官僚制度と計量の世界(1)
|
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
(見出し)
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
(前文)
本稿は計量制度とそれを運用する計量公務員の業務を長期にわたって見てきた者、計量記者である夏森龍之介が事実を書き連ねたものである。登場する人物は偽名にしてある。官僚という言葉をつかっているが本稿では計量行政職員とおきかえてもよい。中央官庁の国家公務員のさまざまな事情に立ち入る資料も添えるようにした。実態に計量の世界における官僚の仕事をこえた分野にも筆が飛んでいることをお断りしておく。(筆者 夏森龍之介)
(本文)
郡上八幡から九頭竜川沿いに日本海に抜ける夏の旅
夏森龍之介は屈託のない夏休みの旅行をしている。高山市と郡上市で宿を取り、郡上の白鳥から国道158号線を海に向けて走った。岐阜県北部の山間部を東西に横断して敷設され、油坂峠と新軽岡峠、安房峠といった、急峻な峠を通過するこの道は日本で一番奥深いところに通されている。郡上市から福井市に抜ける道は九頭竜川に沿う崖地になっている。2024年の夏にこの道を走るとトンネルが新しく掘られ、高速道路の延伸の工事が進んでいた。
郡上市から福井市に抜ける。2024年の夏にこの道を走るとトンネルが新しく掘られ、高速道路の延伸の工事が進んでいた。
10年ほど前には、九頭竜ダムで休憩しているとダムの係員がわざわざ駆け寄ってきて、記念のカードを呉れた。余程興味深げに観察していたのだろう。係員は親しげであった。ダムの構造を聞いた。ロックフィルダムという答えであった。高さ128メートルで洪水調節と発電を目的とする。国土交通省と電源開発株式会社の共同管理。係員は電源開発の職員だという。任地を訪ねると奥只見ダムや田子倉ダムなどの発電所という答えが返ってきた。高等学校の同級生の一人が電源開発に勤めてのを思い出した。同じような仕事をしていて今は定年になっているのだろうと石積みのダムの空を仰いだ。
九頭竜川は大野盆地、勝山盆地を北西に進み坂井市で日本海に注ぐ。水源は郡上市と大野市の境にある標高は780mの油坂峠。坂井市に河口があり東尋坊が近い。この日の宿は芦原温泉。何時でかけても福井の夏は暑い。この日もそうであった。芦原駅は何時しか「あわら湯のまち駅」に名前が変わっていた。芦原温泉は駅前に温泉が湧き出たところなので土の宿も駅から歩ける。陽の高いうちに宿に入り駅にでかけた。その昔に何度か来たことがあった。何時も暑い日であった。
芦原駅は何時しか「あわら湯のまち駅」に名前が変わっていた。芦原温泉は駅前に温泉が湧き出たところなので土の宿も駅から歩ける。
通商産業省秋津修計量課長と芦原駅に降り立つ
1980年夏のことであった。中部地区の計量協会の会合があり、この駅に降り立った。田圃道を大勢で宿まで歩いた。東京から一緒だったのが通商産業省機械情報産業局の秋津修計量課長であった。秋津計量課長とは同じ車両に乗り合わせていた。挨拶を交わしただけでだけであった。芦原駅に降り立つと7月中旬過ぎの強い日差しの田圃道を一緒に宿までととりとめのない話をしながら歩いた。周囲はこの人が計量課長であることを知らない。だから特別に敬意を表する人はいなかった。着任して一年になる秋津計量課長は1940年生まれで40歳、私より9歳年上であった。このとき私は31歳。郷里の県庁への就職を慰留されてから3年が経過しており、仕方ない計量記者の道を歩んでいこうと心を固めていたのであった。
秋津修計量課長
秋津修計量課長の経歴は次のようである。1964年東京大学経済学部経済学科卒業。同年通商産業省入省。大臣官房総務課属。1966年大臣官房会計課。1967年7月公益事業局公益事業課総括係長。1968年6月公益事業局ガス課総括係長。1970年10月貿易振興局輸出業務課長補佐。1972年10月重工業局鉄鋼業務課長補佐。1974年6月国土庁地方振興局地方都市整備課長補佐。1976年9月通産省大臣官房総務課長補佐(法令審査委員)。1979年7月1日 通商産業省機械情報産業局計量課長。
郡上八幡の夏を遊んで、九頭竜川を下って芦原温泉に泊まった2024年。夕暮れではあっても夏の暑い日差しのなかを「あわら湯のまち駅」まで歩いて、冴えない飯屋の暖簾をくぐってビールを飲む。1980年の夏にこの駅から宿まで一緒に歩いた秋津計量課長はその後の消息を思った。あれから43年になる。通産省の計量課はその後、所属などを含めて変遷があった。秋津計量課長は1985年(昭和63年6月)に四国通商産業局長になったのは知っていた。人柄の良い人という印象が残っている。
