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社会の統計と計量計測の統計 【分類12】 web情報総合サイト 音楽の項目 音楽とオーディオ 目次 音楽・オーディオの文化・評論(芥川賞作家の五味康祐氏) 五味康祐氏の音楽とオーディオ評論(エッセー) 楽曲(音楽)とユーチューブ(動画)目次 楽曲(音楽)とユーチューブ(動画)-その内容 1- YAMAHAコンサート用のPAスピーカー S0108T 執筆 甲斐鐵太郎 |
日本計量新報一面記事です。 2018年10月28日号(3214)1面 2018年10月21日号(3213)1面 2018年度関東甲信越地区計量団体連絡協議会開く10月12日、栃木県宇都宮市のホテルニューイタヤで 2018年10月14日号(3212)1面 2018年10月07日号(3211)1面 2018年09月23日号(3210)1面 2018年09月16日号(3209)1面 2018年09月09日号(3208)1面 2018年09月02日号(3207)1面 2018年08月26日号(3206)1面 2018年08月12日号(3205)1面 2018年08月05日号(3204)1面 2018年07月29日号(3203)1面 2018年07月22日号(3202)1面 2018年07月15日号(3201)1面 2018年07月01号(3200)1面 |
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版) 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その34- 父は論文を遺書として引退 父は「計量器工場の経営はいかにあるべきか」を書き上げ、それを遺書として引退した 父は「計量器工場の経営はいかにあるべきか」を書き上げて引退した 計量器工場の特色 前にも触れたが、父は私と同じ川崎製鉄(現JFEスチール)で、はかりを製造する計量器工場で工業用はかりの設計・製造を担当しており、同じ「はかり屋」でも製鉄現場でそれらを使う私とは全く異なる仕事であった。 私が千葉製鉄所にいたときに、1964(昭和39)年、製鉄会社計測集団の見学があり案内をしていたら、転炉に投入するスクラップ秤量機に、かなり高所から1tを越すようなスラブの切れ端を「ガッタン」と大音響を発して落とし込む光景に出会った。見学者は思わず「あれではかりが壊れないのか」と聞いてきた(当時は刃と刃受けを持った槓杆(こうかん)式はかり)。あれこそ我が計量器工場製だと威張ったものであった。製鉄所向けの大容量にして堅牢なはかりを得意としていた。 もちろん川鉄以外でも業績を伸ばしていたようで、あるとき国鉄から受注したことを、父は喜んで話していた。 はかり屋の業界 千葉や水島に巨大な臨海製鉄所を建設していた時代では、大容量に加えてより高精度・高速な計量が求められた仕事も多く、計量器工場のはかり屋集団もそれなりに大いにチャレンジしていた。 父は当計量器工場が川鉄の中で異色な存在であることを始めから判っていたし、この事からくる問題にも頭を痛めていた感がある。後述する論文のある頁のグラフに縦軸に資本金(あるいは従業員数?)、横軸に会社名をいれたものがあって、父は「この業界はかくの如く中小企業の集まりで大企業はいないのだ」といっていた。 父がこの業界で活躍した戦前から戦後の昭和30年頃までは計量器メーカーは押し並べて中小企業であり、特色がある企業がシェアーを分かち合っていた時代であった。例えば、父が大阪の「看貫堂」におられた小野龍三郎さんを、大和製衡(株)に紹介したりした事もある。企業間の交流が盛んな、よい時代であったとも思われる。 ところが、高度成長期に入り、企業が熾烈に競う頃になると、計量器業界もかつての体質は通らなくなっていたと想像する。まして川鉄なる大会社の一部所でしかない計量器工場では、計量器業界の商売感覚が通用するわけがない。そのきっかけになったのが西口譲氏(後の新光電子(株)初代社長)である。氏の旺盛な研究心や開発意欲に対し、巨大な製鉄会社をバックに有している計量器工場としては、小回りが利かないために、父は彼の要望には答えられないでいた。現体制では、若い人達を伸ばしていくのに限界を感じていたのである。 結局西口氏は1963(昭和38)年に独立。父は残念でもあり、彼に対しては申し訳なく思っていたようであった。 父の「遺書」 そのようなことがあって後、次第に高度成長が下火になった頃から、父は憂いを抱き始めた。西山社長は祖父高徳純教のことも記憶しておられ、父のことも旧高徳衡機時代から知っていて下さった方であり、お元気な頃は、父も張り切って日々の仕事に励んでいたようであった。「西山社長は、計量器工場には予告無しにくる」と自慢げに語っていた父が思い出される。正に「名君のもとに人は育つ」であった。 この西山社長が亡くなられ、良き理解者を失った父には、尚一層、問題が顕在化してきた感がある。鉄の経営者が何かあれば「t当たりいくらだ」と言うのも耳障りというもの、はかり屋の経営がさっぱり解って貰えないとよくこぼしていた。 “計量器工場の経営はどのようにあれば良いのか”が最大の課題となり、米国のピーター・ドラッカーなども読み勉強もしていた。その結果、“従業員が嬉々として働ける工場となるためには”川鉄からの分離独立しかないとの結論に達したようである。これを「計量器工場の経営はいかにあるべきか」と題する200頁におよぶ論文に書き上げ、会社に報告、自費出版して心ある人達に自分の『遺書』として配布し、1968(昭和43)年に退職した。川鉄計量器(株)(現・JFEアドバンテック(株))が誕生したのは、その後5年を経過してからであった。 退職後は疎開先であった丹波に小さな家を建て、晴耕雨読ならぬ晴耕雨舞(仕舞のこと)の生活に入っていたが、独立記念の会には夫婦で招待を受け歓待されたことを後日喜んで語っていた (つづく) 私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版) 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その34- 父は論文を遺書として引退 父は「計量器工場の経営はいかにあるべきか」を書き上げ、それを遺書として引退した |