夏至の日の旅行。滋賀県の草津駅で「旅は夕暮れに尽きる」と思う 旅行家 甲斐鐵太郎
郡上八幡の6月24日は夏だった 宿の白い暖簾が気持ちいい 旅行家 甲斐鐵太郎
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私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 (29) 東北6県北海道計量協会の会長さん達 目次 |
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私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 (29) 東北6県北海道計量協会の会長さん達 目次 日東イシダ(株)会長 (社)日本計量振興協会顧問 前(社)宮城県計量協会会長 (29) 東北6県北海道計量協会の会長さん達 ●西谷さんのこと 私が西谷さんに初めて会ったのは60年も前のことで、1948(昭和23)年に営業で北東衡機を訪れた時のことである。西谷さんは当時資材部長として購入窓口担当だったので訪問をする都度お目にかかり、彼の得意とする経済論・政治論をよく聞かされたものだった。 話は一寸それるが福島県の船引という町に大森工業所という棒はかりを製造している工場があった。もともと大森工業所は東京の材木屋で木箱を作っていたが、戦後は材木の知識を活かして棒はかりの製造に転向していた。 朝鮮動乱が始まると同時に木箱の特需が出てきたのではかり屋を廃業し、東京へ戻って本業の木箱を作ることに専念することになった。 私は売掛代金の代わりに棒はかりの材料の樫の木を一貨車分引き取り、それを北東衡機に引き取って貰った。その間の処理が若造ながら大したものだと西谷さんに痛く気にいられ大変目をかけてくれるようになった。 当時の台秤の生産は親方と弟子の徒弟制度で、親方の職人芸に頼る生産方式が殆どであった。北東衡機では台秤の生産には難しいとされた分業方式を早くから取り入れ、流れ作業体制が確立していた。 台秤の生産台数は日本一を誇り、東北では唯一全国に販路を持つ大手メーカーであった。 私は西谷さんのお墨付きで自由に工場内に出入りすることを許され、生産工程についていろいろ勉強して、それを参考にして鎌長の台秤生産ラインの根本的な改造に役立てたものだった。 更に勝手に倉庫に入り錘の在庫を調べ、「今月はこのくらい送っておきます」と自分で注文量を決めて10トン貨車貸切で錘を送りつけたものだった。 西谷さんは東大出だけあって頭の切れが鋭く、その経営論・業界論は誰も反論出来ず東北・北海道の業界では西谷天皇と呼ばれ、大ボス的な存在だった。会長会議でも60才を過ぎた私を捕まえて20代の若者のように「おい、鍋島」と呼び捨てである。呼び捨てに対して周りの人の中には眉をひそめる人もいたが、私は平気で別に違和感はなかった。 惜しいことにワンマン経営が祟ってか晩年会社が廃業に追い込まれて、あの元気な声も聞けなくなった。 ●安保さんのこと 昭和20年代の中ごろ(正確には覚えていないが25年か6年だったと思う)、四国の徳島で計量協会の全国大会が開催された。勿論徳島の阿波踊りの時期に合わせて開催された。 私は若造で大会には参加出来なかったが、大会の帰りに多くの方が日本秤錘へ来られた。安保さんも来社され、その時初めてお目にかかった。と言っても垣間見ただけで言葉を交わした訳ではなく、これが有名な北海道の所長さんかと思った。当時の評判は日本一の検定所長で「俺の仕事は道から検定所の予算をたっぷり取ることだ」というのが持論で、5~60人いる検定所の予算を確保した後は部下に任せて全国を歩いているという評判だった。 その後北海道計量協会の会長を勤められ、会長会議でよくお目にかかった。 北海道計量協会は4000軒近い会員数を擁し、ブロック内では会員数も予算規模も当時としては最大であった。会長時代の安保さんは飄々とされてとても風格があった。我々に対しても威張るところは全然なく、所長時代の近寄りがたい厳しさは感じられなかった。 ある年の会長会議の議題で各道県の協会の実態を調査して、その比較をしてお互いの参考にしたことがあった。 その時「宮城県の協会は会費収入40%事業収入60%で一番バランスが取れていて模範的である」と言われたことが思い出として残っている。 安保さんは計量業界が未だ検定所主導で運営されていた時代に偉大な足跡を残した所長であったと思う。 ●西さんのこと 西さんは早稲田大学に学んだ秀才で頭の切れは素晴らしかった。会長会議でも活発に発言され、色々な企画や斬新なアイデアを提案された。 別の項で北海道の帰りに困ってお金を借りた話をしたが、昭和20年代から営業マンとしてお宅にお伺いして、新婚の美人で優しい奥様の手料理をよくご馳走になった。 青森県は青森市・八戸市・弘前市が特定市で協会も青森支部・八戸支部・弘前支部としっかりとした3支部にがっちりと支えられた組織であった。 1952(昭和27)年に東北北海道計量協会連合会が発足しているが、その第1回の総会が青森で開催されている。恐らく青森県が提唱して開催されたものと思われるが、毎年持ち回りで山形・宮城・秋田・岩手・福島・北海道の順に開催している。何故、この順序になったのか不思議だが今となっては確かめようがない。