メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏 The Metric System and Aikitsu Tanakadate, Munenori Takanose, and Kikuji Seki 男は「学校は、物を教えていただくところで、就職のお世話までかけるのはもってのほか、私は卒業の栄冠だけで結構です。私自身でなんとかします」と、一人だけ就職の斡旋を断り、履歴書を提出しなかった。 メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏 |
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計量計測のエッセー |
メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏 ヤブサメ もしくは ウグイス 日本の野鳥。 (タイトル) メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏 (本文) 明治7年(1874年)5月12日に生まれた男は10歳をわずかにでたころ、自分が卒業した育英小学校の分校に代用教員として勤務していた。同校の高等科を卒業したのち私塾に通いながらの代用教員であった。当時の育英小学校は、尋常科4年、高等科2年で、生徒数は120人ほどであり、この男は高等科を卒業する。この間ずっと一番の成績であった。10歳をわずかにでた幼い可愛い先生であったから生徒からは「こんまい先生」と呼ばれていた。「こんまい先生」は代用教員を四、五年やったのち、叔父を頼って東京にでる。 男こと「こんまい先生」は山口県阿武名郡那須佐村194番地で、父善平、母チセの次男として生まれた。那須佐村は萩市の隣。家は農業を営むかたわら、醤油、石油、たばこ、の販売をし、二から三人の職人を雇っての農機具の製造販売もしていた。7歳のころ母を失い、継母のウメがやってきた。那須佐村は文武の盛んな土地柄であり、男は厳格な躾(しつけ)のもとに育てられた。このことによって几帳面で礼儀正しく負けず嫌いの性格が形成された。実弟、加藤亀松は「私たち弟妹には、大変優しい兄で、よく面倒を見てくれた」と述懐する。この男が後に度量衡行政に従事し多くの人を育てる。几帳面さがと面倒見のよさが自然に発揮され、さまざまな逸話を残す。 東京の物理学校は明治24年(1891年)9月、度量衡科を設置した。物理学校度量衡科は明治26年(1893年)7月廃止になるまでのわずかな期間であった。この2年の間に68名の卒業生をだした。度量衡科は2学期制で修業年数は1年であった。度量衡科の科目は数学、物理などのほか各国の度量衡制度、測度器論、度量衡論などであった。当時の物理学校は5学期制で修業年数2年半。1891(明治24)年以前は2年であった。 明治の初め政府は司法官僚を法務省法律学校で、大蔵官僚を大蔵省簿記講習所で速成した。メートル法を基本にした度量衡制度を敷いて度量衡行政を実施するために度量衡吏員と度量衡技術者の養成は急務であった。高野瀬宗典は権度課課長のかたわら、夜には物理学校で熱学を教えた。度量衡法の制定にともない権度行政の施行体制の整備が急がれた。権度行政の責任者であった高野瀬宗典は物理学校に2学期からなる修業年限1年の度量衡科の新設を申し入れた。高野瀬宗典は物理学校を創立した同人20余名に加わっており、物理学校校長の寺尾寿は東京帝国大学仏語物理学科の1年先輩。事情を知る寺尾寿は高野瀬宗典の要請に応じた。寺尾寿は日本の長さ標準をつかさどるメートル原器をパリの度量衡局から運んだ人として東京理科大学が記録している。高野瀬宗典と寺尾寿は日本へのメートル法導入と計量制度を確立するために同志として結ばれていた。このころ物理学校の卒業期は2月と7月の2回。明治32年(1899年)2月の学校規則改正により中学校、師範学校を卒業したものは無試験で第2学期から入学できた。「こんまい先生」が学んだ物理学校度量衡科の入学規則のことは別にして、代用行員時代も私塾に通って勉学を積んでいたから、東京にでてからもどこかの塾に学んでいたのだろう。 物理学校は明治21年(1888年)12月に小川町に校舎を購入、明治26年7月に度量衡科が廃止された当時は小川町校舎で学校が運営されていた。明治21年7月に物理学校は職工学校受験科設置、明治24年、7月に職工学校受験科を廃止。同年9月に度量衡科が設置された。職工学校とは東京工業大学の前身東京職工学校のこと。職工学校は明治36年(1903年)の専門学校令により理工科系の専門学校となる。理工科系の専門学校は東京高等工業のほか大阪高等工業があった。物理学校の職工学校受験科は東京工業大学の前身東京職工学校への進学のために予備学習機関として設けられていた。 明治時代の中期の上級学校への進学の事情は田中館愛橘、高野瀬宗則、夏目漱石の履歴に詳しい。田中館愛橘は慶應義塾で英語を習い大学予備門に進んだ。高野瀬宗則は彦根藩が推薦した者の学費を国が負担する貢進生という恵まれた立場にあり、開成学校、東京大学仏語物理学科に進んで卒業する。田中館愛橘も官立の英語学校に移って東京大学物理学科に進む。成績が悪い生徒は放校処分となるので肝油を飲みながら必死に勉強したことを中村清二が『田中館愛橘先生』(昭和18年刊 中央公論社)に聞き書きしている。 夏目漱石は「私の経過した学生時代」として予備校の成立学舎を次のように語る。「その頃、私の知っている塾舎には、共立学舎、成立学舎などというのがあった。これ等の塾舎は随分汚いものであったが、授くるところの数学、歴史、地理などいうものは、皆原書を用いていた位であるから、なかなか素養のない者には、非常に骨が折れたものである。私は正則の方を廃してから、暫く、約1年許りも麹町の二松学舎に通って、漢学許り専門に習っていたが、英語の必要―英語を修めなければ静止していられぬという必要が、日一日と迫って来た。そこで前記の成立学舎に入ることにした。この成立学舎と云うのは、駿河台の今の曽我祐準さんの隣に在ったもので、校舎と云うのは、それは随分不潔な、殺風景極まるものであった。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒュウヒュウと吹き曝し、教場へは下駄を履いたまま上がるという風で、教師などは大抵大学生が学費を得るために、内職として勤めているのが多かった」。そのようにして東京大学文学部に進んだ漱石は大学に通うかたわら江東義塾の教師、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師をした。当時は数多くの私塾が神田界隈に集まり大学など上級学校への進学塾となっていた。 時代が下って昭和初期の東京における理工科系の学校は大学では早稲田大学理工学部、日本大学工学部、専門学校では東京物理学校が1校あるのみであった。明治24年(1891年)9月から明治26年(1893年)7月まで設置されていた物理学校度量衡科の社会での位置がこれらの事情によって読み取れる。 当時の日本は度量衡法が制定されたものの度量衡機器を検定する者、度量衡器を製作する者が足りなかった。物理学校に度量衡科を設置してこれらの人材を養成しようとした。この時代の日本は国家が手ほどきして度量衡器をはじめ各種の計測器や科学機器の製造をした。