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伊藤律の「戦後」再考 ―子息の証言と野坂参三との相克、そして一九八〇年帰国の実相
2026年9月19日 執筆 夏森龍之介
一、問題の所在
日本共産党の元政治局員・伊藤律(一九一三~一九八九)をめぐる評価は、戦後日本の左翼運動史のなかでも際立って屈折している。「生きているユダ」「革命を売る男」「権力のスパイ」――こうした烙印は長らく定説として流通し、松本清張の著作にもその影響が及んだ。しかし二十一世紀に入り、ソ連邦崩壊後に公開された機密文書や党内資料の発掘により、伊藤に対するスパイ嫌疑そのものが根拠を欠くものであったことが学術的に明らかになりつつある。政治学者・加藤哲郎は『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(みすず書房)において内部文書を渉猟し、通説の破綻を論証した([1][2])。
本稿は、この伊藤律の生涯のうち、とりわけ一九八〇年の帰国前後の事情、党指導部――なかんずく野坂参三――との緊張関係、そして二〇一六年に公刊された次男・伊藤淳の手記『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』(講談社)が明らかにした家族の視点からの事実関係を整理し、あわせて野坂参三自身が一九九二年に「ソ連のスパイ」として除名されるに至った経緯との対比のなかで、伊藤律事件の歴史的位置づけを再検討するものである([3][4][5])。
二、査問と除名――一九五〇年代前半の党内抗争
伊藤律は旧制第一高等学校在学中から共産主義運動に加わり、治安維持法違反で投獄された経験を持つ。戦後は日本共産党政治局員として要職を歴任したが、朝鮮戦争期のレッドパージにより党指導部が地下・国外へ移る過程で、その立場は急速に不安定化する。
一九五一年十月の第五回全国協議会で伊藤への批判が表面化し、一九五二年十二月には野坂参三が「スターリンの指令」を名目として伊藤を隔離審査の対象に指定、事実上の軟禁状態に置いた。翌一九五三年十月に徳田球一が中国で死去すると、西沢隆二と野坂参三の主導のもとで伊藤を「スパイ」として除名する方針が固まり、同年九月十五日付『アカハタ』に処分を伝える中央委員声明が掲載された(発表の経緯には前後関係の錯綜があるとする資料もある)。さらに一九五五年七月の第六回全国協議会での再確認に際しては、罪状の重心がゾルゲ事件との関連へと変更されている([1][6])。
除名後の伊藤の身柄について、野坂は後年「身柄を中国側に引き渡しただけで、投獄には関知していない」と釈明したとされる。しかし一九六〇年代半ば、野坂が伊藤の妻に対し「伊藤は死んだ」と語ったとの証言も残されており、党指導部が伊藤の生死・所在をめぐる情報を意図的に操作していた疑いは根強い([1])。
なお、伊藤律をめぐっては一九五〇年九月にも「朝日新聞記者が地下潜伏中の伊藤と会見した」とする記事が掲載され、数日後に虚偽であったことが発覚して同紙が全文取り消しと陳謝を公告するという「伊藤律会見報道事件」が起きている。この事件そのものに野坂参三の関与を示す記述は管見の限り見当たらないが、当時いかに伊藤律という存在が党内外の思惑と憶測にさらされていたかを象徴する挿話として付言しておきたい([7])。
三、北京幽閉の二十数年間
一九五一年秋、伊藤は「人民艦隊」と呼ばれた漁船で日本から中国へ密航し、以後「顧青」の中国名を用いて対日工作放送「自由日本放送」の指導にあたった。一九六〇年には秦城監獄に移送され、文化大革命期には「三号」の符牒で呼ばれる被拘禁者として軟禁・迫害を受けた。この間に右目・右耳の機能を失い、腎不全を患うなど、健康状態は著しく悪化したという([1])。
拘禁期間の長さについては資料によって「二十六年」「二十七年」「二十八年」「二十九年」と表記に幅がある。これは中国への密航(一九五一年)を起点とするか、党による除名(一九五三年)を起点とするか、あるいは帰国(一九八〇年)までの通算年数の数え方の違いによるものと考えられ、いずれかが誤りというより、起算点の相違として理解すべきであろう。帰国時の新聞見出しの多くは「二十九年ぶりの帰国」としている([8][9])。
四、一九八〇年の帰国と野坂参三の反応
伊藤の処遇が動いたのは一九七九年十二月、中国共産党の喬石の判断により釈放が決定され、入院治療を受けたことに始まる。一九八〇年三月に退院、同年六月には妻キミに宛てて消息を伝える手紙が届いた。同年七月三十一日、時事通信が伊藤の健在を報じ、八月二十三日には中国政府がこれを公式に発表、そして九月三日、伊藤は車椅子姿で二十九年ぶりに日本の土を踏んだ。時に六十七歳であった([8][9])。
この帰国手続きの過程で、次男・伊藤淳の手記が明かす事実は注目に値する。妻キミは中国大使館を訪ねたのち、日本共産党本部に赴き当時議長であった野坂参三への面会を求めたが、これを拒まれた。ところがその夜、野坂は自ら妻のもとを訪れ、「なぜ党に事前に相談せず中国大使館と連絡を取ったのか」と詰問したという。伊藤淳自身は自著において、この場面を「慌てた野坂参三が家族の引き取りを阻止しようとした」ものと総括している([3][10])。
この挿話が持つ意味は、一九九二年以降に明らかになる野坂参三自身の経歴に照らして初めて完全に理解できる。ソ連崩壊後に公開されたコミンテルン文書により、野坂が一九三九年、亡命先のアメリカからコミンテルン書記局のディミトロフに宛てて、モスクワ在住の同志・山本懸蔵(一八九五~一九三九)らをNKVD(ソ連内務人民委員部)に讒言密告する書簡を送っていたことが判明した。山本はこれによりスターリン体制下の大粛清の犠牲となり、銃殺されたとされる。この事実が『週刊文春』の連続報道(一九九二年九月~十一月)によって暴露されると、日本共産党は同年九月二十日、野坂の名誉議長を解任し、十二月二十七日の中央委員会総会で除名を決定した。野坂本人は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べたとされ、以後この件について公に語ることはなく、一九九三年十一月十四日、百一歳で死去した([4][5])。
すなわち、一九五〇年代に「スパイ」として伊藤を告発し除名に追い込んだ野坂参三その人が、四十年近くを経て「ソ連の情報提供者」として同じ党から除名される――この対称性こそが、伊藤律事件の歴史的な問い直しを促す最大の契機となったのである。
五、息子・伊藤淳の証言――『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』
伊藤淳は一九四六年東京生まれ、伊藤律の次男である。中央大学文学部を卒業後、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の要職を歴任し、のちに看護専門学校の非常勤講師を務めた人物である。その伊藤淳が二〇一六年に上梓した『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』(講談社)は、第一部「父の帰還」(第一・二章)と第二部「母と子」(第三・四章)から構成され、二十七年の空白を経た父の帰還からその最期まで、そして帰国運動を支え続けた母の献身と、著者自身の家族としての経験を綴ったものである(10)。
著者自身が語るところによれば、当初はスパイ説の汚名を晴らすことに執筆の重点を置いていたという。しかし加藤哲郎らによる実証研究の進展により、「伊藤律スパイ説」は「日本共産党を除き、伊藤律を知る多くの人の間では、誤りを正すべき歴史となった」との認識に至り、執筆の力点を政治的立証から、父について「思うこと感じたことをありのままに綴る」こと、とりわけ帰国運動を支えた母についての記述へと転換したと述べている([3])。
帰国直後には、記者・山本博による証言記録「故国の土を踏みて」が一九八〇年十二月、朝日新聞に掲載され、その後『週刊朝日』での連載を経て『伊藤律の証言』として書籍化された。ただし伊藤律自身はこの公表の過程に納得しておらず、必ずしもこれを認めていなかったとされる点は、証言の扱いに慎重を期すべき事情として留意しておく必要がある([1])。
伊藤淳はまた、未公開の資料として千ページに及ぶという「獄中遺書」、および中国共産党側が保管しているとされる自己批判書の存在に言及し、その公開を今後の課題としている。これらが公にされれば、伊藤律事件の全体像はさらに書き換えられる可能性がある([3])。
六、おわりに
伊藤律事件は、単なる一個人へのスパイ嫌疑の当否にとどまらず、冷戦下の国際共産主義運動が内部にいかなる粛清の力学を抱えていたかを示す事例として読み直すことができる。野坂参三が山本懸蔵を密告し、後年みずからも同じ党によって除名されるという経緯は、伊藤律への処断が特定個人の資質の問題ではなく、コミンテルン以来の組織文化そのものに根ざしていたことを示唆している。
その意味で、次男・伊藤淳による証言は、党史の公式な記録や外部研究者による実証作業とは異なる次元――帰国した父を迎え、党との折衝に苦しんだ家族の記憶――から、この事件の人間的な代償を照射するものである。学術的なスパイ説の否定と、家族の側からの証言とが交差する地点にこそ、伊藤律事件の「戦後」を今日どう語るべきかという課題が残されている。
注・参考文献
- 「伊藤律」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律
- 加藤哲郎『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』みすず書房(CiNii Research書誌) https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN09682200
- 「自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』」ちきゅう座 https://chikyuza.net/自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の/
- 「野坂参三」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/野坂参三
- 「野坂参三氏(のさか・さんぞう)」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp00864424&d=d4_pol
- 三著出版記念講演会実行委員会編『野坂参三と伊藤律―粛清と冤罪の構図』(石堂清倫・篠田正浩・渡部富哉・小林峻一・来栖宗孝・畑敏雄 聞き書き)青聲社(国立国会図書館書誌情報) https://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000002371299.php
- 「伊藤律会見報道事件」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律会見報道事件
- 「伊藤律氏帰国」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp10250055&d=d4_pol
- 「〈あのころ〉伊藤律氏29年ぶり帰国」福島民報 https://www.minpo.jp/globalnews/photodetail/2023081001000676
- 伊藤淳『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』講談社、二〇一六年(版元ドットコム/講談社BOOK倶楽部商品情報) https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000189916
- 伊藤律に関する書評記事(『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』紹介) https://keiryusai.com/archives/2340
取材・執筆にあたっての留保 本稿は公開されている書誌情報、書評、事典類、および先行研究の要約を典拠として構成した二次的な整理であり、伊藤淳氏の著書本文および加藤哲郎氏の研究書原本を直接精査したものではない。とりわけ拘禁期間の年数表記(二十六~二十九年)に見られる資料間の異同、および野坂参三と伊藤家とのやりとりの詳細については、一次資料(前掲書籍原本、党史料、当時の新聞縮刷版等)にあたっての検証を今後の課題としたい。
