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日本計量新報(計量計測データバンク)2020前期投稿のエッセーと論考など
(計量計測データバンクweb版)
Metrology Data Bank 2020 essay and discussion posted in the first half

日本計量新報(計量計測データバンク)2020前期投稿のエッセーと論考など
 (計量計測データバンクweb版)
本稿は日本計量新報に連載された文章をweb版である計量計測データバンクで取り扱ったものです。

日本計量新報(計量計測データバンク)2020前期投稿のエッセーと論考など

日本計量新報(計量計測データバンク)2020前期投稿のエッセーと論考など エッセーなど投稿された文書一覧

日本計量新報(計量計測データバンク)2020前期投稿のエッセーと論考など


Tokyo Olympic Games by Syouiti Aanzai
東京オリンピックを計る 豊洲市場協会 計量士 安齋正一
2020-06-11-9-tokyo-olympic-games-by-syouiti-anzai-

一、 世界の人々の行動の自由を奪っている「新型コロナウィルス」について
「2020 東京オリンピック」開催の新年を晴々と迎えた日本国及び世界中の人々を容赦なく恐怖に怯えさせている「新型コロナウィルス」が広がり続けているところです。
 中国を発生の地として感染者が全世界に広がり、感染者数が二月十日現在中国に次いで二位という我が国にとって不本意なデータが世界を駆け巡っているのです。

二、 新型コロナウィルスを計る
 皆既日食のとき太陽の周囲に見える銀白色の光の環(写真)をコロナと呼び、ウィルスの形がコロナに似ていることから「コロナウィルス」という名称になったとのことです。


Childhood experience by Kouya Yano
幼少時の経験 日本大学 矢野耕也
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 子供の興味などはどこでどう変わるかわからない。幼い時の神童が、年を経てくたびれた中年となっている話はよく聞くが、幼児期の、特に男の子は動くものに惹かれることが多いのではないだろうか。

 球技という身体系は置くとして、例えば車、飛行機、鉄道、船とか、生き物や植物というケースが王道であろう。金魚や犬猫は飼育という手段の個人所有が可能であるが、交通系はおもちゃ以外に所有が出来ず、現物を見るしかない。

 自分のことで恐縮であるが、おもちゃや模型では我慢が出来ずに、ある時から実物を見たいといい出して親をたいそう困らせた。小学生にありがちなわがままであるが、どこかで森林鉄道なる、童話に出てくるようなものを見つけた。そんな話を親が信じるわけもないが、ならば証拠をと、これもどうやって見つけたのか忘れたが、旅行雑誌の切り抜きか何かを見せ、さらに1973年1月放映の「新日本紀行」というNHKの番組で取り上げられたことから親も渋々折れ、翌年の夏に観に行くことになった。その夏といわずに翌年というところが親の戦略だったのだろうが、鬼も笑う来年の話に夢中になっていた。

 翌夏に浮かぬ顔でついてきた親と共に現物を見て驚いたのが、スケールの小ささであった。JRの線路幅は1067mm、すなわち3フィート6インチ(3(ft)6(in))であるが、1(ft)も狭い2(ft)6(in)の762mmで、標準軌といわれる新幹線の4(ft)8.5(in)の1435mmの半分くらいしかないが、いずれもメートル法に準拠していない。この幅も私設鉄道条例(1887年、現在は廃止)周辺のれっきとした法律に基づいていると知ったのは後のことであるが、同時期にメートル条約に加盟してはいるものの、敷設目的の規格という側面が強いからか、インチ基準で成立している。因みに1000mm幅には、タイとミャンマーを結んでいた泰緬(たいめん)鉄道という太平洋戦争時の例があるが、メートル法に準拠した線路幅はあまり聞かない。

 ところで、その森林鉄道で初めて目にした保線用の小さな移動車にタコグラフ装着とあったが、子供にはそれが何であるかさっぱりわからないまま、翌年の遠足のバスの後部に同様のシールが貼られていたのに気付き、タコなる語感の奇特さも相まってその謎は深まるばかりであったが、要は運行記録計である。

 その後年月を経て就職後の現場で、似たような原理の経時記録計の保守を担当した。1週間単位でチャート紙にインクで動作の記録をする仕組みだが、補充忘れで紙切れを起こしたり、スプロケットで巻き取る記録用紙が外れて、紙が進まずにインクが全部1点で消耗をしていたり、印字記録を屏風のように畳んでの整理というように、使い方も悪いとはいえ、おおよそ現代のデジタル方式では信じられない素朴さがあった。

最近は多くがデジタル化され、タクシーはおろか個人用のドライブレコーダーさえ標準装備になりつつある現代、思わぬところで計測器の進化はあったものだと、遠い記憶を辿った次第である。


IoT and measurement uncertainty by Hiroyuki Nakano
IoTと測定の不確かさ 中野廣幸(計量士)
2020-06-11-7-iot-and-measurement-uncertainty-by-hiroyuki-nakano-

 2020年春には、5G、第五世代移動通信システムが導入されます。これにより高速大容量、低遅延、多接続可能なネットワークシステムが実現され、従来インターネットに接続されていなかったモノ(センサー機器、アクチュエーター、建物、車、電子機器など)が、ネットワークを通じて接続されるIoT技術が進歩して、ますます生活が便利になるといわれています。

 従来、主に物販、流通に限られて、「だれが、どこで何を買ったか」というデータのみしか扱えなかったものが、この5G、第五世代移動通信システムにより、より多くのデータが高速でコンピュータ処理ができるようになります。それらデータの中には、IoTを実現する上で、必要となる物に付随するさまざまな諸元、たとえば“重量、力、長さ、時間、速度、加速度、粘度、圧力、電流、電圧、周波数、磁力、光、エネルギー等”が含まれます。

 ただ、やっかいなのはこれらの物理量を情報・データとして扱う際に、それら物理量データの中に、測定の不確かさが付いてくるということです。これらの測定の不確かさを、十分小さくしないと、処理データの妥当性や信頼性が確保できず、IoTを実現することができません。

 処理データの不確かさを許容範囲以下とするためには、残念ながらAI技術をはじめとする情報技術は役に立ちません。なぜなら、いかに進んだ情報処理技術も、もとになる情報自体が正確であることが前提で処理されるものであり、ファジーな情報からはファジーなアウトプットしか得ることができないからです。ファジーなアウトプットを、実際にIoTに採用した場合、最悪、人に危害を与えるものとなります。正しいアウトプットのためには、正しいインプットが必要です。実際にインプットするデータに偏見があったために、ビックデータによる解析の結果に、女性蔑視、人種差別が反映された例も、昨年発生しています。

