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官僚制度と計量の世界(6)
Bureaucracy and Metrology-6-

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

官僚
官僚とは、国家の政策決定に大きな影響力を持つ国家公務員。
「官僚」の語は、語義的には「役人」と同義語であるが、一定以上の高位の者ないしは高位になり得る者に限定して用いられることが多い。

官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介

(見出し)


官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介

(本文)

官僚とは通常は国家公務員のうち総合職試験に合格し幹部職に昇進した者のことを指す


東京大学 本郷の安田講堂。東京大学法学部は官僚養成の学校として発足している。ここから東大法学部から官僚へとなった。

官僚

 官僚(かんりょう、英: bureaucrat)とは、国家の政策決定に大きな影響力を持つ国家公務員。「官僚」の語は、語義的には「役人」と同義語であるが、一定以上の高位の者ないしは高位になり得る者に限定して用いられることが多い。

 英語のbureaucratは、フランス語の「bureaucratie ビューロクラティ」(官僚制)に起源を持つ。

 「官僚制度(官僚制)」は、ピラミッド型に整理された、権限の分担とその指揮系統に関する官僚の階層構造を意味する。これは統治構造の一種であり組織は問わないが、歴史的に政治統治組織が起源であるため「官僚制」と呼ばれることとなった。ヘーゲルによる定義では、「官僚」とは国家への奉仕かつ私有財産の配慮を行う者の総称となっている。


 漢語の「官僚」「官吏」の語源であるが、「官」は上級公務員を意味し、「僚」「吏」は下級公務員や、官に雇われている者を意味し、これらの総称で「官僚」「官吏」となった。

 歴史学、人類学的には、国家の公共事業(治水、灌漑)の拡大とともに、「官僚機構(官僚制)」が生まれたとされている。最初に「官僚機構」が発展したのは古代エジプトで、官僚たちはファラオの奴隷だった。なお官僚には、文官、いわゆる行政官と武官の2つがある。現行の日本国憲法下では「武官」は現役の自衛官に相当すると解されているが、明記されてはいない。また行政官には事務官と技官の2種類が存在する。武官は、各国軍部の大学校卒業者を幹部候補生とする国が多い。

 国家公務員は世界的に、上級ポストとその候補者(キャリアと呼ぶ)、および下級職員(下級官僚)を分けて採用する国が多い。広義の官僚とは国家公務員全般を指すが、狭義の官僚とは上級ポストの公務員である。局長クラス以上を指すが、場合によっては本省・本府審議官または課長級以上を指。

 現代の日本における「官僚」とは、広義では、国家公務員試験に合格して中央官庁に採用された国家公務員全般を指すとされている。ただし、官僚という用語は法律で規定されている訳ではなく、公的なものを含めて明確な定義は存在しない。

 狭義では、国の行政機関に所属する国家公務員の中でも、特に中央官庁の課室長級以上の管理職員を指す場合もある。また「高級官僚」は、国の行政機関に所属する国家公務員の中でも、特に中央官庁の指定職以上の地位にある者を指すことが一般的である。

 日常会話において「官僚」ないし「高級官僚」と言う場合、霞ヶ関の中央官庁で政策に携わる国家公務員、中でも国家公務員Ⅰ種試験や総合職試験等に合格して任官したキャリア公務員を漠然と指すことが多い。大臣や副大臣、大臣政務官は上級の公務員であるという点は同じではあるが、選挙で選出された政治家(国会議員)であるため官僚とは区別されていることが一般的である。

 地方公務員は通常、官僚とは呼ばれないが、大規模自治体の幹部職員に対して「都庁官僚」のように比喩的に使われることがある。

官僚の任務

 日本における官僚の任務は、主に下記として分類される。

予算編成

 近年の日本においては、予算は、まず内閣府の経済財政諮問会議において基本方針が立てられ、各省庁の予算の細部については、各官庁が概算要求を行い、財務省の主計局が査定を行うとともに財務省原案を編成し、内閣として政府予算案を閣議決定し、国会の議決を経なければならない。

