明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その1-
Higher Education in the Meiji Era by The era in which Aikitsu Tanakadate lived Part 1
高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治は度量衡法制定当初に相まみえ、その後三者はそれぞれの立場から日本の度量衡行政に大きな働きをした
明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その1-
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計量計測のエッセー 
明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その1-

日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘

田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に、一家が東京へ移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に教授、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事したのち、帰国して東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期に人を育てた功績は大きい。


      権度課課長 高野瀬宗典

(タイトル)

明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その1-

(本文)

 明治7年(1874年)5月12日に生まれた男は10歳をわずかにでたころ、自分が卒業した育英小学校の分校に代用教員として勤務していた。同校の高等科を卒業したのち私塾に通いながらの代用教員であった。当時の育英小学校は、尋常科4年、高等科2年で、生徒数は120人ほどであり、この男は高等科を卒業する。この間ずっと一番の成績であった。10歳をわずかにでた幼い可愛い先生であったから生徒からは「こんまい先生」と呼ばれていた。「こんまい先生」は代用教員を四、五年やったのち、叔父を頼って東京にでる。

 男こと「こんまい先生」は山口県阿武名郡那須佐村194番地で、父善平、母チセの次男として生まれた。那須佐村は萩市の隣。家は農業を営むかたわら、醤油、石油、たばこ、の販売をし、二から三人の職人を雇っての農機具の製造販売もしていた。7歳のころ母を失い、継母のウメがやってきた。那須佐村は文武の盛んな土地柄であり、男は厳格な躾(しつけ)のもとに育てられた。このことによって几帳面で礼儀正しく負けず嫌いの性格が形成された。実弟、加藤亀松は「私たち弟妹には、大変優しい兄で、よく面倒を見てくれた」と述懐する。この男が後に度量衡行政に従事し多くの人を育てる。几帳面さがと面倒見のよさが自然に発揮され、さまざまな逸話を残す。

 東京の物理学校は明治24年(1891年)9月、度量衡科を設置した。物理学校度量衡科は明治26年(1893年)7月廃止になるまでのわずかな期間であった。この2年の間に68名の卒業生をだした。度量衡科は2学期制で修業年数は1年であった。度量衡科の科目は数学、物理などのほか各国の度量衡制度、測度器論、度量衡論などであった。当時の物理学校は5学期制で修業年数2年半。1891(明治24)年以前は2年であった。

 明治の初め政府は司法官僚を法務省法律学校で、大蔵官僚を大蔵省簿記講習所で速成した。メートル法を基本にした度量衡制度を敷いて度量衡行政を実施するために度量衡吏員と度量衡技術者の養成は急務であった。高野瀬宗典は権度課課長のかたわら、夜には物理学校で熱学を教えた。度量衡法の制定にともない権度行政の施行体制の整備が急がれた。権度行政の責任者であった高野瀬宗典は物理学校に2学期からなる修業年限1年の度量衡科の新設を申し入れた。高野瀬宗典は物理学校を創立した同人20余名に加わっており、物理学校校長の寺尾寿は東京帝国大学仏語物理学科の1年先輩。事情を知る寺尾寿は高野瀬宗典の要請に応じた。寺尾寿は日本の長さ標準をつかさどるメートル原器をパリの度量衡局から運んだ人として東京理科大学が記録している。高野瀬宗典と寺尾寿は日本へのメートル法導入と計量制度を確立するために同志として結ばれていた。このころ物理学校の卒業期は2月と7月の2回。明治32年(1899年)2月の学校規則改正により中学校、師範学校を卒業したものは無試験で第2学期から入学できた。「こんまい先生」が学んだ物理学校度量衡科の入学規則のことは別にして、代用行員時代も私塾に通って勉学を積んでいたから、東京にでてからもどこかの塾に学んでいたのだろう。

 物理学校は明治21年(1888年)12月に小川町に校舎を購入、明治26年7月に度量衡科が廃止された当時は小川町校舎で学校が運営されていた。明治21年7月に物理学校は職工学校受験科設置、明治24年、7月に職工学校受験科を廃止。同年9月に度量衡科が設置された。職工学校とは東京工業大学の前身東京職工学校のこと。職工学校は明治36年(1903年)の専門学校令により理工科系の専門学校となる。理工科系の専門学校は東京高等工業のほか大阪高等工業があった。物理学校の職工学校受験科は東京工業大学の前身東京職工学校への進学のために予備学習機関として設けられていた。

