江戸時代における「浮力の原理」と「密度・比重」の概念 日本計量史学会 中村邦光(計量計測データバンクweb版)
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江戸時代における「浮力の原理」と「密度・比重」の概念 日本計量史学会 中村邦光
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江戸時代における「浮力の原理」と「密度・比重」の概念 日本計量史学会 中村邦光
浮力の原理すなわち「アルキメデスの原理」は、その名が示す通り古代ギリシャのアルキメデスによって研究された科学的業績であって、古い歴史をもっています。そして、この原理はアラビアを経てヨーロッパに伝えられ、古代原子論と共にガリレオの近代力学の基礎となりました。
この話題では、日本科学史の全体像(通史:縦糸)を詮索するための一環として、江戸時代の日本における「浮力の原理と〈密度・比重〉の概念」の認識の状況を紹介します。
1、原子論と「密度・比重」の概念
「浮力の原理」というのは、空気中で量った重さと水(液体)中で量った重さの差額分、すなわち「重さの減少分は、物体と同体積の水(液体)の重さに等しい」というものです。
この重さの減少量を「浮力」といいます。そして、同じ重さの物体の浮力の相違は、体積の相違、すなわち「密度。比重」の概念であり、これは原子論的な物質観です。すなわち、アルキメデスは「密度・比重の概念」を数量的に認識し、科学的にしたということです。そして「浮力の原理」を用いて測定すれば、精密な比重〈密度)の測定ができます。
それでは、中国人や日本人はいつごろ、どのようにしてこの原理を知ったのでしょうか。
中国や日本の書物で「密度や比重の値、および浮力の原理」が記載されている書物を系統的・悉皆的に調べてみました。その結果「浮力の原理」は、中国や日本では一七世紀になってヨーロッパの宣教師たちが中国に伝えるまでは知られていませんでした。
しかし、じつは「密度・比重の概念」は、人間の日常生活や科学的認識の上で、長さ(度)、体積(量)、重さ(衡)と共に基本的な概念です。今日の密度は「重さ÷体積」で定義されるので、論理的には「重さや体積に従属するもの」と思われるのが普通ですが、中国や日本でも「密度・比重の概念」は、「浮力の原理」に先だって古くから明確に意識化されていたことが分かりました。
すなわち「密度」は、日常生活に密着した、より根源的な概念だったのであります。ちなみに、ニュートンはその著『自然哲学の数学的原理』(一六八七年)において「質量」を「密度÷体積」で定義をしています。これは、ニュートンやガリレオの原子論的な思考の上では、質量や重さよりも「密度」の方がより根元的な量であると考えていたことを示すものといえましょう。
板倉聖宣の『原子論の歴史』(仮説社、二〇〇四年)においても、古代ギリシャから古代ローマに至る紀元四世紀までは「原子論が正統(多数派)」で「キリスト教が異端」であったのが、紀元四世紀以降には「キリスト教が正統」となり、「原子論が異端」(神は
〈真空〉を嫌い給う)となったことを紹介しています。すなわち、紀元四世紀以前の古代ギリシャや古代ローマでは「原子論(密度)は生活体験的で一般に認識された概念」だったのです。
2、古代中国の「密度」と代表的な和算書の「密度表」
2・1古代中国の「密度」
中国文献に掲載されている密度に関する最も古い記述は、調査したかぎり『漢書』の「食貨志(下)」の冒頭部分に出てくる「黄金方寸而重一斤」という文章です。『漢書』は、後漢の初め頃に班彪によって着手され、その子班固によって章帝建初(紀元七六年~八三年)の初め頃に完成したといわれていますので、西暦紀元一世紀に完成した書物です。
しかし、記述の対象になっている事柄は前漢時代の事柄ですので、前漢時代(紀元前二〇二年~紀元八年)には「黄金の密度は一立方寸当たり一斤」とされていたことが分かります。
ところで、江戸時代末期の考証家・狩谷腋斉(一七七五年~―八三五年)の考証結果によると、漢の時代の一尺は、唄治期法定の日本の一尺よりはかなり短く、「漢の一尺=日本尺七寸六分」つまり二三・〇三センチメートルに当たり、また漢の時代の一斤も明治期法定の一斤よりはかなり小さく、「漢の一斤=日本の六〇匁五分」つまり二二六・八七五グラムに当たるといいます。
そこでこれらの値に基づいて「黄金は一立方寸当たり重さ一斤」という数値を今日の単位に換算すると、約一八・六グラム/立法センチメートルとなります。今日の金の密度は一九・三グラム/立法センチメートルですので、これはかなり今日の値に近いといえます。