物理学校度量衡科の修了者にこの役目を担わせようとした。時が移り、那須佐村から姿を消した「こんまい先生」は東京の物理学校度量衡科の生徒として立ち現れる。「こんまい先生」は明治26年(1893年)2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業する。卒業者には物理学校が職の斡旋をした。学校幹部の須藤某氏は卒業する全員に「就職斡旋の必要上履歴書を提出するように」と申し渡した。「こんまい先生」の性分がこれを拒否させた。「学校は、物を教えていただくところで、就職のお世話までかけるのはもってのほか、私は卒業の栄冠だけで結構です。私自身でなんとかします」と、一人だけ就職の斡旋を断り、履歴書を提出しなかった。 「こんまい先生」はこれで十分と幾つかの府県庁に自ら作成した「就職申込書」を送り自信満々好機到来を待った。大阪府、島根県からは「本書受理すべき限りに非ず」の付箋付き返送があり、他からは反応がなかった。仕方なしに大阪の米屋に奉公して官職への就職運動に体当たりすると、明治26年(1893年)12月10日に兵庫県雇として採用された。兵庫県内務部第二課で当時の度量衡主任松尾磯四郎のもとで勤務し始めた。 明治26年、兵庫県雇として行政官への第一歩をふみだした男「こんまい先生」は、翌明治27年(1894年)2月には大阪府に転じ、ついで明治28年(1895年)9月には早くも富山県度量衡主任技手に抜擢されている。明治29年(1896年)4月6日、富山県からふたたび兵庫県に移り、度量衡主任技手に任命される。この年から中央度量衡器検定所大阪支所長を兼務する。兼務期間は兵庫県から大阪府に転ずるまでの11年間、さらに大阪府の初代権度課長時代に就任して大正13年に退官するまで18年間つづく。官界生活は通算30余年になる。 高野瀬宗則は、彦根藩「佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石」取りの高野瀬喜介の子である。高野瀬宗則は、父高野瀬喜介は彦根藩御目付け役であったと述べている。150石取りとはどのようなものであったか。幕末の長州藩士、高杉晋作の家禄は150石であった。高杉晋作は長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士高杉小忠太、大組、200石鳥の長男として生まれるという別の記録もある。長州藩士で上士である高杉晋作は禄高200石であり長州藩の富裕層となじられていた。明治初期における武家は生活を築くために就学に力をいれ、学業を積んで職を得ようとした。 山口県阿武名郡那須佐村194番地で生まれ、代用教員時代に「こんまい先生」と呼ばれた男は明治26年(1893年)2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業した。「こんまい先生」は、前田家に使える武家で禄高100石の関勝重の娘と結婚する。このときに宮内の姓を関の姓に移し、関菊治とした。関菊治の妻の親の禄高100石、高野瀬宗則の禄高150石、高杉晋作の禄高200石を並べてみた。田中館愛橘は南部藩福岡における兵法師範の子孫であった。 度量衡法公布は明治24年(1891年)3月、施行は明治26年(1893年)1月である。物理学校に度量衡科が設置された時期に重なる。物理学校創立の一人である東京大学仏語物理学科卒業して東京大学で教鞭を執っていたいた高野瀬宗則は明治19年(1886年)に農商務相の権度課長に招聘されて度量衡法の制定に従事した。明治32年には度量衡器の第1回定期検定が実施されるために、高野瀬宗則は物理学校に度量衡科を設置して修了者をこの業務に充てることを考えた。このころの計量行政機関の設置などの動きは次のようであった。明治36年12月23日に農商務省は中央度量衡器検定所を設置(勅令第283号)した。業務開始は明治37年1月1日からで、東京都京橋区木挽町の農商務省内に建設された。同時に中央度量衡器検定所大阪支所が大阪市西区江の子島の大阪府庁構内に設置された。それぞれ所長には農商務省技師の橘川司亮が任命された。 橘川司亮は明治6年(1873年)現在の宮城県仙台市に宮城縣士族として生まれる。父は第一回仙台市議会議員橘川鋿。明治34年(1901年) 東京帝国大学理科大学(現東京大学理学部物理学科)で度量衡を田中館愛橘に学び卒業。引き続き大学院にて度量衡の研究を続ける。後輩に寺田寅彦がいる。明治36年(1903年)8月17日農商務省のちに商工省に入省。明治37年(1904年)中央度量衡器検定所所長(のちに、勅任待遇)を兼任。明治40年(1907年)パリ国際度量衡総会(第4回)に日本政府代表として田中館愛橘とともに出席した。 明治42年には中央度量衡器検定所福岡支所が開設された。大正2年6月13日に農商務省官制が改正されて商工局権度課が廃止され、中央度量衡器検定所は中央度量衡検定所に名称変更し行政事務をも担当することになった。農商務省中央度量衡器検定所が明治36年(1903年)12月23日に設置されると度量衡講習が開始された。物理学校度量衡科が廃止されたのが明治26年(1893年)7月であるから10年ぶりに度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべき者たちの養成が再開した。 高野瀬宗則は物理学校の創設者の一人であった。高野瀬宗則は田中館愛橘とともにパリで開かれた国際度量衡協会の会議に出席した。田中館愛橘は日本人初の国際度量衡委員である。物理学校の卒業式に何時もは顔をだしていた田中館愛橘は、ときに挨拶代わりにラジウムの実験をしてみせた。高野瀬宗則は日本度量衡協会副会長として日本のメートル法推進にかかわる。田中館愛橘は日本度量衡協会の役員として名を連ね、この間に国際度量衡委員として活躍した。関菊治は日本のメートル法推進は日本の産業振興をなすものと命を賭(と)して打ち込んだ。明治29年(1896年)4月6日、兵庫県度量衡主任技手に任命され、この年から中央度量衡器検定所大阪支所長を兼務する。大正2年(1913年)6月13日、同所は中央度量衡検定所に名称変更し行政事務をも担行政事務をも担当する。「こんまい先生」こと関菊治は中央度量衡器検定所大阪支所長として度量衡行政に手腕を発揮した。 高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治は度量衡法制定当初に相まみえ、その後三者はそれぞれの立場から日本の度量衡行政に大きな働きをした。田中館愛橘の子弟教育は名高い。関菊治の役所における働きぶりと度量衡行政にかかる官吏養成の手腕は秀でていた。高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治の活躍は本人の資質とともに教育がなさしめたものである。 [余禄] (余禄 その-1-) 高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖と推定される高野瀬秀隆) 高野瀬秀隆は六角義賢に従っていた。高野瀬秀隆は現在の彦根市肥田町に肥田城を築いていた。この城を拠点に六角義賢に敵対する浅井長政との戦いの最前線にあったのが肥田城である。六角義賢と浅井長政の力はときどきで変動した。味方に付くものが増えれば強くなり、減れば弱くなる。