あわら湯のまち駅
広々とした九頭竜川河口と防波堤のある三国港。三国港は北前船で栄えた。三国町は町村合併で坂井市となった。三国港の鮮魚店で刺身を買ってある。宿の夕食に持ち込みを頼んで地元の肴を食べる。あのころの芦原温泉は賑やかであった。駅前の赤ちょうちんでビールの小瓶を飲みながら初めてこの地を訪れたころを思った。
あわら市2024年(令和6年8月1日)人口は26,393人、総帯は10,419世帯。
次のような人口減少の経過がある。1970年(昭和45年)29,436人。1975年(昭和50年)30,238人。1980年(昭和55年)30,975人。1985年(昭和60年)31,830人。1990年(平成2年)31,743人。1995年(平成7年)32,432人。2000年(平成12年)32,178人。2005年(平成17年)31,081人。2010年(平成22年)29,989人。2015年(平成27年)28,729人。2020年(令和2年)27,524人。
温泉地であるから旅館業により、第一次産業 847人、第二次産業 4,651人、第三次産業 8,620人。2020年国勢調査による。農産物は越前柿、幸水梨、越のルビートマト。魚介類は目だったものがない。東尋坊の土産店ではラッキョウの漬物が売られていた。
巨アユの九頭竜川
九頭竜川は巨アユで知られている。荒瀬に胸まで立ちこんで細い引き舟を引いてアユに立ち向かう。荒瀬で掛かったアユの引きは強い。竿を伸されないように準備して当たりを待つ。掛かったら腰を入れ竿を上流に保つ。その後はアユとの綱引きとなる。アユの体力を奪った後で水面を飛ばす。これが九頭竜川のアユの友釣りで鮎師の夏の夢。
石川達三の金環蝕と九頭竜川・長野ダム建設にまつわる政界の疑惑
九頭竜川といえば長野ダム建設にまつわる政界の疑惑が小説に書かれ映画になった。石川達三の『金環蝕』である。ロワーリミットと称する入札価格の足切りによる落札操作があったとされる。第一工区で最高額で応札した鹿島建設が落札。他の四社は最低落札価格を超えていないために失格。時の首相への政治献金を約束した鹿島建設と電源開発、政府が一体となって仕組んだ汚職だとの疑惑が広がり、衆議院決算委員会で田中彰治代議士らが追及した。首相は池田勇人で、その秘書官と決算委員会で証言した新聞記者、政治新聞社の主幹が暗殺される。長野ダムは1965年(昭和40年)より本格的な建設工事が始まった。
長野ダム建設に際してはこの地に関係した鉱業権の収容が難航した。鉱山が多い当地には水没地点にも幾つかの鉱業権あった。鉱業権収容の交渉が難航したため、強制収用という強硬手段が用いられた。補償交渉のための裏金工作がなされていたが失敗していた。『権力の陰謀 九頭竜事件をめぐる黒い霧』(現代史出版会)に、この経緯が描かれている。
かつては長野ダムといっていた九頭竜ダム高さ128メートルのロックフィルダム。ダムは九頭竜湖を形成する。
長野ダムの傾斜土質遮水壁型ロックフィルダムである。以前に電源開発が手がけた御母衣ダム(庄川)と同様の形式である。重力式あるいはアーチ式(重力式アーチ)のコンクリートダムとして計画されたが地盤が軟弱であるために採用されなかった。
ダム建設にはアメリカ合衆国から輸入した30トンダンプカーが活躍した。ダムを構成する岩石(ロック材)を得るために要した発破量は200トンに達した。発破の際は1キロメートル離れた見張所においた。見張所では、当時の基準で震度5から6の揺れがあった。工事は1968年(昭和43年)に完成。当時の電源開発総裁の藤波収は先に建設された御母衣ダムと比較し、「御母衣を楷書にたとえれば、九頭竜は行書である」と述べた。
真名川ダム 真名川ダムは九頭竜川水系真名川中流部にある国土交通省直轄ダムで、九頭竜川水系では長野ダムに次ぐ堤高。
電源開発株式会社とダム建設による戦後復興期の電力確保
電源開発株式会社は国内での電力需要の増加に対応して制定された電源開発促進法により、1952年(昭和27年)9月16日に国の特殊会社として設立された。資本構成は66.69 %を大蔵大臣(のちに財務大臣)、残りを9電力会社が出資した。
