日本計量新報一面記事です。 2018年07月29日号(3203)1面 2018年07月22日号(3202)1面 2018年07月15日号(3201)1面 2018年07月01号(3200)1面 |
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版) 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その23- 計量士の誕生 口頭試問は何を答えたのか全く記憶にない。試験官に「お父さんはお元気ですか」と聞かれびっくり。 計量士の誕生 副工場長の「君は計量士を受けろ」の命令 1965(昭和40)年千葉から郷里の神戸にある葺合工場への転勤は、私にとって計量士の第一歩を踏み出させる結果となった。父と旧高徳衡機を既知の尾上副工場長が、当時の兵庫県計量協会の管理部会長をしておられたから堪らない。廊下で出会い頭「君は計量士を受けろ」とやられた。 千葉時代にも、課内にはたくさんの計量士がいて、「君もその内に受けるが良い」とは言われていた。しかし、当時の会社の制度では会社はお金を一銭も出さず、合格して計量士登録をしても会費すら戴けない、全てが自己負担であり“それぐらいの事はすべて給料の内”とされていたようである。しかし、若くて新婚間もない私にしてみれば大事であった。講習会の費用は到底出して貰えないので、先輩に問題集を借りて自習、運良く合格はしたものの、会費の負担を考えてまた躊躇していると、またもや副工場長「登録はしたか」と問われた。心安く声をかけて下さらずとも良いのに!かくして計量士誕生となったのである。 やはり、郷里に帰って来たればこそというべきか。 学振第2分科会(高温測定) この副工場長、本当に気さくな方であったが、今から考えると「あの高徳の息子だから、自分の所にいる間に計量士にしておかないと」と思われたのかも知れない、そう思えばありがたい親心である。 数年後には、この副工場長の名代で、学振第2分科会(注1)に出席する事になった。当時は計測研からは高田さんが、横河からは小川さんが、各製鉄会社からは熱電対の専門家が、神田の学士会館に集まり議論を戦わせておられる姿に接して私もファイトを燃やしたものであった。この葺合工場では、K熱電対の還元性雰囲気での劣化についても研究報告を行った。熱電対の表面が劣化し、これによって寄生熱起電力が発生するという発生のメカニズムも教えて頂いた。 それから約40年経って日東製粉(株)(現日東富士製粉(株))に計量士として勤めるようになった後、この東京工場が通産大臣賞を戴いた。このような時こそと思い立って、老工場長を神戸の御影の自宅に訪ねて、昔お世話になったお礼を申し上げた。計量士の試験の話をすると「そんなことがあったかなぁ」と笑っておられた。 (注1)産業育成のために設けられていた「日本学術振興会製鋼第19委員会」で、第1分科会は分析、第2分科会が「高温測定」で『パラジウム線溶融法による高温検定』は有名である。当時東大の菅野猛先生が主査をしておられた。 面接での思い出 もう一つ、計量士の試験に関して書き留めておかねばならない事がある。 筆記試験が終わり、次に面接試験があるから出頭するようにとの通知がきた。書くことは何とか書いて合格したようだが、面接となると小さい頃から話すのに自信がなかったので、最大の苦手だという気がしてきて、思案にくれた。 当日は早くから出向いて行き、通産省の階段に腰をかけ、あの分厚い計量法をあちこち紐解いていたのを思い出す。いよいよ呼び出された時は正に緊張も絶頂に達していた。何を答えたのか全く記憶にない。そして終わりに近づいたとき、一人の試験官に「お父さんはお元気ですか」と聞かれびっくりした。すっかり気が抜けてしまい、その方のお名前を聞くのも忘れて、後から“しまった”と思ったのであった。初めにそれを聞いて下さったら良かったのに! 家に帰って、父に聞いたら「高田さんだろう」との事であった。 (つづく) 私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版) 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その23- 計量士の誕生 口頭試問は何を答えたのか全く記憶にない。試験官に「お父さんはお元気ですか」と聞かれびっくり。 |