どちらに付くかは周囲の勢力の動きを含めた様々な要因による。 肥田城高野瀬秀隆は六角義賢の側から浅井長政の側に移る。高野瀬秀隆を討たなけれた勢力の挽回ができないから六角義賢は肥田城を攻める。取った方法は肥田城を水没させる水攻めであった。肥田城は城下町を有する新しい形式の城であった。守りの堅固さを美濃国主の斎藤義龍が褒めた書状が残されている。肥田城の北は宇曽川があり、南には愛知川がある。この二つの川を天然の堀としてな防御は堅固であった。平野部につくられた平城が肥田城である。 水攻めのことを少しまとめてみよう。中国では春秋時代に「晋陽の戦い」で水攻めが行われた、後漢末期に曹操は水攻めの戦法を採っている。日本最初の水攻めは文明15年(1483年)の若江城水攻めである。六角軍による肥田城水攻めは永禄2年(1559)4月3日(旧暦)である。名高いと羽柴秀吉による備中高松城水攻めは天正10年(1582年)である。秀吉にはほかにも紀州太田城と竹ヶ鼻城)の水攻めがある。秀吉の命によって石田三成による忍城を水攻めをした。 水攻めは費用が掛かる。備中高松城水攻めに要した費用は「安土城を2つ築城してもまだお釣りが出るくらい」と語られる。話半分だとしても費用を要する。秀吉による備中高松城水攻めのための土塁は、底の幅12間(23mほど)、上部の幅6間(11mほど)、高さ2丈余(6mほど)、長さ30余町(3.3㎞ほど)。これに要した費用は70万貫文(1千億円ほど)だという。 六角軍は、肥田城から距離にして200mの宇曽川と1㎞ほどの愛知川の水を肥田城に流し込む作戦を取った。永禄2年(1559)4月3日(旧暦)のことである。水かさが増しているなか5月28日(旧暦)に降った大雨は溜池の役目をしていた堤を決壊させた。これによって水攻めは失敗する。切れた堤があったところが廿八という地名として残っている。水攻めは肥田城を幅23m、長さ6.3㎞の土塁(堤防)を築いて囲むものであった。堤防の高さを示す資料がないのが残念なことである。肥田城の土塁は築城のときに城の警護のために築かれていたという見方があるが定かではない。 水攻めに失敗した六角義賢はなおも肥田城を攻める。肥田城をどちらが獲るかは決定的であった。兵の数では六角義賢が浅井長政を上回っていた。浅井長政は野良田表の合戦で六角義賢を打ち破る。この勝利によって浅井長政の名が戦国の世に広がる。同じ年、織田信長は桶狭間で今川義元を討っている。浅井長政に織田信長の妹のお市が嫁いだのは後のことである。 勢力を広げ、また戦に勝てばのし上がる戦国の世における高野瀬秀隆と肥田城そして高野瀬一族のことである。 高野瀬氏の始まりは近江守護佐々木氏の分家が高野瀬村を与えられて住んだ。また三上山の大ムカデ退治や平将門の乱を平定した藤原秀郷の子孫が源平合戦のときに源頼朝についていて高野瀬に住むようになった。これら二つが伝えれれている。もう一つ鎌倉幕府が終焉を迎えるときに六波羅探題であった北条仲時を高野瀬隆重の働きで番場宿で自害させたという伝えがある高野瀬氏は鎌倉時代末期までに高野瀬村に落ち着いて、この地名を氏とし築城した。近くには高野瀬氏が信仰していた天稚彦神社がある。 古くから高野瀬村に土着した高野瀬一族は勢力を広げる。14世紀後半から15世紀に佐々木六角氏の命で肥田城を築城したとされている。鎌倉時代から戦国時代まで高野瀬村周辺を治めていたころに、明(中国)との貿易をしていたようだ。城跡から明銭が大量に出土している。紙の生産や瓜(うり)の取引も行っていた。佐々木(六角)氏をつうじて朝廷に瓜(うり)が献上されていた。東山道(中山道)には下枝の関をつくっていて、関銭五十文を徴収していた。通行税といったもので500円ほどの金額だ。 高野瀬一族は応仁元年(1467)から始まった応仁の乱に巻き込まれる 江州の地では北の京極氏(東軍)と南の六角氏(西軍)に分かれて戦いが行われる。両軍の勢力の境目は現在の彦根市であった。高野瀬一族はこの戦乱の渦中にあって六角氏の側にあった。佐々木一族が近江守護職の名を冠した時代のことである。 応仁の乱から戦国時代に移行する。江州の地にあっては勢力争いがつづく。西軍に属していた六角氏は、都で権力を握った東軍の細川氏との戦い明け暮れる。浅井久政は京極氏を打ち破って湖北の実権を握る。六角義賢は浅井久政と江州の覇権を争う。高野瀬一族の高野瀬備前守は六角義賢に属して戦うが天文22年(1553)の討ち死にする。高野瀬備前守の後を継いで肥田城主になったのが高野瀬秀隆である。高野瀬秀隆は先代の仇である浅井氏の側に付く。浅井有利の状況ができていたからだろうか。 江州の地の覇権を浅井氏と六角氏が争うようになった。高野瀬秀隆は浅井長政に従うようになった。浅井長政が織田信長に討たれたあとには織田に従う。 肥田城主である高野瀬秀の子孫は近江の地に生き残っていた。江州彦根藩主井伊家の家臣「役名 佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石」がそれである。このように推察される。 (余禄 その-2-) 佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石 肥田村城主高野瀬備前守 高野瀬喜介は此末なり 役名 佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石 加番1人、同所門番足軽10人、同所下番2人が附属と「近世大名家臣団の官僚制と軍制-彦根井伊家の場合 佐和口門番頭 高野瀬喜介-母利美和」にある。また往古當國の國司三拾六人の名前一建部山城主建部左京進一下之郷城主多賀豐後守一小脇村城主三井石見守一肥田村城主高野瀬備前守〈高野瀬喜介は此末なり〉とある。 高野瀬一族は浅井氏と六角氏の抗争がつづくなか小領主なりに乱世を生き抜く。六角氏の支配下にあった高野瀬一族は戦国の乱世に巻き込まれる。尾張および美濃を支配下においた上洛の軍をおこした信長を、六角氏は足利義昭を奉じ迎撃したが敗戦、再起をはかるが没落の運命となった。激変のなか高野瀬氏は浅井氏ついで織田氏に従った。信長の部将柴田勝家が越前の一向一揆鎮圧のために天正二年(1574年)に出陣したなかに高野瀬秀隆・隆景父子が含まれていた。高野瀬秀隆・隆景父子は越前安居の戦いでともに討死する。鎌倉以来の高野瀬氏嫡流はここで断絶する。高野瀬秀隆・隆景一族直系と彦根藩「佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石」の高野瀬喜介を結び付ける文書は見当たらない。彦根藩家臣団の高野瀬姓は江戸末期においては高野瀬喜介ただ一人である。 高野瀬宗則は父は彦根藩御目付け役高野瀬喜介と家系を語る 力のある者を使う。武芸と軍学と漢籍を通じての武士の倫理と行政手腕を持つものは多くはない。彦根藩がある江州の豪族として名をはせた高野瀬一族はその後もこの地に根を張っていたということであろう。肥田城主の、高野瀬秀隆と高野瀬隆景父子が越前安居の戦いで討死しても系列はもとより地元における支配が消え去るものではない。 高野瀬喜介の子息は東京大学仏語物理学科を明治13年に卒業して駒場農学校(駒場農学校は後に東京大学農科大学となる。現在の東京大学教養学部の所在地)で教鞭をとり、後に指名されて農商務省技師として初代権度課長として度量衡法の制定と計量制度の確立に大きな役割を果たしたのが高野瀬宗則(たかのせ・むねのり)であ。