-その3-「異人さん」と「神戸メートル協会」
母は大阪の船場の商家の生まれで、“こいさん”(末娘)として育った
(本文)
郷里の街「元町」
ついでながら、ここで我が郷里の街、神戸の元町について触れておきたい。
最近は三宮センター街に首位の座を譲った感があるが、戦前・戦中・戦後のある時期までは、ハイカラな神戸の街といえば元町であった。元町駅近くの1丁目には大丸百貨店があり、神戸駅近くの6丁目には三越があり、この2つのデパートに挟まれて賑わっていた。加えて海岸寄りには平行して南京街もあり、食堂街としても人気があった。
幼い頃からの馴染みであったのに留まらず、中学・高校生の頃は祖母や叔母(父の妹、高徳純教の娘)に連れられて、おすし屋、うどん屋、おしるこ店等に立ち寄ったし、大学生になってからは、本屋・古本屋、音楽喫茶にも顔を出していた。
50歳を過ぎた頃、仕事で1年半程ソ連で過ごした時にも「帰国したならば一度は元町を歩いてみたいなぁ」と思った程、思い出多い街である。
母は船場の生まれ
母は大阪の船場の商家の生まれで、“こいさん”(末娘)として育った。家でお茶・お花・お仕舞を習っていたが、外に出るときは店の人が付いたらしく、余り街をぶらつくようなことはなかったらしい。また大阪は神戸に比べて西洋化が遅れており、一番の繁華街であった心斎橋筋といっても神戸の元町の比ではなかったようだ。
母は私達子どもに、女学校で水泳が得意だったと自慢していたが、私達の子供時分には、泳ぐプールにも恵まれなかったので半信半疑で聞いていた。仕舞は、師匠が父親に教える為に自宅に通ってきてくれていたので、一緒に教えてもらっていたと、後々も良く聞かされた。
この母が神戸に嫁いできたので、その頃、祖父がいた元町の店「神戸メートル商会」にも自然と行くことになったのだろう。神戸ではアメリカ人・ドイツ人等は珍しくも何ともなかったが、大阪育ちのこの母にとって見れば、初めての体験だったのだろう、「異人さんが通ってはる!」と祖母に報告して笑われたとか。
気丈な姉
私の姉が幼い頃、元町の店に遊びに来ていて、人通りが多く賑やかなので、つられて遠くまで歩いていってしまったことがある。いないのに気づいた店の人達が大騒ぎとなり、あちこち手分けをして探したらしい。
その一人が、人だかりに気づき後ろから肩越しに覗いたら、真ん中に姉がいて、全く気後れした様子も見せず「神戸メートル商会、神戸メートル商会」と大声で繰り返していたという。
祖父が命名したこの名前に誇りを持っていたのか否かは知らないが、幼少ながらも気丈な姉のエピソードとして祖母が話してくれたものである。
私と年子の姉はしっかり者で、私のこともよく面倒を見てくれた。私が小学校に上がる頃になっても、姉が出かける時には後ろから付いて行き、嫌がられていたらしい。
ある時キッパリと「ここからは、もう帰り!」と云われ、仕方なくトボトボと帰ったことを覚えている。
元町の店に関する私の思い出は、ショーウインドーのガラスに、通りを歩く人が逆さに映っていたこと、同じ3丁目で3、4軒隣に「きんつば」の高砂屋があり、祖母に連れられてそこに行くと美味しいプリンが食べられた事ぐらいである。
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その3-「異人さん」と「神戸メートル協会」
母は大阪の船場の商家の生まれで、“こいさん”(末娘)として育った