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東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池
JKaii Higashiyama's painting "Green Echoes" and Mishaka Pond

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

現代の御射鹿池(みしゃかいけ)。池の淵は広葉落葉樹が繁茂している。

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

カラマツ林の幾何学模様はなく、湖面に映るのは広葉落葉樹。白馬が歩ける岸辺ではない。

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

標高1,100mにある池にはレンゲツヅジが咲き、居残ったマガモが右手から左に泳いでいった。

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

御射鹿池(みしゃかいけ)の岸辺にはレンゲツツジが咲いていた。初夏の風情である。

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

夕方の御射鹿池(みしゃかいけ)の静かな湖面が鏡となっている。白樺の木がある。

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

シャッターを頼まれて一枚写した。夕暮れの御射鹿池の色合いの参考として載せた。

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

 特別な思いはないが有名なところには足を運ぶ。茅野市北山にある標高1,100mにある御射鹿池がそうであった。日本画の東山魁夷のカラマツ林と波のない池と白馬のとりあわせの「緑響く」の場面が御射鹿池(みしゃかいけ)である。この絵は1982年に描かれた。いまから42年前の風景がここにある。

‏‎ 写真は5月30日17時25分に撮影された。絵画「緑響く」は太陽が輝く時刻のものではない。朝か夕かの光が衰えたころである。あるいは月明りであるかもしれない。東山魁夷は月明りの絵を多描いている。。2024年は同じ景色が5月16日に現れている。季節の巡りは年によって少しずれる。

 御射鹿池(みしゃかいけ)の現在のようすを写真が伝える。描かれている池の淵のカラマツ林の前には少しの広葉落葉樹があった。それから42年経過した現在は広葉落葉樹が繁茂してカラマツ林は奥に残っている状態。東山魁夷はカラマツの尖った三角と湖面の直線とを対比したかったために創作を加えたのであろうか。湖畔の淵を歩くのは白馬である。緑の陰影と白で構成された「緑響く」である。戦中に閲兵する昭和天皇が騎乗するのは白馬であったことが思い出された。

 東山魁夷の絵画「緑響く」の実際の色彩はどうであるか。原画は青みのある緑であるが、原画からおこした限定販売のリトグラフには緑鮮やかなのがある。東山魁夷館コレクション展2024 第Ⅰ期(長野県立美術館東山魁夷館2024年4月11日(木)~ 2024年6月18日(火)〒380-0801 長野県長野市箱清水1丁目4−4)があるので足を運んではどうだろう。

 地下倉庫から取り出したカメラに50mm/f1.4のレンズを取り付けてレンゲツツジを撮影した。メディアには昨年の5月30日に撮影した御射鹿池の像があった。このカメラの日付は一年遅れていた。もっと正確には一年マイナス一日であった。





































[資料]


東山魁夷館 | 長野県立美術館 (art.museum)

東山魁夷館コレクション展2024 第Ⅰ期 | 展覧会 | 長野県立美術館 (art.museum)
『緑響く』(1972年、長野県立美術館収蔵・御射鹿池を描いた作品)

東山魁夷 《緑響く》 1982年
連作「白い馬の見える風景」の起点となった代表作《緑響く》を中心に、オーストリアに取材した《沼の静寂》などを展示します。また、5月6日は東山の命日であることから、絶筆となった《夕星》を展示します。

東山魁夷館コレクション展2024 第Ⅰ期
東山魁夷館 開催期間2024年4月11日(木)~ 2024年6月18日(火)
会期 2024年4月11日(木)~ 2024年6月18日(火)
休館日 水曜日
開館時間 9:00~17:00(展示室入場は16:30まで)
観覧料 本館・東山魁夷館共通 一般700円、大学生及び75歳以上500円、高校生以下又は18歳未満無料
会場 東山魁夷館:〒380-0801 長野県長野市箱清水1丁目4−4
主催 長野県、長野県立美術館