高野瀬宗則は父は彦根藩御目付け役高野瀬喜介と家系を語っている。 高野瀬喜介は農商務省権度課課長高野瀬宗則の父である。『度量衡 第42号(大正4、5)』に「高野瀬宗則は嘉永5年(1852)年9月江州彦根藩邸生まる。父喜介は藩の御目付け役なり」と『メートル法沿革史』が引用している。「佐和口門番頭 高野瀬喜介」とある「近世大名家臣団の官僚制と軍制」とは一致しない。役職に変化があるからだ。 井伊大老の襲撃を国元の彦根藩に急報する使者となった彦根藩目付役の高野瀬喜介 喜介は高野瀬宗則の父である 安政7年3月3日(1860年3月24日)に彦根藩主で大老井伊直弼は桜田門で水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名によって殺害される。桜田門外の変である。井伊直弼の死は幕閣には秘された。彦根への急報の使者となったのは高野瀬喜介である。喜介は高野瀬宗則の父である。その日に早駕籠にのって西に向かい3月7日夜半に彦根に着いた。井伊直弼が首を切られたことは多くの者が見て知っている。近江商人の情報網は高野瀬喜介の彦根到着より半日早かったと伝えられている。飛脚に文を託して走らせれば駕籠より早い。近江商人の情報伝達の速さを物語る逸話であるが、これは駅伝の仕組みでもある。 水戸の脱藩浪士の襲撃で首を討ちとられることは武士には許されない横死である。横死があればお家取り潰しになる。これをまぬかれなければならない。江戸の彦根藩邸は直弼の首を取り返して身体に縫い付ける。そして公儀の使者の見舞いを二度受ける。高野瀬喜介の急報を受けて彦根藩は総力を挙げて策を練り動く。結果、お家取り潰しをまぬかれる。大老職を辞職する直弼の願いが受け入れられる。そして直弼の次子の愛麿(直憲)が遺領を継ぐ。形式を整えて幕閣を説き伏せることを含めて様々に手が尽くされた。彦根への急報の使者となった高野瀬喜介の役割は大きかった。高野瀬喜介を乗せた籠が箱根を越えるのを逃走する襲撃者がみていたというのは出来すぎた話に聞こえるが様子を描写するには恰好である。 3月3日はご節句の一つの上巳の節句である。在府の諸大名は正装して登城する。午前10時には大太鼓を合図に節句の式を執り行う。登城する大名の行列を見物することを町人と侍は楽しみにしている。酒と団子を売る葦簀(よしず)張りの店がでた。 公衆の面前で井伊直弼は首をとられた。井伊直弼の首級をさげて逃亡する薩摩藩士有村治左衛門は力尽きて遠藤但馬の守の門前で切腹する。遠藤家は事態を幕府に届け出る。て井伊直弼の首級は遠藤家で保管する。井伊家は家は首は供回りの者であると言い張って引き渡しを求める。遠藤家は井伊直弼の首級ならば預かっていると応じない。遠藤家の地位ある者の配慮によって井伊直弼の首級は井伊家の者に渡された。 襲撃を受けたその日に井伊家は井伊直弼の名で狼藉者を取り押さえるために当主が負傷したと、幕閣に届け出る。将軍は見舞いの者を3月4日と7日の二度差し向ける。井伊直弼は3月30日に家老職を免じられ、4月28日には直弼の次子の愛麿(直憲)に遺領を継ぐことになった。 井伊直弼の首を打ち取った薩摩藩士有村治左衛門は声高らかに名乗り上げる。登城の儀式の見物者の前でなされたことである。大名屋敷の内側からも事態は見られていた。拳銃の音がし、切り合いの声が上がれば当然、塀の外を見る。井伊直弼襲撃の噂は流布されていた。不穏な動きは井伊藩邸に何度もの通報されていた。直弼は無警戒の態度をとっていた。 江戸の彦根藩邸から桜田門までは600メートルほどである。有村治左衛門が首をかざすころには彦根藩邸に急を告げる者が駆け込んだ。藩邸から飛び出した彦根藩の後詰めの者が首のない井伊直弼の胴体を籠に乗せて引き上げた。雪に散らばった血泥は四斗樽に詰めて持ち帰った。斬死した7名ほどの井伊藩士の死体も持ち帰った。桜田門外のこの事件はなかったように装われた。 (余禄 その-3-) 高野瀬宗則の経歴と度量衡法制定への働き 高野瀬宗則(たかのせ むねのり)の経歴はつぎのようなことである。高野瀬宗則は、1852年11月3日(嘉永5年9月22日)から1915年(大正4年))。彦根藩士の子として生まれた。士族が対象の官立の教育機関である貢進生に1871年(明治4年)であったが、貢進生制度が廃止になったために高野瀬宗則は私費で開成学校に入学する。そして洋学系の大学南校に進む。大学東校は医学系である。 大学南校は「開成学校」(のち東京開成学校)、大学東校東校は「東京医学校」と改称され、1877年(明治10年)10月に発足する(旧)東京大学(東京帝国大学の前身)と変わっていく。1879年(明治12年)7月に 東京大学仏語物理学科第二期卒業。そして駒場農学校で教鞭をとる。駒場農学校は後に東京大学農科大学となる。1881年(明治14年)には東京物理学講習所の創立の中心人物の一人であった。1886年(明治19年)に喚ばれて農商務省工務局権度課長となる。1891年(明治24年)の度量衡法制定に最重要人物としてかかわる。 (余禄 その-4-) 日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘 田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族の子弟は作人館で和漢ほかを教わった。作人館は盛岡中学の元になった。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでない。高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に愛橘の教育のこともあって父子ともに東京へ移る。愛橘は慶應義塾で英語を学び、つづいて官立東京開成学校予科に入学、学制の変化に翻弄されるなか、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に助教授になり、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事し、ドイツのベルリン大学で学んで帰国。帰国してすぐに東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期であった時代に田中館愛橘教授の薫陶があって多くの人材が世に羽ばたいた。 田中舘愛橘の田中舘家は先祖代々兵学を修め日本伝権征軍師 南部藩福岡の副代官の地位にあった 水攻めの難を偶然に切り抜けた高野瀬秀隆の肥田城かいわいには高野瀬の名を残す地域がある。江戸期は大名として各地に配された武家は地元の豪族を家臣とした。田中館愛橘の祖先は陸奥の国二戸の浄法寺の城主である浄法寺修理の家臣であった。天将19年の九戸の乱で福岡城主九戸政実が敗死したときに浄法寺城も落ちる。田中舘一族は羽後の国鹿角郡花輪地方に落ち着く。九戸政実が敗死すると南部信直が三戸から福岡城に入る。慶長19年に信直の長子利直は信直が死んだ後は、福岡に城代を置きこれを代官所とした。そののち田中舘家は盛岡藩主南部氏に召されて福岡に居住するようになる。田中舘家は先祖代々兵学を修め、日本伝権征軍師の称号をもっている。代官が留守のときには田中舘家が代理した。副代官の地位にあった。 田中舘家の先代は小笠原信濃守長清であり、義経かその兵を追って折詰岳の麓で戦い敗走させる。