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旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る
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旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る 甲斐鐵太郞
旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る
旧石器時代に生きていた哺乳動物のマンモス。
旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る
旧石器時代に生きていた哺乳動物のナウマン象。
旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る
旧石器時代に生きていた哺乳動物のヤベオオツノジ。
旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る
旧石器時代のスクレイパーとよばれる剥片石器。
旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る
動物の骨でつくられた後期旧石器時代の釣バリ。
旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る 甲斐鐵太郞
(本文
幾つかの辞書による旧石器時代の表現
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典は旧石器時代を次のように解説する
考古学における年代区分の一つ。最古の石器時代。打製石器を用い、磨製石器を伴わない文化の時代で、一般に第四紀更新世に属し、狩猟採集の段階の文化である(→狩猟採集文化)。人類文化発生以来の期間の大部分を占め、約 250万年前から約 1万年前までとされる。イギリス人ジョン・ラボックが 1865年石器時代を旧石器時代と新石器時代に分け、ガブリエル・ド・モルティエが、1869年にヨーロッパ旧石器文化の編年を行なった。これはその後修正が加えられたが、今日行なわれている編年の基礎になり(→ヨーロッパ考古学)、一般に前期旧石器時代、中期旧石器時代、後期旧石器時代の 3期に区分されている。日本ではこの年代を先土器時代(先縄文時代、無土器時代)などと呼んでいるが、完新世に属する土器のない文化をも含めて、旧石器時代と呼ぶことが一般的になりつつある。
デジタル大辞泉による旧石器時代の解説
石器時代のうちで最古の時代。地質学的には更新世にあたる。利器として打製石器・骨角器を使用し、生活は狩猟・採集によった。日本における人類文化の最古の時代も旧石器時代あるいは先土器時代とよばれ、30万年前にさかのぼるともいわれる。→中石器時代 →新石器時代
百科事典マイペディアによる旧石器時代の解説
約300万年ないし200万年前に始まり、約1万年前までに及ぶ時代。人類の歴史で最初の時代。打製石器を主に用い、自然に依存した狩猟・採集生活を営んだ。前中後の3期に分けられる。(1)前期は約10万年前まで。前半は猿人が主役で、オルドバイ遺跡に代表される。後半は原人によるアシュール文化に代表される。(2)中期は約10万年前から約3万5000年前まで。旧人の時代で,ネアンデルタール人によるムスティエ文化に代表され、中国の丁村遺跡も知られる。この期には死者の埋葬も行われた。(3)後期は約3万5000年前から約1万年前まで。新人の時代で、オーリニャック文化、ソリュートレ文化、マドレーヌ文化に代表される。道具・技術の一層の発達に加え、アルタミラの洞窟美術などの芸術作品も制作された。日本では岩宿(いわじゅく)遺跡など、後期旧石器時代に相当する遺跡が多数発見されてきた。
大辞林 第三版による旧石器時代の解説
石器時代のうちの最初の時代。打製石器を用い、狩猟・採集による獲得経済の段階であった。中石器・新石器時代に先行。
日本大百科全書(ニッポニカ)による旧石器時代の解説
石器時代を石器の製作法のいかんによって、旧石器時代、中石器時代、新石器時代に三分した場合の最古の時代をいう。old stone ageあるいはpaleolithic ageの訳語。石器時代とは、器具の材料に主として石が使用された時代という意味ではなく、冶金(やきん)術が発明・採用される以前の時代のことである。したがって、ある文化において、おもに木器ないし骨角器が製作・使用されていても、冶金術が知られていない以上、それはやはり石器文化であって、木器文化ないし骨角器文化ではない。
旧石器時代とは、石器の製作に喙敲(かいこう)法または磨研法が知られず、もっぱら敲打(こうだ)法によって石器がつくられていた時代をさしている。ただし、石器の製作法に関しては、次の中石器時代のそれとは基本的な相違が認められないため、学者によっては、中石器時代を旧石器時代の末期、すなわち晩期旧石器時代とみなし、独立した時代として中石器時代の存在を認めない場合も少なくない。
旧石器文化が行われたのは、おもに地史上の更新世(洪積世)であるが、更新世というのは、旧石器時代を規定するうえで絶対的な条件とはならない。なぜならば、周辺的な諸地方では、旧石器文化は停滞し、完新世(沖積世)に入ったのちも行われていたからである。旧石器時代人は、今日では絶滅してしまった哺乳(ほにゅう)類動物(マンモス、毛犀(もうさい)のような)と共存することが多かったけれども、これまた旧石器時代を規定するうえで必須(ひっす)の条件とはなっていない。[角田文衛]
旧石器時代の遺物の存在は、ヨーロッパでは早くから識者の注意に上っていたが、『旧約聖書』に呪縛(じゅばく)されていたため、学界においても正式にこれが取り上げられることはなかった。1838年に至ってフランスのブーシェ・ドゥ・ペルトBoucher de Perthes(1788から1868)は、ソンム川の河岸段丘で絶滅種のゾウやサイの遺骨とともに多数のフリント製の石器類を発見し、人類が更新世に生息していた事実を証明した。その時分から旧石器の発見は各地で報じられ、学界もようやくこの事実を認めるようになった。
この機運に乗じてイギリスのラボックは、石器の製法に基づいて石器時代を二分し、古いほうを旧石器時代、新しいほうを新石器時代と名づけた(1865)。その後、旧石器時代の研究調査は、フランスを中心にラルテ、ド・モルティエらによって急速に推進されたが、後者が西ヨーロッパを主として樹立した編年(時期区分)――いわゆるモルティエ編年――は、もっとも権威あるものとして、1930年代に至るまで学界に通用していた。
20世紀に入ると、フランスやスペイン北部では旧石器時代後期の洞窟(どうくつ)絵画の発見が相次いだし、西ヨーロッパや北アフリカばかりでなく、ヨーロッパの中部、南部、東部、さらには北部、またオリエント、アフリカ各地、インド、シベリア、中央アジア、中国、インドネシア、アメリカ大陸の各地において旧石器時代の遺物・遺跡が続々と発見された。これに並行して猿人、原人、旧人、新人の遺骨も各地で検出され、これらを通じて旧石器文化の様相はとみに判明してきた。
なかでも中国の周口店(しゅうこうてん/チョウコウティエン)における北京(ペキン)原人の遺骨や彼らが使用した石器の発見は、東アジアにおける旧石器文化の研究の端緒となった。日本でも、1949年(昭和24)群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡において旧石器文化の存在が確認されて以来、全国にわたって旧石器時代各期の遺跡がおびただしく発見され、研究は爆発的に進捗(しんちょく)した。朝鮮半島でも、1950年代から旧石器時代の遺跡が検出され始め、研究調査は活発に進められている。[角田文衛]
旧石器文化は主として更新世に行われたもので、その年代的範囲は200万年以上にわたっている。したがって旧石器時代の研究調査は、考古学を主役としながらも、自然科学系の諸学、すなわち地質・地史学、雪氷学、岩石学、土壌学、古生物学、古地理学、古人類学などとの協力が絶対に必要である。また遺跡の年代決定に関しては、さまざまな物理学的方法が採用されている。
さらに遺跡の年代や古景観を明らかにするためには、花粉や火山灰の分析、土壌の粒度分析などが行われている。石器の用途の研究には、顕微鏡による使用痕(しようこん)の検査が不可欠である。さらに古生物学による当時の動物相や植物相の究明は、旧石器文化の生態学的研究に基本的な役割を担っている。