電源開発の最初の大事業は佐久間ダム。10年はかかるとされた工事をアメリカ合衆国からの技術導入により3年で完成させた。続けて奥只見ダム、田子倉ダム、御母衣ダムなど大規模なものを含む水力発電所を次々に建設し、戦後復興期を電力面から支えた。佐久間ダムの佐久間発電所が現在も年間発電量日本一の水力発電所である。
電源開発株式会社は国策会社である。国はこれに似た会社を幾つもつくっている。必要なものもあれば、後になってみれば不実ようなものもある。実際には不必要な法人であるが一度つくられてしまうと何時までも残る。その国策会社や関連する法人は役所の天下り先になる。
秋津修計量課長は前任課長からの申し送りを受けて法整備の段取りを付ける
秋津修計量課長と一緒に宿に到着し、会議場に入る。中部地域の計量協会関係者200名ほどが集まり会議である。この会議は現在は計量士の会議と組織が一つになったが、以前は別々に開かれていた。その二つに私はでかけていた。
会議には計量器販売事業、計量器製造事業、中部地域の計量行政機関として都道府県計量検定所と特定市の計量検査所の人々が参加した。私は計量の専門紙の記者として、同時に会社の代表として会議に参加した。この会合の中部とは次の七件のことである。富山県、愛知県、静岡県、岐阜県、石川県、福井県、三重県。
計量協会の業務は高邁な理屈を抜きにすれば指定定期検査機関としてのハカリの定期検査業務である。労務に対して過不足ない手当てがなされるような会計の仕組みになることが協議会出席者の切なる願いであり、そのための方策の模索がなされ、その延長として行政機関へのさまざまな要望がだされる。夏に開かれる計量業務従事者の熱意が集積するが場が中部計量協議会である。
1980年、このころの会議でよく出された議題は、電気抵抗線式のはかりの検定制度への組み込みのことであった。計量制度と計量法を扱う計量行政審議会は、市場で勢いを増し普及が進んでいる電機抵抗線式はかり、通称ロードセル式はかりと計量法の検定への取り込みの作業を続けていた。
電気抵抗線式はかりの検定制度への組み込み
計量行政審議会と計量行政機関などの動きは次のようであった。
1、1979年(昭和54年) 計量行政審議会、8月9日にロードセル式はかりを検定対象とすべき旨答申(検定開始関係政省令公布10月22日)。10月22日電気抵抗線式はかりの検定開始関連政・省令公布。
2、1980年(昭和55年) 2月l日、計量研究所の筑波へ移転完了。8月4日、計量行政審議会に「検定等の事務について」諮問。
3、1981年(昭和56年) 2月8日、臨時行政調査会第2次答申(検定検査の緩和のほか)。3月上旬、行政管理庁が計量器販売登録存続(家庭用は廃止)を結論。3月25日、計量行政審議会に「行政改革関連の整理合理化」を諮問。同日、「検定等の事務について」答申決定。この年に北辰電機がジャイロ式のハカリを発表。
4、983年(昭和58年) 2月15日、計量行政審議会「流通業の指定事業場拡大」と「販売登録改正」答申結論。4月18日、計量行政審議会「非関税障壁に関連する計量法改正」を審議開始。6月24日、ロードセル式大型はかりの検定ほか関係法令公布。10月12日、第17回国際度量衡総会「メートルの新しい定義」ほか決議。
以上のようなことであるが、取引証明に使われるハカリのうち電機抵抗線式のハカリは計量法の規定に組み込まれていなかった。検定検査規則ほかの計量法令は新しく登場する電気式のハカリほか計量器には、そのたびに法を整備して対応していた。その後には省令で処理する仕組みを導入している。
電気抵抗線式のハカリはこのころは大ひょう量向きで精度が荒かった。電気箔の改良、加重を受け取る起歪体の構造の改良などが続いて、現在では申し分ない精密さを実現している。電気箔が捻じれるときに発生する抵抗変化と捻じる力の相関関係を質量に換算して表記するのが電気抵抗線式のハカリである。
電気抵抗線式のハカリの検定制度は大ひょう量域と小ひょう量域の中間部分が検定たいしょうとされていたかった。この協議会から数年たつとこれの解消が議題に登場する。検定中抜けは、技術面、対応する組織のことなどがあって、生じたことであった。律儀な計量人たちには見過ごせないことであった。この要望を計量行政機関の中心にある計量課のその課長に直接にぶつけるのである。
