣されていたことも記されており、これも同時期の状況と符合する。

6.「親子三人での渡航」説の検討

以上を踏まえ、当初の問い、すなわち「宮本顕治の親子三人での中国への渡航」という言説について検討する。

まず確認すべきは、国谷回想記の記述は、宮本本人と息子・太郎が広州の同じ邸宅に「滞在した」ことを伝えるものであり、両者が同時に、あるいは一体の家族旅行として中国へ「渡航した」と直接述べたものではないという点である。原文の「やがて」という語からは、宮本自身の滞在(療養名目)がまずあり、その後に息子の滞在が続いたという時間的推移が読み取れるが、両者の滞在期間が重なっていたかどうかは、この一節だけからは判然としない。

また、この証言には、宮本の妻・大森寿恵子がこの邸宅に同行・同居していたか否かについての明示的な言及がない。息子の世話をしたのは「保母2人」と「医師」であり、母親自身が付き添ったとは書かれていない。したがって、「親子三人」(父・母・子)が揃って中国へ渡航し、あるいは同時に滞在していたことを、この証言のみから確定することはできない。

その一方で、この証言は次の点について、従来の公開情報からは得られなかった具体性を提供している。すなわち、(1)宮本顕治が1966年の公式訪中とは別に、1963~65年頃の日中蜜月期において、中国側の厚遇により広州に一定期間滞在した可能性を示す、実名を挙げた目撃証言が存在すること、(2)宮本の実子・太郎が重い小児麻痺を患い、その療養名目で中国(広州)に約一年間滞在したという、具体的な証言が存在すること(太郎の生年1958年と年齢的にも矛盾しない)、(3)こうした厚遇が宮本一家に限られたものではなく、他の中央委員の家族にも及んでいた、党全体の状況の一部として記述されていることである。

結論として、「宮本顕治とその家族が中国と関わりを持ち、一定期間滞在した事実」については、国谷回想記という具体的な証言によって、従来よりも踏み込んだ裏づけが得られたと言える。しかし、それが「親子三人そろっての渡航」という特定の形態であったと断定することは、現時点の資料からは尚早である。

7. 資料的性格と限界

国谷回想記は、出来事から半世紀以上を経た2015年前後に執筆された回想であり、証言者本人もこの邸宅に居住していたわけではなく、自身の母親が息子・太郎の保母を務めていたという、間接的な立場からの見聞に基づく記述である可能性が高い。また、国谷氏は帰国後、山口県の『長周新聞』(福田正義主幹)で半世紀にわたり勤務しており、同紙は1966年の日中両党関係断絶に際して宮本指導部から離反した「山口県左派」の系譜につながるとみられる。国谷氏自身も本文中で「日共宮本集団と決別してどこに自分の第二の革命人生を求めるのか」と記すなど、宮本指導部に対して明確に批判的な立場を取っている。したがって本証言は、宮本指導部と政治的に対立する陣営に身を置いた人物によるものであるという文脈を踏まえて評価する必要がある。

とはいえ、証言の具体性(邸宅の所在地、設備、世話をした人数、その一人が自身の母であったという個人的関わりなど)は、単純な伝聞や政治的中傷とは性格を異にしており、実体験に基づく記述である可能性を強く示唆している。また、前述の通り証言者自身が学術研究(飯塚靖教授の研究)の対象となっている点も、資料としての一定の信頼性を補強する要素である。

今後の検証としては、(1)回想記に登場する他の関係者(羅明、林麗韞など)の証言との照合、(2)大森寿恵子・宮本太郎自身、あるいは日本共産党関係者側からのこの時期の宮本家の動静に関する記述の有無の確認、(3)中国側の招待所受け入れ記録など一次資料へのアクセスが望まれる。

8. 結論

第一に、宮本顕治の中国渡航のうち、党の公式記録および当事者の回想記によって確実に裏づけられるのは、1966年、宮本を団長とする日本共産党代表団によるベトナム・中国・北朝鮮三国訪問である。これは党の公式外交活動であり、家族同伴の私的渡航ではない。

第二に、これとは別に、1963~65年頃の日中両党「蜜月期」において、中国共産党が宮本顕治に対し広州市内の邸宅を提供し、宮本の実子・太郎(重い小児麻痺を患っていた)がそこに約一年間滞在したとする具体的な証言が、当時北京の日共非公然機関に在籍した国谷哲資氏の回想記に記録されている。

第三に、この証言をもって「宮本顕治が親子三人そろって中国へ渡航した」という言説を確定的な事実として認定することはできない。証言は宮本本人と息子それぞれの滞在を伝えるものであり、母親の同行・同居は明示されていない。また、証言者自身が宮本指導部と政治的に対立する立場にあったこと、さらに回想記中には宮本顕治の実子とは無関係の同姓同名の別人物「宮本太郎」(所感派系の党中央委員)も登場するため、史料の読解には慎重な人物同定が必要であることも付言しておく。「親子三人での渡航」という言説の真相については、確認できた事実(邸宅提供と息子の長期滞在)と、なお確認できない部分(同時性、母親の関与)とを区別したうえで、さらなる一次資料による裏づけが今後の課題として残される。

主要参照資料



回想記 北京追憶―若者が体験した戦後日中関係秘史―国谷哲資




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