旧石器時代の遺跡は、第一次遺跡と第二次遺跡とに大別される。第一次遺跡とは、人間が生活した「原位置」に存在、または堆積(たいせき)した遺跡を称し、これには住居址(し)、製作址、洞窟、岩陰、埋葬址などの種別がある。洞窟には石灰洞窟が圧倒的に多いが、このうち奥行の深い、トンネル状のものを洞穴といい、奥行の短いものを岩窟とよんでいる。これらに対して庇(ひさし)状の、ときとして岩壁の裾(すそ)に営まれた住居址は、岩陰と称される。洞窟や岩陰には、しばしば明確な層位をなして堆積した包含層がみられ、それらは研究上、役だつことが多い。
第二次遺跡とは、第一次遺跡から押し流された石器類が、動物の遺骨などとともに当時の河床や湖底に堆積した砂礫(されき)または粘土の中に包含されている遺跡のことである。河床は時とともに深く削られていくから、第二次遺跡は河岸段丘にみられることが多い。アシュール文化の名祖となったフランス北部のサン・タシュール遺跡などは、河岸段丘の遺跡の好例である。この種の河岸段丘遺跡の年代決定には、地形学の協力を欠くことができない。
遺跡から発見される遺物の多くは、石製の器具、すなわち石器であるが、そのほか骨角器、木製品(希少)、石・骨角・粘土などでつくられた彫像、同じく石・骨角・貝などを用いた各種の装身具などもみられる。粘土で造形し火で焼いた土偶や動物像は、旧石器時代後期の特別な遺跡から出土するが、土器、すなわち窯(かま)で焼成した粘土製の容器は、まだつくられなかった。
石器の研究には、石質の検討、原石の産地の究明、出土した層位と関連しての型式学的考察と分類、製作法や用途の考究、統計学的な処理などのように多角的な検討が要請される。埋葬や祭祀址(さいしあと)は、住居址に関連して発見されるのが常である。アルタミラ、ラスコー、フォン・ド・ゴームなどの洞穴にみられる壁画は、洞内の祭祀所の側壁や天井に描かれたものであるが、その年代がきわめて古きにさかのぼることは、壁面を覆った石灰質の皮膜からも想察される。[角田文衛]
生活と文化
旧石器時代の大きな特色は、人々が獲得経済で生きていたことである。すなわち、彼らの生業は、自然物の採集と狩猟であり、後期に入ってから漁労が一般化したが、後期には植物栽培も行われたようである。彼らの社会の単位は群herdであったと推定される。後代に比べると人々の定住性はまだ弱かったが、彼らはあてどもなく漂浪していたのではなく、一定の領域をもち、その領域の適宜な場所に定住するか、季節によって領域内で移動するといった生活形態がとられていたらしい。
彼らにとってもっとも重要な生産手段である猟場、漁場などは、群共同体の共有であり、その点では彼らの社会は原始共産社会であった。またそれは、前階級社会でもあったが、年齢による階層の別は厳存していたようである。
旧石器時代に関しては、世界各地におびただしい数に上る「文化」が設定されている。ここでいう「文化」とは、一定の地域における一定の期間の諸遺物(とくに石器)の特殊な組合せのことである。これら多数の文化を年代的に系列化し、また空間的に配列することによって、旧石器時代文化の様相、動向、相互関係などが追究されるが、主として石器を資料としており、その石器類が変化に富んでいるため、そうした体系的、総合的研究は、すこぶる困難である。しかし数多い諸文化を巨視的に眺めると、旧石器文化の動向は、3期に分けて理解することができる。
前期は、東アフリカのオルドワイ文化、西ヨーロッパのバロネ文化、アブビル文化などを代表とするもっとも原初的な文化の時期であって、きわめて悠遠な年月、すなわち、ヨーロッパでいえば、それはギュンツ氷期からミンデル氷期の前半に及んでいる。石器は、礫(れき)の一端に撃打を加えてつくった打器、礫の両面に粗い剥離(はくり)を加えた祖形握槌(にぎりつち)、粗大かつ不整形の剥片石器などである。知られている遺跡の大部分は第二次的なもので、住居址はわずかしか検出されていない。
中期は、ヨーロッパのムスティエ文化、ミコック文化などによって代表される時期である。中期には、火の使用も知られたし、岩窟住居も始められた。石器としては、両面に加工した握槌、二等辺三角形の尖頭(せんとう)器、半月状の掻(そう)器、あらかじめ石核の打面を調整したうえで剥取された剥片石器が特徴的である。中期には、大形哺乳(ほにゅう)類動物を対象とする狩猟が盛んとなった。中期の文化を担ったのは旧人――ネアンデルタール人のような――であった。
後期の文化は、約3万年前から1万2000年ほど前に行われたが、それはヨーロッパではもっとも厳しい氷期であるビュルム氷期にあたっていた。世界のどの地域でも、後期の文化を担ったのは、新人であるホモ・サピエンスであった。当期の石器は、主として縦長の石刃(せきじん)を用いて製作されたが、その特徴は、形が小さくなり、先端が鋭くつくられたことと、用途に応じて形が分化したことである。ことに彫器は変化に富んでいる。
小さい尖頭器の存在は、弓矢の発明と個人狩猟の開始を示している。骨角器の製作・使用も盛んであり、指揮杖(づえ)、銛(もり)、針、鉤針(かぎばり)などがみられた。西ヨーロッパでは、みごとな洞窟絵画が多数描かれたが、それらの時期区分には困難な問題がある。また石や骨を用いた彫像、石・骨・牙(きば)を材料とした刻画の類も多数みいだされている。これらの美術作品や埋葬によって当時の美術や宗教もかなり明らかにされている。
集落の規模も大きくなり(とくにプシェッドモスト文化)、また岩窟や岩陰に加えて洞穴も居住に用いられた。これは、石製のランプの発明と関連していた。ただし、洞穴の場合、人々が居住したのは入口と前庭(テラス)であって、奥のほうは祭祀や貯蔵のみに使用されていた。
高い水準にまで達した旧石器時代後期の文化も、氷河時代の終末に伴う自然環境の激変によって下降し、やがてそれは、中石器文化へと移行した。しかし周辺諸地域では、なお長く旧石器時代的な文化が遺存した。この傾向は、北部を除くアフリカにおいて顕著であった。極北旧石器文化なども、ユーラシア北部のツンドラ地帯に停滞していた旧石器文化であった。
アメリカ大陸は、長い間無人の境であったが、後期に至ってシベリア方面から人間の渡来がみられた。アメリカ大陸では投げ槍(やり)による大形の哺乳類動物を対象とする狩猟が活発に行われ、フォルサム文化のそれにみるとおり、中形で鋭い両面加工の尖頭器(石槍)が盛んに使用された。「新大陸」では、適当な猟獣や食用の植物に恵まれていたためもあって、「旧大陸」に比べて、その文化はより長く旧石器時代にとどまっていた。[角田文衛]
日本旧石器時代の発見
1911年(明治44)イギリス人医師N・G・マンローは、神奈川県酒匂(さかわ)川や早川の段丘礫層(れきそう)を発掘して得たという旧石器類似資料をその著書のなかに発表した。また直良信夫(なおらのぶお)は、31年(昭和6)兵庫県明石(あかし)市の海岸に露出している更新世(洪積世)の砂礫層中から掘り出した資料を、旧石器時代の石器として学術雑誌に発表し、さらに崖(がけ)下の崩土中から人類の腰骨化石をも発見した。のちに「明石原人」として問題になった人骨である。しかし、日本の考古学者や人類学者の大部分はこれらの発表を認めようとはせず、更新世の日本は無人の地であったと考え続けてきた。ところが49年(昭和24)になって、群馬県桐生(きりゅう)市の南西約4キロメートルにある新田(にった)郡笠懸(かさかけ)町岩宿(いわじゅく)(現在みどり市)の切り通し道で、赤土の中から一部をのぞかせている黒曜石製の石槍(いしやり)を相沢忠洋(ただひろ)が発見したことから、旧石器問題は意外な展開を示すことになった。赤土というのは、1万年以上前の更新世に火山の爆発によって空に噴き上げられた火山灰がふたたび地上に降り積もってできた地層のことであり、地質学者によって関東ローム層と名づけられている。関東ローム層が一面に降り積もった時代の関東地方はおそらく死の火山灰地であり、そこには木も草もなく、人間の生活など考えることもできない、というのがそれまでの地質学者の考え方であった。ところが、そのような地層の中から、疑いのない石器が発見されたのである。同年10月、明治大学考古学研究室は岩宿遺跡の第1回目の調査を行い、関東ローム層中に含まれる上下2枚の旧石器文化層を確認することができた。上層の石器は黒曜石、瑪瑙(めのう)などを材料としてつくられており、概して小形で、切出形石器、周辺加工の尖頭器(せんとうき)、スクレーパーなどであった。これに対して、下層の石器は硬質頁岩(けつがん)をもってつくられ、比較的大形品を主とした楕円(だえん)形石器、スクレーパー、縦長剥片(はくへん)などがみられた。後者は岩宿文化、前者は岩宿文化としてそれぞれ区別された。[芹沢長介]
岩宿発見後の旧石器時代遺跡
