私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その8- 疎開地・丹波での小学生時代
疎開先で雑音と音声の途切れる玉音放送をラジオ屋の前で聞き後で戦争に負けたのだと教えられた
野山を走り回る日々-疎開地・丹波での小学生時代
自分のことは自分でせよ
1944(昭和19)年、小学2年生の2学期から疎開先の丹波(正確には奥丹波だが、今の地図では京都府下の福知山市"夜久野町"(やくのちょう)という所での生活が始まった。引越しが落ち着いたころ、私たち子供は座敷に並ばされ、父より申し渡された。
「爆撃を逃れるために、工場も店も手放して、ここに来たからには、何事も今まで同様にはいかない。女中さんにも帰ってもらった。これからは自分のことは自分でするように。また贅沢は許されない」というものであった。
現に私に付いていてくれた春さんは魚崎で別れたままで丹波には来なかった(後になってお嫁に行ったと聞かされた)。丹波に来たのは末の妹と弟に付いていた2人の女中さんだけであり、彼女たちも間もなくいなくなった。
それでも、9月10日の私の誕生日には外から料理も取り寄せて、各自朱塗りのお膳を並べて盛大に祝ってもらった。
まだ戦時中のことであったので、神戸と比べると随分田舎で人の気配も少なく、山々に囲まれた静かな地であった。これからの小・中学生時代は、文字どおり野山を走り回り川で水遊びをする生活が始まったのである。
お寺は丹波で唯一の親戚
幸い、田舎といっても、住まいは村の中心にあって学校・役場にも近く、医院は向かい、隣(と言っても100m位は離れていたが)はお寺だった。
この浄土真宗のお寺は当地で唯一の親戚であり、我々が丹波に到着した時にも伯母さんがリヤカーを引いて駅まで迎えに来てくれ、本堂に隣接した大広間で歓迎の食事を頂いたのであった。
それよりずっと後のことであるが、このお寺の池で鯉を釣ったり、庭で手製の仕掛け(撒かれた餌を取りにくれば籠が落ちてくるもの)で野鳩を取ったりしたこともある。"院家"(いんげ)に「寺の境内で殺生をするとは何事か」と怒られたものである。
今から思えば、このお寺との行き来が、私の宗教生活の始まりであったのかもしれない。
疎開した当初は、本堂に一家が並んで座り、院家から仏の講話を聴いたことも覚えているが、「これからは毎月来るのだ」と言いながら余り続かなかった。身内の心安さがそうさせたのであろう。
また、この院家はお化けの話が上手で、我が家の囲炉裏を囲んでよく聞いたものであった。我が家は6人兄弟、お寺は4人兄弟という家族構成で、合わせて10人兄弟のように思って遊んでいた。
終戦を迎える
小学3年生頃 雪の日のブーツ姿(下段右端が筆者)
明けて終戦の年の初夏のころ、ピカピカ光って空を飛ぶB-29なる敵機を見た。落ちてくるビラを拾って学校に届けた。神戸の夕焼け空で見てから2回目であったが、その威容には好奇心をかき立てるものがあった。
玉音放送なるものをラジオ屋の前で聞いたが、雑音と音声の途切れで全く意味が解らず、後から戦争に負けたのだと聞かされた。
その後冬になって相当な雪が積もった日、米軍のジープ・トラックが一団となって村に現れた。積もった雪をものともせず、轟音と共に雪を蹴立てて走る姿に唖然とさせられた。
丹波に疎開してからも、学芸会で友と3人で舞台に上がり、日の丸の小旗を振り「日本よい国、神の国……」とお遊戯をしたり、雪の降る中をかなり遠方の駅まで出征兵士を見送りに行ったりして、きっと勝つのだと教えられていたが、あのB-29やこのジープを見た限りではとてもじゃないがアメリカは強かったのだと、つくづくと思い知らされた。
物質文明の差、機械力の差は、この後も嫌というほど見せ付けられたのであった。
優しい先生と嫌な先生
一方、学校の勉強の方はどうかというと、神戸の小学校では何も解らなかった落ちこぼれも、田舎に疎開したお陰で、優しい女の先生が実に親切に接してくれたこともあり、自然と小学生の態をなしていった気がしている。
先ほど述べた学芸会のお遊戯に出してもらったことも、自分にとっては大きな自信を得る結果となった。
ところがその後が悪い。3年生になり、受け持ちが嫌な女の先生に替わって急に勉強が嫌いになり、田舎特有のよそ者いじめに遭ったりして、夏休みに引き続いて10月頃まで学校には行かなかった。久し振りに行ってみると、九九が言えずに廊下に立たされたりと散々であった。正に落ちこぼれへの逆行である。
4年生では男の先生が気に入って、どんどん勉強も進んだ。5~6年生になると、子供心にもそう思わせる、人格的に立派な先生が受け持ちになり、勉強も生活も整ってきた感がある。
このように、結局小学校の成績は、その時に出会った先生が好きか嫌いかによって大きく左右されたような気がしている。もっとも、自分から勉強をしなければなどと殊勝な心がけを持ったことがないのだから、仕方がない。
(つづく)
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
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