東山魁夷館に寄せて

私が初めて信州へ旅したのは、今から64年前の大正15年夏のことでした。当時、東京美術学校日本画科の一年生だった私は、友人三人と木曽川沿いに天幕を背負って、10日間の徒歩旅行をし、御嶽へ登りました。横浜で生まれ神戸で少年期を過した私は、初めて接した山国の自然の厳しさに強い感動を受けると共に、そこに住む素朴な人々の心の温かさに触れることが出来たのです。この旅行の二日めの夕方、麻生(あそう)村(現・岐阜県中津川市山口)に着き、山路にキャンプする場所を探しているうちに、大粒の雨が降ってきました。日はすっかり暮れて雨は益々烈しく、雷鳴が物凄くなってきました。路は滝のようになり、杉木立の下で雨宿りをしていると、バリバリと雷が頭上で容赦なく鳴り響きます。私達は仕方なく麻生へ引き返しました。とある農家の戸を叩いて、わけを話しますと、老婆が気持よく迎え入れてくれました。土間でよいから泊めて下さいと言ったのですが、座敷へ通してお茶など出してくれました。お婆さんは息子と二人暮しで、息子さんのほうは祭りの笛の稽古で近所に出かけているとのことでした。話をしているうちに雷鳴も遠くなって雨も止みました。この辺には名所もないが公園が出来たからと言いながら、老婆は私たちを誘って外へ出ました。すると、思いがけなく美しい月夜になっていました。公園というのは近くの水力発電所のそばに少しばかりの桜の木が植わっているだけの、ごく簡素なものですが、お婆さんはまんざらでも無さそうな様子でした。私もこの月明の静かな山峡の眺めは、全く都会の公園では味わえない素晴らしいものだと思いました。夜の大気は澄み切っていて、涼風が爽やかに吹き渡っていました。この旅はその時は気付きませんでしたが、私に大きな影響を与えたものであることが、ずっと後になりわかったのです。それ以来、山国へよく旅をするようになり、信濃路の自然を描くことが多くなりました。そして、風景画家として一筋の道を歩いてきました。いつの間にか私も年を重ね、子供がいませんので今の内に、自家所有の作品などの処置について、真剣に考えねばならない時期になりました。いろいろ考えました末に、私の作品を育ててくれた故郷とも言える長野県にお願いしたいと決心したのです。甚だ唐突なことのようですが、それは私の心の中で長い間に結ばれてきた信州の豊かな自然との強い絆が今日のような結果となったわけです。長野県では私の身勝手な願いを快くお聞き届けになり、このように立派な館を建てて戴き、誠に御礼の申し上げようも無いことと、心から感謝している次第です。平成2年4月記 東山魁夷

東山魁夷

東山魁夷略歴
1908(明治41)年横浜に生まれ、3歳のとき神戸にうつる。東京美術学校日本画科を卒業。1933(昭和8)年ドイツに留学。日展に出品をつづけ、1947(昭和22)年特選受賞。1956(昭和31)年日本芸術院賞受章。1965(昭和40)年日本芸術院会員となる。44(1969)年文化勲章受章。皇居新宮殿壁画、唐招提寺御影堂障壁画等を制作。1995(平成7)年東山魁夷心の旅路館開館(岐阜県中津川市)。1999(平成11)年5月6日逝去。享年90歳。従三位勲一等瑞宝章を贈られる。長野市善光寺大本願花岡平霊園に葬られる。2005(平成17)年、香川県せとうち東山魁夷美術館、市川市東山魁夷記念館開館。

