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縁のある犬を見に行った。小さいころにはとても大きな犬だったのでそのまま大きくなっていると思ったら、あにはからんや大きいというよりはあるいは小さいのではないかと思わせ体格だった。その犬は9カ月になっていた。同じ母親がとても大きな犬を生んでいたのでもしかしてと思っていたが、父親が違うのでその血が上手く作用した。
「良い犬だね。そう、いい犬らしい。ほんとうにいい犬だ。いい犬はいいね」と思う。
その犬を散歩させている飼い主の姿を2カ月ほど前にみた。遠目にみたのだけれど「いい犬だ」と思った。これなら飼い主も満足だし世間の人にも褒められる。
そのような犬のその状態がいつまでもつづくのならいい。つづいて生涯を全うすれば非常にいい。今はよくても何かの手違いがあればすべてがくつがえる。
人と犬とのあるべき関係をよく考えることだ。犬は人を癒す。ありがたいことである。犬は人の供である。人に付き添って生きている動物である。人は犬に癒される。それはよいとして、人は犬にすがってだけ生きていてはならない。人が犬に癒されようと犬にすがると何時しか犬が人を支配する。
人に服従させるために犬を飼っているのではない。犬を人の供として相棒として暮らす。そのような考えで犬と暮らすときに少しだけ知恵を働かせる。犬は集団で行動し、その集団にはリーダーがいて、リーダーのもとに序列をつくって生活することで集団の統制をとる。オオカミが生きるためにすることなのだ。犬にこの原理が貫通している。
飼い犬と人とはこの序列の原則に従った関係にする。飼い主は自分が飼う犬に少し気張って自分がリーダーである姿勢を通す。これが大事なことだ。飼い主はお前を守ってやるという気概を示して飼い犬に対してリーダーでありつづける。たまには同等のようすで遊んでやるけれども最後にはけじめを付けて遊びを終える。
子犬を相手にするときには飼い主は子犬に負けたようにしていてもよい。ところどころで子犬をひっくり返してお腹をさする。そけい部をさする。母犬は子犬と遊んでいてこのことを必ずする。子犬は母親にそけい部を舐められることによってオシッコを促される。出てきたオシッコを母親はなめて処理する。子犬の糞も同じように処理する。子犬は育つに従って母親の顔などに噛みつく。母親はそれをさせているけれども最後にはガガッと吠えて子犬の口吻をくわえる。子犬はキャンキャン啼いて終いにはお腹を返して降参をする。
母親は子犬と遊んでいるようにしていても犬の世界のしきたり、あるいは掟(おきて)を教え込んでいるのだ。人はこの続きをする。
飼い主は子犬の母親と同じことをして飼育をする。負けたような格好をして子犬と遊ぶ。遊んでいていつの間にか子犬がひっくり返されてお腹をみせている状態にする。そしてお腹をさする。また負けた負けたということで遊んでやっても、遊びの終わりには子犬の口吻を柔らかく掴(つか)んで動けないようにする。子犬と遊んではひっくり返してお腹をさする。子犬と遊んでいて何時しか口吻を抑えてしまう。この二つのことをする。もう一つは子犬の背後に回って跨って身動きできないようにする。この行動は犬の相手への支配行動なのである。それを飼い主が子犬にする。
犬をひっくり返してそけい部をなでる、犬の口吻を掴み抑える、そして犬の背後に回って抱きかかえる、といった三つのことをする。手なずけた子犬であればこの三つのことをしても激しく抵抗しない。このことを子犬の間にしないで、大人になってからしようとするとほとんどできない。しようとすると飼い主は咬まれる。何時しか犬が一家の主人になっているからだ。
こうしたことは犬のシツケの常識になっている。その常識を説いているのが犬のシツケで有名な藤井聡氏である。同氏の本を読んで犬のシツケ方ではなく、犬の性質の理解をすることは有益である。
世の中には犬への知識に満ちた人、そして犬に詳しいと自負する人が沢山いる。私はそのご託宣を受けることが多い。だから私がここに記しているのは拙(つたな)い経験をもとにした自分への戒めである。
(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)
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