着任早々の秋津修計量課長には前任の課長時代からの法整備のための計量行政審議会での取りまとめ作業に追われていた。このころ計量法改正のために計量行政審議会は活発な動きをしていた。秋津修は法の改正のためには段取りとして、計量行政審議会がらみの活動として、る。関連する委員会を組織し、聞き取りや実態調査を続けていた。
工業技術院計量研究所飯田裕幸第二部長
中部地区の計量協会の会合には中央の計量行政機関からは秋津修計量課長のほかに、工業技術院計量研究所の飯田裕幸第二部長が出席していた。何時もなら第四部長がでるのであったがこの会合で「水の密度の絶対測定」の講演をするために第二部長の出席となっていた。計量研究所で水の密度の絶対測定を始めたころであり、この研究の意義が講演で語られた。
この研究成果は1996年ころから計量研究所の増井良平によって物理学会などで発表されるようになった。キログラムの定義は古くは水の密度に関係づけられていた。1799年に水の密度によるプログラムの定義がなされており、水の密度は1気圧4℃において1立法メートルが1㎏(1,000グラム)と定義されていた。
1980年当時は、高度な密度測定に用いられる標準物質は、水、水銀、シリコン単結晶の三種類だけであった。
2008年ごろになって、水に代わる密度標準として、シリコン単結晶による密度標準の研究が進んだ。キログラムの現代の定義の決定にはシリコン単結晶による密度標準が実際には連動している。シリコン単結晶を密度標準とする技術は高度で複雑である。手軽であり技術的にもこなれている水の密度標準の利用とその利便については今でもなお識者が語っているところである。
この会合には日本計量協会、計量管理協会、日本計量士会の専務理事が出席していた。この三団体はその後に統合して現在の日本計量振興協会に組織替えしている。
開催の地元からは、福井県産業労働部部長、福井県計量検定所所長、福井市市民生活部次長、芦原市長などが参加していた。近県の計量検定所長の姿もあった。
中部の計量協議会は福井県計量協会は泊まり込みで二日間の日程で実施される。初日は午後2時ころからの会議でここでは功労者の表彰式も行われる。午後6時からは大広間での宴会があった。
酒席になると人気なのは計量研究所飯田裕幸第二部長
秋津修計量課長、計量研究所飯田裕幸第二部長、開催地計量協会会長を主座にほかの来賓がそれに並んだ。
酒席になると人気なのは計量研究所飯田裕幸第二部長である。飯田裕幸第二部長は銀座時代からの同所の幹部職員で、計量教習所の講義も持っていた。このころの計量検定所長は計量教習所を修了しており、飯田裕幸は先生であった。盃を交わしては教習所時代の思い出をひとくさり述べて下がっていった。順番は計量課長、計量研第二部長となっていて、秋津修計量課長はお義理のお酌に応じた。私は馴染みになっている富山県、愛知県、静岡県の計量器事業者、七県の計量士などとたわいのない話をして宴会の終わりを待った。
部屋に戻ると秋津修計量課長、計量研究所飯田裕幸第二部長と同室であった。飯田裕幸は東京大学工学部を卒業しており、この中部の会合があったあとで飯田裕幸は工業技術院計量研究所の所長に昇格する。後にこの分野の出世の頂点の工業技術院長になった。退官後は軽自動車会社の専務取締役となり、その後は幾つかの団体を役員に務めた。ある団体に顔を出すと係の人が飯田裕幸顧問がご挨拶しますといって私に引き合わすのであった。
秋津修計量課長は、1985年(昭和63年6月)四国通商産業局長、1989年(平成元年10月)産業基盤整備基金理事、1999年(平成11年4月)香川大学教授。2004年(2004年)平成16年4月1日から(2005年)平成17年3月31には香川大学教授で同大学理事であった。中部の計量の会議に出席してから41年が経過、63歳になっていた。香川大学工学部信頼性情報システム工学科教授秋津修研究室の看板が掲げられていた。システムの安全性と信頼性が研究テーマであった。
協議会の第二日目には東尋坊、永平寺、九谷焼窯元を回った。極色彩の九谷焼は御猪口(おちょこ)でも1万円ほどしていた。秋津修計量課長、計量研究所飯田裕幸第二部長もバスで一緒に回り、どこか特急停車で降ろされて散会となった。
平泉寺(勝山市)の僧である東尋坊に由来するのがこの地の名称。恨みを受けて突き落とされた。
東尋坊に連なる道には土産物屋が立ち並ぶ。さみしい崖に彩りが添えられる。この地はラッキョウが名物である。
秋津修計量課長は東京大学経済学部経済学科の卒業