訂正:『偽りの烙印』の著者
前稿で「加藤哲郎『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』」としましたが、これは誤りです。国立国会図書館サーチおよびCiNiiで確認したところ、正しくは次のとおりです。
- 『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』の著者は渡部富哉(五月書房、初版一九九三年六月、新装版一九九八年)。渡部氏は、伊藤の逮捕・自白がゾルゲ事件発覚の端緒になったとする通説を、現場検証記録など一次資料の再検討によって覆した先駆的研究者です。
- 加藤哲郎氏(一橋大学名誉教授)自身の関連著作は『ゾルゲ事件―覆された神話』(平凡社新書、二〇一四年)で、渡部氏の先行研究を踏まえたうえで、事件発覚の実際の経路をさらに遡って解明したものです。
信頼できる読書ブログ(Ka-Bataアーカイブ)による同書の内容要約によれば、加藤氏は「伊藤律の自白がゾルゲ団摘発の端緒になった」とする通説(伊藤律端緒説)を明確に否定し、その虚説が形成された経路として、(1)戦時中の特高警察による筋書きづくり、(2)戦後のGHQ参謀第二部(G2)によるスメドレーと中国共産党の関係追及という謀略、(3)ゾルゲ事件被告・川合貞吉のGHQへの協力、(4)そして一九五〇年前後の党内抗争期に野坂参三らがこの端緒説を伊藤律追放の口実として利用したこと、の四点を挙げています。事件の真の発端は、一九三一年に逮捕された在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述に遡り、そこから北林トモ、宮城与徳へとつながってゾルゲ検挙に至った、というのが加藤氏の再構成です。
これは前稿の趣旨(野坂参三が伊藤律を「スパイ」として除名に追い込んだ)を補強する材料であると同時に、その根拠となった「スパイ説」自体がどのように政治的に利用されたかを具体的に示すものです。
確認できたこと・できなかったこと
書誌情報(国立国会図書館サーチ、CiNii)で確認できたのは、渡部富哉『偽りの烙印』の著者・出版社・刊行年、加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』の存在です。加藤氏の内容については第三者の書評(ブログ)を介した要約であり、同書原文そのものではありません。伊藤淳氏の著書『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』についても、Amazonカスタマーレビュー本文やちきゅう座以外の直接寄稿・インタビューは、アクセス制限(robots.txt規制、サイトブロック)により本文を確認できませんでした。したがって、本文中の野坂参三とのやり取りの詳細(「なぜ党に事前相談なく…」等の発言)は、前稿同様、書評記事を経由した引用にとどまり、書籍原本での一字一句の確認には至っていません。
訂正版の該当箇所
第一章および注・参考文献欄について、以下のとおり差し替えます。
第一章、該当段落の修正版:
政治学者・加藤哲郎は、伊藤へのスパイ嫌疑を否定した渡部富哉の先駆的研究『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、一九九三年、新装版一九九八年)を踏まえ、『ゾルゲ事件―覆された神話』(平凡社新書、二〇一四年)において、事件発覚の経路が伊藤の自白によるものではなく、一九三一年の在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述に遡ることを実証した。同書はまた、「伊藤律端緒説」が戦時特高警察の筋書きに始まり、戦後はGHQ参謀第二部の謀略やゾルゲ事件被告・川合貞吉の証言を経て流布し、一九五〇年前後の党内抗争のなかで野坂参三らが伊藤律追放の口実として利用したことを指摘している。
参考文献欄、該当項目の修正版:
- 渡部富哉『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』五月書房、一九九三年(新装版一九九八年)(国立国会図書館サーチ書誌情報) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002720417
2´. 加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』平凡社新書、二〇一四年(内容要約:Ka-Bataアーカイブ) http://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/11/2014-201611.html
他の箇所(一九五〇年代の査問・除名の経緯、一九八〇年帰国、野坂参三の一九九二年除名、伊藤淳氏の著書に関する書誌事項)については、複数の独立した情報源(Wikipedia、時事ドットコム、講談社公式商品ページ、ちきゅう座掲載の伊藤淳氏本人による寄稿)で相互に確認が取れており、大きな修正は必要ないと判断しています。ただし拘禁年数の表記ゆれ(二十六~二十九年)は、原本にあたらない限り解消できない点として、引き続き留保が必要です。
全文を差し替えた完成版が必要であれば、上記の修正を反映してこの場で作成します。また、記事として保存・共有しやすいようドキュメント化することも可能です。
伊藤律の「戦後」再考 ―子息の証言と野坂参三との相克、そして一九八〇年帰国の実相〔改訂版〕
夏森龍之介
一、問題の所在
日本共産党の元政治局員・伊藤律(一九一三~一九八九)をめぐる評価は、戦後日本の左翼運動史のなかでも際立って屈折している。「生きているユダ」「革命を売る男」「権力のスパイ」――こうした烙印は長らく定説として流通し、松本清張の著作にもその影響が及んだ。しかし戦後半世紀を経て、党内資料や現場検証記録の再検討により、伊藤に対するスパイ嫌疑そのものが根拠を欠くものであったことが実証的に明らかにされてきた。
この点で先駆をなしたのが渡部富哉である。渡部は『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、一九九三年六月、新装版一九九八年)において、逮捕現場の検証記録など一次資料の再検討により、伊藤の自白がゾルゲ事件発覚の端緒になったとする通説を覆した。政治学者・加藤哲郎(一橋大学名誉教授)は、この渡部の先行研究を踏まえたうえで『ゾルゲ事件―覆された神話』(平凡社新書、二〇一四年)を著し、事件発覚の実際の経路をさらに遡って解明している。加藤によれば、事件の真の発端は一九三一年に逮捕された在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述にあり、そこから北林トモ、宮城与徳へとつながってゾルゲ検挙に至ったものであって、伊藤の自白によるものではない。そのうえで加藤は、この「伊藤律端緒説」という虚説が形成・流布した経路として、(一)戦時中の特高警察による筋書きづくり、(二)戦後のGHQ参謀第二部(G2)によるアグネス・スメドレーと中国共産党の関係追及という謀略、(三)ゾルゲ事件被告・川合貞吉のGHQへの協力、(四)そして一九五〇年前後の党内抗争期に野坂参三らがこの端緒説を伊藤律追放の口実として利用したこと、の四点を指摘している([1][2])。
本稿は、この伊藤律の生涯のうち、とりわけ一九八〇年の帰国前後の事情、党指導部――なかんずく野坂参三――との緊張関係、そして二〇一六年に公刊された次男・伊藤淳の手記『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』(講談社)が明らかにした家族の視点からの事実関係を整理し、あわせて野坂参三自身が一九九二年に「ソ連のスパイ」として除名されるに至った経緯との対比のなかで、伊藤律事件の歴史的位置づけを再検討するものである([3][4][5])。
二、査問と除名――一九五〇年代前半の党内抗争
伊藤律は旧制第一高等学校在学中から共産主義運動に加わり、治安維持法違反で投獄された経験を持つ。戦後は日本共産党政治局員として要職を歴任したが、朝鮮戦争期のレッドパージにより党指導部が地下・国外へ移る過程で、その立場は急速に不安定化する。
一九五一年十月の第五回全国協議会で伊藤への批判が表面化し、一九五二年十二月には野坂参三が「スターリンの指令」を名目として伊藤を隔離審査の対象に指定、事実上の軟禁状態に置いた。翌一九五三年十月に徳田球一が中国で死去すると、西沢隆二と野坂参三の主導のもとで伊藤を「スパイ」として除名する方針が固まり、同年九月十五日付『アカハタ』に処分を伝える中央委員声明が掲載された。さらに一九五五年七月の第六回全国協議会での再確認に際しては、罪状の重心がゾルゲ事件との関連へと変更されている([3][6])。
先述の加藤哲郎の研究が示すように、この除名の論拠となった「伊藤律端緒説」自体が、特高警察の筋書きとGHQの謀略に由来する虚説であった。野坂参三はこれを承知していたか否かにかかわらず、少なくとも結果として、根拠の薄弱な嫌疑を党内権力闘争の口実として用いたことになる。除名後の伊藤の身柄について、野坂は後年「身柄を中国側に引き渡しただけで、投獄には関知していない」と釈明したとされる。しかし一九六〇年代半ば、野坂が伊藤の妻に対し「伊藤は死んだ」と語ったとの証言も残されており、党指導部が伊藤の生死・所在をめぐる情報を意図的に操作していた疑いは根強い([3])。
なお、伊藤律をめぐっては一九五〇年九月にも「朝日新聞記者が地下潜伏中の伊藤と会見した」とする記事が掲載され、数日後に虚偽であったことが発覚して同紙が全文取り消しと陳謝を公告するという「伊藤律会見報道事件」が起きている。この事件そのものに野坂参三の関与を示す記述は管見の限り見当たらないが、当時いかに伊藤律という存在が党内外の思惑と憶測にさらされていたかを象徴する挿話として付言しておきたい([7])。
三、北京幽閉の二十数年間
一九五一年秋、伊藤は「人民艦隊」と呼ばれた漁船で日本から中国へ密航し、以後「顧青」の中国名を用いて対日工作放送「自由日本放送」の指導にあたった。一九六〇年には秦城監獄に移送され、文化大革命期には「三号」の符牒で呼ばれる被拘禁者として軟禁・迫害を受けた。この間に右目・右耳の機能を失い、腎不全を患うなど、健康状態は著しく悪化したという([3])。
拘禁期間の長さについては資料によって「二十六年」「二十七年」「二十八年」「二十九年」と表記に幅がある。これは中国への密航(一九五一年)を起点とするか、党による除名(一九五三年)を起点とするか、あるいは帰国(一九八〇年)までの通算年数の数え方の違いによるものと考えられ、いずれかが誤りというより起算点の相違として理解すべきであろう。帰国時の新聞見出しの多くは「二十九年ぶりの帰国」としている([8][9])。
四、一九八〇年の帰国と野坂参三の反応
伊藤の処遇が動いたのは一九七九年十二月、中国共産党の喬石の判断により釈放が決定され、入院治療を受けたことに始まる。一九八〇年三月に退院、同年六月には妻キミに宛てて消息を伝える手紙が届いた。同年七月三十一日、時事通信が伊藤の健在を報じ、八月二十三日には中国政府がこれを公式に発表、そして九月三日、伊藤は車椅子姿で二十九年ぶりに日本の土を踏んだ。時に六十七歳であった([8][9])。
この帰国手続きの過程で、次男・伊藤淳の手記が明かす事実は注目に値する。妻キミは中国大使館を訪ねたのち、日本共産党本部に赴き当時議長であった野坂参三への面会を求めたが、これを拒まれた。ところがその夜、野坂は自ら妻のもとを訪れ、「なぜ党に事前に相談せず中国大使館と連絡を取ったのか」と詰問したという。伊藤淳自身は自著において、この場面を「慌てた野坂参三が家族の引き取りを阻止しようとした」ものと総括している([10][11])。