 IoTにおいて、コンピュータが出す指示と、実際のものの動きとの間には、測定の不確かさの分だけのズレが発生し、不確かさがリスクとなって現れます。このズレを十分小さくすることが、計測技術者の仕事です。現在のところ、コンピュータ通信技術には大きな関心が払われていますが、データ自体が持つ測定の不確かさの影響については、あまり大きな注意払われておらず、正確な情報・データを得るための努力が評価されていません。

 IoT技術の実現には、データの高速大量通信技術と、データそのものを正確に(不確かさを小さく)取得する測定技術の二つが不可欠です。今後5G、第五世代移動通信システムの導入にともない、テータ・情報に求められるものは、量もさることながら質の時代になるでしょう。いかに計測技術者が質の良い(不確かさの小さい)情報を提供できるかがIoT実現の鍵となるでしょう。


In an age of encouragement by Kenji Yokosuka-
心励ます時代に メジャーテックツルミ会長 横須賀健治
2020-06-11-8-in-an-age-of-encouragement-by-kenji-yokosuka-

“心励ます時代に”メジャーテックツルミ会長 横須賀健治

 2020年は、どんな年になるのでしょうか。オリンピックのある年ですね。日本がどう運営し、世界からこられる人に日本を楽しんでいってもらうかですね。いまから55年ほど前の東京オリンピックは、日本を知ってもらうことが大きな目的でした。今回はなにを狙いとしていくのでしょうか。若い選手の成長であり、日本の豊かさへの努力なども見てもらうのでしょうね。

 今、日本は大きな転換の時が来ていると考えられます。平成がとても穏やかな時代だという意見があります。一方で大変な格差がでていると言われ。出生率が大きな変化を見せていると言われています。連帯から個になってきています。この時に、オリンピックに何を期待しょうとしているのでしょう。今一度それぞれがしっかりと考えていく年になるのでしょう。

 2020年は庚子(かのえ・ね)です。「庚子」の場合「庚:金の陽」「子:水の陽」で“相生(そうせい)”という関係です。相生は相手を強める影響をもたらし、特に金生水といい、金から水が生じるイメージです。勉学や仕事、恋愛、健康など、それぞれが相互に影響をもたらし合います。なにかに行き詰まったときは全く別のものから活路を見いだせることもあるでしょう。十干十二支を植物で見た時、庚子は変化が生まれる状態、新たな生命がきざし始める状態なので、全く新しいことにチャレンジするのに適した年とも言われます。

 計量の世界では法改正は具体的に動き出さないといけないでしょう。どのような仕組みにしていくのか、「かのえ・ね」でつづってみます。

“か”
   かがやき安心して活用できる
   計量の安全。安心を届ける
   わかりやすい制度を立ち上げる

“の”
   望まれる豊な制度である
   誰でもが喜んで参加できる
   制度として立ち上がる

“え”
    絵に描いた餅になるのでなく
   こうなってよかったと言える
   仕組みを立ち上げである

“ね”
    狙いをきちんと見定め
   尊い命を大切に取り扱える
   役に立つ制度のたちあげ!


 オリンピックの年に計量がバタバタしてはなりません。安心社会のベースは、確かな計量社会からを合言葉に、官民一体の協力が欠かせません。新しい時代の幕開けにふさわしい制度の立ち上げになって行って欲しいものです。計量の改正がオリンピックを盛り上げ、社会の様々な分野における活性化の促進になることを願わずにはおれないのです。


"Mr. Ai Tachibana, Metric, Mr. Yoshida" Yoshio Sakurai
「愛橘先生、メートル法、吉田さん」 善光寺 櫻井慧雄
2020-06-11-1-mr-aikitu-tanakadate-metric-mr-uoshida-yoshio-sakurai-

 愛橘先生とは、もちろん、東京帝國大学名誉教授、貴族院議員、万国度量衡会議常置委員(現国際度量衡委員)ほか幾つかの称号をお持ちだった田中舘愛橘先生のことで、われわれ仲間内でお呼びするときの愛称である。また私にとっては、中学3年生の時に89才で逝った明治元年生まれの祖父に、写真で拝見する最晩年の愛橘先生の雰囲気がとても似ているので、愛橘先生という愛称がとても気に入っている。ここでは失礼ながらそう呼ばせて頂く。多分、明治の人が共通にもつ独特な風貌がそう思わせたのだろう。

 吉田さんは産総研OBで、2001年に50才半ばで民間の計測関連会社から産総研に移り、電気関係の初期のトレサに貢献した吉田春雄さんで、私は2002年に産総研を定年退職したから、ほとんど接触がなかった。しかし今では、学友、トレサ仲間、愛橘先生を敬愛する友、ガンとも(癌友)、“さきたま”探検会の友、として頻繁に交流している。癌友とは、最近揃って癌を経験した仲間であり、探検会の友とは、荒川流域と“さきたま”平野の地勢や自然を探訪する仲間である。

 吉田さんは令和元年9月に「メートル法と日本の近代化」という著作を現代書館から発表された。

 そのあらすじは、一言でいうとこうである。明治維新には産業育成、富国強兵のもとに、大量の西洋文化を直輸入し、近代化を急速に進めていた。その結果、国内はメートル法、ヤードポンド法、尺貫法、斤法などが乱立し、政治、経済、軍事、文化などに大きな混乱が生じてしまい、近代化の大きな足かせになっていた。

 南部藩出身の愛橘先生はその矛盾を早々に解消すべきとの信念のもとに、南部藩藩校・作人館で同期だった原敬(後の宰相)との間で深い契り『盟友』を誓い合い、多くの困難を乗り越えて単位系の統一、すなわちメートル法の法制化を成し遂げた、という物語である。

 この著書の評価は、別途、日本計量新報紙上に掲載される予定であると聞いているので、それを参照して頂きたい。私として申し上げたいことは、「この本に書かれたメートル法の法制化のプロセスや先人の苦労は、平成5年の新計量法でSI単位系の採用に至った土台の土台であり、したがって、規制計量を業務とする方々、トレサを業務とする方々、にとってはとても大事な一般教養である」ということである。

