杜の都が固唾をのんで羽生選手を見守った 瞬間最高視聴率仙台で56.0%。河北新報。
左が銀メダル宇野昌磨 、中央金メダル羽生結弦、右銅メダルの人 NHKテレビから |
【スケート解説・女子500】実績と自信、圧倒的な強さでつかんだ小平奈緒の金メダル。(写真中央)NHKテレビから 小平奈緒 |
【計量法 政省令改正の動き ウオッチ。経済産業省のホームページから】 〈パブリックコメント:意見募集〉2018年02月03日 |計量法施行規則の一部を改正する省令案等に対する意見募集について|意見・情報受付締切日2018年03月04日|search.e-gov.go.jp/servlet/Public.. 社会の統計と計量計測の統計【分類13】日本の計量法と計量関係法規 |
私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 (36)心臓手術 目次 |
私の履歴書「陸軍航空士官学校で終戦を迎えハカリ屋になった男の記録」 (36)心臓手術 目次 日東イシダ(株)会長 (社)日本計量振興協会顧問 前(社)宮城県計量協会会長 心臓手術 私は幼年学校・士官学校で鍛えられたので体力には自信があった。 50才前後になって少し体力の衰えを感じたので、バットに金具をはめて素振りを毎日50回くらい繰り返し、縄跳び100回に挑戦することにした。 ところが、ある日縄跳びの最中に胸が苦しくなった。近所のかかりつけの医者に診て貰うと、心臓の雑音がひどくて危険だからといって大病院を紹介してくれた。 それから定期的に病院に通って検査を受け、ニトログリセリンの世話になりながら誤魔化してきたが、1983(昭和58)年になって病状が進み、運動中に時々起こっていた発作が寝ているときにも起きるようになった。 大学病院でカテーテル検査をした結果、手術が必要と診断され、大動脈弁をスウェーデン製のプラスチックの人工弁に取り替えることになった。病室の空きをまって8月の末に入院し、手術は9月7日と決まった。 その10年前には私の知り合いが弁の交換の手術を受けて亡くなっていた。私がラッキーだったのはこの10年間に心臓外科の進歩が目覚しかったこと、そして東北大学病院では3000例以上の手術歴を積み重ね、全国でも4番目の実績を誇っていたことである。それでも一緒に入院していた40代の男性は手術室から戻って来なかった。 私はお陰で手術は無事成功し、9月7日が私の3回目の誕生日となった。思えば私は幸運というか恵まれた運命に感謝し、生かされている間に少しでも世の中のお役に立たねばならぬと心に誓った。 手術をしてから1年くらい経ったある日、食事中に右手に持っていたお箸がポロリと落ちた。〝やられた!〟と思ったが、数分後に指が元通り動くようになった。これは血が粘って弁に石灰分がくっつき、それが何かの拍子で取れて脳まで来て細い血管に詰まったことを意味する。幸い石灰分が小さかったせいか、一瞬詰まったが幸運にもすぐ外れて事なきを得たようだ。これに懲りてワーハリンという血をサラサラにする薬を25年間飲んでいる。 お陰で一病息災というか、それ以来自分でもびっくりする程予想外の健康を保っている。流石にゴルフは出来ないが、日常の行動には少しも差し支えはない。 1年365日、気分が悪くてビールを飲みたくないという日は一日もない。それだけ体調がよいということだが、風邪で寝込んだこともない。毎日の晩酌は350ミリリットルの缶ビールを1つ空けてから焼酎のお湯割りにスライスしたレモンを落としたのを一杯頂けば満足する。それ以上欲しいとは思わないが、それ以下では物足りない。 (つづく)
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