この挿話が持つ意味は、一九九二年以降に明らかになる野坂参三自身の経歴に照らして初めて完全に理解できる。ソ連崩壊後に公開されたコミンテルン文書により、野坂が一九三九年、亡命先のアメリカからコミンテルン書記局のディミトロフに宛てて、モスクワ在住の同志・山本懸蔵(一八九五~一九三九)らをNKVD(ソ連内務人民委員部)に讒言密告する書簡を送っていたことが判明した。山本はこれによりスターリン体制下の大粛清の犠牲となったとされる。この事実が『週刊文春』の連続報道(一九九二年九月~十一月)によって暴露されると、日本共産党は同年九月二十日、野坂の名誉議長を解任し、十二月二十七日の中央委員会総会で除名を決定した。野坂本人は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べたとされ、以後この件について公に語ることはなく、一九九三年十一月十四日、百一歳で死去した([4][5])。
すなわち、一九五〇年代に根拠薄弱な「スパイ」嫌疑を利用して伊藤を告発し除名に追い込んだ側の中心人物であった野坂参三その人が、四十年近くを経て「ソ連の情報提供者」として同じ党から除名される――この対称性こそが、伊藤律事件の歴史的な問い直しを促す最大の契機となったのである。
五、息子・伊藤淳の証言――『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』
伊藤淳は一九四六年東京生まれ、伊藤律の次男である。中央大学文学部を卒業後、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の要職を歴任し、のちに看護専門学校の非常勤講師を務めた人物である。その伊藤淳が二〇一六年に上梓した『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』(講談社)は、第一部「父の帰還」(第一・二章)と第二部「母と子」(第三・四章)から構成され、二十七年の空白を経た父の帰還からその最期まで、そして帰国運動を支え続けた母の献身と、著者自身の家族としての経験を綴ったものである([10][12])。
著者自身が語るところによれば、当初はスパイ説の汚名を晴らすことに執筆の重点を置いていたという。しかし渡部富哉・加藤哲郎らによる実証研究の進展により、「伊藤律スパイ説は崩壊」し、「日本共産党を除き、伊藤律を知る多くの人の間では、誤りを正すべき歴史となった」との認識に至り、執筆の力点を政治的立証から、父について「思うこと感じたことをありのままに綴る」こと、とりわけ帰国運動を支えた母についての記述へと転換したと述べている([10])。
帰国直後には、記者・山本博による証言記録「故国の土を踏みて」が一九八〇年十二月、朝日新聞に掲載され、その後『週刊朝日』での連載を経て『伊藤律の証言』として書籍化された。ただし伊藤律自身はこの公表の過程に納得しておらず、必ずしもこれを認めていなかったとされる点は、証言の扱いに慎重を期すべき事情として留意しておく必要がある([3])。
伊藤淳はまた、未公開の資料として千ページに及ぶという「獄中遺書」、および中国共産党側が保管しているとされる自己批判書の存在に言及し、その公開を今後の課題としている。これらが公にされれば、伊藤律事件の全体像はさらに書き換えられる可能性がある([10])。
なお、伊藤律の生涯を扱った文献としては、伊藤淳の手記に先立ち、西野辰吉『伊藤律伝説』(彩流社、一九九〇年)が「昭和史のブラックホールに光を当てた異色の書」として刊行されている。同書は伊藤淳自身の家族としての証言ではなく、第三者によるノンフィクションである点で性格を異にするが、伊藤律という存在がいかに早くから「謎」として関心を集めていたかを示す傍証といえる([13])。
六、おわりに
伊藤律事件は、単なる一個人へのスパイ嫌疑の当否にとどまらず、冷戦下の国際共産主義運動が内部にいかなる粛清の力学を抱えていたかを示す事例として読み直すことができる。渡部富哉・加藤哲郎両氏の実証研究が明らかにしたのは、「伊藤律端緒説」が特高警察の筋書きとGHQの謀略に発する虚構であり、それが一九五〇年前後の党内抗争のなかで野坂参三らによって政治的に利用されたという構図であった。そして野坂参三自身が山本懸蔵を密告し、後年みずからも同じ党によって除名されるという経緯は、伊藤律への処断が特定個人の資質の問題ではなく、コミンテルン以来の組織文化そのものに根ざしていたことを示唆している。
その意味で、次男・伊藤淳による証言は、党史の公式な記録や外部研究者による実証作業とは異なる次元――帰国した父を迎え、党との折衝に苦しんだ家族の記憶――から、この事件の人間的な代償を照射するものである。実証的なスパイ説の否定と、家族の側からの証言とが交差する地点にこそ、伊藤律事件の「戦後」を今日どう語るべきかという課題が残されている。
注・参考文献
- 渡部富哉『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』五月書房、一九九三年六月(新装版一九九八年)(国立国会図書館サーチ書誌情報) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002720417
- 加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』平凡社新書、二〇一四年(内容要約:Ka-Bataアーカイブ「加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社新書,2014年を読んで」) http://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/11/2014-201611.html
- 「伊藤律」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律
- 「野坂参三」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/野坂参三
- 「野坂参三氏(のさか・さんぞう)」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp00864424&d=d4_pol
- 三著出版記念講演会実行委員会編『野坂参三と伊藤律―粛清と冤罪の構図』(石堂清倫・篠田正浩・渡部富哉・小林峻一・来栖宗孝・畑敏雄 聞き書き)青聲社(国立国会図書館書誌情報) https://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000002371299.php
- 「伊藤律会見報道事件」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律会見報道事件
- 「伊藤律氏帰国」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp10250055&d=d4_pol
- 「〈あのころ〉伊藤律氏29年ぶり帰国」福島民報 https://www.minpo.jp/globalnews/photodetail/2023081001000676
- 「自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』」ちきゅう座 https://chikyuza.net/自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の/
- 伊藤律に関する書評記事(『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』紹介) https://keiryusai.com/archives/2340
- 伊藤淳『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』講談社、二〇一六年(講談社BOOK倶楽部商品情報) https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000189916
- 西野辰吉『伊藤律伝説』彩流社、一九九〇年(版元情報) https://www.sairyusha.co.jp/book/b10016513.html
取材・執筆にあたっての留保 本稿は公開されている書誌情報、書評、事典類、および先行研究の要約を典拠として構成した二次的な整理であり、渡部富哉・加藤哲郎両氏の研究書原本、および伊藤淳氏の著書原本を直接精査したものではない(Amazonレビュー本文、一部新聞記事、加藤氏個人サイトの該当ページはアクセス制限により参照できなかった)。とりわけ、(一)拘禁期間の年数表記(二十六~二十九年)に見られる資料間の異同、(二)野坂参三と伊藤家とのやりとりの逐語的な発言内容、(三)加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』の論旨の細部については、いずれも書評等を介した二次的確認にとどまっている。公表を前提とする場合は、現物(渡部富哉『偽りの烙印』、加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』、伊藤淳『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』)にあたっての直接引用・頁数付記を要する。
伊藤律の「戦後」再考 ―子息の証言と野坂参三との相克、そして一九八〇年帰国の実相
2026年9月19日 執筆 夏森龍之介
一、問題の所在
日本共産党の元政治局員・伊藤律(一九一三~一九八九)をめぐる評価は、戦後日本の左翼運動史のなかでも際立って屈折している。「生きているユダ」「革命を売る男」「権力のスパイ」――こうした烙印は長らく定説として流通し、松本清張の著作にもその影響が及んだ。しかし二十一世紀に入り、ソ連邦崩壊後に公開された機密文書や党内資料の発掘により、伊藤に対するスパイ嫌疑そのものが根拠を欠くものであったことが学術的に明らかになりつつある。政治学者・加藤哲郎は『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(みすず書房)において内部文書を渉猟し、通説の破綻を論証した([1][2])。
本稿は、この伊藤律の生涯のうち、とりわけ一九八〇年の帰国前後の事情、党指導部――なかんずく野坂参三――との緊張関係、そして二〇一六年に公刊された次男・伊藤淳の手記『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』(講談社)が明らかにした家族の視点からの事実関係を整理し、あわせて野坂参三自身が一九九二年に「ソ連のスパイ」として除名されるに至った経緯との対比のなかで、伊藤律事件の歴史的位置づけを再検討するものである([3][4][5])。
二、査問と除名――一九五〇年代前半の党内抗争
伊藤律は旧制第一高等学校在学中から共産主義運動に加わり、治安維持法違反で投獄された経験を持つ。戦後は日本共産党政治局員として要職を歴任したが、朝鮮戦争期のレッドパージにより党指導部が地下・国外へ移る過程で、その立場は急速に不安定化する。
一九五一年十月の第五回全国協議会で伊藤への批判が表面化し、一九五二年十二月には野坂参三が「スターリンの指令」を名目として伊藤を隔離審査の対象に指定、事実上の軟禁状態に置いた。翌一九五三年十月に徳田球一が中国で死去すると、西沢隆二と野坂参三の主導のもとで伊藤を「スパイ」として除名する方針が固まり、同年九月十五日付『アカハタ』に処分を伝える中央委員声明が掲載された(発表の経緯には前後関係の錯綜があるとする資料もある)。さらに一九五五年七月の第六回全国協議会での再確認に際しては、罪状の重心がゾルゲ事件との関連へと変更されている([1][6])。
除名後の伊藤の身柄について、野坂は後年「身柄を中国側に引き渡しただけで、投獄には関知していない」と釈明したとされる。しかし一九六〇年代半ば、野坂が伊藤の妻に対し「伊藤は死んだ」と語ったとの証言も残されており、党指導部が伊藤の生死・所在をめぐる情報を意図的に操作していた疑いは根強い([1])。
なお、伊藤律をめぐっては一九五〇年九月にも「朝日新聞記者が地下潜伏中の伊藤と会見した」とする記事が掲載され、数日後に虚偽であったことが発覚して同紙が全文取り消しと陳謝を公告するという「伊藤律会見報道事件」が起きている。この事件そのものに野坂参三の関与を示す記述は管見の限り見当たらないが、当時いかに伊藤律という存在が党内外の思惑と憶測にさらされていたかを象徴する挿話として付言しておきたい([7])。
三、北京幽閉の二十数年間