 吉田さんはあとがきに、「岩手という地のローカルな人物誌を描きたかったのではなく、戊辰戦争後の逆境にあっても日本の未来を描き続けた男たちの姿を述べたかったのです」と書いているように、その視点でこの著書を味わうことも別格の楽しみである。

 このご本で私が一番心を打たれる下りは、父の自刃の報を知った東京在住の愛橘先生が、故郷、陸奥福岡(現岩手県二戸市福岡)に安置された父の元に馳せ参じる一節である。何故なら、そこに愛橘先生の誠実なお人柄、父に対する恩愛の深さを感じるからである。当時、白河以北の街道はまだ十分に整備されていなかったので、東京から二戸までは通常2週間を要するとされていたそうだが、愛橘先生はこれを6日間で走破したとある。

 明治16年12月6日、横浜港から船で荻の浜(金華山がある牡鹿半島の付け根)に渡り、石巻から豊間(現登米市)へ。さらに北上川を遡って北上する。みぞれの中を金成(栗原市の一角)、一ノ関、衣川、黒沢尻(北上市の一角)を通り、12月11日昼に盛岡着。渋民まで行き、日が暮れたので人力車を雇う。雪は依然として止まず。御堂まで行き、橇(そり)を雇ってそれに乗り換えた。夜を徹して奥中山の峠を越え、一戸に着けば一番鶏の声。12月12日、末の松山(現浪打峠)を越えて福岡の本宅に到着、父に対面する、とある。

 この節で吉田さんは愛橘先生の歌三首を載せている。

 横浜から荻の浜に向かう洋上で、
   「板ひとつ 界になせる 根の国に 父いますやと 呼べど応えず」
 一ノ関から黒沢尻の道中で、
   「今日もまた みぞれ降るなり たらちねの 親の闇路を 思いこそやれ」
 一戸から二戸への最後の関門、末の松山越えで、
   「かえりても かえり越えても 我が心 なぐさめかねき 末の松山」

父を慕う愛橘先生の篤い心が、私の心を突き刺し、涙が出る。

 最近、さきたま探検会の活動で知った、Webで使う国土地理院の地図:「電子国土WEB」(URL: https://maps.gsi.go.jp/)は大変な優れものでいろいろな使い方ができるが、ここでは愛橘先生が夜を徹して越えた奥中山の峠道(旧奥州街道で、盛岡から国道4号とほぼ重なる)について、盛岡から二戸までの標高の変化を調べてみた。それを図1に示す。

 最高点は奥中山高原にある十三本木峠で470mあり、盛岡から48kmの地点である。盛岡駅の標高が130m程度であるから、人力車と橇で標高差340mの雪夜の峠を越えたというわけだ。なお図1で二戸直前のピークは、愛橘先生の和歌ある末の松山と呼ばれる峠道である。

 同じ国土地理院の地図で、東海道の箱根峠、静岡県菊川の小夜の中山峠を調べてみた。箱根峠は歌にも詠われているから読者はよくご存知と思うが、静岡県三島との標高差は850mあるから、まさに天下の嶮である。一方、小夜の中山峠の場合、静岡県掛川と中山の標高差は220mであり、愛橘先生が越えた奥中山より120mほど小さい。気候条件も北国よりずっと良いはずだ。

 でも西行法師の和歌には、

 「年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり 小夜の中山」

とある。

 これを見る限り、西行の年齢のこともあろうが、かなり厳しい行程だったと思われる。東海道は鎌倉に幕府ができてから整備されてきたそうだが、小夜の中山峠は江戸時代においても“東海道三大難所”に数えられている。だから奥中山の峠越えも相当な難所であり、しかも雪道の山行だったから、その困難さは想像に余りあろう。

 愛橘先生の福岡への往路をトレースすると、横浜から石巻まで水路、そこから盛岡の先の御堂までは北上川沿いの道、奥中山の峠を越えると今度は馬淵川に沿う道となる。しかし、川が作った、その両脇の平地を進むことも広く採って水路と見なせば、愛橘先生の旅では、陸路の割合は一割にも満たないだろう。私が普段あげるお経に、

 インドの龍樹菩薩がおっしゃった、
 顕示難行陸路苦(陸路のあゆみ難けれど)
 信楽易行水道楽  (船路の旅の易きかな)

という一節がある。

 この意味は、『覚りに向かって歩む方法に二種ある。ひとつは陸路であり、他は水路である。でも陸路(戒を守った厳しい修行)は厳しくて大変な道であり、とても難しい。それに対して水路(ほとけが称える名号を心の耳で聞くこと)は易しい。

 丁度、船に乗っていれば自然に目的地へ連れて行ってもらえるようなものだ。だから、並外れて特別な才能を持った人は別として、凡夫(一般人)にとっては、水路が勝っている。』というものである。

 実際に愛橘先生が通った往路は何回かの帰郷で経験的に選んだ道かも知れないが、ほとんどが水路であったから、愛橘先生の深い思いが叶ったとは言えないだろうか。私はこの一節に出会って、2000年前の龍樹菩薩の教えに対するひとつの証をようやく探し当てた思いがして、とても嬉しかった。(完)

図1 盛岡から二戸までの標高の変化


The principle of buoyancy and the concept of density and specific gravity in the Edo period by kunimitu nakamura
江戸時代における「浮力の原理」と「密度・比重」の概念 日本計量史学会 中村邦光
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 浮力の原理すなわち「アルキメデスの原理」は、その名が示す通り古代ギリシャのアルキメデスによって研究された科学的業績であって、古い歴史をもっています。そして、この原理はアラビアを経てヨーロッパに伝えられ、古代原子論と共にガリレオの近代力学の基礎となりました。

 この話題では、日本科学史の全体像(通史:縦糸)を詮索するための一環として、江戸時代の日本における「浮力の原理と〈密度・比重〉の概念」の認識の状況を紹介します。

1、原子論と「密度・比重」の概念

 「浮力の原理」というのは、空気中で量った重さと水(液体)中で量った重さの差額分、すなわち「重さの減少分は、物体と同体積の水(液体)の重さに等しい」というものです。

 この重さの減少量を「浮力」といいます。そして、同じ重さの物体の浮力の相違は、体積の相違、すなわち「密度。比重」の概念であり、これは原子論的な物質観です。すなわち、アルキメデスは「密度・比重の概念」を数量的に認識し、科学的にしたということです。そして「浮力の原理」を用いて測定すれば、精密な比重〈密度)の測定ができます。