通産官僚における東京大学法学部卒業の経歴はその後の地位に影響していた時代である。秋津修計量課長は東京大学経済学部経済学科の卒業であった。秋津修計量課長の時代から20年も下った頃に同じ経歴の計量課課長補佐が私に法学部ではないからとわざわざ語った。その人はそれから5年後、兵庫県の商工労働部長となっていて、役所の車に乗り、二人の部下を連れて兵庫県計量協会の新年会の席に現れた。計量課長となった京都大学法学部卒業の人は、自分は東京大学ではないから、とつぶやいていた。1900年のいつ頃か経済分野で名をはせていた飯田という大学教授の説の信奉者であった。
東京大学の法学部と経済学部についてのその卒業者の意識の在り方。秋津修はそれを語らなかった。通商産業省入省の同期は法学部卒業で事務次官になった者がいる。中小企業庁長官、通商産業審議官、九州通産局長などがいるが、局長への壁は経済学部や京都大学法学部では厚く高かった。一橋大学社会学部卒業のある者は課長補佐の後に外局の室長を最後に国会議員となり、事務次官となった同期を見返すように通商産業大臣(第55代)、内閣官房長官(第57代)の役職に就いた。
事務次官に昇りつめた者の課長就任後の経歴
事務次官になった者の課長就任後の経歴は次のようであった。
1982年10月機械情報産業局航空機武器課長。1984年10月、大臣官房参事官(国会対策担当)。1985年6月、通商政策局米州大洋州課長。1987年6月、機械情報産業局総務課長。1987年11月、内閣総理大臣秘書官事務取扱(竹下内閣)。1989年6月、大臣官房調査統計部長。1990年6月、中小企業庁計画部長。1991年6月、大臣官房総務審議官(現 総括審議官)。1992年6月、貿易局長。1993年6月、機械情報産業局長。1996年6月、:産業政策局長。1997年7月、通商産業事務次官(1999年9月まで)。2016年5月、石油鉱業連盟会長。
私大法学部に進んだ者と東大法学部卒の通商産業事務次官は同じ高校
秋津修が私より9歳年長であるように、事務次官になった者もそのようであった。通商産業表彰式の後の宴席に顔をみせた事務次官と話をしたら、卒業した高等学校が私と一緒であった。
私はといえば私立大学の法学部に進み、この大学より知名度のある京都の大学の経済学部合格の思い出があったものだから、経済学部に学資入学して資本論だけを学んだ。学校にはこのためだけに通い卒業単位ぎりぎりの履修科目を選んでいた。卒業への思いはなかったが後で聴くと150人いた同学年の半分は必修のある科目の教授の気まぐれによって留年の憂き目にあっていた。その私は28歳になって郷里の県庁の上級職試験に受かっていたが職場の慰留があって、そのまま仕事を続けることになった。
同じ高校を卒業して私立大学に進み県庁の職員になり上手くいけば部長、かたや東京大学法学部をでて霞ヶ関の人気官庁の経済産業省の官僚となり、期待そのままに事務次官に上り詰める。社会の条理はこのようになっているのかと確かめることになる。
秋津修は何を思っていたか。事務次官になった同期の国家公務員試験合格の席次は知っている。経済科採用候補の自分の席次と大きな違いはないけれども、法律科との差は知っている。秋津修の成績が優秀なことを知っている私が席次をただすと「そういうことは言わないものだ」という答えが返ってきた。席次がよいことを言わないのが官僚のたしなみになっている。
├目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
├
├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
├
2024-09-10-bureaucracy-and-metrology-by-ryunosuke-natsumori-
計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
2019-02-05-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)
2019-02-07-1-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-
2019-02-07-2-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
2019-02-07-3-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-