一九五一年秋、伊藤は「人民艦隊」と呼ばれた漁船で日本から中国へ密航し、以後「顧青」の中国名を用いて対日工作放送「自由日本放送」の指導にあたった。一九六〇年には秦城監獄に移送され、文化大革命期には「三号」の符牒で呼ばれる被拘禁者として軟禁・迫害を受けた。この間に右目・右耳の機能を失い、腎不全を患うなど、健康状態は著しく悪化したという([1])。
拘禁期間の長さについては資料によって「二十六年」「二十七年」「二十八年」「二十九年」と表記に幅がある。これは中国への密航(一九五一年)を起点とするか、党による除名(一九五三年)を起点とするか、あるいは帰国(一九八〇年)までの通算年数の数え方の違いによるものと考えられ、いずれかが誤りというより、起算点の相違として理解すべきであろう。帰国時の新聞見出しの多くは「二十九年ぶりの帰国」としている([8][9])。
四、一九八〇年の帰国と野坂参三の反応
伊藤の処遇が動いたのは一九七九年十二月、中国共産党の喬石の判断により釈放が決定され、入院治療を受けたことに始まる。一九八〇年三月に退院、同年六月には妻キミに宛てて消息を伝える手紙が届いた。同年七月三十一日、時事通信が伊藤の健在を報じ、八月二十三日には中国政府がこれを公式に発表、そして九月三日、伊藤は車椅子姿で二十九年ぶりに日本の土を踏んだ。時に六十七歳であった([8][9])。
この帰国手続きの過程で、次男・伊藤淳の手記が明かす事実は注目に値する。妻キミは中国大使館を訪ねたのち、日本共産党本部に赴き当時議長であった野坂参三への面会を求めたが、これを拒まれた。ところがその夜、野坂は自ら妻のもとを訪れ、「なぜ党に事前に相談せず中国大使館と連絡を取ったのか」と詰問したという。伊藤淳自身は自著において、この場面を「慌てた野坂参三が家族の引き取りを阻止しようとした」ものと総括している([3][10])。
この挿話が持つ意味は、一九九二年以降に明らかになる野坂参三自身の経歴に照らして初めて完全に理解できる。ソ連崩壊後に公開されたコミンテルン文書により、野坂が一九三九年、亡命先のアメリカからコミンテルン書記局のディミトロフに宛てて、モスクワ在住の同志・山本懸蔵(一八九五~一九三九)らをNKVD(ソ連内務人民委員部)に讒言密告する書簡を送っていたことが判明した。山本はこれによりスターリン体制下の大粛清の犠牲となり、銃殺されたとされる。この事実が『週刊文春』の連続報道(一九九二年九月~十一月)によって暴露されると、日本共産党は同年九月二十日、野坂の名誉議長を解任し、十二月二十七日の中央委員会総会で除名を決定した。野坂本人は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べたとされ、以後この件について公に語ることはなく、一九九三年十一月十四日、百一歳で死去した([4][5])。
すなわち、一九五〇年代に「スパイ」として伊藤を告発し除名に追い込んだ野坂参三その人が、四十年近くを経て「ソ連の情報提供者」として同じ党から除名される――この対称性こそが、伊藤律事件の歴史的な問い直しを促す最大の契機となったのである。
五、息子・伊藤淳の証言――『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』
伊藤淳は一九四六年東京生まれ、伊藤律の次男である。中央大学文学部を卒業後、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の要職を歴任し、のちに看護専門学校の非常勤講師を務めた人物である。その伊藤淳が二〇一六年に上梓した『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』(講談社)は、第一部「父の帰還」(第一・二章)と第二部「母と子」(第三・四章)から構成され、二十七年の空白を経た父の帰還からその最期まで、そして帰国運動を支え続けた母の献身と、著者自身の家族としての経験を綴ったものである(10)。
著者自身が語るところによれば、当初はスパイ説の汚名を晴らすことに執筆の重点を置いていたという。しかし加藤哲郎らによる実証研究の進展により、「伊藤律スパイ説」は「日本共産党を除き、伊藤律を知る多くの人の間では、誤りを正すべき歴史となった」との認識に至り、執筆の力点を政治的立証から、父について「思うこと感じたことをありのままに綴る」こと、とりわけ帰国運動を支えた母についての記述へと転換したと述べている([3])。
帰国直後には、記者・山本博による証言記録「故国の土を踏みて」が一九八〇年十二月、朝日新聞に掲載され、その後『週刊朝日』での連載を経て『伊藤律の証言』として書籍化された。ただし伊藤律自身はこの公表の過程に納得しておらず、必ずしもこれを認めていなかったとされる点は、証言の扱いに慎重を期すべき事情として留意しておく必要がある([1])。
伊藤淳はまた、未公開の資料として千ページに及ぶという「獄中遺書」、および中国共産党側が保管しているとされる自己批判書の存在に言及し、その公開を今後の課題としている。これらが公にされれば、伊藤律事件の全体像はさらに書き換えられる可能性がある([3])。
六、おわりに
伊藤律事件は、単なる一個人へのスパイ嫌疑の当否にとどまらず、冷戦下の国際共産主義運動が内部にいかなる粛清の力学を抱えていたかを示す事例として読み直すことができる。野坂参三が山本懸蔵を密告し、後年みずからも同じ党によって除名されるという経緯は、伊藤律への処断が特定個人の資質の問題ではなく、コミンテルン以来の組織文化そのものに根ざしていたことを示唆している。
その意味で、次男・伊藤淳による証言は、党史の公式な記録や外部研究者による実証作業とは異なる次元――帰国した父を迎え、党との折衝に苦しんだ家族の記憶――から、この事件の人間的な代償を照射するものである。学術的なスパイ説の否定と、家族の側からの証言とが交差する地点にこそ、伊藤律事件の「戦後」を今日どう語るべきかという課題が残されている。
注・参考文献
- 「伊藤律」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律
- 加藤哲郎『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』みすず書房(CiNii Research書誌) https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN09682200
- 「自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』」ちきゅう座 https://chikyuza.net/自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の/
- 「野坂参三」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/野坂参三
- 「野坂参三氏(のさか・さんぞう)」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp00864424&d=d4_pol
- 三著出版記念講演会実行委員会編『野坂参三と伊藤律―粛清と冤罪の構図』(石堂清倫・篠田正浩・渡部富哉・小林峻一・来栖宗孝・畑敏雄 聞き書き)青聲社(国立国会図書館書誌情報)
https://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000002371299.php
- 「伊藤律会見報道事件」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律会見報道事件
- 「伊藤律氏帰国」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp10250055&d=d4_pol
- 「〈あのころ〉伊藤律氏29年ぶり帰国」福島民報 https://www.minpo.jp/globalnews/photodetail/2023081001000676
- 伊藤淳『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』講談社、二〇一六年(版元ドットコム/講談社BOOK倶楽部商品情報) https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000189916
- 伊藤律に関する書評記事(『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』紹介) https://keiryusai.com/archives/2340
取材・執筆にあたっての留保 本稿は公開されている書誌情報、書評、事典類、および先行研究の要約を典拠として構成した二次的な整理であり、伊藤淳氏の著書本文および加藤哲郎氏の研究書原本を直接精査したものではない。とりわけ拘禁期間の年数表記(二十六~二十九年)に見られる資料間の異同、および野坂参三と伊藤家とのやりとりの詳細については、一次資料(前掲書籍原本、党史料、当時の新聞縮刷版等)にあたっての検証を今後の課題としたい。
訂正:『偽りの烙印』の著者
前稿で「加藤哲郎『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』」としましたが、これは誤りです。国立国会図書館サーチおよびCiNiiで確認したところ、正しくは次のとおりです。
- 『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』の著者は渡部富哉(五月書房、初版一九九三年六月、新装版一九九八年)。渡部氏は、伊藤の逮捕・自白がゾルゲ事件発覚の端緒になったとする通説を、現場検証記録など一次資料の再検討によって覆した先駆的研究者です。
- 加藤哲郎氏(一橋大学名誉教授)自身の関連著作は『ゾルゲ事件―覆された神話』(平凡社新書、二〇一四年)で、渡部氏の先行研究を踏まえたうえで、事件発覚の実際の経路をさらに遡って解明したものです。
信頼できる読書ブログ(Ka-Bataアーカイブ)による同書の内容要約によれば、加藤氏は「伊藤律の自白がゾルゲ団摘発の端緒になった」とする通説(伊藤律端緒説)を明確に否定し、その虚説が形成された経路として、(1)戦時中の特高警察による筋書きづくり、(2)戦後のGHQ参謀第二部(G2)によるスメドレーと中国共産党の関係追及という謀略、(3)ゾルゲ事件被告・川合貞吉のGHQへの協力、(4)そして一九五〇年前後の党内抗争期に野坂参三らがこの端緒説を伊藤律追放の口実として利用したこと、の四点を挙げています。事件の真の発端は、一九三一年に逮捕された在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述に遡り、そこから北林トモ、宮城与徳へとつながってゾルゲ検挙に至った、というのが加藤氏の再構成です。
これは前稿の趣旨(野坂参三が伊藤律を「スパイ」として除名に追い込んだ)を補強する材料であると同時に、その根拠となった「スパイ説」自体がどのように政治的に利用されたかを具体的に示すものです。
確認できたこと・できなかったこと
書誌情報(国立国会図書館サーチ、CiNii)で確認できたのは、渡部富哉『偽りの烙印』の著者・出版社・刊行年、加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』の存在です。加藤氏の内容については第三者の書評(ブログ)を介した要約であり、同書原文そのものではありません。伊藤淳氏の著書『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』についても、Amazonカスタマーレビュー本文やちきゅう座以外の直接寄稿・インタビューは、アクセス制限(robots.txt規制、サイトブロック)により本文を確認できませんでした。したがって、本文中の野坂参三とのやり取りの詳細(「なぜ党に事前相談なく…」等の発言)は、前稿同様、書評記事を経由した引用にとどまり、書籍原本での一字一句の確認には至っていません。
学術論文としての公開を前提とするなら、この段階で図書館等から現物(渡部富哉『偽りの烙印』、加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』、伊藤淳『父・伊藤律』)を取り寄せ、該当箇所を直接引用・ページ数付記することを強く推奨します。オンラインで得られる範囲での裏取りは以上が限界です。
