私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その6- 1943(昭和18)年、私は魚崎小学校に入学した
疎開列車は家族揃って城崎温泉に湯治に行ったときと同じ流線形の蒸気機関車
魚崎小学校入学
何も分らぬ小学生
1943(昭和18)年、私は魚崎小学校に入学した。我が家では、幼稚園にいけば病気がうつるからという理由で誰も幼稚園には行かなかった。その上に言語障害気味であった私は、言葉も出てこないし、数も読めない。入学式の帰り道に、母に手を引かれながら数をかぞえさせられた事しか覚えていない。
学校は近くであったが、戦中の事であったためか近所の子供達と並んでの登校であった。その列に入るのに気後れしたのか、女中の春さんに付いてきてもらうのが常であった。
そんな状況であったから、学校での勉強などは到底分かるはずがない。人に話しかけても相手は辛気くさがって向こうにいってしまうので、大抵は独りでいたような記憶がある。今流に言えば間違いなく「落ちこぼれ」であったろう。兄や姉が私のことをよく「修身、体操 可2つ」とからかっていた(当時の通信簿は上から順に秀、優、良、可、不可の5ランクであり、可は下から2番目で付いてはならない成績であった)。
亀に見とれて
身体は弱くはなかったが、よく中耳炎になり医者に通った。母が教室に迎えに来てくれてお医者さんに行くのが何となく楽しかった。
ある日、遊び時間に皆と一緒に校庭に出た。例によって私は独りでうろうろしていたが、校庭と校舎の間の溝に1匹の亀を見つけた。亀は溝をごそごそ歩いて、溝の蓋に当たる校舎と校庭の渡し通路のトンネルの中に入っていった。上から覗いていると反対側の僅かな明かりの中に亀の黒い影だけが見えていた。それに見入って、ふと気が付いて周りを見渡してみると誰も居ない。遊び時間は終わり皆は教室に入っていた。
急いで下駄箱に向かったが、どこが私の下駄箱なのかさっぱり分からない、帰るべき教室も分からない。呆然としてしまい、頭に浮かんだのは、「春さんに来てもらって!」。 幸いなことに、途方に暮れている私に気づいてくれた、小遣い(用務員)さんが教室まで案内してくれて、事なきを得た。
戦争の記憶
幼い記憶で断片的ではあるが、日本が真珠湾を攻撃して開戦したことや、シンガポール陥落は知っていた。
戦局が悪くなり(当時は知らなかったが)1年~2年生の時に既に防空演習が始まりかけていた。服には名札の布を付けてもらい、防空頭巾を被って、サイレンの合図で裏の広場に造られた防空壕に入る練習をしたものだ。
夕焼けの空高く飛んでいる飛行機を「あれが敵機だ」と教えられ、戦争が間近になったことを感じて“鬼畜米英”の恐ろしさを体験した気分になっていた。
その飛行機は爆撃はしなかったが、低空で飛んできたのでその爆音に驚いたのであろう、恐怖心が残っていた。
2年生の夏休みに入って間もなく、疎開することを知らされた。以前に流線形の蒸気機関車に引かれた列車で家族揃って城崎温泉に湯治に行ったことがあり、その時に乗った同じ列車と聞いて喜んだ。
私は幼い頃から汽車が好きで、母の話では、ある朝、汽車の模様が付いた浴衣を着せてもらったら、昼暑くなって汗をいっぱいかいても脱がせなかったこともあったらしい。
また疎開先の丹波でも学校の行事で芋掘りに行き、帰路にトンネルから出てくる汽車を見たものだから、もう一回見ようと列を離れて、ひとりでトンネルの上で待っていた。1~2時間に1本あるかないかの汽車だから夕暮れ近くになってしまい、帰ってみたら近所中大騒ぎになっていたことがあった。
話は横道に反れたが、当時は疎開よりも、もう一度あのかっこ良い流線形の汽車に乗れる事の方が楽しみであった。あの夕焼けの空高く飛んでいた敵機から落とされる爆弾を逃れられるのだと聞かされても今一つ実感が湧いてこなかったが、特に仲良しの友達がいた訳でもないので家族一緒の安心感が先立っていた。
(つづく)
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その6- 1943(昭和18)年、私は魚崎小学校に入学した
疎開列車は家族揃って城崎温泉に湯治に行ったときと同じ流線形の蒸気機関車