東山魁夷略年譜
明治41(1908)年 7月8日、東山浩介、くにの次男として横浜に生まれる。本名新吉。
明治44(1911)年 3歳 一家で神戸に転居。
大正10(1921)年 13歳 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫高等学校)に入学。
大正15/昭和1(1926)年 18歳 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学。夏、信州を旅し、山国の雄大な自然に強い感銘をうける。
昭和4(1929)年 21歳 10月、最初の展覧会出品作《山国の秋》が第10回帝展に入選。
昭和6(1931)年 23歳 3月、東京美術学校日本画科を卒業。引き続き研究科に進み、結城素明に師事して「魁夷」を雅号とする。この年、東京美術学校の同窓生と研究グループ「六篠社」を結成。また西洋美術研究のため、ドイツ留学の準備を始める。
昭和8(1933)年 25歳 東京美術学校研究科を修了。8月、渡欧の途につく。10月、ベルリンに到着。ベルリン大学外国人語学部でドイツ語を学ぶかたわら、足繁く美術館に通う。
昭和9(1934)年 26歳 3月、ヨーロッパ一周の旅行に出発。10月、第1回日独交換学生に選ばれ、以後2年間の留学費をドイツ政府から支給されることになる。11月、ベルリン大学哲学科美術史部に入学。
昭和10(1935)年 27歳 9月、父危篤の報に、なお1年を残す留学期間を断念して帰国。
昭和12(1937)年 29歳 結城素明・川崎小虎・青木大乗を同人に「大日美術院」が創立され、その第1回展から出品する。11月、初めての個展「東山魁夷滞欧スケッチ展」を神戸で開催。
昭和14(1939)年 31歳 4月、川崎小虎らを中心に結成された「日本画院」の第1回展に《冬日》を出品し、日本画院賞第一席を受賞。同展では1940年の《季節と高原》、41年の《自然と形象》で3年連続して第一席に輝いた。6月、第3回大日美術院展で《山三題》が大日美術院賞第二席を受賞、新設された院僚に推挙される。
昭和15(1940)年 32歳 4月、大阪毎日・東京日日新聞社主催日本画大展覧会に《山》《海》を出品、佳作賞を受賞する。11月、川崎小虎の長女すみと結婚。
昭和18(1943)年 35歳 3月、美術団体「国土会」の結成に参加。4月から5月にかけて中国を旅行。
昭和20(1945)年 37歳 7月、召集をうけて熊本の部隊に配属となる。8月、敗戦。12月、千葉県市川市に移って制作を再開する。
昭和22(1947)年 39歳 10月、第3回日展に《残照》を出品、特選を受賞する。この作品によって、以後、風景画家として立つことを決意する。
昭和25(1950)年 42歳 3月、1931年の東京美術学校卒業生有志による「六窓会」の結成に参加。7月、東京で「東山魁夷個展」を開催。10月、第6回日展に《道》を出品、好評を得る。
昭和29(1954)年 46歳 5月、第1回現代日本美術展に《晩照》を出品、佳作賞を受賞する。
昭和30(1955)年 47歳 4月、東京で「東山魁夷新作展」を開催。
昭和31(1956)年 48歳 5月、前年の第11回日展に出品した《光昏》によって日本芸術院賞を受賞する。9月、神戸で「東山魁夷個人展」を開催。
昭和34(1959)年 51歳 12月、東京で「東山魁夷『東京』展」を開催し、冬の東京に取材した連作を発表する。
昭和35(1960)年 52歳 4月、かねて宮内庁から依頼されていた東宮御所の壁画《日月四季図》が完成。
昭和36(1961)年 53歳 5月、初めての回顧展「東山魁夷自選展」を東京で開催。11月、皇居吹上御所の新築にあたり、かねて宮内庁から依頼をうけていた作品《萬緑新》を制作する。
昭和37(1962)年 54歳 4月から7月にかけて、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドをめぐる写生旅行をおこなう。
昭和38(1963)年 55歳 5月、東京で「東山魁夷北欧風景画展」を開催し、前年の北欧旅行の成果を発表する。11月、神戸で「東山魁夷代表作品展」を開催。
昭和40(1965)年 57歳 1月、日本芸術院会員に任命される。3月、日展理事に就任。
昭和41(1966)年 58歳 かねて宮内庁より依頼されていた新宮殿壁画制作のため、日本各地の海岸の写生と下図作成にほぼ一ヵ年をついやす。
昭和43(1968)年 60歳 11月、東京で「東山魁夷展-新宮殿壁画《朝明けの潮》下図/京洛四季-」を開催。