訂正版の該当箇所
第一章および注・参考文献欄について、以下のとおり差し替えます。
第一章、該当段落の修正版:
政治学者・加藤哲郎は、伊藤へのスパイ嫌疑を否定した渡部富哉の先駆的研究『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、一九九三年、新装版一九九八年)を踏まえ、『ゾルゲ事件―覆された神話』(平凡社新書、二〇一四年)において、事件発覚の経路が伊藤の自白によるものではなく、一九三一年の在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述に遡ることを実証した。同書はまた、「伊藤律端緒説」が戦時特高警察の筋書きに始まり、戦後はGHQ参謀第二部の謀略やゾルゲ事件被告・川合貞吉の証言を経て流布し、一九五〇年前後の党内抗争のなかで野坂参三らが伊藤律追放の口実として利用したことを指摘している。
参考文献欄、該当項目の修正版:
- 渡部富哉『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』五月書房、一九九三年(新装版一九九八年)(国立国会図書館サーチ書誌情報) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002720417
2´. 加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』平凡社新書、二〇一四年(内容要約:Ka-Bataアーカイブ) http://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/11/2014-201611.html
伊藤律の「戦後」再考 ―子息の証言と野坂参三との相克、そして一九八〇年帰国の実相〔改訂版〕
夏森龍之介
一、問題の所在
日本共産党の元政治局員・伊藤律(一九一三~一九八九)をめぐる評価は、戦後日本の左翼運動史のなかでも際立って屈折している。「生きているユダ」「革命を売る男」「権力のスパイ」――こうした烙印は長らく定説として流通し、松本清張の著作にもその影響が及んだ。しかし戦後半世紀を経て、党内資料や現場検証記録の再検討により、伊藤に対するスパイ嫌疑そのものが根拠を欠くものであったことが実証的に明らかにされてきた。
この点で先駆をなしたのが渡部富哉である。渡部は『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、一九九三年六月、新装版一九九八年)において、逮捕現場の検証記録など一次資料の再検討により、伊藤の自白がゾルゲ事件発覚の端緒になったとする通説を覆した。政治学者・加藤哲郎(一橋大学名誉教授)は、この渡部の先行研究を踏まえたうえで『ゾルゲ事件―覆された神話』(平凡社新書、二〇一四年)を著し、事件発覚の実際の経路をさらに遡って解明している。加藤によれば、事件の真の発端は一九三一年に逮捕された在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述にあり、そこから北林トモ、宮城与徳へとつながってゾルゲ検挙に至ったものであって、伊藤の自白によるものではない。そのうえで加藤は、この「伊藤律端緒説」という虚説が形成・流布した経路として、(一)戦時中の特高警察による筋書きづくり、(二)戦後のGHQ参謀第二部(G2)によるアグネス・スメドレーと中国共産党の関係追及という謀略、(三)ゾルゲ事件被告・川合貞吉のGHQへの協力、(四)そして一九五〇年前後の党内抗争期に野坂参三らがこの端緒説を伊藤律追放の口実として利用したこと、の四点を指摘している([1][2])。
本稿は、この伊藤律の生涯のうち、とりわけ一九八〇年の帰国前後の事情、党指導部――なかんずく野坂参三――との緊張関係、そして二〇一六年に公刊された次男・伊藤淳の手記『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』(講談社)が明らかにした家族の視点からの事実関係を整理し、あわせて野坂参三自身が一九九二年に「ソ連のスパイ」として除名されるに至った経緯との対比のなかで、伊藤律事件の歴史的位置づけを再検討するものである([3][4][5])。
二、査問と除名――一九五〇年代前半の党内抗争
伊藤律は旧制第一高等学校在学中から共産主義運動に加わり、治安維持法違反で投獄された経験を持つ。戦後は日本共産党政治局員として要職を歴任したが、朝鮮戦争期のレッドパージにより党指導部が地下・国外へ移る過程で、その立場は急速に不安定化する。
一九五一年十月の第五回全国協議会で伊藤への批判が表面化し、一九五二年十二月には野坂参三が「スターリンの指令」を名目として伊藤を隔離審査の対象に指定、事実上の軟禁状態に置いた。翌一九五三年十月に徳田球一が中国で死去すると、西沢隆二と野坂参三の主導のもとで伊藤を「スパイ」として除名する方針が固まり、同年九月十五日付『アカハタ』に処分を伝える中央委員声明が掲載された。さらに一九五五年七月の第六回全国協議会での再確認に際しては、罪状の重心がゾルゲ事件との関連へと変更されている([3][6])。
先述の加藤哲郎の研究が示すように、この除名の論拠となった「伊藤律端緒説」自体が、特高警察の筋書きとGHQの謀略に由来する虚説であった。野坂参三はこれを承知していたか否かにかかわらず、少なくとも結果として、根拠の薄弱な嫌疑を党内権力闘争の口実として用いたことになる。除名後の伊藤の身柄について、野坂は後年「身柄を中国側に引き渡しただけで、投獄には関知していない」と釈明したとされる。しかし一九六〇年代半ば、野坂が伊藤の妻に対し「伊藤は死んだ」と語ったとの証言も残されており、党指導部が伊藤の生死・所在をめぐる情報を意図的に操作していた疑いは根強い([3])。
なお、伊藤律をめぐっては一九五〇年九月にも「朝日新聞記者が地下潜伏中の伊藤と会見した」とする記事が掲載され、数日後に虚偽であったことが発覚して同紙が全文取り消しと陳謝を公告するという「伊藤律会見報道事件」が起きている。この事件そのものに野坂参三の関与を示す記述は管見の限り見当たらないが、当時いかに伊藤律という存在が党内外の思惑と憶測にさらされていたかを象徴する挿話として付言しておきたい([7])。
三、北京幽閉の二十数年間
一九五一年秋、伊藤は「人民艦隊」と呼ばれた漁船で日本から中国へ密航し、以後「顧青」の中国名を用いて対日工作放送「自由日本放送」の指導にあたった。一九六〇年には秦城監獄に移送され、文化大革命期には「三号」の符牒で呼ばれる被拘禁者として軟禁・迫害を受けた。この間に右目・右耳の機能を失い、腎不全を患うなど、健康状態は著しく悪化したという([3])。
拘禁期間の長さについては資料によって「二十六年」「二十七年」「二十八年」「二十九年」と表記に幅がある。これは中国への密航(一九五一年)を起点とするか、党による除名(一九五三年)を起点とするか、あるいは帰国(一九八〇年)までの通算年数の数え方の違いによるものと考えられ、いずれかが誤りというより起算点の相違として理解すべきであろう。帰国時の新聞見出しの多くは「二十九年ぶりの帰国」としている([8][9])。
四、一九八〇年の帰国と野坂参三の反応
伊藤の処遇が動いたのは一九七九年十二月、中国共産党の喬石の判断により釈放が決定され、入院治療を受けたことに始まる。一九八〇年三月に退院、同年六月には妻キミに宛てて消息を伝える手紙が届いた。同年七月三十一日、時事通信が伊藤の健在を報じ、八月二十三日には中国政府がこれを公式に発表、そして九月三日、伊藤は車椅子姿で二十九年ぶりに日本の土を踏んだ。時に六十七歳であった([8][9])。
この帰国手続きの過程で、次男・伊藤淳の手記が明かす事実は注目に値する。妻キミは中国大使館を訪ねたのち、日本共産党本部に赴き当時議長であった野坂参三への面会を求めたが、これを拒まれた。ところがその夜、野坂は自ら妻のもとを訪れ、「なぜ党に事前に相談せず中国大使館と連絡を取ったのか」と詰問したという。伊藤淳自身は自著において、この場面を「慌てた野坂参三が家族の引き取りを阻止しようとした」ものと総括している([10][11])。
この挿話が持つ意味は、一九九二年以降に明らかになる野坂参三自身の経歴に照らして初めて完全に理解できる。ソ連崩壊後に公開されたコミンテルン文書により、野坂が一九三九年、亡命先のアメリカからコミンテルン書記局のディミトロフに宛てて、モスクワ在住の同志・山本懸蔵(一八九五~一九三九)らをNKVD(ソ連内務人民委員部)に讒言密告する書簡を送っていたことが判明した。山本はこれによりスターリン体制下の大粛清の犠牲となったとされる。この事実が『週刊文春』の連続報道(一九九二年九月~十一月)によって暴露されると、日本共産党は同年九月二十日、野坂の名誉議長を解任し、十二月二十七日の中央委員会総会で除名を決定した。野坂本人は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べたとされ、以後この件について公に語ることはなく、一九九三年十一月十四日、百一歳で死去した([4][5])。
すなわち、一九五〇年代に根拠薄弱な「スパイ」嫌疑を利用して伊藤を告発し除名に追い込んだ側の中心人物であった野坂参三その人が、四十年近くを経て「ソ連の情報提供者」として同じ党から除名される――この対称性こそが、伊藤律事件の歴史的な問い直しを促す最大の契機となったのである。
五、息子・伊藤淳の証言――『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』
伊藤淳は一九四六年東京生まれ、伊藤律の次男である。中央大学文学部を卒業後、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の要職を歴任し、のちに看護専門学校の非常勤講師を務めた人物である。その伊藤淳が二〇一六年に上梓した『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』(講談社)は、第一部「父の帰還」(第一・二章)と第二部「母と子」(第三・四章)から構成され、二十七年の空白を経た父の帰還からその最期まで、そして帰国運動を支え続けた母の献身と、著者自身の家族としての経験を綴ったものである([10][12])。
著者自身が語るところによれば、当初はスパイ説の汚名を晴らすことに執筆の重点を置いていたという。しかし渡部富哉・加藤哲郎らによる実証研究の進展により、「伊藤律スパイ説は崩壊」し、「日本共産党を除き、伊藤律を知る多くの人の間では、誤りを正すべき歴史となった」との認識に至り、執筆の力点を政治的立証から、父について「思うこと感じたことをありのままに綴る」こと、とりわけ帰国運動を支えた母についての記述へと転換したと述べている([10])。
帰国直後には、記者・山本博による証言記録「故国の土を踏みて」が一九八〇年十二月、朝日新聞に掲載され、その後『週刊朝日』での連載を経て『伊藤律の証言』として書籍化された。ただし伊藤律自身はこの公表の過程に納得しておらず、必ずしもこれを認めていなかったとされる点は、証言の扱いに慎重を期すべき事情として留意しておく必要がある([3])。
伊藤淳はまた、未公開の資料として千ページに及ぶという「獄中遺書」、および中国共産党側が保管しているとされる自己批判書の存在に言及し、その公開を今後の課題としている。これらが公にされれば、伊藤律事件の全体像はさらに書き換えられる可能性がある([10])。
なお、伊藤律の生涯を扱った文献としては、伊藤淳の手記に先立ち、西野辰吉『伊藤律伝説』(彩流社、一九九〇年)が「昭和史のブラックホールに光を当てた異色の書」として刊行されている。同書は伊藤淳自身の家族としての証言ではなく、第三者によるノンフィクションである点で性格を異にするが、伊藤律という存在がいかに早くから「謎」として関心を集めていたかを示す傍証といえる([13])。
六、おわりに