また『漢書』のあと、三世紀に成立したといわれる古代中国の数学書の『孫子算経』には、次のような諸物質の密度表が掲載されています。
すなわち、
▽黄金方寸重一斤▽白金方寸重一四両▽玉方寸重一二両▽銅方寸重七両半▽鉛方寸重九両半▽鉄方寸重六両▽石寸重三両
というものです。
このうち「黄金方寸重一斤」というのは『漢書』に記載されているものと同じです。そして『孫子算経』(三世紀)の密度表は、漢の時代の単位、すなわち「漢の一尺=二・三〇三センチメートル、一斤=二二六・八七五グラム」に換算して検討したところ「白金?」と「玉?」と「石?」を除く、金属の密度については、かなり正しい値に近いことが分かりました。
2・2和算書に掲載された「密度表」
それでは、日本では「密度」はどのような値だったのでしょうか。
じつは、江戸時代初期の日本の数学書で、吉田光由の『塵劫記』の寛永八年(一六三一年)版には「諸物軽重の事」と題して、一立方寸当たりの重さの表が掲載されています。
すなわち、
▽金(一立方寸、おもさ)一七五匁▽銀(同)一四〇目▽鉛(同)九五匁▽錫(同)六三匁▽玉(同)―二〇目▽銅(同)七五匁▽鉄(同)六〇目▽真鍮(同)六九匁▽青石(同)三〇目▽土(一立方尺、おもさ)―一貫目
というものです。
これは、基本的に中国算書の『算法統宗』(明・万暦二―年・一五九三年)の密度表を概ねそのまま受け継いだものです。違うのは、新しく錫と真鍮と土が加えられていることと、金の密度が『算法統宗』に「金、重さ一六両」とあったのを「金一六〇目」とはせずに「一七五匁」としているところです。
しかし『塵劫記』(一六三一年)の時代の尺貫法の値は、既に明治期法定の尺貫法(一匁=三・七五グラム、一寸=三・〇三センチメートル)と同じになっていたので、たとえば金の密度についてみると、今日の値一九・三グラム/立法センチメートルは、尺貫法に換算すると一四三・二匁/立方寸となるので、『塵劫記』の値一七五匁/立方寸は・二三・五九グラム/立方センチメートルとなり、かなり大き過ぎることになります。
それにしても、この数値は、古代中国の「金」の密度一六〇匁/立法寸=一八・六グラム・立法センチメートルとはかなり違っていたわけです。どこから引用したのでしょうか。今のところ不明です。
しかし、その後一七世紀の日本においては、単位換算がおこなわれたりしながら、その数値は多様化していきました。そして、一七世紀の和算書には、かなり「物理・実用的な事柄」への関心が認められます。
たとえば、村松茂清の『算俎』(寛文三年・一六六三年)の五年後に出た岡嶋友清の『算法明備』(寛文八年・一六六八年)にも密度表が掲載されていますが、その「軽重」の値は従来の和算書と著しく違っています。
十一物質のうち、他の和算書と共通なのは二つだけ、すなわち鉛と銅が今村知商の『竪亥録』(寛永一六年・一六三九年)および磯村吉徳の『算法闕疑抄』(万治三年・一六六〇年)と共通なだけで、その他はすべて新しい数値です。
金の値が一三五匁/立方寸(一八・二グラム/立方センチメートル)と、どの和算書の値より小さくなっていますが、これは金座の役人か両替商などから聞いて取り上げたものと思われます。当時の金座や両替商たちは、金の密度を一三〇~一三五匁/立方寸としていたと思われるからです。
一七世紀末には、こうして独自の密度表がいくつも提出され、和算書の密度表は著しく多様化することとなりました。密度が「物質に固有な定数である」ということが認められていたとすれば、同じ物質の密度についていろいろな値を記載する書物が現れれば、当然そのどれが正しい値に近いのかが問題になってきて、その後に測定法が工夫されて精度が高まるものと思われます。
一六八〇年代には、実際にそのような動きが始まりました。たとえば、持永豊次、大橋宅清の『改算記綱目』(貞享四年・一六八七年)では「金重或問」と題して取り上げられています。
すなわち、
「金小判の一立方寸当たりの重さを測定するには、まず目盛りが施されている器物に金小判を何十両か多く入れ、その上から水をいっぱいに入れる。そして次に、水がこぽれないように金小判を取り出し、水位の下がった部分の体積が何立方寸かを測定する。そして、この体積で取り出した金小判の総重量を割ると小判に使われている金の純度(密度)が知れる。そのほか、純度(密度)を測りたい物はこれに倣え」(現代文に直した)
というのです。
このようにして、和算書で多様化した密度の値は、その「どれが正しい値なのか」という問題意識が生まれ、一七世紀末には次第に正しい値に収斂していきそうにみえました。