 それでは、中国人や日本人はいつごろ、どのようにしてこの原理を知ったのでしょうか。

 中国や日本の書物で「密度や比重の値、および浮力の原理」が記載されている書物を系統的・悉皆的に調べてみました。その結果「浮力の原理」は、中国や日本では一七世紀になってヨーロッパの宣教師たちが中国に伝えるまでは知られていませんでした。

 しかし、じつは「密度・比重の概念」は、人間の日常生活や科学的認識の上で、長さ(度)、体積(量)、重さ(衡)と共に基本的な概念です。今日の密度は「重さ÷体積」で定義されるので、論理的には「重さや体積に従属するもの」と思われるのが普通ですが、中国や日本でも「密度・比重の概念」は、「浮力の原理」に先だって古くから明確に意識化されていたことが分かりました。

 すなわち「密度」は、日常生活に密着した、より根源的な概念だったのであります。ちなみに、ニュートンはその著『自然哲学の数学的原理』(一六八七年)において「質量」を「密度÷体積」で定義をしています。これは、ニュートンやガリレオの原子論的な思考の上では、質量や重さよりも「密度」の方がより根元的な量であると考えていたことを示すものといえましょう。

 板倉聖宣の『原子論の歴史』(仮説社、二〇〇四年)においても、古代ギリシャから古代ローマに至る紀元四世紀までは「原子論が正統(多数派)」で「キリスト教が異端」であったのが、紀元四世紀以降には「キリスト教が正統」となり、「原子論が異端」(神は
〈真空〉を嫌い給う)となったことを紹介しています。すなわち、紀元四世紀以前の古代ギリシャや古代ローマでは「原子論(密度)は生活体験的で一般に認識された概念」だったのです。

2、古代中国の「密度」と代表的な和算書の「密度表」

2・1古代中国の「密度」

 中国文献に掲載されている密度に関する最も古い記述は、調査したかぎり『漢書』の「食貨志(下)」の冒頭部分に出てくる「黄金方寸而重一斤」という文章です。『漢書』は、後漢の初め頃に班彪によって着手され、その子班固によって章帝建初(紀元七六年~八三年)の初め頃に完成したといわれていますので、西暦紀元一世紀に完成した書物です。

 しかし、記述の対象になっている事柄は前漢時代の事柄ですので、前漢時代(紀元前二〇二年~紀元八年)には「黄金の密度は一立方寸当たり一斤」とされていたことが分かります。

 ところで、江戸時代末期の考証家・狩谷腋斉(一七七五年~―八三五年)の考証結果によると、漢の時代の一尺は、唄治期法定の日本の一尺よりはかなり短く、「漢の一尺=日本尺七寸六分」つまり二三・〇三センチメートルに当たり、また漢の時代の一斤も明治期法定の一斤よりはかなり小さく、「漢の一斤=日本の六〇匁五分」つまり二二六・八七五グラムに当たるといいます。

 そこでこれらの値に基づいて「黄金は一立方寸当たり重さ一斤」という数値を今日の単位に換算すると、約一八・六グラム/立法センチメートルとなります。今日の金の密度は一九・三グラム/立法センチメートルですので、これはかなり今日の値に近いといえます。
 また『漢書』のあと、三世紀に成立したといわれる古代中国の数学書の『孫子算経』には、次のような諸物質の密度表が掲載されています。

 すなわち、
▽黄金方寸重一斤▽白金方寸重一四両▽玉方寸重一二両▽銅方寸重七両半▽鉛方寸重九両半▽鉄方寸重六両▽石寸重三両
というものです。

 このうち「黄金方寸重一斤」というのは『漢書』に記載されているものと同じです。そして『孫子算経』(三世紀)の密度表は、漢の時代の単位、すなわち「漢の一尺=二・三〇三センチメートル、一斤=二二六・八七五グラム」に換算して検討したところ「白金?」と「玉?」と「石?」を除く、金属の密度については、かなり正しい値に近いことが分かりました。

2・2和算書に掲載された「密度表」

 それでは、日本では「密度」はどのような値だったのでしょうか。

 じつは、江戸時代初期の日本の数学書で、吉田光由の『塵劫記』の寛永八年(一六三一年)版には「諸物軽重の事」と題して、一立方寸当たりの重さの表が掲載されています。

 すなわち、
▽金(一立方寸、おもさ)一七五匁▽銀(同)一四〇目▽鉛(同)九五匁▽錫(同)六三匁▽玉(同)―二〇目▽銅(同)七五匁▽鉄(同)六〇目▽真鍮(同)六九匁▽青石(同)三〇目▽土(一立方尺、おもさ)―一貫目
というものです。

 これは、基本的に中国算書の『算法統宗』(明・万暦二―年・一五九三年)の密度表を概ねそのまま受け継いだものです。違うのは、新しく錫と真鍮と土が加えられていることと、金の密度が『算法統宗』に「金、重さ一六両」とあったのを「金一六〇目」とはせずに「一七五匁」としているところです。

 しかし『塵劫記』(一六三一年)の時代の尺貫法の値は、既に明治期法定の尺貫法(一匁=三・七五グラム、一寸=三・〇三センチメートル)と同じになっていたので、たとえば金の密度についてみると、今日の値一九・三グラム/立法センチメートルは、尺貫法に換算すると一四三・二匁/立方寸となるので、『塵劫記』の値一七五匁/立方寸は・二三・五九グラム/立方センチメートルとなり、かなり大き過ぎることになります。

 それにしても、この数値は、古代中国の「金」の密度一六〇匁/立法寸=一八・六グラム・立法センチメートルとはかなり違っていたわけです。どこから引用したのでしょうか。今のところ不明です。

 しかし、その後一七世紀の日本においては、単位換算がおこなわれたりしながら、その数値は多様化していきました。そして、一七世紀の和算書には、かなり「物理・実用的な事柄」への関心が認められます。

 たとえば、村松茂清の『算俎』(寛文三年・一六六三年)の五年後に出た岡嶋友清の『算法明備』(寛文八年・一六六八年)にも密度表が掲載されていますが、その「軽重」の値は従来の和算書と著しく違っています。