昭和44(1969)年 61歳 1月、《朝明けの潮》の制作および前年の「東山魁夷展」によって毎日芸術大賞を受賞。2月、大阪で同賞受賞記念「東山魁夷展」が開催される。4月より9月にかけて、夫妻でドイツ、オーストリアを旅行。11月、文化勲章を受章。あわせて文化功労者に選ばれる。
昭和46(1971)年 63歳 7月、かねて打診のあった奈良・唐招提寺御影堂障壁画の制作を受諾。11月より東京、大阪、名古屋、神戸、京都で「東山魁夷新作展」を開催し、ドイツ、オーストリアの古都を描く制作と「窓」の主題による連作スケッチを発表する。同じく11月より東京セントラル美術館、兵庫県立近代美術館で「東山魁夷展」を開催。
昭和47(1972)年 64歳 この一年を鑑真和上と唐招提寺の研究にあてる。奈良・大和路の自然と歴史、文化の探究につとめ、障壁画の構想を練った。
昭和48(1973)年 65歳 唐招提寺障壁画の準備のため、日本各地の山と海を取材する。11月より東京、神戸、名古屋で「東山魁夷『白い馬の見える風景』展」を開催し、幻想の白い馬を主題とする連作を発表する。
昭和49(1974)年 66歳 3月、日展理事長に就任(~1975年)。4月、岩手県民会館で「東山魁夷展」を開催。
昭和50(1975)年 67歳 エリザベス英女王の訪日にあたり、昭和天皇から贈られる作品《春の曙》を制作。5月、唐招提寺御影堂の第一期障壁画《山雲》《濤声》が完成、6月3日に奉納される。奉納の前後、東京、大阪、名古屋、神戸で「東山魁夷唐招提寺障壁画展」を開催。昭和天皇のアメリカ訪問に際し、フォード米大統領に贈られる作品《夏山白雲》を制作。
昭和51(1976)年 68歳 4月、日本文化界代表団の一員として中国を訪問。北京、西安、南京、揚州、上海を歴訪ののち、代表団一行と別れて太湖、桂林を写生する。8月、詩画集『コンコルド広場の椅子』の原画を制作。西ドイツ大統領から功労大十字勲章を贈られる。9月、熊本および石川県美術館で「東山魁夷展」を、また神戸で「東山魁夷五十年の歩み展」を開催。
昭和52(1977)年 69歳 2月、パリ日本大使館大使公邸のために《青い谷》を制作。4月、パリのプチ・パレ美術館で開催された「唐招提寺展」に障壁画《山雲》《濤声》が展示されたのにともなって訪仏。5月、東京で「東山魁夷展」を開催。8月、中国対外友好協会の招きで再び訪中。新疆ウイグル自治区の古代遺跡を写生する。
昭和53(1978)年 70歳 3月、千葉県立美術館で「東山魁夷展」を開催。5月、北京と瀋陽で「日本東山魁夷《夷画展覧》が開催されたのにともない三たび訪中。洛陽、南京、揚州を歴訪後、黄山に登り写生をおこなう。11月、パリで詩画集『コンコルド広場の椅子』原画展が開催され、シラク・パリ市長から金牌を贈られる。
昭和54(1979)年 71歳 三ヵ年にわたる中国での水墨スケッチをもとに第二期唐招提寺障壁画の構想をまとめる。6月に試作が完成し、本制作にとりかかる。4月、東ドイツのベルリン、ライプツィヒで「東山魁夷展」が開催されたのにともない訪独。11月、広島、岡山で「東山魁夷近業展」を開催。
昭和55(1980)年 72歳 2月、第二期障壁画《黄山暁雲》《揚州薫風》《桂林月宵》が完成。東京、名古屋、大阪で「東山魁夷第二期唐招提寺障壁画展」が開催される。6月、障壁画を唐招提寺に奉納。7月、ドイツ、オーストリアを旅行。
昭和56(1981)年 73歳 1月より福岡、下関、鳥取で「東山魁夷唐招提寺への道展」を開催。3月、神戸で「東山魁夷・東と西を結ぶ展」を開催。8月、東京国立近代美術館で「東山魁夷展」を開催。11月、唐招提寺鑑真和上像厨子絵《瑞光》を奉納する。
昭和57(1982)年 74歳 1月、新潟で「東山魁夷唐招提寺への道展」を開催。3月、東京で「東山魁夷唐招提寺全障壁画展」を開催し、第一・二期障壁画と厨子絵《瑞光》がはじめて一堂に展示される。4月、国立国際美術館で「東山魁夷展」を開催。6月、パリで「白い馬の見える風景」展を開催。7月、佐野美術館で「東山魁夷展―山河遍歴―」を、また11月には神戸市立博物館で「東山魁夷・中国の旅展」を開催。
昭和58(1983)年 75歳 4月より大阪、名古屋で「東山魁夷『樹々は語る』展」を開催。5月より西ドイツのミュンヘン、デュッセルドルフ、ブレーメンで「東山魁夷展」が開催されたのにともない、3回にわたって渡欧。
昭和59(1984)年 76歳 4月、日展顧問に就任。6月、西ドイツのプール・ル・メリット学術・芸術院の外国人会員に選任され、翌85年6月、ボン大学にて徽章を受ける。7月、清春白樺美術館で「東山魁夷展―三つのシリーズ―」を、11月には長野県県民文化会館で「山河遍歴・東山魁夷展」を開催。