伊藤律事件は、単なる一個人へのスパイ嫌疑の当否にとどまらず、冷戦下の国際共産主義運動が内部にいかなる粛清の力学を抱えていたかを示す事例として読み直すことができる。渡部富哉・加藤哲郎両氏の実証研究が明らかにしたのは、「伊藤律端緒説」が特高警察の筋書きとGHQの謀略に発する虚構であり、それが一九五〇年前後の党内抗争のなかで野坂参三らによって政治的に利用されたという構図であった。そして野坂参三自身が山本懸蔵を密告し、後年みずからも同じ党によって除名されるという経緯は、伊藤律への処断が特定個人の資質の問題ではなく、コミンテルン以来の組織文化そのものに根ざしていたことを示唆している。
その意味で、次男・伊藤淳による証言は、党史の公式な記録や外部研究者による実証作業とは異なる次元――帰国した父を迎え、党との折衝に苦しんだ家族の記憶――から、この事件の人間的な代償を照射するものである。実証的なスパイ説の否定と、家族の側からの証言とが交差する地点にこそ、伊藤律事件の「戦後」を今日どう語るべきかという課題が残されている。
注・参考文献
- 渡部富哉『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』五月書房、一九九三年六月(新装版一九九八年)(国立国会図書館サーチ書誌情報) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002720417
- 加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』平凡社新書、二〇一四年(内容要約:Ka-Bataアーカイブ「加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社新書,2014年を読んで」)
http://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/11/2014-201611.html
- 「伊藤律」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律
- 「野坂参三」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/野坂参三
- 「野坂参三氏(のさか・さんぞう)」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp00864424&d=d4_pol
- 三著出版記念講演会実行委員会編『野坂参三と伊藤律―粛清と冤罪の構図』(石堂清倫・篠田正浩・渡部富哉・小林峻一・来栖宗孝・畑敏雄 聞き書き)青聲社(国立国会図書館書誌情報)
https://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000002371299.php
- 「伊藤律会見報道事件」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律会見報道事件
- 「伊藤律氏帰国」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp10250055&d=d4_pol
- 「〈あのころ〉伊藤律氏29年ぶり帰国」福島民報 https://www.minpo.jp/globalnews/photodetail/2023081001000676
- 「自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』」ちきゅう座 https://chikyuza.net/自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の/
- 伊藤律に関する書評記事(『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』紹介) https://keiryusai.com/archives/2340
- 伊藤淳『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』講談社、二〇一六年(講談社BOOK倶楽部商品情報) https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000189916
- 西野辰吉『伊藤律伝説』彩流社、一九九〇年(版元情報) https://www.sairyusha.co.jp/book/b10016513.html
取材・執筆にあたっての留保 本稿は公開されている書誌情報、書評、事典類、および先行研究の要約を典拠として構成した二次的な整理であり、渡部富哉・加藤哲郎両氏の研究書原本、および伊藤淳氏の著書原本を直接精査したものではない(Amazonレビュー本文、一部新聞記事、加藤氏個人サイトの該当ページはアクセス制限により参照できなかった)。とりわけ、(一)拘禁期間の年数表記(二十六~二十九年)に見られる資料間の異同、(二)野坂参三と伊藤家とのやりとりの逐語的な発言内容、(三)加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』の論旨の細部については、いずれも書評等を介した二次的確認にとどまっている。公表を前提とする場合は、現物(渡部富哉『偽りの烙印』、加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』、伊藤淳『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』)にあたっての直接引用・頁数付記を要する。
伊藤律の「戦後」再考 ―子息の証言と野坂参三との相克、そして一九八〇年帰国の実相
2026年9月19日 執筆 夏森龍之介
一、問題の所在
日本共産党の元政治局員・伊藤律(一九一三~一九八九)をめぐる評価は、戦後日本の左翼運動史のなかでも際立って屈折している。「生きているユダ」「革命を売る男」「権力のスパイ」――こうした烙印は長らく定説として流通し、松本清張の著作にもその影響が及んだ。しかし二十一世紀に入り、ソ連邦崩壊後に公開された機密文書や党内資料の発掘により、伊藤に対するスパイ嫌疑そのものが根拠を欠くものであったことが学術的に明らかになりつつある。政治学者・加藤哲郎は『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(みすず書房)において内部文書を渉猟し、通説の破綻を論証した([1][2])。
本稿は、この伊藤律の生涯のうち、とりわけ一九八〇年の帰国前後の事情、党指導部――なかんずく野坂参三――との緊張関係、そして二〇一六年に公刊された次男・伊藤淳の手記『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』(講談社)が明らかにした家族の視点からの事実関係を整理し、あわせて野坂参三自身が一九九二年に「ソ連のスパイ」として除名されるに至った経緯との対比のなかで、伊藤律事件の歴史的位置づけを再検討するものである([3][4][5])。
二、査問と除名――一九五〇年代前半の党内抗争
伊藤律は旧制第一高等学校在学中から共産主義運動に加わり、治安維持法違反で投獄された経験を持つ。戦後は日本共産党政治局員として要職を歴任したが、朝鮮戦争期のレッドパージにより党指導部が地下・国外へ移る過程で、その立場は急速に不安定化する。
一九五一年十月の第五回全国協議会で伊藤への批判が表面化し、一九五二年十二月には野坂参三が「スターリンの指令」を名目として伊藤を隔離審査の対象に指定、事実上の軟禁状態に置いた。翌一九五三年十月に徳田球一が中国で死去すると、西沢隆二と野坂参三の主導のもとで伊藤を「スパイ」として除名する方針が固まり、同年九月十五日付『アカハタ』に処分を伝える中央委員声明が掲載された(発表の経緯には前後関係の錯綜があるとする資料もある)。さらに一九五五年七月の第六回全国協議会での再確認に際しては、罪状の重心がゾルゲ事件との関連へと変更されている([1][6])。
除名後の伊藤の身柄について、野坂は後年「身柄を中国側に引き渡しただけで、投獄には関知していない」と釈明したとされる。しかし一九六〇年代半ば、野坂が伊藤の妻に対し「伊藤は死んだ」と語ったとの証言も残されており、党指導部が伊藤の生死・所在をめぐる情報を意図的に操作していた疑いは根強い([1])。
なお、伊藤律をめぐっては一九五〇年九月にも「朝日新聞記者が地下潜伏中の伊藤と会見した」とする記事が掲載され、数日後に虚偽であったことが発覚して同紙が全文取り消しと陳謝を公告するという「伊藤律会見報道事件」が起きている。この事件そのものに野坂参三の関与を示す記述は管見の限り見当たらないが、当時いかに伊藤律という存在が党内外の思惑と憶測にさらされていたかを象徴する挿話として付言しておきたい([7])。
三、北京幽閉の二十数年間
一九五一年秋、伊藤は「人民艦隊」と呼ばれた漁船で日本から中国へ密航し、以後「顧青」の中国名を用いて対日工作放送「自由日本放送」の指導にあたった。一九六〇年には秦城監獄に移送され、文化大革命期には「三号」の符牒で呼ばれる被拘禁者として軟禁・迫害を受けた。この間に右目・右耳の機能を失い、腎不全を患うなど、健康状態は著しく悪化したという([1])。
拘禁期間の長さについては資料によって「二十六年」「二十七年」「二十八年」「二十九年」と表記に幅がある。これは中国への密航(一九五一年)を起点とするか、党による除名(一九五三年)を起点とするか、あるいは帰国(一九八〇年)までの通算年数の数え方の違いによるものと考えられ、いずれかが誤りというより、起算点の相違として理解すべきであろう。帰国時の新聞見出しの多くは「二十九年ぶりの帰国」としている([8][9])。
四、一九八〇年の帰国と野坂参三の反応
伊藤の処遇が動いたのは一九七九年十二月、中国共産党の喬石の判断により釈放が決定され、入院治療を受けたことに始まる。一九八〇年三月に退院、同年六月には妻キミに宛てて消息を伝える手紙が届いた。同年七月三十一日、時事通信が伊藤の健在を報じ、八月二十三日には中国政府がこれを公式に発表、そして九月三日、伊藤は車椅子姿で二十九年ぶりに日本の土を踏んだ。時に六十七歳であった([8][9])。
この帰国手続きの過程で、次男・伊藤淳の手記が明かす事実は注目に値する。妻キミは中国大使館を訪ねたのち、日本共産党本部に赴き当時議長であった野坂参三への面会を求めたが、これを拒まれた。ところがその夜、野坂は自ら妻のもとを訪れ、「なぜ党に事前に相談せず中国大使館と連絡を取ったのか」と詰問したという。伊藤淳自身は自著において、この場面を「慌てた野坂参三が家族の引き取りを阻止しようとした」ものと総括している([3][10])。
この挿話が持つ意味は、一九九二年以降に明らかになる野坂参三自身の経歴に照らして初めて完全に理解できる。ソ連崩壊後に公開されたコミンテルン文書により、野坂が一九三九年、亡命先のアメリカからコミンテルン書記局のディミトロフに宛てて、モスクワ在住の同志・山本懸蔵(一八九五~一九三九)らをNKVD(ソ連内務人民委員部)に讒言密告する書簡を送っていたことが判明した。山本はこれによりスターリン体制下の大粛清の犠牲となり、銃殺されたとされる。この事実が『週刊文春』の連続報道(一九九二年九月~十一月)によって暴露されると、日本共産党は同年九月二十日、野坂の名誉議長を解任し、十二月二十七日の中央委員会総会で除名を決定した。野坂本人は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べたとされ、以後この件について公に語ることはなく、一九九三年十一月十四日、百一歳で死去した([4][5])。
すなわち、一九五〇年代に「スパイ」として伊藤を告発し除名に追い込んだ野坂参三その人が、四十年近くを経て「ソ連の情報提供者」として同じ党から除名される――この対称性こそが、伊藤律事件の歴史的な問い直しを促す最大の契機となったのである。
五、息子・伊藤淳の証言――『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』
伊藤淳は一九四六年東京生まれ、伊藤律の次男である。中央大学文学部を卒業後、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の要職を歴任し、のちに看護専門学校の非常勤講師を務めた人物である。その伊藤淳が二〇一六年に上梓した『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』(講談社)は、第一部「父の帰還」(第一・二章)と第二部「母と子」(第三・四章)から構成され、二十七年の空白を経た父の帰還からその最期まで、そして帰国運動を支え続けた母の献身と、著者自身の家族としての経験を綴ったものである(10)。