 十一物質のうち、他の和算書と共通なのは二つだけ、すなわち鉛と銅が今村知商の『竪亥録』(寛永一六年・一六三九年)および磯村吉徳の『算法闕疑抄』(万治三年・一六六〇年)と共通なだけで、その他はすべて新しい数値です。

 金の値が一三五匁/立方寸(一八・二グラム/立方センチメートル)と、どの和算書の値より小さくなっていますが、これは金座の役人か両替商などから聞いて取り上げたものと思われます。当時の金座や両替商たちは、金の密度を一三〇~一三五匁/立方寸としていたと思われるからです。

 一七世紀末には、こうして独自の密度表がいくつも提出され、和算書の密度表は著しく多様化することとなりました。密度が「物質に固有な定数である」ということが認められていたとすれば、同じ物質の密度についていろいろな値を記載する書物が現れれば、当然そのどれが正しい値に近いのかが問題になってきて、その後に測定法が工夫されて精度が高まるものと思われます。

 一六八〇年代には、実際にそのような動きが始まりました。たとえば、持永豊次、大橋宅清の『改算記綱目』(貞享四年・一六八七年)では「金重或問」と題して取り上げられています。

 すなわち、
「金小判の一立方寸当たりの重さを測定するには、まず目盛りが施されている器物に金小判を何十両か多く入れ、その上から水をいっぱいに入れる。そして次に、水がこぽれないように金小判を取り出し、水位の下がった部分の体積が何立方寸かを測定する。そして、この体積で取り出した金小判の総重量を割ると小判に使われている金の純度(密度)が知れる。そのほか、純度(密度)を測りたい物はこれに倣え」(現代文に直した)

というのです。

 このようにして、和算書で多様化した密度の値は、その「どれが正しい値なのか」という問題意識が生まれ、一七世紀末には次第に正しい値に収斂していきそうにみえました。

 たとえば、一七世紀の和算書『新刊算法起』(一六五二年)の密度表の「但し書き」には、「歌に、古しへの法目なるらし金銀の 坪を作りてかけて見ざれば」と記載されています。

 これをみると「金銀などの密度の値は古い単位のものであるらしく実際と違うようだから、立方体を作って測定し直す必要がある」といっていることがわかります。

 ところが、その後一八世紀中頃以降、幕末に至るまでの和算書など日本の書物に現れた密度表を見ると、その改善のための問題意識や実測への意欲は中断されています。そして、ついには「密度は物質に固有な定数である」という考え方まで失われていってしまったようです。

 たとえば、一九世紀初頭の和算書の密度表の「但し書き」をみると、「評曰く、諸軽重は国所に因て善悪あり、故に軽重格別なるべし」(『(最上流)本朝算鑑』:一八二〇年)とか、「諸物の軽重は産所と製法に依りて各一定し難し、故に諸書に載る所是その大略と知るべし」(『廣用算法大全』:一八二七年)などと載されています。

 すべての物質について「密度とは大凡のものである」という考えに立てば、改めて精密な測定をする必要も、精密な測定を工夫する必要もなくなるわけです。そして、書物によって密度表に違いがあっても疑問をもたないでしょうし、従来の著名な和算書の密度表を確かめることもなく踏襲することにも抵抗を感じなくなるでありましょう。

 このような状況は、数学を趣味・娯楽の対象とするようになり、職業上の必要で数学を用いるような和算家も少なくなっていったという、一八世紀半ば以降の和算家の体質変化とも大いに関係がありそうに思われます。

 そしてまた、これは一八世紀半ば以降には「儒学(江戸の常識)」における物質観が定着していたためと思われます。じつは、儒学における物質観では「密度は物質に固有な定数である」ことが認められていませんでした。したがって、一八世紀以降には、その測定法(浮力の原理)にも関心がもたれなくなっていたものと思われます。

 しかし、江戸時代には金の小判や銀板が広く流通していたので、その純度(密度)が何処かで問題にならないはずはありません。特に元禄八年(一六九五年)以降、たび重なる金銀貨の改鋳によってその純度(密度)もかなり変化していたので、金や銀の密度に対する関心は少なからず存在してもよいはずです。

 そう考えて文献を探したところ、荻生北渓の『(度量)衡考』(享保一九年・一七三四年)には、「享保一四年(一七二九年)一一月、該部局官をし金を鋳ぜしむ。今尺方寸重秤十三両を得る」(原文は漢文)とあります。

 すなわち、幕府の当事者の中には、金の密度が『孫子算経』や『塵劫記』の数値と合わないことを気にとめた人かいて、金座に命じて金の密度を実測させ、百三十匁/立方寸(=一七・五二グラム/立方センチメートル)という結果を得ていたことが分ります。

 しかし、正しくは一四三・二匁/立方寸(=一九・三グラム/立方センチメートル)ですから、現代的には必ずしも良い値とはいえませんが、実測の記録としては注目に値します。

 ところで、この記述の中の「該部局官」というのは、『徳川実紀』の記述などから判断すると、八代将軍徳川吉宗の暦学顧問であり、京都の銀座役人(銀官)でもあった中根元圭(一六六二年~一七三三年)のことであると思われます。

3、日本において「浮力の原理」を理解した最初の書物

3・1中国から舶来した書物で「浮力の原理」に言及した最初の書物

 中国から日本に舶来した書物で「浮力の原理」に言及している最初の書物は、私が知り得た限りでは鄧玉凾述・王徴訳の『遠西奇器図説』(明・天啓七年刊:一六二七年)です。

 この鄧玉凾という人は、スイス人のイエズス会士、J・テレンツ(一五七六年~一六三〇年の中国名です。そしてこの書物は、鄧玉凾が一六二一年~一六三〇年の間、明国に滞在して本書を口述し、中国人の弟子の王徴がこれを漢文に翻訳して出版した書物です。

 この本の巻一の第四〇款から第四八款が「浮力の原理」に関する項で、特にその第四六款には、「凝体は水に在れば空に在るより軽し。これを占むる所の水の多少を視れば即ちそのこれを減ずる所の軽の多少なり」(原文は漢文)と浮力の原理をはっきりと記載しています。

 そしてこの書物は、日本では貞享二年(一六八五年)には「国禁耶蘇書」に指定されているところをみると、それ以前には日本に舶来したと思われます。そして、この本が日本人に「浮力の原理」を知らせることになったと思われますが、この本は幕末に至るまで「江戸の禁書」でしたので、当然のことながらその影響は一七世紀~一八世紀の日本の害物には現れていません。