たとえば、一七世紀の和算書『新刊算法起』(一六五二年)の密度表の「但し書き」には、「歌に、古しへの法目なるらし金銀の 坪を作りてかけて見ざれば」と記載されています。
これをみると「金銀などの密度の値は古い単位のものであるらしく実際と違うようだから、立方体を作って測定し直す必要がある」といっていることがわかります。
ところが、その後一八世紀中頃以降、幕末に至るまでの和算書など日本の書物に現れた密度表を見ると、その改善のための問題意識や実測への意欲は中断されています。そして、ついには「密度は物質に固有な定数である」という考え方まで失われていってしまったようです。
たとえば、一九世紀初頭の和算書の密度表の「但し書き」をみると、「評曰く、諸軽重は国所に因て善悪あり、故に軽重格別なるべし」(『(最上流)本朝算鑑』:一八二〇年)とか、「諸物の軽重は産所と製法に依りて各一定し難し、故に諸書に載る所是その大略と知るべし」(『廣用算法大全』:一八二七年)などと載されています。
すべての物質について「密度とは大凡のものである」という考えに立てば、改めて精密な測定をする必要も、精密な測定を工夫する必要もなくなるわけです。そして、書物によって密度表に違いがあっても疑問をもたないでしょうし、従来の著名な和算書の密度表を確かめることもなく踏襲することにも抵抗を感じなくなるでありましょう。
このような状況は、数学を趣味・娯楽の対象とするようになり、職業上の必要で数学を用いるような和算家も少なくなっていったという、一八世紀半ば以降の和算家の体質変化とも大いに関係がありそうに思われます。
そしてまた、これは一八世紀半ば以降には「儒学(江戸の常識)」における物質観が定着していたためと思われます。じつは、儒学における物質観では「密度は物質に固有な定数である」ことが認められていませんでした。したがって、一八世紀以降には、その測定法(浮力の原理)にも関心がもたれなくなっていたものと思われます。
しかし、江戸時代には金の小判や銀板が広く流通していたので、その純度(密度)が何処かで問題にならないはずはありません。特に元禄八年(一六九五年)以降、たび重なる金銀貨の改鋳によってその純度(密度)もかなり変化していたので、金や銀の密度に対する関心は少なからず存在してもよいはずです。
そう考えて文献を探したところ、荻生北渓の『(度量)衡考』(享保一九年・一七三四年)には、「享保一四年(一七二九年)一一月、該部局官をし金を鋳ぜしむ。今尺方寸重秤十三両を得る」(原文は漢文)とあります。
すなわち、幕府の当事者の中には、金の密度が『孫子算経』や『塵劫記』の数値と合わないことを気にとめた人かいて、金座に命じて金の密度を実測させ、百三十匁/立方寸(=一七・五二グラム/立方センチメートル)という結果を得ていたことが分ります。
しかし、正しくは一四三・二匁/立方寸(=一九・三グラム/立方センチメートル)ですから、現代的には必ずしも良い値とはいえませんが、実測の記録としては注目に値します。
ところで、この記述の中の「該部局官」というのは、『徳川実紀』の記述などから判断すると、八代将軍徳川吉宗の暦学顧問であり、京都の銀座役人(銀官)でもあった中根元圭(一六六二年~一七三三年)のことであると思われます。
3、日本において「浮力の原理」を理解した最初の書物
3・1中国から舶来した書物で「浮力の原理」に言及した最初の書物
中国から日本に舶来した書物で「浮力の原理」に言及している最初の書物は、私が知り得た限りでは鄧玉凾述・王徴訳の『遠西奇器図説』(明・天啓七年刊:一六二七年)です。
この鄧玉凾という人は、スイス人のイエズス会士、J・テレンツ(一五七六年~一六三〇年の中国名です。そしてこの書物は、鄧玉凾が一六二一年~一六三〇年の間、明国に滞在して本書を口述し、中国人の弟子の王徴がこれを漢文に翻訳して出版した書物です。
この本の巻一の第四〇款から第四八款が「浮力の原理」に関する項で、特にその第四六款には、「凝体は水に在れば空に在るより軽し。これを占むる所の水の多少を視れば即ちそのこれを減ずる所の軽の多少なり」(原文は漢文)と浮力の原理をはっきりと記載しています。
そしてこの書物は、日本では貞享二年(一六八五年)には「国禁耶蘇書」に指定されているところをみると、それ以前には日本に舶来したと思われます。そして、この本が日本人に「浮力の原理」を知らせることになったと思われますが、この本は幕末に至るまで「江戸の禁書」でしたので、当然のことながらその影響は一七世紀~一八世紀の日本の害物には現れていません。
また、また、銀限の役人であり、幕府の暦学顧問であった中根元圭が享保十八年(一七三三年)に翻訳(訓点)した『(新写)暦算全書』の「度算釈例」の巻にも「浮力の原理」が解説されているのですが、その影響はその後一八世紀の日本の書物に現れていません。何故でしょうか。