昭和61(1986)年 78歳 6月、日本芸術院第一部長に選任される(~1989年)。7月、北澤美術館で「東山魁夷展―風景遍歴―」を開催。
昭和62(1987)年 79歳 8月、家蔵の自作を一括して長野県に寄贈することが決定。学生時代から写生旅行を重ね、自ら「私の作品を育ててくれた故郷」とよぶ信州へ、という希望によるもの。9月、本制作、習作・スケッチ、下図等500余点の寄贈作品目録を贈呈。
昭和63(1988)年 80歳 5月より京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立近代美術館で「東山魁夷展」を開催。11月、市川市文化会館で「東山魁夷展―唐招提寺への道―」を開催。
昭和64/平成1(1989)年 81歳 2月よりベルリン、ハンブルク、ウィーンで「東山魁夷展」が開催されたのにともない、3回にわたって渡欧。6月、オーストリア造形芸術家協会、ウィーン・キュンストラーハウス名誉会員に推挙され、また西ドイツ・バイエルン州功労勲章を受章する。8月、東京で「ベルリン・ハンブルク・ウィーン巡回展帰国記念東山魁夷展」を開催。
平成2(1990)年 82歳 1月、宮内庁から今上天皇の即位にともなう大嘗祭で皇居豊明殿を飾る《悠紀地方屏風絵(悠紀地方風俗歌屏風)》の制作を依頼される。この作品は同年9月に完成し、11月の大嘗祭大饗の儀で披露された。4月、長野県信濃美術館に併設して東山魁夷館が開館。開館記念「東山魁夷展―寄贈作品による画業の歩み―」が開催される。
平成3(1991)年 83歳 9月より神戸、京都、東京で「東山魁夷『わが旅の道』展」を開催。
平成4(1992)年 84歳 11月、ユネスコ芸術賞の創設に対する貢献により、ユネスコ・ピカソ金メダルを贈られる。
平成5(1993)年 85歳 4月、名古屋で「東山魁夷雪月花展」を開催。9月より北海道立近代美術館、松坂屋美術館、姫路市立美術館で「東山魁夷青の世界展」を開催。
平成6(1994)年 86歳 7月、東山魁夷館設立の契機となった長野県への自作の寄贈に対して、信濃毎日新聞社から第1回信毎賞を贈られる。10月、長野県信濃美術館・東山魁夷館で開館5周年記念「東山魁夷信州を描く」展を開催。11月、市川市に東山魁夷アートギャラリーが開館し、版画、複製画等を常設展示する。
平成7(1995)年 87歳 7月より東京、京都および長野県信濃美術館で「米寿記念東山魁夷展」を開催。8月、長野県山口村(現・岐阜県中津川市)に東山魁夷心の旅路館が開館し、前年に村へ寄贈した版画、複製画等を常設展示する。
平成8(1996)年 88歳 2月、長野県内の高等学校全106校に、近年刊行した画集・展覧会図録を贈呈する。3月、長野県伊那文化会館で「東山魁夷の版画世界」展を開催。
平成9(1997)年 89歳 3月より神戸、福岡で「東山魁夷『私の森』展」を開催。9月、長野県伊那文化会館で「東山魁夷展-創作の軌跡-」を開催。
平成10(1998)年 90歳 1月、長野県信濃美術館・東山魁夷館で長野オリンピック文化・芸術祭参加/長野パラリンピック文化プログラム「人と自然、そして祈りin Japan」展が開催され、三部構成のうち第Ⅱ部が「東山魁夷・自然との対話」にあてられる。2月、清春白樺美術館で「東山魁夷青春の滞欧スケッチ1933-35」展を開催。5月より富山県立近代美術館、千葉市美術館で「東山魁夷展」を開催。
平成11(1999)年 5月6日、老衰のため逝去。従三位、勲一等瑞宝章を贈られる。7月より岡山県立美術館、茨城県近代美術館で「東山魁夷展-永遠の祈り-」を、また11月にはパリで「東山魁夷展」を開催。
平成12(2000)年 1月より福岡、東京、名古屋で「パリ展帰国記念東山魁夷展」を開催。4月、長野県信濃美術館で東山魁夷館開館10周年記念展「東山魁夷の世界」を開催。
平成16(2004)年 1月より横浜美術館、兵庫県立美術館で、「東山魁夷展-ひとすじの道」を開催。
平成17(2005)年 4月より長野県信濃美術館・東山魁夷館(両館)で東山魁夷館開館15周年記念展「東山魁夷の世界-創作の軌跡と同時代の人々」を開催。
平成20(2008)年 3月より東京国立近代美術館、7月より長野県信濃美術館・東山魁夷館(両館)で「生誕100年 東山魁夷展」を開催。
平成22(2010)年 7月より長野県信濃美術館(小展示室)と東山魁夷館で東山魁夷館開館20周年記念展「Ⅰ白い馬の見える風景」「Ⅱ信州讃歌」を開催。
平成24(2012)年 7月より北海道立近代美術館、9月より宮城県美術館で「東山魁夷展」を開催。
平成26(2015)年 7月より長野県信濃美術館 東山魁夷館で「東山魁夷館25周年記念 日展三山‐東山魁夷、杉山寧、髙山辰雄‐」を開催。