 また、また、銀限の役人であり、幕府の暦学顧問であった中根元圭が享保十八年(一七三三年)に翻訳(訓点)した『(新写)暦算全書』の「度算釈例」の巻にも「浮力の原理」が解説されているのですが、その影響はその後一八世紀の日本の書物に現れていません。何故でしょうか。

 「浮力の原理」を一般庶民に知られると貨幣の改鋳が難しくなるからでしょうか。それとも『(新写)暦算全書』は幕府の書庫(紅葉山文庫)の中だけで、しかも幕府御用の特別に許可を得た学者だけしか閲覧することのできない書物でしたので、その知識は一般庶民(知識人)や学者たちには知らされなかったためでしょうか。

 じつは、そのこともありますが、儒学が江戸の常識として定着し、その物質観では「密度は物質に固有の定数」であることが認められていませんでしたので、その測定法である「浮力の原理」にも関心が持たれなくなったためと思われます。

 そして、じつは日本の書物で「浮力の原理」を用いての比重測定をおこなった記録が記載されている最初の書物は、今までの私の調査の限りでは羽田正見の『貨幣通考』(安政三年:一八五六年)です。そして、これは「蘭学の影響」と思われます。

3・2日本の書物で「浮力の原理」と密度(比重)概念とその術語に言及した最初の書物

 日本の書物において「浮力の原理」を取り上げた最初の書物は、青地林宗の『氣海観瀾』(文政一〇年:一八二七年)です。この本には「称水」という項があって、そこに浮力の原理が説明され、その後にこれがアルキメデスの発見に係わるものであることを明らかにしています。

 なお、この「称水」ですが、これは「水中にて物の重さを称(はか)る」からきた言葉で、川本幸民の『氣海観瀾広義』(嘉永四年~安政三年:一八五一年~五六年)では「水称法」と呼び変えています。そしてこれが「アルキメデス」の原理と呼ばれるようになったのは、リッテル述・市川盛三郎の『理化日記』(明治三年~五年:―八七〇年から七二年)に「アルキミジースの條理」とあるのが最初です。

 ところで、密度・比重の概念は「浮力の原理」と密接な関係にありますが、これは「浮力の原理」に先だって中国や日本でも明確に意識化されていたことは、前に紹介したように中国の『孫子算経』(三世紀頃)や『算法統宗』(明・一五九二年)およびそれを引いた吉田光由の『塵劫記』にも「諸物軽重の事」と題して、一立方寸当たりの重さが記載されていることでも埋解できます。しかし、そこには密度や比重に当たる術語は見当たりませんでした。

 ところが、鄧玉凾述・王徴訳の『遠西奇器図説』(明・一六二七年)には「本重」という術後が出てきます。この「本重」という術語は、日本では志筑忠雄の『暦象新書』中編(寛政一二年:一八〇〇年)に引き継がれて以降、多くの物理書がこれを継承することとなりました。

 すなわち「本重」という術後は、青地林宗の『氣海観瀾』(一八二七年)には出てきませんが、川本幸民の『氣海観瀾広義』(一八五一年~五六年)や広瀬元恭の『理学提要』(安政三年:一八五六年)には出てきます。そして、明治初年の『理化日記』(一八七〇年~七二年)や『物理階梯』(一八七二年)を始め、多くの物理書はこれを継承することとなりました。

 なお「比重」の語の初出は、ハラタマ述・三崎嘯輔の『理化新説』(明治二年:一八六九年)ですが、「密度」という語は「物理学訳語会」で採用されたのが初出です。それ以前には『(牙氏)初学須知』(明治八年~九年:一八七五年~七六年)に「実積の度」とあり、飯盛挺造の『物理学』(明治―二年~一三年:一八七九年~八〇年)に「疎密の度」という訳語はありますが、「密度」という用語を採用している書物は、今のとろ明治一六年~一八年(一八八三年~一八八五年)に開催された「物理学訳語会」より以前には見当たりません。

 じつは日本では、西欧近代科学の受容に際して、一つの術語に対する訳語が多くの蘭学者や洋学者たちによってたくさん出現しましたので、その中のどれが適切な訳語であるかを決めるため、明治一六年~二〇年(一八八三年~一八八七年)頃に、分野ごとに各種の「訳語会」が開催されました。

 そして、その一環として開催された「物理学訳語会」の明治一六年(一八八三年)九月―二日に開催された「第五回物理学訳語会」において、Densityの訳語に「密度」が採用されました。「疎密の度合」これは原子論的な語意の「適切な訳語」であり、当時の「訳語会」のメンバーの見識を思わせます。


An invitation to walk around Edo Castle by Kunimitu Nakamura-
「江戸城」散策へのお誘い 中村邦光
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 JR東京駅(丸の内北口)⇔大手門⇔同心番所⇔百人番所⇔大番所⇔(大手休憩所・三の丸尚蔵館)⇔二の丸庭園⇔(本丸休憩所・展望台)⇔富士見櫓⇔松の廊下跡⇔石室⇔本丸跡(表・中奥・大奥)⇔天守台⇔宮内庁書陵部⇔北桔橋門⇔北の丸公園(近衛連隊跡=警察学校跡・学生会館跡)日本武道館⇔田安門(⇔JR飯田橋または都営地下鉄神保町という散策は如何でしょうか。

江戸城の略歴と現状

 江戸城は、長禄元(1457)年に扇谷上杉氏の家臣太田道灌によって創設(平山城)されました。しかし北条氏が滅亡したあと、徳川家康は居城をここに定めました。そして、大久保藤五郎忠行の指揮のもと、天正18(1590)年には「小石川上水」を竣工し、江戸の町づくりの準備をしました。

 江戸城は段階的に改修された結果、総構周囲約4里(16Km)と、日本最大の面積の城郭になりました。なお、江戸時代には「江城(こうじょう)」という呼び名が一般的だったといいます。

 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となりました。そして、明治維新(1868)以降には「宮城(きゅうじょう)・皇居」となり、以後は吹上庭園が御所、旧江戸城の西の丸が宮殿の敷地となっています。

 そして、宮殿の東側にある江戸城の中心部であった本丸・二の丸と三の丸の跡は「皇居東御苑」として時間をきめて一般に開放されています。なお、南東側の外苑と北側の北の丸公園(近衛連隊跡;警察学校跡、東京学生会館跡、日本武道館)は常時開放されています。