「浮力の原理」を一般庶民に知られると貨幣の改鋳が難しくなるからでしょうか。それとも『(新写)暦算全書』は幕府の書庫(紅葉山文庫)の中だけで、しかも幕府御用の特別に許可を得た学者だけしか閲覧することのできない書物でしたので、その知識は一般庶民(知識人)や学者たちには知らされなかったためでしょうか。
じつは、そのこともありますが、儒学が江戸の常識として定着し、その物質観では「密度は物質に固有の定数」であることが認められていませんでしたので、その測定法である「浮力の原理」にも関心が持たれなくなったためと思われます。
そして、じつは日本の書物で「浮力の原理」を用いての比重測定をおこなった記録が記載されている最初の書物は、今までの私の調査の限りでは羽田正見の『貨幣通考』(安政三年:一八五六年)です。そして、これは「蘭学の影響」と思われます。
3・2日本の書物で「浮力の原理」と密度(比重)概念とその術語に言及した最初の書物
日本の書物において「浮力の原理」を取り上げた最初の書物は、青地林宗の『氣海観瀾』(文政一〇年:一八二七年)です。この本には「称水」という項があって、そこに浮力の原理が説明され、その後にこれがアルキメデスの発見に係わるものであることを明らかにしています。
なお、この「称水」ですが、これは「水中にて物の重さを称(はか)る」からきた言葉で、川本幸民の『氣海観瀾広義』(嘉永四年~安政三年:一八五一年~五六年)では「水称法」と呼び変えています。そしてこれが「アルキメデス」の原理と呼ばれるようになったのは、リッテル述・市川盛三郎の『理化日記』(明治三年~五年:―八七〇年から七二年)に「アルキミジースの條理」とあるのが最初です。
ところで、密度・比重の概念は「浮力の原理」と密接な関係にありますが、これは「浮力の原理」に先だって中国や日本でも明確に意識化されていたことは、前に紹介したように中国の『孫子算経』(三世紀頃)や『算法統宗』(明・一五九二年)およびそれを引いた吉田光由の『塵劫記』にも「諸物軽重の事」と題して、一立方寸当たりの重さが記載されていることでも埋解できます。しかし、そこには密度や比重に当たる術語は見当たりませんでした。
ところが、鄧玉凾述・王徴訳の『遠西奇器図説』(明・一六二七年)には「本重」という術後が出てきます。この「本重」という術語は、日本では志筑忠雄の『暦象新書』中編(寛政一二年:一八〇〇年)に引き継がれて以降、多くの物理書がこれを継承することとなりました。
すなわち「本重」という術後は、青地林宗の『氣海観瀾』(一八二七年)には出てきませんが、川本幸民の『氣海観瀾広義』(一八五一年~五六年)や広瀬元恭の『理学提要』(安政三年:一八五六年)には出てきます。そして、明治初年の『理化日記』(一八七〇年~七二年)や『物理階梯』(一八七二年)を始め、多くの物理書はこれを継承することとなりました。
なお「比重」の語の初出は、ハラタマ述・三崎嘯輔の『理化新説』(明治二年:一八六九年)ですが、「密度」という語は「物理学訳語会」で採用されたのが初出です。それ以前には『(牙氏)初学須知』(明治八年~九年:一八七五年~七六年)に「実積の度」とあり、飯盛挺造の『物理学』(明治―二年~一三年:一八七九年~八〇年)に「疎密の度」という訳語はありますが、「密度」という用語を採用している書物は、今のとろ明治一六年~一八年(一八八三年~一八八五年)に開催された「物理学訳語会」より以前には見当たりません。
じつは日本では、西欧近代科学の受容に際して、一つの術語に対する訳語が多くの蘭学者や洋学者たちによってたくさん出現しましたので、その中のどれが適切な訳語であるかを決めるため、明治一六年~二〇年(一八八三年~一八八七年)頃に、分野ごとに各種の「訳語会」が開催されました。
そして、その一環として開催された「物理学訳語会」の明治一六年(一八八三年)九月―二日に開催された「第五回物理学訳語会」において、Densityの訳語に「密度」が採用されました。「疎密の度合」これは原子論的な語意の「適切な訳語」であり、当時の「訳語会」のメンバーの見識を思わせます。
2020-06-11-3-the-principle-of-buoyancy-and-the-concept-of-density-and-specific-gravity-in-the-edo-period-by-kunimitu-nakamura-
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