小平が銀 高木美帆が銅 スピードスケート女子1000m。NHK NEWS WEB動画。 小平奈緒、高木美帆 左が小平奈緒、中央金メダル、右高木美帆 NHKテレビから |
小平が銀 高木美帆が銅 スピードスケート女子1000m。NHK NEWS WEB動画。2月14日 20時18分 ピョンチャン五輪。ピョンチャンオリンピック、スピードスケートの女子1000メートルが行われ、小平奈緒選手が銀メダル、高木美帆選手が銅メダルを獲得しました。 渡部暁、2大会連続の銀「ホッとしたのが半分、悔しさ半分」ノルデック複合。サンスポ。 平野が2大会連続で銀メダル スノーボード男子ハーフパイプ。NHK WEB NEWS。2月14日 12時08分ピョンチャン五輪。ピョンチャンオリンピック、スノーボード男子ハーフパイプで、平野歩夢選手が銀メダルを獲得しました。平野選手は前回のソチ大会に続き2大会連続の銀メダルです。 高木美帆は銀メダル スピードスケート女子1500m。NHKnewsWEB。2月12日 22時51分ピョンチャン五輪。ピョンチャンオリンピックのスピードスケート 女子1500メートルで高木美帆選手が銀メダルを獲得しました。オリンピックのスピードスケートで日本が銀メダルを獲得したのは、女子の個人種目では初めてです。 高梨が銅メダル ジャンプ女子。NHKwebsNEWS。2月12日 23時51分ピョンチャン五輪 ピョンチャンオリンピックのスキージャンプ女子ノーマルヒルで日本のエース、高梨沙羅選手が銅メダルを獲得しました。この種目で日本の選手がメダルを獲得するのは初めてで、高梨選手は2回目のオリンピックで初のメダル獲得となりました。 原が銅メダル 男子モーグル。NHKwebsNEWS。2月12日 22時29分ピョンチャン五輪 ピョンチャンオリンピックのスキー、フリースタイルの男子モーグルで原大智選手が銅メダルを獲得し、今大会、日本勢、最初のメダルとなりました。モーグルの日本選手の男子でメダルを獲得したのは原選手が初めてです。 |
五輪スピード。記録会で小平が37秒05の好タイム。毎日新聞。スピードスケートの記録会が7日、五輪競技会場の江陵オーバルで行われ、女子500メートルは金メダル有力候補の小平奈緒(相沢病院)が37秒05の好タイムをマーク。 |
【計量法 政省令改正の動き ウオッチ。経済産業省のホームページから】 〈パブリックコメント:意見募集〉2018年02月03日 |計量法施行規則の一部を改正する省令案等に対する意見募集について|意見・情報受付締切日2018年03月04日|search.e-gov.go.jp/servlet/Public.. 社会の統計と計量計測の統計【分類13】日本の計量法と計量関係法規 |
私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 (35) 皇居に参内した感激 目次 |
私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 (35)皇居に参内した感激 目次 日東イシダ(株)会長 (社)日本計量振興協会顧問 前(社)宮城県計量協会会長 皇居に参内した感激 私が(社)宮城県計量協会の理事になってから46年、会長になってから20年経った2003(平成15)年秋、思いもかけず計量功労による叙勲の光栄に浴した。 初代遊佐広太会長は自治功労で、2代目会長の鈴木利平氏は薬剤師協会会長としての功績で厚生省(当時)の推薦による叙勲を受けている。 3代目の会長である私は、初代会長や2代目会長のような華々しい経歴の持ち主ではなく、ハカリ一筋に生きてきた平凡な人生だった。にもかかわらず、宮城県として初めての計量功労による叙勲を受けた。 2003(平成15)年11月7日、生まれて始めて皇居に招かれ坂下門から参内した。 バスを降りて皇居を背に記念撮影をしてから、4列縦隊で「春秋の間」に案内された。私はたまたま一番左の列だったので、「春秋の間」に到着して左向けをして4列横隊なったとき一番前列になるという幸運に恵まれた。天皇陛下に本当に間近にお目にかかることが出来、「のにを拝し奉り感激の極み」という言葉のとおりの心境だった。 家内とは1950(昭和25)年2月に結婚した。その5カ月後、家内は母一人娘一人だった母親を癌で亡くした。そしてその9年後、故郷の四国高松から見知らぬ土地の仙台へ連れてこられ、以来貧乏所帯のやり繰りに今日まで家内は散々苦労をして来た。今回の栄誉は半分家内へのご褒美であり、二人で一緒に皇居に招かれ天皇陛下に間近でお目にかかれたことはこの上ない光栄で、夫婦にとって嬉しい限りであった。 周りの人たちも大変喜んで祝ってくれたが、特に嬉しかったのは、44年前、私の仙台行きを高松桟橋で見送ってくれた友人達に招待され、高松で心暖まるお祝いをしてくれたことだった。 折角の機会だったので長男・次男夫婦も一緒に高松に帰り、私達夫婦が育った故郷鬼無を息子の嫁さん達に見てもらった。既に家内の実家は東京に出てしまって、屋敷は人手に渡っており、荒れ果てた土塀を背景に皆で記念写真を撮った。 その1年後、鬼無に帰ってみると、土塀も家も庭もすっかり取り壊され、7区画の分譲地に整備されておりびっくりした。奇しくも1年前に撮った写真が家内が生まれ育った屋敷の最後の記念となった。 (つづく)
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