著者自身が語るところによれば、当初はスパイ説の汚名を晴らすことに執筆の重点を置いていたという。しかし加藤哲郎らによる実証研究の進展により、「伊藤律スパイ説」は「日本共産党を除き、伊藤律を知る多くの人の間では、誤りを正すべき歴史となった」との認識に至り、執筆の力点を政治的立証から、父について「思うこと感じたことをありのままに綴る」こと、とりわけ帰国運動を支えた母についての記述へと転換したと述べている([3])。
帰国直後には、記者・山本博による証言記録「故国の土を踏みて」が一九八〇年十二月、朝日新聞に掲載され、その後『週刊朝日』での連載を経て『伊藤律の証言』として書籍化された。ただし伊藤律自身はこの公表の過程に納得しておらず、必ずしもこれを認めていなかったとされる点は、証言の扱いに慎重を期すべき事情として留意しておく必要がある([1])。
伊藤淳はまた、未公開の資料として千ページに及ぶという「獄中遺書」、および中国共産党側が保管しているとされる自己批判書の存在に言及し、その公開を今後の課題としている。これらが公にされれば、伊藤律事件の全体像はさらに書き換えられる可能性がある([3])。
六、おわりに
伊藤律事件は、単なる一個人へのスパイ嫌疑の当否にとどまらず、冷戦下の国際共産主義運動が内部にいかなる粛清の力学を抱えていたかを示す事例として読み直すことができる。野坂参三が山本懸蔵を密告し、後年みずからも同じ党によって除名されるという経緯は、伊藤律への処断が特定個人の資質の問題ではなく、コミンテルン以来の組織文化そのものに根ざしていたことを示唆している。
その意味で、次男・伊藤淳による証言は、党史の公式な記録や外部研究者による実証作業とは異なる次元――帰国した父を迎え、党との折衝に苦しんだ家族の記憶――から、この事件の人間的な代償を照射するものである。学術的なスパイ説の否定と、家族の側からの証言とが交差する地点にこそ、伊藤律事件の「戦後」を今日どう語るべきかという課題が残されている。
注・参考文献
- 「伊藤律」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律
- 加藤哲郎『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』みすず書房(CiNii Research書誌) https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN09682200
- 「自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』」ちきゅう座 https://chikyuza.net/自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の/
- 「野坂参三」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/野坂参三
- 「野坂参三氏(のさか・さんぞう)」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp00864424&d=d4_pol
- 三著出版記念講演会実行委員会編『野坂参三と伊藤律―粛清と冤罪の構図』(石堂清倫・篠田正浩・渡部富哉・小林峻一・来栖宗孝・畑敏雄 聞き書き)青聲社(国立国会図書館書誌情報)
https://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000002371299.php
- 「伊藤律会見報道事件」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律会見報道事件
- 「伊藤律氏帰国」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp10250055&d=d4_pol
- 「〈あのころ〉伊藤律氏29年ぶり帰国」福島民報 https://www.minpo.jp/globalnews/photodetail/2023081001000676
- 伊藤淳『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』講談社、二〇一六年(版元ドットコム/講談社BOOK倶楽部商品情報) https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000189916
- 伊藤律に関する書評記事(『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』紹介) https://keiryusai.com/archives/2340
取材・執筆にあたっての留保 本稿は公開されている書誌情報、書評、事典類、および先行研究の要約を典拠として構成した二次的な整理であり、伊藤淳氏の著書本文および加藤哲郎氏の研究書原本を直接精査したものではない。とりわけ拘禁期間の年数表記(二十六~二十九年)に見られる資料間の異同、および野坂参三と伊藤家とのやりとりの詳細については、一次資料(前掲書籍原本、党史料、当時の新聞縮刷版等)にあたっての検証を今後の課題としたい。
訂正:『偽りの烙印』の著者
前稿で「加藤哲郎『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』」としましたが、これは誤りです。国立国会図書館サーチおよびCiNiiで確認したところ、正しくは次のとおりです。
- 『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』の著者は渡部富哉(五月書房、初版一九九三年六月、新装版一九九八年)。渡部氏は、伊藤の逮捕・自白がゾルゲ事件発覚の端緒になったとする通説を、現場検証記録など一次資料の再検討によって覆した先駆的研究者です。
- 加藤哲郎氏(一橋大学名誉教授)自身の関連著作は『ゾルゲ事件―覆された神話』(平凡社新書、二〇一四年)で、渡部氏の先行研究を踏まえたうえで、事件発覚の実際の経路をさらに遡って解明したものです。
信頼できる読書ブログ(Ka-Bataアーカイブ)による同書の内容要約によれば、加藤氏は「伊藤律の自白がゾルゲ団摘発の端緒になった」とする通説(伊藤律端緒説)を明確に否定し、その虚説が形成された経路として、(1)戦時中の特高警察による筋書きづくり、(2)戦後のGHQ参謀第二部(G2)によるスメドレーと中国共産党の関係追及という謀略、(3)ゾルゲ事件被告・川合貞吉のGHQへの協力、(4)そして一九五〇年前後の党内抗争期に野坂参三らがこの端緒説を伊藤律追放の口実として利用したこと、の四点を挙げています。事件の真の発端は、一九三一年に逮捕された在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述に遡り、そこから北林トモ、宮城与徳へとつながってゾルゲ検挙に至った、というのが加藤氏の再構成です。
これは前稿の趣旨(野坂参三が伊藤律を「スパイ」として除名に追い込んだ)を補強する材料であると同時に、その根拠となった「スパイ説」自体がどのように政治的に利用されたかを具体的に示すものです。
確認できたこと・できなかったこと
書誌情報(国立国会図書館サーチ、CiNii)で確認できたのは、渡部富哉『偽りの烙印』の著者・出版社・刊行年、加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』の存在です。加藤氏の内容については第三者の書評(ブログ)を介した要約であり、同書原文そのものではありません。伊藤淳氏の著書『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』についても、Amazonカスタマーレビュー本文やちきゅう座以外の直接寄稿・インタビューは、アクセス制限(robots.txt規制、サイトブロック)により本文を確認できませんでした。したがって、本文中の野坂参三とのやり取りの詳細(「なぜ党に事前相談なく…」等の発言)は、前稿同様、書評記事を経由した引用にとどまり、書籍原本での一字一句の確認には至っていません。
学術論文としての公開を前提とするなら、この段階で図書館等から現物(渡部富哉『偽りの烙印』、加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』、伊藤淳『父・伊藤律』)を取り寄せ、該当箇所を直接引用・ページ数付記することを強く推奨します。オンラインで得られる範囲での裏取りは以上が限界です。
訂正版の該当箇所
第一章および注・参考文献欄について、以下のとおり差し替えます。
第一章、該当段落の修正版:
政治学者・加藤哲郎は、伊藤へのスパイ嫌疑を否定した渡部富哉の先駆的研究『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、一九九三年、新装版一九九八年)を踏まえ、『ゾルゲ事件―覆された神話』(平凡社新書、二〇一四年)において、事件発覚の経路が伊藤の自白によるものではなく、一九三一年の在米日本人共産党員・鬼頭銀一の供述に遡ることを実証した。同書はまた、「伊藤律端緒説」が戦時特高警察の筋書きに始まり、戦後はGHQ参謀第二部の謀略やゾルゲ事件被告・川合貞吉の証言を経て流布し、一九五〇年前後の党内抗争のなかで野坂参三らが伊藤律追放の口実として利用したことを指摘している。
参考文献欄、該当項目の修正版:
- 渡部富哉『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』五月書房、一九九三年(新装版一九九八年)(国立国会図書館サーチ書誌情報) https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002720417
2´. 加藤哲郎『ゾルゲ事件―覆された神話』平凡社新書、二〇一四年(内容要約:Ka-Bataアーカイブ) http://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/11/2014-201611.html
伊藤律の「戦後」再考 ―子息の証言と野坂参三との相克、そして一九八〇年帰国の実相
2026年9月19日 執筆 夏森龍之介
一、問題の所在
日本共産党の元政治局員・伊藤律(一九一三~一九八九)をめぐる評価は、戦後日本の左翼運動史のなかでも際立って屈折している。「生きているユダ」「革命を売る男」「権力のスパイ」――こうした烙印は長らく定説として流通し、松本清張の著作にもその影響が及んだ。しかし二十一世紀に入り、ソ連邦崩壊後に公開された機密文書や党内資料の発掘により、伊藤に対するスパイ嫌疑そのものが根拠を欠くものであったことが学術的に明らかになりつつある。政治学者・加藤哲郎は『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(みすず書房)において内部文書を渉猟し、通説の破綻を論証した([1][2])。
本稿は、この伊藤律の生涯のうち、とりわけ一九八〇年の帰国前後の事情、党指導部――なかんずく野坂参三――との緊張関係、そして二〇一六年に公刊された次男・伊藤淳の手記『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』(講談社)が明らかにした家族の視点からの事実関係を整理し、あわせて野坂参三自身が一九九二年に「ソ連のスパイ」として除名されるに至った経緯との対比のなかで、伊藤律事件の歴史的位置づけを再検討するものである([3][4][5])。
二、査問と除名――一九五〇年代前半の党内抗争
伊藤律は旧制第一高等学校在学中から共産主義運動に加わり、治安維持法違反で投獄された経験を持つ。戦後は日本共産党政治局員として要職を歴任したが、朝鮮戦争期のレッドパージにより党指導部が地下・国外へ移る過程で、その立場は急速に不安定化する。