岩宿遺跡の発掘結果は、各地の若い研究者に刺激を与え、数年もたたないうちに、日本全国から同じような土器を伴わない石器の発見が相次いで報告され始めた。1951年7月には東京都板橋区茂呂(もろ)遺跡、1952年11月には長野県諏訪(すわ)市茶臼山(ちゃうすやま)遺跡、1953年には同県上水内(かみみのち)郡信濃町野尻(のじり)湖底杉久保遺跡、同県南佐久(みなみさく)郡川上村馬場平遺跡、さらに瀬戸内海に臨む岡山県倉敷市鷲羽山(わしゅうざん)遺跡、北海道紋別郡遠軽町白滝遺跡など、各地からの発見が積み重ねられていった。新しく注目されだした縄文時代以前の石器について、最初のころはかなり露骨な反対意見を表する研究者も少なくなかったが、このような研究が全国的な規模で行われ始めるようになると、反対者はしだいに沈黙してしまった。岩宿発見以来急速に研究が進展し日本全国から発見された旧石器時代遺跡の数は5000か所以上に達しており、発掘された石器は数えきれぬほどの膨大な量に上っている。[芹沢長介]
関東ローム層の年代
考古学者によって関東ローム層の中に石器が包含されているという事実が知られてから、地質学者も新しい目で関東ローム層を見直し、再検討しようという機運が高まった。関東ローム層団体研究会が1954年(昭和29)に発足し、日曜日ごとに各地の巡検が繰り返された。その結果として、関東ローム層として従来漠然とよばれていた地層は、古いほうからいって多摩ローム、下末吉(しもすえよし)ローム、武蔵野(むさしの)ローム、立川ロームという4枚の地層が積み重なっている層群であって、それぞれのロームは多摩段丘、下末吉段丘、武蔵野段丘、立川段丘の上に堆積(たいせき)したものであることも知られた。その後、放射性炭素法(炭素14法)やフィッショントラック法などの、放射能による年代測定が関東ローム層に対して実施され、立川ロームは約1万年前から3万年前まで、武蔵野ロームは約3万年前から5万年前まで、下末吉ロームは約6万年前から13万年前まで、多摩ロームは13万年以上前、というような年代が測定されるようになった。したがって、石器の包含されているロームが何であるかがわかれば、その石器の古さもほぼ見当がつくまでになっている。[芹沢長介]
旧石器時代の時期区分
今日まで日本から発見された旧石器の大部分は、立川ロームもしくはそれと同時期の地層に包含されているので、実年代からいうと約3万年前から1万年前までの間に含まれてしまうことになる。そして約2万5000年前から1万5000年前までは石刃、ナイフ、彫刻刀などが多くつくられ、約1万5000年前から1万2000年前までは細石刃が栄え、約1万2000年前から1万年前になると有舌(ゆうぜつ)尖頭器や片刃石斧(せきふ)のような新しい要素が加わり、北九州では土器製作が開始されたということがほぼわかってきた。ユーラシア大陸では、約3万年前から1万年前までを後期旧石器時代としており、日本の立川ローム期の石器はちょうどそれに相当することになる。それでは大陸の中期もしくは前期旧石器時代、すなわち3万年以上前の時代の日本には、人類が住んでいなかったのかという疑問に対して解答を与える資料の一つは、1964年(昭和39)に発掘された大分県速見郡早水台(そうずだい)遺跡最下層の石器である。早水台遺跡は下末吉段丘と同時期の河岸段丘上にあり、問題の石器は基盤直上の角礫(かくれき)層中から出土した。石器の原料は石英脈岩、石英粗面岩などであり、石器の種類には片刃および両刃の礫器(れっき)(チョッパー、チョッピング・ツール)、祖型握槌(にぎりつち)、尖頭石器、祖型彫刻刀、祖型楕円(だえん)形石器、鶴嘴(つるはし)形石器、剥片(はくへん)、石核などがある。さらに、65年以来5回にわたって栃木市星野遺跡が発掘され、星野第5文化層から第13文化層までは武蔵野ロームおよび下末吉ロームに包含されており、3万年前から約8万年前までの堆積である事実が判明した。また70、71年の2か年にわたって、群馬県岩宿遺跡の再調査が行われた結果、岩宿文化層の下位から、少なくとも5万年以上の古さをもつ石器群が大量に出土し、岩宿ゼロ文化と命名された。
これらの遺跡は、石器の材料、形態、組成、製作手法、出土層準などから判断して、大陸の中部、下部旧石器に対比されるものであり、3万年以上前の日本にも、旧人もしくは原人の仲間が住んでいたということがしだいに明らかになりつつある。[芹沢長介]
参考とされた文献。『F・ボルド著、芹沢長介他訳『旧石器時代』(1971・平凡社)▽P・アッコー他著、岡本重温訳『旧石器時代の洞窟美術』(1971・平凡社)▽ジョン・ワイマー著、河合信和訳『世界旧石器時代概説』(1989・雄山閣出版)▽春成秀爾編、岡村道雄他著『検証日本の前期旧石器』(2001・学生社)▽白石浩之著『旧石器時代の社会と文化』(2002・山川出版社)▽藤本強著『石器時代の世界』(教育社歴史新書)▽芹沢長介著『日本旧石器時代』(岩波新書)』
旧石器時代の解説(参考文書は2020年10月17日時点におけるWikipedia)
旧石器時代(きゅうせっきじだい、英語: Pal(a)eolithic Age)とは、ホモ・ハビリスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、石器時代の初期・前期にあたる。年代的には200万年前に始まる。旧石器時代は石器の出現から農耕の開始までの時代(完新世)をさす。旧石器時代の語源はギリシャ語で παλαιός (palaios, 古い)+ λίθος (lithos, 石)である。
旧石器時代の時代区分
通常、旧石器時代は以下の3つに区分される。
前期旧石器時代
ハンドアックスがひろく用いられた時代。この時代の人類はホモ・ハビリスおよびホモ・エレクトスが主流であった。
中期旧石器時代
剥片石器が出現した時代
ネアンデルタール人が広がった。極東アジアの中期石器文化の特徴から、ヨーロッパから来たネアンデルタール人に依ったものではなく、アジアの原人から進化した古代型新人によって形成された可能性が大きいとされる。
後期旧石器時代
石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の原動力を言語に求める説もある。クロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。
旧石器時代の主な文化の分類
区分法により、各文化は大きく3つの時代に分類される。
前期旧石器時代(英語: Lower Paleolithic/Early Stone Age、約260万年前から約30万年前)
オルドワン石器文化(約260万年前から約180万年前)
アシュール文化(英語版)(約170万年前から約10万年前)
クラクトン文化(英語版)(約30万年前から約20万年前)
中期旧石器時代(英語: Middle Paleolithic/Middle Stone Age、約30万年前から約3万年前)
ムスティエ文化(約30万年前から約3万年前)
アテリア文化(英語版)(約8万2千年前)
後期旧石器時代(英語: Upper Paleolithic/Later Stone Age、約3万年前から約1万年前)
バラドスティアン文化(英語版)
シャテルペロン文化
オーリニャック文化
グラヴェット文化(英語版)
ソリュートレ文化(英語版)
マドレーヌ文化(英語版)
ハンブルク文化(英語版)
アーレンスブルク文化(英語版)
スウィデリアン文化(英語版)
日本における旧石器時代
詳細は「日本列島の旧石器時代」を参照
日本における旧石器時代は、後期については、北海道から九州にかけて5,000カ所を超える遺跡が確認される。前期/中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。 前期旧石器遺跡については全て捏造であったことが判っている(旧石器捏造事件を参照)。中期も多くが前期旧石器を捏造をした人物が関与していて否定的である。捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある。
旧石器時代の人口
人類の生きた最古の時代である旧石器時代の人口推定値が、研究者によって算定した基準の違いがあるが、発表されている。旧石器時代前期(400万から20万年前)12万5千人、同中期(20万から4万年前)100から120万人、同後期(4万から1万3千年前)220から300万人。
旧石器時代の生業と社会
氷河期下の前期旧石器時代には概ねホモ・ハビリスやホモ・エレクトスなどの原人類、中期旧石器時代には概ねネアンデルタール人などの旧人類が石器を武器にして群れで動物の狩りをしていた時代であり社会構造ははっきりしない。判明しているのは原始的な採集、集団生活の痕跡、樹の皮や獣皮の加工をしていた事である。火の利用は100万年前程度からである。後の方の更新世の北京原人などは次第に洞穴に住まい、若干の言語を使っていたようである。ネアンデルタール人はマンモス等の狩りなどで石器も次第に高度なものとなり小屋を作って器具の加工、獲物の解体や火炉で調理をしていた。埋葬の習慣も見られ、壁画などを描き始める。