それで信濃の守はその後の警備を仰せつかる。田中舘家にはそのような書き物が伝えられている。この一族十人ほどが一緒に南部家に召される。小笠原、小向、大森、太田、安ヶ平、夏井、太田代、田中舘などの姓を使った。 召し抱えられた南部家には数年間浪人していたと書いて渡している。浪人していたときには糊口をしのぐために椀引きをしたということで、その椀が伝えら、これを家の宝物にしている。寛文九年に新田を切り開き知行三十四石三斗五合を受けたと書き物として残っている。浄法寺在大清水村に五十石を領していた。元禄八年に一部を分地して鹿角郡長者久保村に三十石を領した。 田中舘一族のことを例に引いたが大名は地元の武家を家臣団として雇った 南部家城代である福岡の代官所の副代官の地位にあったのが田中館愛橘の家である。日本伝権征軍師の称号は田中舘愛橘が理学士になった当時の学士に例えている。二ノ戸郡内の士分の者は75人であった。これらの子弟に漢籍、武芸および兵学を教える任にあった。士分の子弟は皆、15歳になれば兵役に就く。これに与力、同心を加えて野外で軍備の訓練をする。このことは「御備え」といった。田中館家はその軍師であった。 (余禄 その-5-) 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ) 政3年9月18日(1856年10月16日)の生れ 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に、一家が東京へ移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に教授、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事したのち、帰国して東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期に人を育てた功績は大きい。 田中舘愛橘の年譜 安政3年(1856)年陸奥国二戸郡福岡町に誕生。文久1年(1861年)5歳、叔父小保内定身に和漢の書を授けられる。元治1年(1864年)8歳、下斗米軍七に就き武芸を、欠端武敏に就き書を学ぶ。慶応1年(1865年)9歳、藩校令斉場に入り文武の学を修める。明治2年(1869年)13歳、盛岡に出て照井全都に就き経書を学ぶ。明治3年(1870年)14歳、盛岡藩校修文所に入学、和漢の学を修める。明治4年(1871年)15歳、修文所を退き、太田代恒徳の塾に入り漢学を学ぶ。 明治5年(1872年)7月、16歳、一家、東京に移る。明治5年(1872年)9月、16歳、慶應義塾に入り英語を学ぶ。明治6年(1873年11月、17歳、慶應義塾退学、フェントン夫人に就き英語を学ぶ。明治7年(1874年)3月、18歳、外国語学校の一部たる英語学校に入学。明治9年(1876年)9月、20歳、東京開成学校に進入、予科3級に編入。明治10年(1877年)4月、21歳、東京開成学校予科廃止され、東京大学予備門と改称。 明治11年(1878年)9月、22歳、東京大学理学部入学。明治11年(1878年)10月、22歳、米国より物理学教師メンデンホール、英国より機械工学教師ユーイング来日。明治13年(1880年)2月、24歳、5月までメンデンホール指導の下に東京の重力測定。明治13年(1880年)8月、24歳、富士山の重力測定。明治14年(1881年6月、25歳、メンデンホール解任帰国、ユーイング物理学の授業担任。明治14年(1881年)8月、25歳、札幌の重力測定。明治15年(1882年)7月26歳、東京大学理学部卒業、準助教授に任ぜられる。 明治15年(1882年)8月、26歳、理学部学生を率いて、鹿児島、沖縄の重力測定。明治16年(1883年)6月、27歳、ユーイング解任帰国。明治16年(1883年)7月、27歳、帰省。明治16年(1883年)9月27歳、英国より物理学教師ノット来日。明治16年(1883年)12月、27歳、父君郷里において死去。東京大学助教授に任ぜられる。 明治17年(1884年)8月、28歳、小笠原島の重力測定。明治18年(1885年)9月、29歳、理学部校舎神田一ツ橋より本郷本富士町に移籍する。明治19年(1886年)3月、30歳、東京大学廃止され、帝国大学となる。明治19年(1886年)5月、30歳、Romazi Sinsei発行。明治20年(1887年)6月から11月まで、31歳、日本全域の地磁気測定に当たり、奔放南部および朝鮮南部を受け持つ。明治21年(1888年)1月、32歳、依願免本官英国グラスゴー大学入学。明治23年(1890年)4月、34歳、ベルリン大学へ移る。明治24年(1891)6月、35歳、ノット解任帰国。明治24年(1891年)7月、35歳、帰朝。帝国大学理科大学教授に任ぜられる。明治24年(1891年)8月、35歳、理学博士の学位授与される。 田中館愛橘の母方の先祖 相馬大作の行動と吉田松陰の受け止め方 産業革命を経て欧米の生産力は跳ね上がった。工業の生産力は日本の遠く及ばないところのなり、英、仏、露、米が力づくで通商を求めてるようになった。ロシアが北辺の地、蝦夷に足を踏み入れたらどうなるのかということも憂国の士には切実なことであった。 江戸末期を飛び越えて明治初年過ぎの北海道はどのようであったか。明治10年(1877年)に札幌農学校が開設されたころの北海道の人口は10万人でそれが道南にかたまっていた。札幌の人口は3千人である。北海道の人口は2015年国勢調査では538万3579人である。10年の前回調査(確報)より2.2%減った。1995年が最高で569万2321人である。札幌の人口は現在は200万人である(平成29年12月1日現在944,184世帯1,963,570人である)。まばらにしか人が居住しない北海道にロシアが戦略をもって乗り込んでくるようなことになると日本の独立が怪しくなる。 田中舘愛橘の叔父であり盛岡藩二戸の地にあって北辺の防御を徒手ででも実行する気構えで修練所をつくっていたのが下斗米秀之進である。この思いは残念なことに弘前藩主津軽寧親の北方警備へのだらしない態度を正すことに向けられる。津軽寧親を襲撃して命を奪う行動にでるが内輪の者の通報によって未遂となる。津軽家が南部家の出でありながら不忠義であることと重ね合わせた行動であった。 相馬大作は刑死するが津軽寧親は隠居の処分も同時に下される。下斗米秀之進は江戸では相馬大作と名のっていたため相馬大作事件とも南部騒動とも呼ばれる。吉田松陰は下斗米秀之進の行動に関心をもっていた。東北の視察にでかけて相馬大作事件の真相を当地の人々に聴き「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、両家の和親について自覚を促すことにあった」との理解に至った。 松陰は安政の大獄によって斬首刑にされる。米国との開国条約締結を孝明天皇に説明のため上洛する老中首座の間部詮勝をつかまえて、その破棄と攘夷を迫ってそれが聞き入れられなければ殺すという行動にでる。下斗米秀之進と同じように未遂に帰す。天才吉田松陰をしてそこまで突き動かした江戸末期の日本の状態がある。 井伊直弼によって安政の大獄がなされた。直弼の死を彦根に伝える急報の使者となったのが高野瀬宗則の父である。田中舘愛橘の祖祖父の妻は姉は相馬大作こと下斗米秀之進の姉である。