私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その14- 国立大初の神戸大学「計測工学科」に進む
J・トムソン(英国)の言葉「科学は計測に始まる」に感激、「科」とは禾(か)(稲・麦などの穀物の総称)を斗(容量の単位)るに学をつけて科学
国立大初の神戸大学「計測工学科」に進む
J・トムソンの言葉“科学は計測に始まる”に感激
「計測工学科」は、国立大学に初めて作られた計測の学科であり、私は第1回生であった。しかし「計測」自体がまだよく知られていなかったために、“測量が専門なのですか?”と聞かれることがあった。川鉄計量器工場に勤めていた父は、元来が「はかり屋」であったが、社内での「計量管理委員会」にも連なっていたので、これからの学問だとして非常に喜んでくれた。
1年半の教養課程終了後、専門の授業が始まって間もない頃、「工業計測」の教科書の冒頭で、科学は「科」“禾(か)(稲・麦などの穀物の総称)”を“斗(容量の単位)”る、学問である、という言葉と出会い、西洋にもJ・トムソン(英国)による“科学は計測に始まる”という言葉があると知って感激を覚えたものである。
大学祭で(この頃講座の相談をした)。筆者は左から2番目。
科の中身は、1講座が精密機械系、2講座が電子計測、3講座が私の属していた応用物理。主任教授は柴田圭三先生、戦中は海軍で磁気魚雷を研究していたとか、弱磁気の測定が専門であったらしいが、応用物理の範囲には違いない。そして4講座は自動制御となっていた。
一人前の紳士扱いに大学生とはそのようなものなのだと大人になった気がした
3年生の終わりが近づいた頃、私以下3人がこの柴田主任教授に呼び出されて、「君達が第1回生であり、先輩から聞く訳にはいかないので何事にも戸惑うだろう」と切り出された。何のことはない、「4年生になって40人の学生がどの講座の何先生を選ぶか、事前の打診と調整をしてくれないか」と頼まれた。
新設の学科で、あちこちから教授、助教授を集めてきてのスタートであっただけに、主任教授は学生の選択にアンバランスが生じるのを心配しているようだった。その時はじめて、自分たちが一人前の紳士として扱われていることに気づき、大学生とはそのようなものなのだと、大人になった気がしていた。
皆に聞いて廻って、蓋を開ければ何の事もなく3、4名が先生と話し合うぐらいで事は終わった。
この事があって以来、急に親しみができてきて、他の連中も柴田主任教授を“おやじ”“おやじ”と呼ぶようになった。当時の安保に対するデモのことも良く理解してくださって、本当に話しやすい先生であった。
後になって、私の結婚式にも当然主賓としてご列席くださり、「高徳君は何となく人から愛される人間だ」と言われた。そして、翌日の新婚旅行の出発を大阪駅で見送って下さったのには恐縮した。
川鉄計量器工場に勤めていた父(左)が大学に来た。
右が筆者。
ストレーンゲージの登場
話は横にそれたが、私は3講座の若林助教授に付いて「酸化被膜の膜厚測定」をテーマに選び、静電容量法を用いた測定でこの研究を手伝った。
ただし、この計測という学問は、応用して役立たせる対象がやたらと広い為(あらゆる分野で使われるので)、石油化学や無機化学をはじめ、土木・建築まで単位を取らされたのには参った。
今は「不確かさ」であるが、当時は「誤差論」。微小電流の増幅が難しい時代であったので、それなりの本も出ていて回し読みをしたのを覚えている。丁度この頃、1959(昭和34)年に父がアメリカの文献を見て「走行中の列車の重量を貨車毎に即座に計量し、トータルの計算までやってしまうことができるストレーンゲージなるものがある」と驚いていた。これを先生に聞くと、ストレーンゲージには温度特性に問題があり、これが解決されれば利用は早いとのこと、これがきっかけで、父も学校に足を向けるようになった。
そして、私が川崎製鉄に入社した数年後、1964(昭和39)年には、このストレーンゲージに千葉製鉄所でお目にかかった。驚くべき早さである。
(つづく)
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その14- 国立大初の神戸大学「計測工学科」に進む
J・トムソン(英国)の言葉「科学は計測に始まる」に感激、「科」とは禾(か)(稲・麦などの穀物の総称)を斗(容量の単位)るに学をつけて科学
|