東山魁夷 - Wikipedia

『緑響く』(1972年、長野県立美術館収蔵・御射鹿池を描いた作品)と下の映像を比べ的ださい。
長野県立美術館収蔵のは青みが勝っており、限定販売された復刻のリトグラフは緑が濃い。
色がいろいろなのを見ていると絵画における色使いとは何であるか、ということが浮かび上がる。
同じことは写真における露出に置き換えられる。適正露出とは何だろう。


東山魁夷の『緑響く』(1972年作品。御射鹿池の風景でもある。

御射鹿池 - Wikipedia
 池がある横谷渓谷は奥蓼科温泉郷に代表される、酸性の冷鉱泉の影響と1,100mの高地に由来する冷害に苦しんできた。1933年(昭和8年)、ため池として御射鹿池が完成した。流れ込む冷たい水を留め、温めることによって農業用水として使用できるようになった。渋川から引いた2万6000m3の潅漑用水を湛えている。水源が魚などは生息できない程に酸性が強く稲作にも適さない問題を湧水からの加水によって解決を図る。日本画家・東山魁夷の作品『緑響く』のモチーフとして有名な池である。

20240-05-16-kaii-higashiyamas-painting-green-echoes-and-mishaka-pond-

[資料]

日本計量新報記事 12年1月1日2899号第1部 (keiryou-keisoku.co.jp)

【組み写真のバージョン】山の向こうに五箇山を感じる5月5日の城端曳山祭 | 「計量計測データバンク」ニュース - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

【代表写真だけのバージョン】山の向こうに五箇山を感じる5月5日の城端曳山祭 | 「計量計測データバンク」ニュース - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