 明治時代の中期の上級学校への進学の事情は田中館愛橘、高野瀬宗則、夏目漱石の履歴に詳しい。田中館愛橘は慶應義塾で英語を習い大学予備門に進んだ。高野瀬宗則は彦根藩が推薦した者の学費を国が負担する貢進生という恵まれた立場にあり、開成学校、東京大学仏語物理学科に進んで卒業する。田中館愛橘も官立の英語学校に移って東京大学物理学科に進む。成績が悪い生徒は放校処分となるので肝油を飲みながら必死に勉強したことを中村清二が『田中館愛橘先生』(昭和18年刊 中央公論社)に聞き書きしている。

 夏目漱石は「私の経過した学生時代」として予備校の成立学舎を次のように語る。「その頃、私の知っている塾舎には、共立学舎、成立学舎などというのがあった。これ等の塾舎は随分汚いものであったが、授くるところの数学、歴史、地理などいうものは、皆原書を用いていた位であるから、なかなか素養のない者には、非常に骨が折れたものである。私は正則の方を廃してから、暫く、約1年許りも麹町の二松学舎に通って、漢学許り専門に習っていたが、英語の必要―英語を修めなければ静止していられぬという必要が、日一日と迫って来た。そこで前記の成立学舎に入ることにした。この成立学舎と云うのは、駿河台の今の曽我祐準さんの隣に在ったもので、校舎と云うのは、それは随分不潔な、殺風景極まるものであった。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒュウヒュウと吹き曝し、教場へは下駄を履いたまま上がるという風で、教師などは大抵大学生が学費を得るために、内職として勤めているのが多かった」。そのようにして東京大学文学部に進んだ漱石は大学に通うかたわら江東義塾の教師、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師をした。当時は数多くの私塾が神田界隈に集まり大学など上級学校への進学塾となっていた。

 時代が下って昭和初期の東京における理工科系の学校は大学では早稲田大学理工学部、日本大学工学部、専門学校では東京物理学校が1校あるのみであった。明治24年(1891年)9月から明治26年(1893年)7月まで設置されていた物理学校度量衡科の社会での位置がこれらの事情によって読み取れる。

 当時の日本は度量衡法が制定されたものの度量衡機器を検定する者、度量衡器を製作する者が足りなかった。物理学校に度量衡科を設置してこれらの人材を養成しようとした。この時代の日本は国家が手ほどきして度量衡器をはじめ各種の計測器や科学機器の製造をした。物理学校度量衡科の修了者にこの役目を担わせようとした。時が移り、那須佐村から姿を消した「こんまい先生」は東京の物理学校度量衡科の生徒として立ち現れる。「こんまい先生」は明治26年(1893年)2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業する。卒業者には物理学校が職の斡旋をした。学校幹部の須藤某氏は卒業する全員に「就職斡旋の必要上履歴書を提出するように」と申し渡した。「こんまい先生」の性分がこれを拒否させた。「学校は、物を教えていただくところで、就職のお世話までかけるのはもってのほか、私は卒業の栄冠だけで結構です。私自身でなんとかします」と、一人だけ就職の斡旋を断り、履歴書を提出しなかった。

 「こんまい先生」はこれで十分と幾つかの府県庁に自ら作成した「就職申込書」を送り自信満々好機到来を待った。大阪府、島根県からは「本書受理すべき限りに非ず」の付箋付き返送があり、他からは反応がなかった。仕方なしに大阪の米屋に奉公して官職への就職運動に体当たりすると、明治26年(1893年)12月10日に兵庫県雇として採用された。兵庫県内務部第二課で当時の度量衡主任松尾磯四郎のもとで勤務し始めた。

 明治26年、兵庫県雇として行政官への第一歩をふみだした男「こんまい先生」は、翌明治27年(1894年)2月には大阪府に転じ、ついで明治28年(1895年)9月には早くも富山県度量衡主任技手に抜擢されている。明治29年(1896年)4月6日、富山県からふたたび兵庫県に移り、度量衡主任技手に任命される。この年から中央度量衡器検定所大阪支所長を兼務する。兼務期間は兵庫県から大阪府に転ずるまでの11年間、さらに大阪府の初代権度課長時代に就任して大正13年に退官するまで18年間つづく。官界生活は通算30余年になる。

 高野瀬宗則は、彦根藩「佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石」取りの高野瀬喜介の子である。高野瀬宗則は、父高野瀬喜介は彦根藩御目付け役であったと述べている。150石取りとはどのようなものであったか。幕末の長州藩士、高杉晋作の家禄は150石であった。高杉晋作は長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士高杉小忠太、大組、200石鳥の長男として生まれるという別の記録もある。長州藩士で上士である高杉晋作は禄高200石であり長州藩の富裕層となじられていた。明治初期における武家は生活を築くために就学に力をいれ、学業を積んで職を得ようとした。

