私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その5 私の誕生- 私の誕生は1936(昭和11)年9月である
私が誕生したのは神戸の御影という阪急とJRに挟まれた静かな住宅街であった
私の誕生
神戸の御影
祖母に抱かれる筆者(写真前列左から3人目)
私の誕生は1936(昭和11)年9月である。同年には2・26事件があり、明けて1937(昭和12)年には盧溝橋が爆破されたりで戦争の気配が漂い始めた頃である。2年後には六甲の大水害により神戸が多大な被害をうけたりと、環境的に落ち着かない時代であったようだ。
3つ上の兄、年子の姉に続いて私が誕生したのは、神戸の御影(みかげ)という、阪急とJRに挟まれた静かな住宅街であった。しかし間もなく新設の工場に隣接した深江(ふかえ)に引っ越している。
母達は赤ん坊が憶えているはずがないと言うが、私はこの御影の家で、確かに遠くに省線電車(JRのこと、昔はそういった)が走っていたこと、庭先に石の灯篭が在ったことを記憶している。
お宮参りをしたと聞く、近くに在った「ゆずり葉神社」一帯は、後になって浪人時代予備校への通い道の近くでもあったので、よく散歩したものだ。大きな屋敷の土塀があり、竹林があり、心が落ち着くたたずまいが好きであった。
よくいわれる「第二の誕生」、私の思春期・哲学の始まりも、この地であったような気もする。
深江の工場
深江の工場 ヤード正面に神戸メートル商会の商標が(写真は工場閉鎖時)
深江の工場の家では、兄が学校に入学するまで育てられた。この家には寝たきりのような曾祖母がいた。その枕元からお菓子を取り、階段を駆け上がって2階に逃げると、曾祖母は下から階段を叩いて「下りていらっしゃい」と言っていた。曾祖母さんの唯一の想い出である。
家の周りは田んぼばかりで公園などもなく、庭先と工場が遊び場であった。勝手口をそーっと開けて、工場に行き、そこでペンキをいじったり、覚えている箱からローセキ(罫書き用であったろう)を取り出して落書きをしたりで、工場の人達の仕事の邪魔をしていたようであった。
当時の私には兄と姉が1人ずつ、下には妹が2人いた。兄が小学校に行くようになったので、一家は通学が困難な深江から住宅街である魚崎の小学校の近くに引っ越した。裏の勝手口を出ると広っぱがあり、その向こうに学校の塀が見えていたのを覚えている。
周りの人達は関西風に兄を「ぼんちゃん」と呼び、私を「小ぼんちゃん」呼んだが、言語の発達障害気味であった私は、自分のことを単に尾っぽだけを取って「ちゃん」で済ましていた。ほとんど喋らずに春さん(主として私の世話をしてくれていた女中)や姉の後をついて回っていたらしい。また祖母さんが出かけるときには、一緒に人力車に乗せてもらうことを楽しみにしていた。
幼かりし頃
六甲山に草履で登ったとき(前列中央が筆者)
皆の語り草にされて恥ずかしく思った話がある。
3、4歳の頃であったろうか、私の世話をしてくれていた女中の春さんに、あるとき「ちゃんがポンプを押してあげるから、はよ春さんは拭き掃除しいな」と言ったそうだ。
春さんには次々仕事があってなかなか遊んでくれないから、遊んでもらいたい一心でそういったにもかかわらず、春さんは「こぼんちゃんは優しい子や」と自慢そうにこの話を家人にしていたので、子供ながら申し訳ない思いだったものだ。当時我が家にあった井戸のポンプは、上下に押すのではなく前後に押すもので、子供でも押せた。
能楽に連れて行ってもらって退屈したこと。子ども達が並ばされてのお茶の会、お菓子は好きであったがお茶が苦かったことも覚えている。
楽しかったのは、父に連れられて行った兄弟姉妹揃っての六甲登山であった。
足袋を履いて、藁草履、その鼻緒の後ろを更に布紐で止めてもらえば、靴よりも軽く歩けたものだ。
父を先頭にして子ども4人が(後の2人はまだ幼児と赤ん坊)列を成して続いた。多分山頂までは行かずに途中までであったと思うが、暑い夏の日に裸になって岩陰に溜まっていた水を浴びた(私たちはそれを「アービチャン」と呼んでいた)のが何よりの楽しい思い出となっている。
5歳頃(右から2番目が筆者)
(つづく)
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その5 私の誕生- 私の誕生は1936(昭和11)年9月である
私が誕生したのは神戸の御影という阪急とJRに挟まれた静かな住宅街であった