一九五一年十月の第五回全国協議会で伊藤への批判が表面化し、一九五二年十二月には野坂参三が「スターリンの指令」を名目として伊藤を隔離審査の対象に指定、事実上の軟禁状態に置いた。翌一九五三年十月に徳田球一が中国で死去すると、西沢隆二と野坂参三の主導のもとで伊藤を「スパイ」として除名する方針が固まり、同年九月十五日付『アカハタ』に処分を伝える中央委員声明が掲載された(発表の経緯には前後関係の錯綜があるとする資料もある)。さらに一九五五年七月の第六回全国協議会での再確認に際しては、罪状の重心がゾルゲ事件との関連へと変更されている([1][6])。
除名後の伊藤の身柄について、野坂は後年「身柄を中国側に引き渡しただけで、投獄には関知していない」と釈明したとされる。しかし一九六〇年代半ば、野坂が伊藤の妻に対し「伊藤は死んだ」と語ったとの証言も残されており、党指導部が伊藤の生死・所在をめぐる情報を意図的に操作していた疑いは根強い([1])。
なお、伊藤律をめぐっては一九五〇年九月にも「朝日新聞記者が地下潜伏中の伊藤と会見した」とする記事が掲載され、数日後に虚偽であったことが発覚して同紙が全文取り消しと陳謝を公告するという「伊藤律会見報道事件」が起きている。この事件そのものに野坂参三の関与を示す記述は管見の限り見当たらないが、当時いかに伊藤律という存在が党内外の思惑と憶測にさらされていたかを象徴する挿話として付言しておきたい([7])。
三、北京幽閉の二十数年間
一九五一年秋、伊藤は「人民艦隊」と呼ばれた漁船で日本から中国へ密航し、以後「顧青」の中国名を用いて対日工作放送「自由日本放送」の指導にあたった。一九六〇年には秦城監獄に移送され、文化大革命期には「三号」の符牒で呼ばれる被拘禁者として軟禁・迫害を受けた。この間に右目・右耳の機能を失い、腎不全を患うなど、健康状態は著しく悪化したという([1])。
拘禁期間の長さについては資料によって「二十六年」「二十七年」「二十八年」「二十九年」と表記に幅がある。これは中国への密航(一九五一年)を起点とするか、党による除名(一九五三年)を起点とするか、あるいは帰国(一九八〇年)までの通算年数の数え方の違いによるものと考えられ、いずれかが誤りというより、起算点の相違として理解すべきであろう。帰国時の新聞見出しの多くは「二十九年ぶりの帰国」としている([8][9])。
四、一九八〇年の帰国と野坂参三の反応
伊藤の処遇が動いたのは一九七九年十二月、中国共産党の喬石の判断により釈放が決定され、入院治療を受けたことに始まる。一九八〇年三月に退院、同年六月には妻キミに宛てて消息を伝える手紙が届いた。同年七月三十一日、時事通信が伊藤の健在を報じ、八月二十三日には中国政府がこれを公式に発表、そして九月三日、伊藤は車椅子姿で二十九年ぶりに日本の土を踏んだ。時に六十七歳であった([8][9])。
この帰国手続きの過程で、次男・伊藤淳の手記が明かす事実は注目に値する。妻キミは中国大使館を訪ねたのち、日本共産党本部に赴き当時議長であった野坂参三への面会を求めたが、これを拒まれた。ところがその夜、野坂は自ら妻のもとを訪れ、「なぜ党に事前に相談せず中国大使館と連絡を取ったのか」と詰問したという。伊藤淳自身は自著において、この場面を「慌てた野坂参三が家族の引き取りを阻止しようとした」ものと総括している([3][10])。
この挿話が持つ意味は、一九九二年以降に明らかになる野坂参三自身の経歴に照らして初めて完全に理解できる。ソ連崩壊後に公開されたコミンテルン文書により、野坂が一九三九年、亡命先のアメリカからコミンテルン書記局のディミトロフに宛てて、モスクワ在住の同志・山本懸蔵(一八九五~一九三九)らをNKVD(ソ連内務人民委員部)に讒言密告する書簡を送っていたことが判明した。山本はこれによりスターリン体制下の大粛清の犠牲となり、銃殺されたとされる。この事実が『週刊文春』の連続報道(一九九二年九月~十一月)によって暴露されると、日本共産党は同年九月二十日、野坂の名誉議長を解任し、十二月二十七日の中央委員会総会で除名を決定した。野坂本人は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べたとされ、以後この件について公に語ることはなく、一九九三年十一月十四日、百一歳で死去した([4][5])。
すなわち、一九五〇年代に「スパイ」として伊藤を告発し除名に追い込んだ野坂参三その人が、四十年近くを経て「ソ連の情報提供者」として同じ党から除名される――この対称性こそが、伊藤律事件の歴史的な問い直しを促す最大の契機となったのである。
五、息子・伊藤淳の証言――『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』
伊藤淳は一九四六年東京生まれ、伊藤律の次男である。中央大学文学部を卒業後、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の要職を歴任し、のちに看護専門学校の非常勤講師を務めた人物である。その伊藤淳が二〇一六年に上梓した『父・伊藤律
ある家族の「戦後」』(講談社)は、第一部「父の帰還」(第一・二章)と第二部「母と子」(第三・四章)から構成され、二十七年の空白を経た父の帰還からその最期まで、そして帰国運動を支え続けた母の献身と、著者自身の家族としての経験を綴ったものである(10)。
著者自身が語るところによれば、当初はスパイ説の汚名を晴らすことに執筆の重点を置いていたという。しかし加藤哲郎らによる実証研究の進展により、「伊藤律スパイ説」は「日本共産党を除き、伊藤律を知る多くの人の間では、誤りを正すべき歴史となった」との認識に至り、執筆の力点を政治的立証から、父について「思うこと感じたことをありのままに綴る」こと、とりわけ帰国運動を支えた母についての記述へと転換したと述べている([3])。
帰国直後には、記者・山本博による証言記録「故国の土を踏みて」が一九八〇年十二月、朝日新聞に掲載され、その後『週刊朝日』での連載を経て『伊藤律の証言』として書籍化された。ただし伊藤律自身はこの公表の過程に納得しておらず、必ずしもこれを認めていなかったとされる点は、証言の扱いに慎重を期すべき事情として留意しておく必要がある([1])。
伊藤淳はまた、未公開の資料として千ページに及ぶという「獄中遺書」、および中国共産党側が保管しているとされる自己批判書の存在に言及し、その公開を今後の課題としている。これらが公にされれば、伊藤律事件の全体像はさらに書き換えられる可能性がある([3])。
六、おわりに
伊藤律事件は、単なる一個人へのスパイ嫌疑の当否にとどまらず、冷戦下の国際共産主義運動が内部にいかなる粛清の力学を抱えていたかを示す事例として読み直すことができる。野坂参三が山本懸蔵を密告し、後年みずからも同じ党によって除名されるという経緯は、伊藤律への処断が特定個人の資質の問題ではなく、コミンテルン以来の組織文化そのものに根ざしていたことを示唆している。
その意味で、次男・伊藤淳による証言は、党史の公式な記録や外部研究者による実証作業とは異なる次元――帰国した父を迎え、党との折衝に苦しんだ家族の記憶――から、この事件の人間的な代償を照射するものである。学術的なスパイ説の否定と、家族の側からの証言とが交差する地点にこそ、伊藤律事件の「戦後」を今日どう語るべきかという課題が残されている。
注・参考文献
- 「伊藤律」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律
- 加藤哲郎『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』みすず書房(CiNii Research書誌) https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN09682200
- 「自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』」ちきゅう座 https://chikyuza.net/自著を語る:伊藤淳著『父・伊藤律 ある家族の/
- 「野坂参三」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/野坂参三
- 「野坂参三氏(のさか・さんぞう)」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp00864424&d=d4_pol
- 三著出版記念講演会実行委員会編『野坂参三と伊藤律―粛清と冤罪の構図』(石堂清倫・篠田正浩・渡部富哉・小林峻一・来栖宗孝・畑敏雄 聞き書き)青聲社(国立国会図書館書誌情報)
https://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000002371299.php
- 「伊藤律会見報道事件」『ウィキペディア日本語版』 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤律会見報道事件
- 「伊藤律氏帰国」時事ドットコム・日本共産党の歩み写真特集 https://www.jiji.com/jc/d4?p=jcp100-jpp10250055&d=d4_pol
- 「〈あのころ〉伊藤律氏29年ぶり帰国」福島民報 https://www.minpo.jp/globalnews/photodetail/2023081001000676
- 伊藤淳『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』講談社、二〇一六年(版元ドットコム/講談社BOOK倶楽部商品情報) https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000189916
- 伊藤律に関する書評記事(『父・伊藤律 ある家族の「戦後」』紹介) https://keiryusai.com/archives/2340
取材・執筆にあたっての留保 本稿は公開されている書誌情報、書評、事典類、および先行研究の要約を典拠として構成した二次的な整理であり、伊藤淳氏の著書本文および加藤哲郎氏の研究書原本を直接精査したものではない。とりわけ拘禁期間の年数表記(二十六~二十九年)に見られる資料間の異同、および野坂参三と伊藤家とのやりとりの詳細については、一次資料(前掲書籍原本、党史料、当時の新聞縮刷版等)にあたっての検証を今後の課題としたい。
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├計量計測データバンク ニュースの窓-441-ソビエト連邦の実際 ― その民主制と民主主義の実態、ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲 ― 歴史的検証
├計量計測データバンク ニュースの窓-442-ソビエト連邦の実際 ― その民主制と民主主義の実態
├計量計測データバンク ニュースの窓-443-ヨシフ・スターリンの独裁体制とその犠牲——歴史的検証
├計量計測データバンク ニュースの窓-444-レーニンの功績と歴史的制約がもたらしたもの、そして汚点に属する事柄
├計量計測データバンク ニュースの窓-445-コミンテルンにおける密告と粛清――野坂参三による山本懸蔵ら「日本人スパイ」告発事件の真相――
├計量計測データバンク ニュースの窓-446-宮本顕治の中国渡航をめぐる資料的検証(改訂版)―1966年公式訪中団と、国谷哲資回想記が伝える「広州の邸宅」証言の検討―
├計量計測データバンク ニュースの窓-447-宮本顕治の中国渡航をめぐる資料的検証(改訂版)―1966年公式訪中団と、国谷哲資回想記が伝える「広州の邸宅」証言の検討―考察資料集
├計量計測データバンク ニュースの窓-448-伊藤律の「戦後」再考 ―子息の証言と野坂参三との相克、そして一九八〇年帰国の実相
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夏森龍之介のエッセー
田渕義雄エッセーの紹介
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├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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