社会と呼べるものが検証できるのは後期旧石器時代、概ね新人類(クロマニョン人など、諸説あり)が登場してからである。石器類はさらに高度化し槍、釣り針、網なども使われた。集落での集団生活を中心として栄えた痕跡が顕著となる。集団間での抗争や交易、集団内での原始的な宗教儀礼も確認される。
大きな変化が現れるのは更新世が終わって中石器時代・亜旧石器時代に入り気候が温暖化してからである。氷河が後退しマンモスやトナカイ等の大型獣が北の寒冷地に去り、代わりに温暖地ではイノシシやシカなどが狩猟の対象となった。植物や魚介類の採集が発達する。イヌなどが家畜化され、狩猟や戦闘、踊りなどは壁画に描かれた。今日では家畜となっている多くの動物や、自生した栽培植物の原型を狩猟採集の対象としていた。
やがて人口が増加するほどに食糧が豊富となり、原始家屋を作り居住、農耕・牧畜が始める前の段階に入る。新石器時代の前ぶれである。それまでは狩猟採集社会であった。旧石器時代の人類の態様は地域によって多様である。
旧石器時代の社会は、群れまたは社会ごとに指導者が存在した。男性・女性はおおむね平等で、男性は狩猟、女性は漁労および育児を事としていたが、この役割はしばしば共有されており、明確な分業はされていなかったと考えられている[要出典]。
当時の人糞の化石からは、旧石器時代の人類はハーブなど植物に関する知識が豊富であったことが知られ、現代人が想像するよりも健康的な食事が実現されていたことも判明している。
旧石器時代の住居
住居のはじまりは、風雨や寒さを凌ぐためや外敵から身を守るために岩陰や洞穴に住んだり、大樹下などに寄り添って暮らしたり、遊動生活では簡単な小屋を造ったことだと推定される。前期旧石器時代38万年前のフランスのテラ・マタ遺跡の小屋、13万年前のラザーレ洞穴内の小屋などが最古の住居といわれている。
6万年前と計測されるウクライナ地方の中期旧石器時代のモロドヴァI遺跡の住居ないし風除け構造物がある。それは11×7メートルでマンモスの骨や牙で囲ったもので、15基の内炉跡が発見されている。狩猟のための見張り場であったと考えられている。
旧石器時代の道具
当時の石器は、石や動物の骨を打ち欠いて作られた鋭利なナイフ、鏃、槍、ハンドアックスなど、多岐にわたるものがつくられた。また、木をくりぬいてカヤックやカヌーも作って水上移動をしていた。さらにシアン化水素やヘビの毒、アルカロイドなど毒物を取り扱っていたことが推測されている。食糧が腐らないよう、乾かしたり低温保存させたりということも知っていた。スクレイパーとよばれる剥片石器が使われ後期旧石器時代に作られた動物の骨を材質は釣バリがある。
旧石器時代の芸術文化
自然信仰と呪術が広く行われたと推測されている。晩期旧石器時代のヨーロッパでは35,000年前に最初の芸術が生まれた。絵画だけでなく塗装・彫刻も始まった。動物や女性などの彫刻が見つかっているが、その技術はきわめて高いとされる。芸術は信仰・呪術と緊密に結びついていたようだ。
日本列島の旧石器時代(参考文書は2020年10月17日時点におけるWikipedia)
日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代、岩宿時代ともいう。終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。日本列島での人類の足跡も12万年前(島根県出雲市多伎町砂原 砂原遺跡)に遡る。この時代に属する遺跡は、列島全体で数千ヵ所と推定されている。地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。ヨーロッパの考古学時代区分でいえば後期旧石器時代におおむね相当する。
日本列島の形成
日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前である。その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。
従来の学説では氷期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきたとされてきたが、近年の研究では氷期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきた。また舟を使わないと往来できない伊豆諸島や神津島産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、新聞には「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言記事が掲載されている。時期の船の遺物は発見されていない。
約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。4万年から3万年前には世界最古の磨製石器が製作されており、日本では独自の文化が形成されていた。
日本の旧石器時代における動物相
日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(間宮、宗谷、津軽、対馬、朝鮮などの海峡)を通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。動物群を追って旧石器人が渡ってきたと推定される。最終氷期に大陸とつながっていた北海道だけはマンモスなどの動物群が宗谷陸峡を渡ることができる状況にあった。
ナウマン象は約35万年前に日本列島に現れて約1万7000年前に絶滅している。長野県野尻湖遺跡の約4万年前の地層からナウマン象の骨製品がまとまって発見されている。
日本の旧石器時代における植生
更新世も中頃を過ぎると寒冷な氷期と温暖な間氷期が約10万年単位で繰り返すようになり、植生の変化もそれに対応して変化したた。
氷期を約6万年前を境に前半と後半に分けると、前半は温帯性の針葉樹によって占められる針葉樹林の時代であり、後半は約5万年前と約2万年前の亜寒帯の針葉樹が繁栄する時期とそれ以外のコナラ属が繁栄する時代からなる。そして、最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で、それより西側は温帯性針葉樹と広葉樹の混交林が広範囲に拡がった。暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋側沿岸の一部と南西諸島に後退した。
姶良Tn火山灰 (AT) は、日本列島全体を覆うほどの姶良カルデラの巨大噴火によってもたらされ、九州から東北日本までの植生に大きな影響を与えた。姶良(あいら)Tn火山灰とは、現在の南九州鹿児島湾を中心とした姶良カルデラから約2.5万から2.4万年前に噴出した火山灰のことである。Tnは丹沢を意味するする。日本列島のほぼ全域に降下し,更新世後期の重要な鍵層(かぎそう)である。同時に噴出した火砕流堆積物がシラス台地を形成した。
気候が寒冷化に向かう過程で噴火による火山灰が寒冷化を加速し針葉樹林を増大させた。動物群の変化は人の暮らしを変えることになる。全国でほば均一な石器文化であったものが地域的に特色のある石器文化圏、たとえば西日本と東日本というような石器文化圏成立を出現させた。
日本列島は氷期から間氷期への急激に変わる。更新世から完新世への変化も急であった。気候変動は、海面水準を変化させ、植生がもたらす生態系の変化もあった。後期旧石器時代はコナラ、クリ、クヌギを主体とした落葉広葉樹林が西日本から東日本を覆うようになった。
日本の旧石器時代における前・中期旧石器の発掘
日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。数は少ないものの9万年から8万年前の岩手県遠野市の金取遺跡から中期旧石器が、約12万年前の島根県出雲市の砂原遺跡からは前期旧石器などの遺物が発見されている。
日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(群馬県新田郡笠懸村、現・同県みどり市笠懸町阿左美地内)で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究はここから始まった。現在までに日本列島全域で4,000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。
後期旧石器時代が証明されるとさらに古い時代の発掘が試みられた。1960年代から大分県丹生・早水台、栃木県星野遺跡、岩宿D地点などが調査され、前期旧石器存否論争が行われたが、多くの研究者の賛同を得られなかった。「丹生論争」、「珪岩製前期旧石器論争」がつづいている。
1970年代にはいると前期旧石器の探索は薄らぎ、層位編年研究や遺跡構造の解明へ傾斜していった。