相馬大作、吉田松陰、井伊直弼とその家臣で高野瀬宗則の父がおりなす綾(あや)は幕末と明治期を紐解(ひもと)くことにつながる。 (余禄 その-6-) 部藩士の子 田中舘愛橘、原敬、新渡戸稲造、北海道帝国大学初代学長佐藤昌介 札幌農学校一期生の佐藤昌介は南部藩士の子であり二期生の新渡戸稲造も同じである。それぞれ東京にでて田中舘愛橘とともに東大予備門の開成学校に通っていたが札幌農学校の設立にあわせてそちらに移っている。『武士道』でも知られる新渡戸稲造であり、北海道帝国大学初代学長の佐藤昌介である。ここに南部藩士の子の原敬が盛岡の藩校時代からの勉学仲間として加わっていた。 東京大学の学制の変化は目まぐるしい。一つに工部大学校があり、大学南校と大学東校があった。大学南校は明治5年第一大学区第一版中学校となり、明治6年4月10日に開成学校と改称される。そのなかから11月4日に外国語学校が独立した。その後にまた変遷する。 (余禄 その-7-) こんまい先生こと関菊治の物理学校度量衡科当時 明治28年の高等教育機関在学者数は0.3% 「こんまい先生」こと関菊治は明治26年(1893年)2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業する。東京の物理学校は明治24年(1891年)9月、度量衡科を設置、物理学校度量衡科は明治26年(1893年)7月廃止。この2年。当時の学び舎は小川町校舎であった。 高等教育就学者の統計がでてくるのは明治28年(1895年)からである。明治28年の当該年齢に占める高等教育機関への在学者数は0.3%であった。明治38年(1905年)は0.9%。大正4年(1915年)は1%。大正14年(1925年)は2.5%。昭和10年(1935年)は3.0%。昭和25年(1950年)は6.2%。昭和35年(1960年)は10.2%。昭和36年(1961年)は10.2%。高等教育機関の数は明治28年(1895年)63校、昭和37年(1962年)は565校。昭和37年ころは高等教育機関の60%を私立が占めていた。 明治28年の全生産人口に占める高等教育機関への在学者数は0.1%であった。同じく中等教育機関は0.2%、初等教育機関は15.6%、不就学者は84.1%。昭和10年(1935年)は上に同じように1.6%、9.2%、82.1%、7.1%、。以上は文部省発表の資料による。文部省は学校教育とりわけ高等教育の就学率の生産性向上に寄与することを説くことを企図してこの資料を作成している。 富国強兵と国民の初等教育機関機関への就学 富国強兵のために国民の初等教育機関機関への就学が強く推し進められたことにより明治28年の全生産人口に占める不就学率84.1%が、昭和10年(1935年)には7.1%にまで減っている。規律と読み書きソロバンの初歩ができていなければ兵士として鍛え上げることができないからだ。大正14年(1925年)には20.0%まで不就学率が減っている。国を挙げて初等教育の普及につとめた。 (余禄 その-8-) 開校当初物理学校の卒業生の数 明治18年~25年7月までの卒業生の数。数字は東京理科大学50年小史による。 明治18年 1名 明治19年 1名 明治20年7月 6名 明治21年7月 4名 明治22年2月 9名 明治22年7月 11名 明治23年2月 9名 明治23年7月 8名 明治24年2月 10名 明治24年7月 19名 明治25年2月 10名 明治25年7月 22名 第1学期在籍者が一度も落第せずに順調に進級したとして2年後、第4学期を終了して滞りなく卒業した数は次のとおり 明治22年2月明治、9月それぞれの第1学期在籍者が一度も落第せずに順調に進級したとして2年後、第4学期を終了して滞りなく卒業した数は次のとおり。各学期の生徒数は、落第した生徒数を含むから下から進級した生徒数はさらに少ない。 明治22年2月1学期309名 明治22年9月2学期49名 明治23年2月3学期30名 明治23年9月4学期14名 明治24年2月に卒業したものは10名、明治22年2月に入学、明治24年2月に滞ることな卒業した生徒は3.2パーセントに過ぎない。 明治22年9月1学期311名 明治23年2月2学期67名 明治23年9月3学期31名 明治24年2月4学期21名 (余禄 その-9-) 「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と明治39年6月には「引続キ3回落第シタル者ハ除名ス」 明治24年7月に卒業したものは19名、明治22年9月に入学、滞ることなく明治24年7月に卒業した者は6パーセンに過ぎない。卒業生の中には何回か落第を繰り返し卒業した者もいる。落第なしに物理学校を卒業できる者は何人もいななかった。 明治20年12月、規則改正に際し落第について「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と明治39年6月には「引続キ3回落第シタル者ハ除名ス」と明記された。しかし、実際には大分、事情が考慮されていたようである。しかし、物理学校を卒業した者の数より、その数をはるかに勝る数の生徒が学校を離れていった。 物理学校卒業者は明治37年春までの369名中、中学校長、教諭、教員、186名、師範学校教諭、教員17名 社会で厚遇された 物理学校を卒業するのは難しかった。明治23年卒業生4名が高等師範の卒業生に伍して月俸35円~30円で中学校、師範学校へ招聘されている。明治33年~37年頃の公務員と銀行員の初任給は、東京市内の小学校の教員、警視庁の巡査で10~13円、帝国大学卒の銀行員で35円であったから35円は待遇である。「坊ちゃん」は物理学校を卒業しただけの無資格教員でありながら月給40円で松山へ赴任している。東京物理学校校長中村精男は創立25周年記念式の挨拶で明治20年より明治37年春までの卒業生369名中、中学校長、教諭、教員、186名、師範学校教諭、教員17名と中学教員が半数以上を占めていることを述べている。 (余禄 その-10-) 田中館愛橘の東京における教育は南部藩福岡の屋敷を整理した資金を元にした 明治3年まで大学南校の生徒は貢進生として政府の命令で各藩から推薦された人材である。各藩の藩士の子弟など優れた人物が選定された。貢進生制度は国費によって営まれた。明治3年この制度が決められたとき16歳以上という規定であった。年貢進生は安政2~4年か、それ以前に生まれた者から選ばれた。この制度は1年ほどで廃止された。 明治4年に大学が文部省の所管になると、文部省は貢進生に大学南校から退去を命じ、学校を一時閉鎖、南校と改称して改めて開校した。退去を命じられた大学南校の生徒は4年以降、南校に再度入学しようだ。彦根藩士の子弟の高野瀬宗則が貢進生に選ばれ、制度がなくなったあとは私費によって学校に通い卒業したのはこのような事情による。田中館愛橘の東京における教育は南部藩福岡の屋敷を整理した資金を元にしている。旧姓宮内菊治であり、結婚して改名した関菊治は幼い年齢にして小学校教員をしていた身であったが志して上京し物理学校度量衡科を卒業した。旧姓宮内菊治は私費であった。 貢進生たちは、南校でフランス語を学んでいた。明治6年、開成学校から外国語学校が分離、新たにフランス語による諸芸学科が開設されると、それにともなって外国語学校か諸芸学科のどちらかに移った。