 山口県阿武名郡那須佐村194番地で生まれ、代用教員時代に「こんまい先生」と呼ばれた男は明治26年(1893年)2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業した。「こんまい先生」は、前田家に使える武家で禄高100石の関勝重の娘と結婚する。このときに宮内の姓を関の姓に移し、関菊治とした。関菊治の妻の親の禄高100石、高野瀬宗則の禄高150石、高杉晋作の禄高200石を並べてみた。田中館愛橘は南部藩福岡における兵法師範の子孫であった。

 度量衡法公布は明治24年(1891年)3月、施行は明治26年(1893年)1月である。物理学校に度量衡科が設置された時期に重なる。物理学校創立の一人である東京大学仏語物理学科卒業して東京大学で教鞭を執っていたいた高野瀬宗則は明治19年(1886年)に農商務相の権度課長に招聘されて度量衡法の制定に従事した。明治32年には度量衡器の第1回定期検定が実施されるために、高野瀬宗則は物理学校に度量衡科を設置して修了者をこの業務に充てることを考えた。このころの計量行政機関の設置などの動きは次のようであった。明治36年12月23日に農商務省は中央度量衡器検定所を設置(勅令第283号)した。業務開始は明治37年1月1日からで、東京都京橋区木挽町の農商務省内に建設された。同時に中央度量衡器検定所大阪支所が大阪市西区江の子島の大阪府庁構内に設置された。それぞれ所長には農商務省技師の橘川司亮が任命された。

 橘川司亮は明治6年(1873年)現在の宮城県仙台市に宮城縣士族として生まれる。父は第一回仙台市議会議員橘川鋿。明治34年(1901年) 東京帝国大学理科大学(現東京大学理学部物理学科)で度量衡を田中館愛橘に学び卒業。引き続き大学院にて度量衡の研究を続ける。後輩に寺田寅彦がいる。明治36年(1903年)8月17日農商務省のちに商工省に入省。明治37年(1904年)中央度量衡器検定所所長(のちに、勅任待遇)を兼任。明治40年(1907年)パリ国際度量衡総会(第4回)に日本政府代表として田中館愛橘とともに出席した。

 明治42年には中央度量衡器検定所福岡支所が開設された。大正2年6月13日に農商務省官制が改正されて商工局権度課が廃止され、中央度量衡器検定所は中央度量衡検定所に名称変更し行政事務をも担当することになった。農商務省中央度量衡器検定所が明治36年(1903年)12月23日に設置されると度量衡講習が開始された。物理学校度量衡科が廃止されたのが明治26年(1893年)7月であるから10年ぶりに度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべき者たちの養成が再開した。

 高野瀬宗則は物理学校の創設者の一人であった。高野瀬宗則は田中館愛橘とともにパリで開かれた国際度量衡協会の会議に出席した。田中館愛橘は日本人初の国際度量衡委員である。物理学校の卒業式に何時もは顔をだしていた田中館愛橘は、ときに挨拶代わりにラジウムの実験をしてみせた。高野瀬宗則は日本度量衡協会副会長として日本のメートル法推進にかかわる。田中館愛橘は日本度量衡協会の役員として名を連ね、この間に国際度量衡委員として活躍した。関菊治は日本のメートル法推進は日本の産業振興をなすものと命を賭(と)して打ち込んだ。明治29年(1896年)4月6日、兵庫県度量衡主任技手に任命され、この年から中央度量衡器検定所大阪支所長を兼務する。大正2年(1913年)6月13日、同所は中央度量衡検定所に名称変更し行政事務をも担行政事務をも担当する。「こんまい先生」こと関菊治は中央度量衡器検定所大阪支所長として度量衡行政に手腕を発揮した。

 高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治は度量衡法制定当初に相まみえ、その後三者はそれぞれの立場から日本の度量衡行政に大きな働きをした。田中館愛橘の子弟教育は名高い。関菊治の役所における働きぶりと度量衡行政にかかる官吏養成の手腕は秀でていた。高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治の活躍は本人の資質とともに教育がなさしめたものである。

2023-06-14-higher-education-in-the-meiji-era-by-in-which-aikitsu-tanakadate-lived-part-1-


メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏(計量の歴史物語 執筆 横田俊英)


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