『日本計量新報』電子速報版 2017年05月21日号 (keiryou-keisoku.co.jp)

城端曳山祭 | 旅々なんと|南砺市の観光情報サイト|南砺市観光協会|五箇山 (tabi-nanto.jp)

城端むぎや祭 | 旅々なんと|南砺市の観光情報サイト|南砺市観光協会|五箇山 (tabi-nanto.jp)

お知らせ - 絢爛豪華 城端曳山祭 | 南砺市(なんとし) (city.nanto.toyama.jp)

城端曳山祭 | イベント | 【公式】富山県の観光/旅行サイト「とやま観光ナビ」 (info-toyama.com)

城端曳山祭|北日本新聞webunプラス

砺波平野 - Wikipedia

かいにょ苑 - 砺波市役所 (tonami.lg.jp)

砺波平野の屋敷林を学ぶ untitled (tym-midori.net)

暮らしに息づく伝統文化を探る 富山県砺波市 散居村:JR西日本 (westjr.co.jp)


ここは高原 季節が一気にはじけて春がきた 甲斐鐵太郎

東山魁夷の絵画「緑響く」と御射鹿池 甲斐鐵太郎

新緑の風かおる五月五日の城端祭り 甲斐鐵太郎

計量計測データバンク ニュースの窓-59-私の上高地 安曇野 松本と信州

【文書版】5月の連休に安曇野を遊覧する | 「計量計測データバンク」ニュース - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

槍ヶ岳 安曇野の空に浮かぶ 甲斐鐵太郎

安曇野の夏、8月18日には稲が実りかけておりました 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

美ヶ原が松本駅からよく見える | 「計量計測データバンク」ニュース - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

五月 春の陽光の安曇野 大町市 執筆 甲斐鐵太郞

2020年3月の松本市長選挙の結果と松本市の概要 旅行家 甲斐鐵太郞

美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎

アカシアの白い花が咲いていた 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

松本市と松本城そして穂高連峰 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

国道158号線 松本市に向かう冬の旅である 執筆 甲斐鐵太郎

大王わさび農場を冬至の日に訪れる 執筆 甲斐鐵太郎

上高地夏至のころ 執筆 甲斐鐵太郎

上高地 晩夏

私と上高地-その6-上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎

上高地 錦秋の梓川の流れ 甲斐鐵太郞

散りゆく唐松林の向こうに銀嶺の穂高連峰が輝いていた 甲斐鐵太郞
私と上高地-その6-上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎

私と上高地-その5-格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その4-槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その3-上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎

上高地讃歌-その1-私の上高地そして小梨平 執筆 甲斐鐵太郎

標高3000mに集まった人々 人それぞれの人生が垣間見える 執筆 甲斐鐵太郎

メルヘン 森と泉がおりなす世界 青木湖 執筆 甲斐鐵太郎

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ 執筆 甲斐鐵太郎

6月24日、松本市波田のスイカを買う 温室栽培の大玉スイカです

信州をぶらぶらする 青い麦畑に風の姿がみえた (麦畑は風が吹くとその姿を麦の穂が写し取った)

松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)

北アルプス連峰の鹿島槍ヶ岳について 文章 夏森龍之介

霧ヶ峰高原と日本アルプスの遠望 甲斐鐵太郞

東京から松本行きのバスの執着地はホテルと酒場であった 甲斐鐵太郎

上高地に似ている高原川の上流部 甲斐鐵太郎

6月26日、カッコーが八島湿原で啼けば夏です 旅行家 甲斐鐵太郎

信州の秋をめぐる 諏訪から佐久にでる 千曲川沿いを走る

奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった

山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎

諏訪生まれの小口太郎と琵琶湖周航の歌 甲斐鐵太郎

信濃への美しき旅 長野県立博物館と善光寺 甲斐鐵太郎
いつかの夏 夢の径 甲斐鐵太郎

クマも鳥も虫も神である国の寒山の森の暮らし 甲斐鐵太郞 ナチュラリストのエマソンとソローと、日本の自然のなかの田渕義雄さん

旅のエッセー集 その1 旅行家 甲斐鐵太郎

旅のエッセー集 その2 旅行家 甲斐鐵太郎


[資料]
春の高山祭2024 からくり奉納(15日・午後2時〜) (youtube.com)
1,009 回視聴 22 時間前にライブ配信。春の高山祭の屋台組「三番叟」「龍神台」「石橋台」の3台によるからくり奉納を生配信します。伝統を受け継ぐ綱方たちが人形に息を吹き込み見事な早変わりや華麗な演舞を披露します。