このころの学校制度の変遷は複雑であるのでここではこれ以上は触れない。 貢進生制度と東京大学仏語物理学科卒業の21名 東京物理学講習所の設立にかかわった東京大学仏語物理学科卒業の21名の卒業生は次のような経歴を持つ人々であった。 櫻井 房記 明治2年開成学校に入学、3年貢進生に選ばれ、同11年12月24日、東京大学仏語物理学科を卒業。 高野瀬宗則 明治4年19歳で貢進生として大学南校に入学、貢進生の制度が廃止された後、私費で再度開成学校に入っている。明治12年、東京大学仏語物理学科を卒業。 本 福隆 貢進生として南校に入学、明治11年12月24日、東京大学仏語物理学科を卒業。 中村 精男 明治4年16歳で松下村塾から東京へ遊学、同12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 寺尾 寿 明治6年19歳で外国語学校・開成学校を経て明治11年、東京大学仏語物理学科を卒業。 保田 棟太 明治3年、大阪開成所に入る。同7年東京開成学校に入学、天文学・諸芸を修め,同13年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 桐山篤三郎 明治13年7月10日、東京大学仏語物理学科を卒業。 信谷 定爾 明治2年開成所に入りフランス語を学ぶ。3年、大学南校の貢進生に選ばれ、普通学と諸芸学を履修する。7年天文学科に移るが、廃止になり再び諸芸に戻る。8年諸芸学科の廃止により、東京大学仏語物理学科に入り、11年12月卒業。三守と同じコースをたどっている。 谷田部梅吉 13歳で貢進生に選ばれて大学南校に入学、明治12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 三守 守 明治5年第一大学区第一中学に入学、天文学、諸芸から同年13年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 難波 正 明治6年、開成学校に入学し、12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 和田 雄治 明治12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。 沢野 忠基 外国語学校でフランス語を学び、、東京大学仏語物理学科に入学、明治13年に卒業。 三輪桓一郎 外務省でフランス人などから仏語を履修、東京開成学校の仏語の学生を経て、東京大学仏語物理学科に編入、明治13年7月卒業。 明治初年、開成校時代の貢進生は幕府の昌平坂学問所時代からの伝統的な思想を持ち続けていた。彼らは諸費用を全て国が負担、各藩あるいは国から選ばれた人材であり、先進的指導者になることを自負しまた期待されていた。学校の名称が東京大学と変わっても学生にはその気風がみなぎり、社会に役立つことを責務と考えていた。 明治11年から13年にわたり東京大学仏語物理学科を卒業した20数名余はわが国の理学の遅れを憂い、これを広く世間に普及し国の発展に役立てることを申し合わせていた。 2023-06-03-the-metric-system-of-aikitsu-tanakadate-and-munenori-takanose-and-kikuji-seki- 計量計測のエッセー 計量管理とは何かを懸命に問うた一人の技術官僚 計量法の皮革面積計の規定そして実働する皮革面積計 数学と物理はできないという自己暗示から抜け出せば計量士国家試験は突破できる メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏 地方公共団体の予算措置義務と指定定期検査機関 都道府県と特定市などの市町村の計量行政実施への責任 日本経済と物価上昇の行方 計測の技術行為と法的計量行為という二つの性質 不都合な事実と不要なことがら 計量器コンサルタント制度とその理解 亜ヒ酸をめぐる中井泉氏鑑定と河合潤氏の分析手法解析による結果の対立 質量の単位㎏と質量発生の科学のお話し 計量法のハカリの指定定期機関制度運用の現状 試験難易度によって自己を評価付けする現代の人々 地球温暖化と花見酒の経済 2022年日本経済の素描 質量の地球での振る舞いかた 質量の起源を探る 質量の起源の究明と質量計測の取回しの実際 数学者と物理学者は数式によって実現されることを事実だと考えている 重力とは 重力の単位 地球の重力値 重力の作用 池袋事故におけるハイブリット車暴走の原因は誤操作によるか機械故障か 新型コロナウイルス感染症ワクチン 走り、曲がり、止まるという車の機能にはさまざまな技術要素と交通事故 計量行政職員は計量の安全を守る護民官として位置づけられていた カーボンニュートラルという虚構政策 科学研究費に求める成果に振り回される人々 人の言葉の基(もとい)は教養である 人口減少の事情と日本の50年先の状態 2020年日本経済の素描 机と椅子が織りなす快適値としての29cmという科学 新型コロナウイルス感染症COVID-19対応の温度計測機器 文武両道は集団催眠がもたらした言葉だ 日本の次世代経済はのみの市経済か COVID-19に感染したら生命と財産を何とか守ってやる バベルの塔に似た都市集中と林の中の工場との対比 新自由主義批判にも聞こえるトマス・モアのユートピア COVID-19におびえて洞窟に3カ月避難した日本 新型コロナ対応で経済を止める愚挙 下気道感染症で300万人、下痢性疾患で140万人、結核130 万人、これと新型ウイルスを比較する 新型コロナウイルスと肺炎疾患を考える 新型コロナウイルス、現在の感染者・死者数(18日午前2時時点)AFP 2020年3月18日 5:23発信地:パリ 新型コロナウイルス感染症で体温計が市場から消えた (不適切な表現などについては意に反するものですのでご容赦ください) 2020-06-15-japan-frightened-by-covid-19-and-evacuated-to-a-cave-for-3-months- |
計量計測のエッセー GDP数値によるモノサシで経済繁栄をみる危うさ よく働くことを喜びとする 渋沢栄一の論語と算盤 日本の学生の無駄な一年を取り戻す 読み書きソロバンができない大学生 カーボンニュートラルという虚構政策 人の言葉の基(もとい)は教養である 人口減少の事情と日本の50年先の状態 机と椅子が織りなす快適値としての29cmという科学 新型コロナウイルス感染症COVID-19対応の温度計測機器 COVID-19に感染したら生命と財産を何とか守ってやる バベルの塔に似た都市集中と林の中の工場との対比 新自由主義批判にも聞こえるトマス・モアのユートピア COVID-19におびえて洞窟に3カ月避難した日本 新型コロナ対応で経済を止める愚挙 下気道感染症で300万人、下痢性疾患で140万人、結核130 万人、これと新型ウイルスを比較する 新型コロナウイルスへの国と東京都の対応の是非 新型コロナウイルス感染症で体温計が市場から消えた 新型インフルエンザ薬タミフル誤計量と天秤の改善措置 【資料】新型コロナウイルスと肺炎疾患を考える 【資料】新型コロナウイルス、現在の感染者・死者数(18日午前2時時点)AFP 2020年3月18日 5:23発信地:パリ 