私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その7- 高徳家の由来
酒醸造や両替商を営みかつ庄屋でもあったのが我がご先祖、姫路藩ご用達となり苗字帯刀を許されたらしい
高徳家の由来
ルーツは姫路
我が家のルーツを辿れば播州姫路、姫路城より南に向かって飾磨への中点ほどにある野田、ここで酒醸造や両替商を営みかつ庄屋でもあったのが我がご先祖である。
そんな商売でお城の殿様にも親しくしていただいていたのであろう、姫路藩ご用達となり、殿様より苗字帯刀を許されたらしい。
そのとき我がご先祖は「我が家には児島高徳(※高徳→旧字)の子孫であるとの言い伝えがある、今苗字を付けることが許されたなら、この故事に従って高徳としたい、ただし児島高徳は尊い人であったので、同じように『たかのり』と読んだのでは恐れ多い。一部をかえて『たかとく』と読みたい」と申し出たという。
殿様も同意して、そのように決まったのであろう。今でも姫路では高徳という姓は我が家の系統一族のみである。
丹波の小・中学校、福知山高等学校で私の名前を「タカトク」と読んで下さる先生は、兄貴や姉を知っている先生だけであった。普通の人はたいがい「タカノリ」か「コウトク」と読む。
私はその度にご先祖さんの気遣いを感じるのである。
児島高徳
児島高徳終焉の地(群馬県邑楽郡大泉町)
児島高徳とは、後醍醐天皇が隠岐へ遠流となったとき、天皇を救い出さんと試みたが道筋を読み誤り、失敗に終わった人である。無念にも、警備が厳重な院庄の天皇行在所を去るに際し、宿舎の傍にあった桜の木に『天勾践(てんこうせん)を空しくすること莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)の無きにしも非(あら)ず』と書き、中国の故事を引用して、次回は必ずや帝をお助けすることでしょうと決意を残すと共に、天皇を勇気づけた。
このような歴史上の人の墓というものは、全国いたる処にあるようだが、最も確からしいのは、群馬県邑楽(おうら)郡大泉町の坂東太郎の土手近く、児島高徳神社の境内にあるものである。ここでは「高」も、「徳」も我が家のものと同一(=旧字)である。出生地の近くの赤穂市の坂越にあるものは「高」「徳」(=新字)となっていて、我がご先祖の思いが浮かばない。
姫路から神戸に
高徳家はその後も、姫路城の藩主にはお金を融通していたらしい。廃藩置県に際して、当時の姫路藩主酒井忠邦より高徳藤五郎(私の曾爺さん)宛に、借金は返せない旨の書状が来ていた。金額4万6千円也とある。当時にしてみれば相当な額であったのであろう。
その高徳藤五郎の代以降、我が家は姫路より神戸に出てきている。二代に渡って酒が腐ったとか、貸したお金が返って来ないなど不運が続いたためらしいが、これから発展してゆくのは姫路より神戸だとの判断もあったのであろう。
藤五郎は神戸で米穀商を成功させ、市会議員や県会議員を務めている。この間に実業家の直木政之助とも懇意になり直木家の次女千代(芳忠の祖母)を養女とし、かつて養子縁組をしていた純教の嫁とした。
祖父の純教は藤五郎の没後、姫路の高徳の「野田」にあった屋敷跡の土地を全て姫路市に寄贈している。私が高校生の頃、父に連れられて高徳家の菩提寺を訪ね、過去帳を見せていただいたときの話では、寄贈を受けた姫路市は小学校を作ったそうである。しかし、最近になって私が調べた限りでは、その跡らしき処に市民病院が建っていた。
祖父の純教は、元々「野田」に隣接する「中島」にある浄土真宗のお寺の出であるから、公共心は旺盛であったのであろう。
以上が我が家のルーツであり、姫路の高徳が神戸の高徳に変わった由来でもある。
(つづく)
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その7- 高徳家の由来
酒醸造や両替商を営みかつ庄屋でもあったのが我がご先祖、姫路藩ご用達となり苗字帯刀を許されたらしい