春の高山祭り 甲斐鐵太郎

甲府盆地 釈迦堂の桜と桃とレンギョウの百花繚乱 甲斐鐵太郎

八ヶ岳の森と春を恋う叫び 甲斐鐵太郎

槍ヶ岳 安曇野の空に浮かぶ 甲斐鐵太郎

キツネ - Wikipedia

車山高原レア・メモリーが語る諏訪地方の狐の生態 (rarememory.com)

冬の高原でキツネに出会う 甲斐鐵太郎

旅行家甲斐鐵太郎の自然博物誌 (keiryou-keisoku.co.jp)

人は空の抜けた霧ヶ峰高原で少し気持ちよくなるが同時に虚ろさを感じる 執筆 甲斐鉄太郎

冬の霧ヶ峰高原で群れる日本鹿(ニホンジカ) - livedoor Blog(ブログ)

新美南吉と新美南吉記念館 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

晩秋の霧ヶ峰高原 霧に包まれたカラ松の高原道路を走る 執筆 甲斐鐵太郎

人は空の抜けた霧ヶ峰高原で少し気持ちよくなるが同時に虚ろさを感じる

軽四駆比較 スズキ・エブリイとスズキ・キャリイ 甲斐鐵太郎

2024-04-10-mountain-hut-at-altitude-of-1600m-and-computer-


旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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韓国でのセミナー講師を通じて感じた韓国の計量事情-その1-執筆 横田俊英

韓国でのセミナー講師を通じて感じた韓国の計量事情-その2- 「日本の計量器産業論-その1-」序論) 執筆 横田俊英

「日本は貿易立国ではない]輸出依存度は15.2%

日本は第3次産業に移行中。変化する産業・職業構造(総務省統計局が2005年国政調査もとにまとめた資料による)

国土地理が日本の重力値の基準を40年ぶりに更新。国土地理院が2017年3月15日に公表

「重力を知る」 重力とは、重力の単位、地球の重力値、重力の役割

5月下旬の韓国ソウル市中心街で過ごした一日(日本と韓国を考えるために役だった滞在だった)

中村進の社会時評 「角界の野球賭博と警察の物差しの狂い方」(今回の野球賭博で相撲界だけを問題にすることには疑問)

黒須茂のエッセー 「人間万事塞翁が馬」天下り校長の悪行を地元紙であばくことで書くことに快感をもつようになった

夏至の日の旅行。滋賀県の草津駅で「旅は夕暮れに尽きる」と思う 旅行家 甲斐鐵太郎

郡上八幡の6月24日は夏だった 宿の白い暖簾が気持ちいい 旅行家 甲斐鐵太郎

6月25日、日曜日の高山を訪れる。古い町並みと朝市を見物する。旅行家 甲斐鐵太郎

カッコーが八島湿原で啼けば夏です 旅行家 甲斐鐵太郎

長良川上流を旅する ゲンジボタルが郡上市白鳥の宿の裏の小川の宙を舞う2017年7月7日であった 旅行家 甲斐鐵太郎

郡上八幡の盆踊りの始まりに合わせて長良川を旅しました 旅行家 甲斐鐵太郎

長良川上流を旅する 郡上おどりが始まった2017年7月8日に郡上市を訪ねる 旅行家 甲斐鐵太郎

長良川上流を旅する 長良川鉄道終着の北濃駅の食堂「花まんま」で蕎麦と鮎ご飯を食べた2017年7月8日 旅行家 甲斐鐵太郎

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