日本における旧石器捏造事件
1980年代から、東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという遺物がでてきた。藤村新一によるものである。日本の旧石器時代は約70万年前まで遡るとされた。2000年11月に、藤村新一が宮城県上高森の発掘現場に石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、2000年11月5日に旧石器発掘捏造を報じた。その後、日本考古学協会の調査で藤村新一が関与した33か所の遺跡のすべてが疑われるようになり、今のところ前・中期旧石器時代の遺跡は日本では見つかっていない。
2003年12月に、長崎県平戸市の入口遺跡で「約10万年前の地層の中から石器が発見」という報道がなされたが、段丘発達が明瞭ではない平戸地域において、層位が明瞭とはいえない状況であり、約2万2、3千年前に鹿児島の錦江湾から噴出した姶良Tn火山灰層(AT)より古いとしか断定できていない。日本の旧石器の存在の確認は4万年前まで遡るかどうかといった状況にある。
長野県飯田市で竹佐中原遺跡が発掘調査された。この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が出土した。石器包含層の堆積年代を火山灰分析、植物珪酸体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス年代測定などの自然科学分析した結果、3万年より古く、5万年より新しいことが分かった。4か所から出土した石器は2グループに分けることができ、一つは3万年から3万数千年前(後期旧石器時代の初め頃)、もう一つは3万数千年前から5万年前のものであること推測されてる。中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変わる時期の遺跡であると考えられている。
日本の旧石器時代における後期旧石器の特徴
後期旧石器時代の石器群を概観する。日本列島の後期旧石器時代は、約35,000年前に始まり、縄文時代へと移行する約15,000年前までの約20,000年間続いた。遺跡は樺太から沖縄まで約10,000ヵ所以上が確認されている。これらの遺跡で出土する遺物のほとんどは石器であり、遺構は礫群以外が出土することは極めてまれである。他に陥し穴などがある。石器ばかりが発見されるのは有機質の材料で作られた道具が土中で分解されて残りにくいためであり、遺構についてもその可能性が高い。
後期旧石器時代は前半と後半とに区分されており、層位的には約29,000年前に日本列島を覆う広い範囲に降り注いだ姶良Tn火山灰の包含層が目安にされている。石器の区分としては以下のような特徴がある。
前半期前葉(約35,000から33,000年前)では、台形様石器(または台形石器)と局部磨製石斧が代表的で、列島に広く分布する。地域色はまだ明瞭ではなかったようであるが、少し遅れて縦に長い剥片を加工して尖らせた石槍と推測される石器(「ナイフ形石器」と呼ばれている石器の一部)が東日本を中心に見られ、大枠で西日本との違いが出始めた[要出典]。前半期後葉(から約29,000年前)になると石刃技法が確立して、石槍の発達が著しくなる。
後半期の年代は約29,000から15,000年前にあたり、ナイフ形石器が盛んに製作された時期(から17,000年前)と、その製作が終了して細石刃が盛んに製作された時期(から15,000年前)との2時期に分けられる。北海道は樺太および沿海州と陸続き(古樺太から北海道半島)であったため大陸の動向と密接に連動し、古本州島(陸続きになっていた本州、四国、九州と属島)とは異なる推移をたどり、細石刃を含む石器群が約23,000年前には製作・使用された。後半期は、地域性が確認でき、北海道を除くと、東北、関東、中部、近畿、瀬戸内、九州などに区分ができる。石器の様式に東北の東山型、新潟から山形にかけての杉久保型、近畿の国府型といった各種のナイフ形石がある。瀬戸内から九州の様式は角錐状石器、九州の剥片尖頭器、台形石器などがある。いずれも槍ないしナイフとして使用されたと推定される大型の石器である。クサビ形は中国東北部から当時は地続きの北海道を通じて東日本を中心に広がり、角錐状や船形は中国南部から直接九州に伝わってきたらしい。後半期の終末には、北海道にだいぶ遅れて古本州島にも細石刃石器群が現れる。
日本の旧石器時代における関東・中部の特殊性
ナイフ形石器と細石刃がほぼ列島内全域に広がったのに対し、尖頭器石器群は東日本でもとくに中部地域、関東地域において地域的な発展を見せる。尖頭器とは、魚の鱗状の小さな剥片を繰り返し剥がして整形し、木の葉形を呈するように作り上げた石槍(の先端部)のことで、サイズは10cm以下が多い。中部・関東地域においては、ナイフ形石器群が小型化し、細石刃石器群が登場する頃までの、後半期後葉にこのような尖頭器が製作される。長野県和田峠、栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では良質な黒曜石を産出した。高原山では後期旧石器時代後半期から縄文時代草創期にかけてのものとみられる長さ14cmの尖頭器および製作場所が見つかっている。
日本の旧石器時代における住居と墓制
日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多い。日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。旧石器時代の人々は多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、少ないながらも竪穴住居が見つかっている。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はがそれである。
住居は、約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆ったもので、形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。
調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたことが分かる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。
死者を埋葬する土坑墓には、死者の生前の装身具や石器や玉などが副えられ、そこにベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものが散見される。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前にはあったようだ。 旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中している箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。
日本の旧石器時代における土器の出現
日本で最初の土器がどのようにして出現したのかははっきり分かっていない。しかし世界でも最古級(約1万6500年前)の土器が青森県の大平山元I遺跡から出土していることから日本で出現した可能性が高い。旧石器時代の終末に、長崎県で豆粒文土器(佐世保市の泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現している。一般に土器は、運搬、貯蔵、煮炊きに使われる土器の役割や使い方は十分には解明されていない。
日本の旧石器時代における木の文化
石器時代の文化は石器ということになりがちだが、森林の豊かな日本列島にあっては板状の木製品と木の柱を使った住居跡が見つかっている。
板状の木製品は、明石市西八木遺跡で約6から5万年前の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の木製品(加工痕のある木片)が出土している。この木片は、長さ23.4cm、最大幅4.8cm、厚さ4mmで、少なくとも2種類の石器で加工されている。用途はまだ分かっていない。
住居跡は、大阪藤井寺市はさみ山遺跡で約2万2000年前の極めて形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居が検出された。外周に柱穴を持つもので径10センチメートルぐらいの材を20本近く斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施し、その上を草や皮で覆った構造が考えられる。この住居跡は、構造がよく分かった上にサヌカイト製のナイフ形石器や翼状剥片が約200点も一緒に出土している。