大手門

 大手門は江戸城の正門であり、慶長12年(1607)に藤堂高虎によって完成し、天和6年(1620)の江戸城修復・増築に際して、伊達政宗と相馬利胤の協力によって現在のような桝形(ますがた)になったといわれています。

 江戸城の一般に開放された部分もかなり見所があります。散策してみては如何でしょうか。ただし、城内の開放部分も開放されない曜日がありますので、事前に確認してください。なお、JR東京駅(丸の内北口)から大手門までは徒歩15~20分位です。

同心番所:「番所」

 同心番所:「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。ここには同心が詰めており、主として、登城する大名の供の者の監視に当たっていました。

 百人番所:本丸と二の丸へ通じる要所である大手三之門の前に設けられた番所であり、少ない 江戸城の現存遺構の一つです。鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めていました。各組には20騎の与力と同心が100人ずつ配属されていました。

大番所

 大番所:中之門の側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていました。前の坂を上ったところが本丸の入り口で中雀門(ちゅうじゃくもん)がありました。

本丸御殿

 本丸御殿は、表・中奥・大奥が南から北にこの順で存在していました。「表」は将軍謁見や諸役人の執務場、「中奥」は将軍の生活空間でしたが、政務もここで行っていました。そして「大奥」は将軍の夫人や側室や女中が生活する空間でした。将軍の御殿としての最初の本丸御殿は、慶長11(1606)年に完成。その後何回も焼失・再建を繰り返しましたが、文久三(1863)年の焼失以降は、本丸御殿は再建されずに機能を西の丸御殿に移しています。

天守台(天守閣跡)

 天守台(天守閣跡):最初の天守閣は慶長12(1607)年、二代将軍秀忠の代に完成しました。しかし、その後大修築され、寛永15(1638)年、三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。

 天守閣は、外観五層、内部六階で、地上からの高さは58mであったとのことです。しかし、わずか19年後の明暦3(1657)年の明暦の大火(振り袖火事)での飛び火により、本丸、二の丸、三の丸は全焼し、以降は再建されませんでした。それにしても、大きな天守台です。安土城の天守台とは、また違った風情の大きさです。

宮内庁書陵部・紅葉山文庫

 宮内庁書陵部・紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)は、江戸時代に幕府将軍のために江戸城内の紅葉山に設けられた文庫(現代における図書館)です。「紅葉山文庫」の名称は、明治時代以降に用いられたもので(現存する蔵書印も明治以降に押印されました)、江戸時代には単に「御文庫」と呼ばれ、あるいは楓山(ふうざん)文庫、楓山秘閣(ふうざんひかく)などと呼ばれることもありました。

御文庫

 御文庫は、将軍のための政務・故事来歴・教養の参考図書とすべく、江戸時代初期から設けられていたもので、その膨大な蔵書の蒐集・管理・補修・貸借および鑑定などは、若年寄配下の書物奉行が行いました。

 将軍の利用を基本としましたが、それだけでなく老中・若年寄はじめ幕府の諸奉行や御用学者などへも貸し出しを許可されました(ただし書物奉行に申請し、その許可が必要でした)。従って「江戸の禁書」に指定された書物も一部所蔵されていましたが、書物の内容は門外不出でした。

 「宮内庁書陵部・紅葉山文庫」は、北桔梗門(内堀内)の近くにあります。そして、蔵書の閲覧は現在でも紹介者が必要です。

 国立公文書館(付属;内閣文庫)常時開放

 国立公文書館は、北桔橋門(内堀)の外にあります。内閣文庫(ないかくぶんこ)は、明治6年(1873)赤坂離宮内に「太政官文庫」という名称で開設された明治政府の中央図書館でした。そしてその後、明治23年(1890)内閣制度の制定とともに「内閣文庫」と改称され、内外の研究者に広く利用されました。そして、昭和46年に「国立公文書館」が設立された後、付属されました。

 内閣文庫の蔵書は、紅葉山文庫本、昌平坂学問所本をはじめ和漢書籍、記録など旧徳川幕府ゆかりの書籍を中心とし、さらに明治政府が集めた古文書・洋書を加えて、我が国の中世から近代までの文化、および中国の明、清代の文化に関する貴重な内容の蔵書が収録されています。

 北の丸公園(近衛連隊跡;東京学生会館跡・警察学校跡)常時開放

 北の丸公園の最北端には、日本武道館が設立されており、田安門から外堀を渡り城外(九段坂)に出ます。そしてJR飯田橋へ。または九段坂を降りて都営地下鉄神保町周辺の古書店街を散策するのも一興かと思います。


Read Masaoka Shiki by Misao Oi
正岡子規を読む 計量史学会副会長 大井みさほ
2020-06-11-2-read-masaoka-shiki-by-misao-oi-

 私はどうしようもない困った性格のようで、いろんなことに関心をもって誘われればついそのグループに入ってしまうようだ。計量史学会だってそうで、先輩に誘われて、断る理由もないまま入ってしまった。

 早稲田大学の語学の先生方が中心の読書会もそうで、これは読んだ小説等について語り、意見交換をするのだが、もう20年位入っている。最近では2019年7月に私の当番が来て、正岡子規の『病床六尺』を取り上げた。

 理由は明治の文豪と言われる夏目漱石や森鴎外はよく読んでいるのに、正岡子規は名前をよく知っているだけで、『柿食えば金がなるなり法隆寺』の俳句くらいしか知らないから、この際少し調べてみようと思ったからだ。読み進めると、子規が病床にとどまったままなのに世の中の動きを色々とさぐっている。

 明治天皇の即位、大政奉還という慶應3年(1867)の10月4日に子規は松山で誕生、このころ自転車が日本に入っている。

 明治5年(1872)3月に数えで40歳の父が死去、新橋横浜間に鉄道が開通、明治6年(1873)太陽暦採用、明治7年(1874)ガス灯、明治8年世界17か国でメートル条約締結という時代だ。明治16 年(1883)に上京 、明治17年(1884) 随筆『筆まかせ』を起稿、東京大学予備門に入学、給費生となり、坪内逍遥に英語を習う。

 明治18年(1885) 日本がメートル条約に加盟、坪内逍遥の「小説神髄」が出る。明治22年(1889) 子規は漱石と知り合う、最初の喀血 。明治25年(1892)大学退学、日本新聞社に入社。