昨年で8回りして今年青森大会で9回り目の57回目に入った。1975(昭和50)年頃の青森大会で業界の大同団結を提唱し、青森から全国に向けて発信するという快挙も西さんの提唱したものだった。 また、西さんは青森の名士でもあり、ライオンズクラブでも私の先輩ライオンとして青森地区のガバナーという名誉ある最高の地位に就かれた。その他に赤い羽根募金の青森代表も勤められたということである。 そんなことで早くに叙勲の栄に浴されたが、残念なことに数年前に亡くなられた。息子さんの秀記さんが立派に後を継いで素晴らしい活躍をされていることは頼もしい限りである。 ●鈴木さんのこと 秋田の鈴木はかり屋さんは江戸時代から何百年も続いた老舗中の老舗で、代々清太郎を襲名している。 私は昭和20年代の頃から毎月のように営業マンとして伺った。茶町という秋田市の一等地に鈴木はかり屋という大きな看板を掲げた老舗らしい風格の店があり、裏にお住まいと小さな工場(棒はかりを作る)があった。 鈴木さんは会長会議では余り発言しなかったが、場の雰囲気を盛り上げる才能は素晴らしく、懇親会は彼の独壇場であった。 鈴木雲城という芸名を持ち、顎鬚を長く伸ばされて愛嬌のある顔で詩吟を朗々と吟じられた。同時に漢詩と和歌の名人でもあった。特技としては和歌に相手の名前を織り込んだ即興の詩を作ることであった。これは芸者さんやコンパニオンに喜ばれ、人気は絶大であった。 はかり屋の方は時代の波に勝てず、一等地の屋敷をマンションのデベロッパーに売り渡して廃業された。面白いことに、はかり屋を廃業してからも秋田県計量協会の会長は辞めずに続けられた。大会では相変わらず絶大の人気を誇って居られた。秋田の検定所を退職してから長く専務理事として協会を支えて来られた相馬さんに私が「鈴木さんが会長を続けてくれていいですね」と話したら「それはいいことですが、秋田にそれだけ人材が居ないと言うことですよ」と嘆いておられた。 ●長岡さんのこと 長岡さんも昭和20年代からのお付き合いで、やはり営業マンとして東北衡器を訪問して以来のことだった。朴訥で質実剛健という典型的な東北人の見本のような方だった。近衛連隊に選ばれて入隊しただけあって体格も立派で心身共に壮健な方だった。会社の一角に弓の射場を設けて毎日昼休みに弓の稽古をして心身を鍛えるという異色な経営者でもあった。 東北衡器という会社は岩手県内の販売免許を持った方々が出資して造った由緒ある会社だったが、後継者が育たなかったのか、育てなかったのか、長岡さんが亡くなられた後倒産してしまった。 岩手県の協会も会員の会費の外、収入がなく200万円そこそこの予算では事務局にはパートの女性一人しか雇えなかった。他県の協会がやっている代検査事業も、早くから検査事業を立ち上げていた強力な団体があって協会の出る幕がなかった。長岡さんは何とか協会を存続させようと頑張られたが、亡くなられた後、協会は指定定期検査機関の指定を取れなかったことで継続を断念して解散してしまった。 計量協会の解散という全国でも珍しいケースになり、東北・北海道ブロックにとっても大変残念なことだった。地下で長岡さんもさぞ無念の思いをして居られるのではないだろうか。 ●竹田さんのこと 先の5人の会長さん達と違って竹田さんとは会長になってからのお付き合いである。しかし宮城県と山形県は隣同士で協会の事務局同士も交流が深く、とても仲が良くて定期的に交流会を開いている仲だった。 また私共の会社が社員旅行で羽黒山へ行った時、竹田さんの知り合いの宿坊を紹介して頂いて大変お世話になった。 竹田さんはお兄さんが計量士であった関係で役所勤めから転進してはかり屋になられただけあって、はかり屋らしからぬ見識を持っておられ、会長会議でも積極的に発言された。 ある会議で「日計協の常任理事は理事会に出席してその内容を持ち帰って周知すべきである。理事会に出席の難しい人は遠慮すべきではないか」と言う趣旨の発言をされた。 これは私が竹田さんを焚きつけて発言して貰ったものだった。私の考えでは常任理事は宮城から出るのが順当ではないのか、しかし一番若い私から言い出すのは憚られるので竹田さんに発言してもらった。情けない姑息な手段だった。案の定、私の思惑は外れて常任理事に指名されたのは竹田さんだった。 その後体調を崩され会長会議でも一時危険な状態になられたことがあり、その時私が一生懸命支えてお部屋へ運んだが、竹田さんにえらく感謝され次の会議のとき酒田の名産品をお土産に頂き恐縮した思い出がある。 晩年には東北で一番に指定定期検査機関を立ち上げ、全国的に注目され我々始め他県の協会が指定定期検査機関の指定を受ける先鞭をつけられた。 竹田さんは体調を崩されたこともあり、会長だけでなく事業の方も譲られて引退された。 私も現役を退き協会の顧問を仰せつかっているが、お陰で体調は万全で未だに業界の会合には参加させて貰っている。しかし、これまで紹介した6人の会長さんは亡くなられたり引退されたりで私一人になってしまった。淋しいことだが自分の健康に感謝しなければならない。 (つづく) |
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私の履歴書 鍋島 綾雄 日本計量新報2724号(2008年5月18日)より連載
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