竪穴住居といえば縄文時代や弥生時代の住居形態を想起するが、竪穴住居が旧石器時代に遡っただけでなく旧石器時代人が石器だけでなく木を使っていたことが分かってきた。木に石器を取り付ければ、鍬、斧、槍、矢、スコップなどの生産用具になる。
日本の旧石器時代における食糧の獲得
旧石器時代人は、主として狩猟によって食糧を得ていた。当時の遺跡からは、野牛、原牛、ナウマンゾウなどの大型哺乳類の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。大型哺乳動物を解体する作業場も見つかっている。旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人の様相を呈する。竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人が洞窟あるいは岩穴、岩陰を野営の場所として動物を追って暮らしていたからだと推定される。
伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土している。伊豆諸島では細石刃が発見されている。旧石器人は航海技術や海上交通の手段を持っていたことになる。日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっている。シベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていただろう。
縄文時代の人々の食料獲得は、植物採取が重きをなした。旧石器時代の人々にとっては狩猟が重きをなした。旧石器時代の道具を見ると、植物質資源の加工と処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石斧)よりも、狩猟具となる尖った有背石刃、尖頭器などの石器や石刃、細石刃などの壊れ易いが鋭い刃のある石器が発達している。
日本の旧石器時代における更新世(洪積世)の人類化石
日本列島は火山列島とも呼ばれるように更新世の火山噴火による火山灰が、瀬戸内、近畿地方を除く日本列島の大部分に降り注いだので骨を分解してしまう酸性土壌の占める地域が多く、旧石器時代の遺跡に人骨や獣骨化石が残る例がほとんどない。こうした中でもこれまで更新世人類化石として知られていた例も多かった。C14年代測定法の出現によって静岡県の浜北人と沖縄県の港川人とが更新世人類とされてい骨は違う年代であることが判明した。
日本の旧石器時代における浜北人
浜北人は、静岡県浜北市(現・浜松市浜北区)根堅(ねがた)の石灰石採石場で、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)に発見された頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・寬骨・脛骨)の人骨化石である。上・下2つの地層から出土した。それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析(AMS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1.4万年前、下層出土の脛骨が約1.8万年前を示した。本州唯一の更新世の人骨化石で、20代の女性のものとされる。また縄文人に似た骨格からその祖形のものとされていた。
日本の旧石器時代における港川人
1970年に沖縄県島尻郡具志頭村(現・八重瀬町)の港川採石場で、個人研究家の大山盛保によって港川フィッシャー遺跡から約1.8万年前の更新世のものとされる数体の人骨化石が発見された。縄文時代よりおよそ5000年古く、旧石器時代後期に相当するとされた。男性の推定身長は153cmから155cm、女性は145cmと小柄で、下半身に比べ上半身は華奢である。顔は四角く、目は窪み、鼻はやや広く、立体的で頑丈であるなど原始的な骨格で、前頭骨が小さく後頭骨の上半分が突出する点や四肢骨の筋肉付着部が発達していない点で縄文人とも異なる独自の特徴を持っている。
1967年から1969年には、港川採石場の石灰岩フィッシャー上部において、1.2万年前のものと考えられる人の上腕骨、尺骨、寬骨、大腿骨2点、脛骨2点、距骨、第1中足骨の断片が発見された。日本本土で多く発見されている縄文人の骨格的特徴によく似ており、上部港川人と呼ばれた。
平成21年度の日本学術振興会による共同研究では、後期更新世の沖縄港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、北海道から九州地方の縄文時代人とは、下顎形態に、多数の相違点が見出だされている。
日本の旧石器時代における山下洞人
沖縄県那覇市山下町第一洞穴遺跡で、1968年に発見された。約3万2000年前とされる6から7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨とされたが、その後の調査で初期現代型新人の特徴に一致することがわかった。
日本の旧石器時代における石垣島・白保竿根田原洞窟の人骨
2010年(平成22年)2月4日、沖縄県教育委員会は、沖縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にある白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)から発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20代から30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で約2万年前のものと分かったと発表した。また「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」の分析では、発見された人骨片のうちの右頭頂骨片に対して、20416±113年前(BP)という推定年代値を得た。これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定した値としては国内最古のものであった。
日本の旧石器時代におけるサキタリ洞人
沖縄県南城市サキタリ洞遺跡で発見された断片的な人骨。約1万2千年前のものとされ、同じ地層から発見された石英製の剥片石器や海産貝などは人為的に持ち込まれたものと考えられている。
その他、沖縄県で発掘され報告されている人骨化石
沖縄県宜野湾市大山洞穴(ぎのわん)
沖縄県国頭郡伊江村真謝カダ原洞穴(くにがみぐんいえそんまじゃかだばる)
沖縄県中頭郡北谷町桃原洞穴(なかがみぐんちゃたんちょうとうばる)
これまで更新世人類と思われていた人類化石
葛生人(くずうじん) 栃木県葛生町(現・佐野市)で1950年代に発見され、元早稲田大学教授直良信夫によって更新世人類と考えられた。しかし、発見された骨8点のうち4点は、動物骨であることが確認された。残りのうちの2点は放射性炭素年代測定の結果400年前の人骨であることが分かった。
三ヶ日人 1959年から1961年に静岡県三ケ日町(現・浜松市)の石灰岩採石場から頭骨片5点、寬骨(腸骨)、大腿骨など複数の成人の骨が発見され、後期更新世人類と考えられたが、放射性炭素年代法により9000年前の縄文時代早期の人骨と分かった。
牛川人 1957年に愛知県豊橋市牛川鉱山で上腕骨と大腿骨の化石が発見され、東京大学名誉教授鈴木尚によって中期更新世人類(旧人)と考えられたが、人骨の特徴を備えていなかった。
聖岳人 1962年に大分県本匠村(現・佐伯市)の聖嶽洞穴で前頭骨片と頭頂後頭骨片が発見され、元新潟大学教授小片保によって中国の山頂洞人と似ているとされたが、形態面や年代推定から歴史(江戸)時代に属する可能性が極めて高くなった。
明石人 1931年に兵庫県明石市で直良信夫により寬骨が発見され、直良は旧石器時代の人骨としたが学会は受け入れなかった。その後、人骨は戦争で焼失し石膏模型のみが残った。戦後、長谷部言人がこれを原人として論争が起こったが、現在では一部を除き新しい時期の人骨とする意見が強い。
日本の旧石器人の人類学的見地
現生人類(ホモ・サピエンス)は7から6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。日本列島に現生人類が現れるのは4から3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハプログループD1a2a (Y染色体)の起源年代とおおむね一致する。
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塩山市の丘で果樹農園のサクランボを買った 甲斐鐵太郞
