明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その5- Higher Education in the Meiji Era by The era in which Aikitsu Tanakadate lived Part 5 佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石 肥田村城主高野瀬備前守 高野瀬喜介は此末なり。 井伊大老の死を国元彦根に急報の使者は彦根藩目付役の高野瀬喜介 喜介は高野瀬宗則の父。 明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その5- |
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明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その5- (タイトル) 明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その5- (本文) 高野瀬宗則の経歴と度量衡法制定への働き 高野瀬宗則(たかのせ むねのり)の経歴はつぎのようなことである。高野瀬宗則は、1852年11月3日(嘉永5年9月22日)から1915年(大正4年)。彦根藩士の子として生まれた。士族が対象の官立の教育機関である貢進生に1871年(明治4年)であったが、貢進生制度が廃止になったために高野瀬宗則は私費で開成学校での学業を続ける。そして洋学系の大学南校に進む。大学東校は医学系である。 大学南校は「開成学校」(のち東京開成学校)、大学東校は「東京医学校」と改称され、1877年(明治10年)10月に発足する(旧)東京大学(東京帝国大学の前身)と変わっていく。1879年(明治12年)7月に 東京大学仏語物理学科第二期卒業。そして駒場農学校で教鞭をとる。駒場農学校は後に東京大学農科大学となる。1881年(明治14年)には東京物理学講習所の創立の中心人物の一人であった。1886年(明治19年)に喚ばれて農商務省工務局権度課長となる。1891年(明治24年)の度量衡法制定に最重要人物としてかかわる。 貢進生制度と東京大学仏語物理学科卒業の21名 貢進生たちは、南校でフランス語を学んでいた。明治6年、開成学校から外国語学校が分離、新たにフランス語による諸芸学科が開設されると、それにともなって外国語学校か諸芸学科のどちらかに移った。このころの学校制度の変遷は複雑である。 東京物理学講習所の設立にかかわった東京大学仏語物理学科卒業の21名の卒業生は次のような経歴を持つ人々であった。 櫻井 房記 明治2年開成学校に入学、3年貢進生に選ばれ、同11年12月24日、東京大学仏語物理学科を卒業。 高野瀬宗則 明治4年19歳で貢進生として大学南校に入学、貢進生の制度が廃止された後、私費で開成学校での学業を続ける。明治12年、東京大学仏語物理学科を卒業。 本 福隆 貢進生として南校に入学、明治11年12月24日、東京大学仏語物理学科を卒業。 中村 精男 明治4年16歳で松下村塾から東京へ遊学、同12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 寺尾 寿 明治6年19歳で外国語学校・開成学校を経て明治11年、東京大学仏語物理学科を卒業。 保田 棟太 明治3年、大阪開成所に入る。同7年東京開成学校に入学、天文学・諸芸を修め,同13年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 桐山篤三郎 明治13年7月10日、東京大学仏語物理学科を卒業。 信谷 定爾 明治2年開成所に入りフランス語を学ぶ。3年、大学南校の貢進生に選ばれ、普通学と諸芸学を履修する。7年天文学科に移るが、廃止になり再び諸芸に戻る。8年諸芸学科の廃止により、東京大学仏語物理学科に入り、11年12月卒業。三守と同じコースをたどっている。 谷田部梅吉 13歳で貢進生に選ばれて大学南校に入学、明治12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 三守 守 明治5年第一大学区第一中学に入学、天文学、諸芸から同年13年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 難波 正 明治6年、開成学校に入学し、12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 和田 雄治 明治12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 沢野 忠基 外国語学校でフランス語を学び、、東京大学仏語物理学科に入学、明治13年に卒業。 三輪桓一郎 外務省でフランス人などから仏語を履修、東京開成学校の仏語の学生を経て、東京大学仏語物理学科に編入、明治13年7月卒業。 明治初年、開成校時代の貢進生は幕府の昌平坂学問所時代からの伝統的な思想を持ち続けていた。彼らは諸費用を全て国が負担、各藩あるいは国から選ばれた人材であり、先進的指導者になることを自負しまた期待されていた。学校の名称が東京大学と変わっても学生にはその気風がみなぎり、社会に役立つことを責務と考えていた。 明治11年から13年にわたり東京大学仏語物理学科を卒業した20数名余はわが国の理学の遅れを憂い、これを広く世間に普及し国の発展に役立てることを申し合わせていた。 高野瀬宗則は父は彦根藩御目付け役高野瀬喜介と家系を語る 力のある者を使う。武芸と軍学と漢籍を通じての武士の倫理と行政手腕を持つものは多くはない。彦根藩がある江州の豪族として名をはせた高野瀬一族はその後もこの地に根を張っていた。肥田城主の、高野瀬秀隆と高野瀬隆景父子が越前安居の戦いで討死しても系列はもとより地元における支配が消え去ることはなかった。 高野瀬喜介の子息は東京大学仏語物理学科を明治13年に卒業して駒場農学校(駒場農学校は後に東京大学農科大学となる。現在の東京大学教養学部の所在地)で教鞭をとり、後に指名されて農商務省技師として初代権度課長として度量衡法の制定と計量制度の確立に大きな役割を果たしたのが高野瀬宗則(たかのせ・むねのり)であ。高野瀬宗則は父は彦根藩御目付け役高野瀬喜介と家系を語っている。 高野瀬喜介は農商務省権度課課長高野瀬宗則の父である。『度量衡 第42号(大正4、5)』に「高野瀬宗則は嘉永5年(1852)年9月江州彦根藩邸生まる。父喜介は藩の御目付け役なり」と『メートル法沿革史』が引用している。「佐和口門番頭 高野瀬喜介」とある「近世大名家臣団の官僚制と軍制」とは一致しない。役職に変化があるからだ。 2023-06-14-higher-education-in-the-meiji-era-by-in-which-aikitsu-tanakadate-lived-part-5- |
メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏(計量の歴史物語 執筆 横田俊英) 明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その1- 明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その2- 明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その3- 明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その4- 明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その5- 明治 田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の時代の高等教育事情-その9- |
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