 明治27年(1894) 日清戦争始まる。北里柴三郎がペスト菌発見。明治28年(1895)日清戦争に従軍、戦争終わる。樋口一葉の「たけくらべ」。

 明治29年(1896) 脊椎カリエスの手術。明治31年(1898) 『歌よみに与ふる書』を雑誌「日本」で連載、「ホトトギス」第一号。明治33年(1900) 最初の大喀血。翌年『墨汁一滴』を雑誌「日本」で連載、明治35年(1902) 1月病状悪化。虚子、左千夫、碧梧桐ら介護。5月より『病床六尺』を「日本」で連載始め、9月17日まで。9月19日に死去、35歳だった。

 その後、明治38年(1905) 漱石「吾輩は猫である」、与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」となる。

 子規は絵も好きでよく画いている。文章も絵画も写生が大切なことを論じている。その頃海外から入ってきた絵は、レンブラント(1606―1669), フェルメール(1632―1675), ミレー(バルビゾン派)(1814―1875)などであろうか。子規は浅井忠(1856―1907)の弟子の中村不折(1866―1943)に挿絵を頼んでいる。

 子規は直前の9月1日にはフランクリンの自叙伝を読んでいる。その後、死の2日前には「足あり、仁王の足のごとし。足あり、他人の足のごとし。」と腫れた足を表現している。

 「肺病の夢みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか」

 子規とはほととぎすの事である。優秀な若い人たちが結核でむざむざと死んでいく時代であった。


Nenko hakubutsukan by Eijyu Matumoto
「年縞博物館」への道 日本計量史学会 松本榮壽
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「年縞博物館」への道 日本計量史学会 松本榮壽

【福井県年縞博物館(ふくいけんねんこうはくぶつかん)は、福井県三方上中郡若狭町にある地誌学および考古学の博物館。三方五湖の一つである水月湖の湖底で発見された7万年に及ぶ年縞に関する展示・研究を行っている。特別館長には山根一眞が就任した。】

 10月18日の「計量史さぐる会2019」の翌日、福井県「年縞博物館」を訪れた。「さぐる会」の特別講演『福井県年縞博物館と年縞―年縞博物館の紹介』(年縞博物館・学芸員)長屋憲慶氏のお話に興味を覚えたからである。

 (1)年縞博物館は2018年9月15日にオープンしたばかりだが、2019年10月末には7万人の入場者を数えている。筆者も当日は中学生の団体に出会った。学生たちの興味対象としてまた学習には最適な博物館と推定した。計量史研究をめざす研究者の一人としては、現代からホモサピエンスの登場7万年にさかのぼる湖底の年縞の実物は胸を打たれる場である。

 事前にネットで調べたことには、ここは福井県の名勝「三方五湖」の一つ「水月湖」、湖底には、世界でも唯一7万年分もの縞模様の地層「年縞」が堆積している、博物館には45mの実物展示のほか、カフェも併設しており、訪問者は湖を眺めながらゆったりとした時間を過ごすことができるとあった。

 (2)筆者は大津駅を午前9時、京都から湖西線経由、敦賀でロ-カル小浜線にのりかえ、12時すぎには三方駅到着。 駅前でタクシーを呼び、ほどなく年縞博物館についた。まず全景が興味を引く。45メートルの長い年縞を連想する建築である。(図1)

 入口を進み二階へ上がると水月湖ギャラリー、長い年縞の展示の目を奪われる。全体と1万前年の「しましま」を示す(図2、図3)。水月湖の調査は日本文化センター・安田喜憲名誉教授をリーダーとした[1991年試掘]により年縞堆積物の存在が確認され、 [1993年には約75m]の堆積物を採取、その年縞から5万年前まで、花粉化石を元に縄文時代開始の古気候の変動の研究が可能になった。

 ついで現立命館大学古気象学研究センター長中川毅氏によって[2006年第二次調査、4本のボーリング]が行われ、73mに及ぶ完全な堆積物を採取した。その標本の縞を何年にもわたって数え、縞の中の葉化石の放射線炭素年代を測定できた。研究成果は「2012年米国サイエンス誌に掲載」され、2013年には水月湖の年縞が5万年前までの「世界標準のものさし」InCal13に認定された。「しましま」を数えるなんて簡単だから始まった、20年をこす研究者の粘り強い努力には感銘を覚える。

 2018年9月には「福井県年縞博物館」の開館となったが、年縞の調査研究はその後も「第3次、第4次」と続けられている。百聞は一見に如かず、計量史を研究する皆さんの一見をお勧めする。

 最後に二冊の書籍が刊行されていることを報告する。
▽中川毅『人類と気候の10万年―過去に何が起きたか、これから何が起こるか―』(講談社ブルーバックス、2017)
▽中川毅『時を刻む湖―7万枚の地層に挑んだ科学者たち―』(岩波科学ライブラリー、 2015)

図1:年縞博物館全景


図2:博物館2階の水月湖ギャラリーにならぶ7万年の年縞


図3:1万年前の見事なシマシマ


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日本計量新報(計量計測データバンク)2020前期投稿のエッセーと論考など

東京オリンピックを計る 豊洲市場協会 計量士 安齋正一

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IoTと測定の不確かさ 中野廣幸(計量士)

幼少時の経験 日本大学 矢野耕也

「年縞博物館」への道 日本計量史学会 松本榮壽

「江戸城」散策へのお誘い 中村邦光

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「愛橘先生、メートル法、吉田さん」 櫻井慧雄

私の履歴書 簔輪善蔵(計量計測データバンクweb版)

目次 私の履歴書 簔輪善藏

私の履歴書 簔輪善藏-その1-

私の履歴書 安斎正一 目次
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その1-本欄の執筆をなぜ私が?

私の履歴書 安斎正一(計量士)-その4-夜間高校生と計量士との出会い

私の履歴書 安斎正一(計量士)-その7-寺岡精工へ入社
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その8-計量教習所と計量士資格取得


私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)

私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)-その1-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第1編 公務員人生を歩みだす
千葉県中の「ハカリ」を検査を一人でする。新品は係長が検定をやる。日曜もなしだ。

私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その2-
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私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その3-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第3編 新しい夜明け、計量法の歩み
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私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)

神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録-その1-はじめに
西宮高校から神戸大学の計測工学科に進み川崎製鉄千葉製鉄所で計量の仕事を始める

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神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その2-我が家と計量の係わり
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