6月、カッコウの声が八島湿原の草原の向こうで響いている 甲斐鐵太郞
茅ヶ岳と八ヶ岳の山麓の高台から6月の南アルプスを眺める 甲斐鐵太郞
川上村の5月の青空は八ヶ岳を背にして夏色であった 甲斐鐵太郞
フィルムでの写真撮影にかかる実際費用 甲斐鐵太郞
R型ズミクロンをEOS 5Dで使う 甲斐鐵太郞
R型ズミクロンの初期型をキャノンイオスデジタルの5Dを使う
レオタックスFを私は気に入っている 甲斐鐵太郞
新型コロナウイルスと肺炎疾患を考える-その資料一覧 №2-
春未だ浅い野辺山と川上村のレタス畑 甲斐鐵太郞
無線式のキーボードの便利さを知った喜び 甲斐鐵太郞
「型板」「鋳型」を使ってwebページを作成する
大菩薩峠の入り口、裂石の番屋小屋でほうとうを食べる 甲斐鐵太郞
新型コロナウイルス禍を理解する 甲斐鐵太郞
5月始めに開かれている城端曳山祭 甲斐鐵太郞
緑が萌え始める信州に遊ぶ 甲斐鐡太郎
白い雲と青空と太陽の輝きは誰のためにあるのか 甲斐鐵太郞
八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑なだれによる崖
思いがけずに出現した八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑(がんせつ)なだれの崖 旅行家 甲斐鐵太郞 動画 YouTube。
主題 Canon デジタル一眼レフカメラ EOS 7D を使うための備忘録 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
副題1 ライカのR50mmレンズはフルサイズのCanon EOS 5Dに付けて使う
副題2 Canon EOS 5Dはライカ単焦点レンズを使う最上のカメラだ
YAMAHA RX- E100アンプとYAMAHA NS BP100スピーカー 執筆 甲斐鉄太郎
映画コンバットの砲撃や銃声は外付けアンプとスピーカーから出力する
田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた
田中館愛橘とその時代-その12-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。
田中館愛橘とその時代-その11-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)
田中館愛橘とその時代-その10-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)
田中館愛橘とその時代-その9-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)
田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄
田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則
田中館愛橘とその時代-その6-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則
田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-
日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。-その1-田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)
初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)
美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎
地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ)
富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞
韮崎と須玉に連なる丘の七里岩は八ヶ岳崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ
霜が降りるまでヤマモミジは真っ赤に燃えていた 執筆 甲斐鐵太郞
中央道須玉IC付近右手にみえる七里岩。八ヶ岳が山体崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
霞ヶ浦の岸辺で遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ライカの一眼レフを使う 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
ロッキングチェアでパソコンと遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
中部横断自動車道を走る トンネルと橋でできた道だ 2019年10月21日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ライカM5は特別な感覚領域を備えていて私を虜(とりこ)にした
暑い夏の日に紀伊半島の山中をさまよっていた 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
黒羽観光やなと那珂川の清流 文章 旅行家 甲斐鉄太郎
灰色の街と紅い夕日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
大山阿夫利神社と山麓の梨 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
安曇野の夏、8月18日には稲が実りかけておりました 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
高山市の古い町並みの暖簾(のれん)が良い 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】YouTube
八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
地震と津波
地震計は地震を予知する機能を持たない
旅行や自然や風景の動画 目次-その2-
旅行や自然や風景の動画 目次-その1-
地震計は地震を予知する機能を持たない
【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】
八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
オリンピックの自転車ロード競技のテストイベントを見物する 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
2019年郡上おどり2日目7月14日は午後10時半まで盛大に 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
2019年の郡上おどり始まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
飛騨市古川町にNHK 朝ドラの「さくら」がいた。執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
海をみに行く。房総半島を右回りで旅行した。 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
夏至の日の八島湿原のアヤメ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
ニセアカシアを知る-アカシア情報-
アカシアの白い花が咲いていた 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
松本市と松本城そして穂高連峰 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
真田の上田城をみる 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
ありふれた一日の覚書 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
午前9時までに4時間の調べ事、そして都内で新聞の業務です
真澄の宮坂酒造で利き酒する諏訪の旅 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ある一日、木曜日の典型的な行動です。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