計測と計量管理の教養こそ計測技術者が身につけるべきこと 計測がねじ曲げられると白が黒になる(白いものを黒くしてしまう社会の掟の怖さ) いつでも使える計量辞書としての国際単位系ページの利用 田中館愛橘の物理普及講演と寺田寅彦の物理学を元にした随筆 適正な計量の実施は国家と地方公共団体が共同して実現すべきもの 富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞 韮崎と須玉に連なる丘の七里岩は八ヶ岳崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ 計量計測のエッセー ( 2018年1月22日から日本計量新報の社説と同じ内容の論説です) 素直でない人は嘘をつく 素直とは正直者のことだ 法人とその構成員の意欲と能力を映し出しているwebサイト 数値や言葉を翻訳変換して診断する 大手情報媒体が低俗化しフェイク情報が充満する 人は他の人を映し鏡として生きる意義を成立されている カメラの撮影枚数にみる技術開発とリチウムイオン電池 地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ) 球速表示160kmは確かか(球速表示160kmは信ずるに値するものなのか) 内需依存型産業社会日本と人口減少社会の在り方 (タイトル) 控えめな計量法が適用されて実現する平和な社会 (サブタイトル)キログラムの単位記号はkgでありKGではない。メートルの単位記号はmでありMではない。 計量の教養こそ身に付けるべき課題だ 0.1%の計量器の検定・検査が世のなかに適正計量を実現をもたらす 地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ) 見えないモノを見えるようにする計測技術 強い欲求をもっているとニーズは自ずと分かるものらしい すべては丈夫な身体と丈夫な心あってこそ 消費は人口減少の度合いで減りGDPも同様に推移する キログラムは新定義を満足させたうえ50 µgから10 µgに精度向上 質量と重量の違い及び質量の単位キログラムの定義変更 規則に照らせば不正でも総合性能としては問題ない事柄 バベルの塔とノアの箱舟の伝説と旧カヤバ工業の免震性能偽装 計量と計測は人の間にどのようにかかわるか 自動ハカリの検定実施は日本の計量制度に大きな転換をもたらす 2018年11月16日開催の国際度量衡総会で質量の単位キログラム(kg)を定義変更 日本人の頭骨の変化を計測値が示す副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた) 優良事業所が適正計量管理事業所の指定を受ける社会的責任 計測の目的と求められる確かを考える 地方計量行政の模範県を躊躇なく真似たい 自動ハカリの指定検定機関制度と行政組織の関わり方 1%の検定で計量の安全を実現している日本の計量制度 自動ハカリの指定定期検査機関の動向を観察する 計測の在り方と計測値の表示をめぐる諸事情 計量協会webサイトから日本の計量行政の未来が見える 光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した 収賄で終身刑になる中国要人と首相をかばい罪に問われる日本の官僚 ウィキペディアによる計量の世界の説明は1割ほど 時代の波と計量器産業の浮き沈み 世界でも範たる状態を築いている日本の計量行政 中国では日本以上の人口減少状態が出現している ハカリの定期検査実施漏れは計量憲法である計量法違反だ 城下町の鍛冶屋が日本の産業の元になった 山口高志投手の球がベース通過時点で一番速かった 福島産の農産物と海産物と放射線測定器 通信と自己診断機能は計量器の法制度を変える 計れと人を管理したQC運動に対比される品質工学 モノの数量表現と性質表現の仕組みである国際単位系(SI) 計量法の実質の内容を変える政省令の理解と解釈 ハンドルで曲がらずブレーキで車は止まらない 計量計測のエッセー 学校は記憶容量とアプリケーションを確認するところ 計量検定所長の仕事は検査機関運営費をたっぷりと確保すること 社会の計量の安全の確保は住民サービスの基礎 神鋼素材は計測器性能に影響がない 田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方 自動ハカリの検定実施は日本の計量制度に大きな転換をもたらす 2018年11月16日開催の国際度量衡総会で質量の単位キログラム(kg)を定義変更 事実は小説よりも奇なり 二つの事件 計測システムがわかることが計測における教養だ 世の中は計測でできている 計測の目的と精密さの実現の整合 日本人の頭骨の変化を計測値が示す副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた) 優良事業所が適正計量管理事業所の指定を受ける社会的責任 計測の目的と求められる確かを考える 地方計量行政の模範県を躊躇なく真似たい 自動ハカリの指定検定機関制度と行政組織の関わり方 1%の検定で計量の安全を実現している日本の計量制度 学校は記憶容量とアプリケーションを確認するところ 計量検定所長の仕事は検査機関運営費をたっぷりと確保すること 社会の計量の安全の確保は住民サービスの基礎 神鋼素材は計測器性能に影響がない 田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方 |
旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) |
├ ├滋賀県・草津市の宿で王将の餃子をたべた ├ ├京都三条の街は気詰まりで滅入る ├ ├神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ ├ 神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ 霧ヶ峰 雪景色 秩父札所二十四番 光智山法泉寺 6月24日の霧ヶ峰高原道路だ。強清水から車山・肩駐車場に向かって走る 正月の下呂温泉は一夜にして白銀の世界になった 上高地 晩夏 風の子の子供たちですが人は風邪を引いてはなりません 川崎大師平間寺で願い事をする 霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色(2) 薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。 霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色 霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原 霧ヶ峰高原 晩秋 和歌山市加太港の浜に立つ 山梨県牧丘村で秋の風景に出会った。今は新しい市になっているがその名は知らない。 ダイヤモンド富士 酉の市(おとりさま) 浅草の浅草寺界隈に足を向けた 外人がいて蜘蛛の巣の鉄塔が見えた 旧塩山の恵林寺界隈を見物した 仙台藩と青葉城 カラスウリが赤くなって秋です スズランが赤い実を付ける秋の始まりです |
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