私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その4- 父(忠夫)のはかり屋「高徳衡機(株)」
裕福な青年期を過ごした父は祖父が始めた「はかり屋」の跡を継いだ
祖父と伯父達に勧められる
父は、祖父が始めた「はかり屋」の跡を継いだのであるが、そうなる前ははかりのことなど何も知らずに関西学院大学で英文学を学んでいたと聞く。従兄弟達とオーケストラを組んで楽しんでいた写真も残っているので、随分裕福な青年期であったのだろう。
そんな父が急遽、大学を中退し東京の度量衡講習所に行ってはかりの勉強をしたというから、父も祖父に押し付けられたのか、火中のクリを拾った感がある。
しかし父からは祖父の悪口は聞かなかったので、多分、たくさんいた母方・父方の叔父や叔母から相談や説得があったのであろう、と想像する。特に母方の祖父にあたる実業家の直木政之助の発言力が大きかったと思われる。まさに一族の力である。
度量衡講習
1927(昭和2)年9月、父は上京し度量衡講習所に入所した。
当時は新橋の商工省の本館に隣接した中央度量衡検定所の4階が教室で、朝8時から夕方4時、5時までビッシリ授業があった、と日記に記している。午後は実習に当てられ、講習生は殆どが全国の検定所勤め人であり学生のごとき呑気さは微塵もなかった、とも続けている。大学を中退して参加した父はさぞ面食らったであろう。授業料は無料であった由。
しかし、当時大学出の初任給が45円程のころ、月200円を送金してもらい、40円の下宿代を払っていたというから、周りからはどこかのドラ息子と思われていたのでは、と心配する。
下宿は歌舞伎座の近くにあったらしい。父も歌舞伎を見によく通ったのであろう。お富さんの一節はよく覚えていて、機嫌の良い時にはよく聞かされたものであった。
私が最近ふと得た講習所の名簿には同期として、千葉県の恵藤計器(株)の恵藤さんのご尊父の名前もある。
はかり屋を開始
父は、度量衡講習所を修了後、祖父が経営する「神戸メートル商会」に入社。兵庫の修理工場で働きながら研鑚を積み「製造免許」を取った。それ以降は父が製造を進め、祖父が営業を受け持っていたようである。
当初は川崎造船所が大の得意先であったが、三井物産向きの綿花用はかりも造ったりして販路を増やし、工場の人員を増やしていった。
その結果、私が誕生した1936(昭和11)年には、深江に工場を新設し社名を「高徳衡機(株)」とした。これは祖父の没後、父高徳忠夫の最初の仕事であった。
昔は今の「計測」・「計量」より「度量衡」・「衡機」の呼び名がはやっていたのである。
後々の父の言によると、祖父から事業を受け継いだときの財務状態はいたって悪く、祖父が在職中に得たボーナス・退職金を全て穴埋めに使ったそうである。しかし、祖父が命名した「神戸メートル商会」は商標として残り、工場のヤード正面に大きく描かれていた。
この高徳衡機(株)になってからは業績も次第に伸び、川崎重工以外にも兵庫県庁、大阪の支庁にも顔を出すようになったと、父の日記等にも記されている。主に工場や産業用の特殊衡機が主力であった。
私が川崎製鉄に入社後神戸の葺合(ふきあい)工場に転勤になった1966(昭和41)年、現場の職長が「いい物があるから見ておきはったら」と言うので現場に行ってみると、高徳衡機製5tの規格型の台秤があった。大よそ30年も前に我が家の工場で作られたはかりとの再会であった。
1938(昭和13)年の六甲大水害の時は、工場も相当な被害を受けたようである。それを乗り越え、さらに一人前の企業に育てていった父の努力には、頭が下がるものがある。
次は大戦である。中小企業であった高徳衡機(株)は、戦前岸信介商工大臣が出した大企業統合令により、後に川崎重工に引き取ってもらうことになるのである。
出会いの不思議
父は同時に度量衡統制組合にも属して、本省機械局計量課や兵庫県の計量課にも出入りして横の繋がりも広くしていったようである。
川重はもちろん、神戸製鋼の計量担当の方にも懇意にしていただき、この辺りの方々が戦後の父の川鉄への復帰の足がかりを作ってくださったと聞く。
人間社会とは不思議なもので、当人達がその時は全く考えてもいなかったことが、数年先にその当人達の間で起こる。出会いとはそのようなものであろう。
1944(昭和19)年に父が事業を閉じた後、先に触れたような意外な出会いによって、当時の西山社長に請われることとなり、新しく社員として川崎製鉄に入社したのが1950(昭和25)年である。
(つづく)
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その4- 父(忠夫)のはかり屋「高徳衡機(株)」
裕福な青年期を過ごした父は祖父が始めた「はかり屋」の跡を継いだ