良い景色のところにでかけて自然に身体を浸すように心がけたい 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
フェリーで伊勢旅行 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
伊勢旅行したら草臥れ果てて椅子に座れなくなりました。
(そのためにキーボードとの位置関係のよい椅子を買って対処しました) 執筆 甲斐鐵太郎
輝く虹の環水平アークと日暈(ひがさ)の出現に沸いた2019年4月28日 執筆 甲斐鐵太郎
湘南の海岸通りを走る 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
富士芝桜まつり 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ウイルス防御ソフトの「ブロック」表示との格闘三日間 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ウイルス・ソフトのパソコンへのアップの顛末記 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
「ハッピーエンド」を聴く 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
八ヶ岳と野辺山高原そして川上村の景色 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
3月7日、別所温泉の和風・老舗旅館に泊まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
webページとYouTubeで構成された私の音楽室 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
出雲崎町「良寛記念館」を訪ねる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
日本海の幸を寺泊で味わう-その2-執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
日本海の幸を寺泊で味わう 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
土曜日、ガストで新調したパソコンの動作を確かめる。快調だと朝定食を食べて喜ぶ。執筆 甲斐鐵太郎
キャノン7とキャノンP 執筆 甲斐鐵太郎
中央道下り諏訪から北アルプスがみえる 執筆 甲斐鐵太郎
(中央道下り諏訪から穂高岳、槍ヶ岳、常念岳がみえる)
富士市の富士山展望の宿に泊まった 執筆 甲斐鐵太郎
国道158号線 松本市に向かう冬の旅である 執筆 甲斐鐵太郎
霧ヶ峰高原 八島湿原 八ヶ岳の雪と青い空 執筆 甲斐鐵太郎
石老山(標高702 m)2月1日、雪の朝 執筆 甲斐鐵太郎
真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎
熱海桜は河津桜よりも確実に早く咲く 執筆 甲斐鐵太郎
真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎
真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎
富士山を見るために二週連続で富士宮駅前のホテルがでかけた 執筆 甲斐鐵太郎
(ダイヤモンド富士が出現する暦、年中ダイヤモンド富士が見られます 執筆 甲斐鐵太郎)
1月10日、京都えびす神社の「えべっさん」 執筆 甲斐鐵太郎
富士山に陽が昇る 執筆 甲斐鐵太郎
富士山が見えている夕方に「吉田のうどん」を食べる 執筆 甲斐鐵太郎
(副題)本を読むこと、文章を書くこと、とwebが一体になった
山中湖から富士山を仰ぎ見るのを楽しみにしている。執筆 甲斐鐵太郎
太陽が平原の林に沈んだ。月が輝きだした。高原の冬である。執筆 甲斐鐵太郎
大王わさび農場を冬至の日に訪れる 執筆 甲斐鐵太郎
上高地夏至のころ 執筆 甲斐鐵太郎
江戸の人々の山岳信仰の山だった大山(標高1,252m) 執筆 甲斐鐵太郎
林の向こうに青空が見えると嬉しくなります 執筆 甲斐鐵太郎
山手のレストランとBOSEのスピーカー 旅行家 甲斐鐵太郎
三浦岬をぐるりと巡って葉山マリーナにでた 執筆 甲斐鐵太郎
浅草の場外馬券売り場前の飲み屋で一杯 執筆 甲斐鐵太郎
お酉さま 執筆 甲斐鐵太郎
晩秋の霧ヶ峰高原 霧に包まれたカラ松の高原道路を走る 執筆 甲斐鐵太郎
カラマツは黄色と赤の中間色に燃えていた。カラマツ林の裾に民家があった。茅野市である。執筆 甲斐鐵太郎
10月の下旬に新潟市の界隈をうろついた 執筆 甲斐鐵太郎
11月の旅 壊れているフィルムカメラを旅の途中で買った これが酒の肴にはいい 執筆 甲斐鐵太郎
10月12日、川上村のレタス畑は最後の収穫をしていた 執筆 甲斐鐵太郎
信州の秋をめぐる 諏訪から佐久にでる 千曲川沿いを走る 執筆 甲斐鐵太郎
信州松本市郊外で秋のめぐみに出会う 執筆 甲斐鐵太郎
金曜日の夜は紅葉と夕日と星空の八ヶ岳、霧ケ峰そして美ケ原を走っていた 執筆 甲斐鐵太郎
日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その6-上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎
私と上高地-その5-格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その4-槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その3-上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その1-槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎
横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた
夕暮れどきの高山市古い町並み2018年6月23日、18:06:44
夏至の日の旅行で郡上八幡市の古い町並みを見物する
6月24日、松本市波田のスイカを買う 温室栽培の大玉スイカです
6月に晴れる 小さなリゾート地相模湖で憩う
白いヒナと黒い3羽のヒナを連れて湖面を移動するコブハクチョウ
夏の訪れを告げる鮎釣り 相模川の6月1日の夕暮れ時
よい景色とよい音楽と美味しい食事 八ヶ岳と北欧レストランとパソコンでユーチューブ
近江の国、多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐり
特別な位置にいる投手としての大谷翔平
「春の日と一人娘はくれそでくれない」ので5月は午後7時まで遊んでいられる
奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった
松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ
金曜日、思いついて新宿から松本に向かう。塩尻駅で降りた。
東京の桜は散って新緑の季節になりました
武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)
北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では28㎝も雪が積もりました)
陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く
5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう
埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)
山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎
数学者も物理学者も現在持つ知識は写し取って得たものである
(インターネットで拾った文章を繋げて出来上がるニュース報道)
数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
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(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)
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