 各官庁では、大臣官房の会計課長(予算課長、主計課長)が概算要求を集計、管理する。また、各局長が主計局と折衝し、国会議員への根回しを行う。経済財政諮問会議や財務省主計局は、予算を通じて国政全般を仕切るところであるとも言える。

法案作成

 法律の制定は国会(国会議員)の仕事であるが、実質的に議員立法は全体の1割であり、官僚主導で内閣が議案を提出し国会で制定されることが多い。これは、各官庁の大臣官房の文書課長、各局総務課長や審議官を中心として案をまとめ、国会議員への根回しを行う。その拠点となる法案準備室を霞が関では「タコ部屋」と呼ぶ。

人事の編成

 採用されたキャリア公務員の人事は、各省庁の大臣官房の秘書課長や官房長、事務次官が決定するとされている。なお、審議官以上の幹部職員の人事権は内閣人事局に裁量がある。

指揮・監督・許認可

 指揮、監督、指導、許認可の権限と実施は影響力や予算規模の大小に応じて担当部署が類別されており、小規模の案件は地方局や地方公共団体(都道府県)で行うが、大きな案件は中央官庁が管轄し、各局の担当官にて執行される。

政策立案

 官僚は政策の企画と施策を行うことが多い。この実現方法としては、法令の制定、予算確保による補助金や施設の発注、行政指導や許認可による民間企業へのコントロールという形を取る。内容的に上記の「予算」「法案」「監督・指導・許認可」に含まれるとも言える。この政策をまとめる局は、各省庁の筆頭局となることが多く、他局間の調整を行う。

任用制度

 日本では資格任用制によるキャリア制度となっている。ノンキャリアであっても中央省庁審議官級の官僚になることはあるので、キャリア制度のみが官僚人事を構成しているわけではない。

国家公務員総合職試験の経済で席次1番の合格者が就職した先は外資系コンサルティングファーム

 東京大学法学部から国家公務員総合職に採用される者が多い。東大生には先輩からの霞が関勤務の国家公務員からさまざまなことが伝えれる。先輩職員は省庁の代表として東京大学に公式に誘いのための説明にでかける。省庁の仕事の説明をし東大生の質問を受け付けて理解を得る。東大生はこれとは別に、先輩から各省庁のようすを聞く。昇進、給与、働き方、働き甲斐など。

総合職の職員でも入省3年か4年の間は係員として省内の底辺で仕事をする

 東大卒の総合職の職員でも入省3年か4年の間は係員として省内の底辺で仕事をする。コピー取り、使い走りなどである。この5年目になると係長に昇給する。係長の業務は激務であり、その上の課長補佐はそれがさらに増す。課長補佐は課内の業務を実質的に切り回す。この間に海外留学あるいは大使館勤務、さらに地方公共団体に課長職などとして出向する。

席次1番の合格者がコンサルティングファームに就職の道を選ぶ

 総合職の経済の試験で席次1番の合格者は希望すればどの省庁も採用間違いない。幹部候補生として事務次官への道を歩む。能力に自信がある東大生は霞が関勤務に躊躇する。少ない期間であっても下積みは嫌なのだ。直ぐにでも重要な業務に従事して思い切りやりたいと考える。親や親類に霞が関総合職として働く者がおり、その様子をみており、就職先として望ましいかなどの相談もする。席次1番の合格者がいま流行りの外資系コンサルティングファームに就職することに反意を示さない。低賃金と国会議員に使いまわされる国家公務員とどちらが良いか、日ごろから考えているのである。

 コンサルティングファームに就職しても席次1番の合格の実績をもって国家公務員に移籍することを考えている。賃金の有利さ、直ぐにでも存分に活躍できる場面が用意されていても所詮は米国の巨大資本を日本で操る仕事の域を出ない。死肉を漁るハゲタカにも似た仕事をしているように思える時がある。

 受験競争、受験社会とテレビ、ラジオ、マスコミから浴びせられる情報を通じて日本人は新自由主義の弱肉強食の観念を植え付けられている。だから収入が低いのは自分が悪いからだと思い込む。誰もが格好いい仕事に就けるわけではない。世の中はそのようにはなっていない。人それぞれの能力や適性に応じた仕事が用意されているのが良い社会なのである。

大企業の高給を褒めても役人の高給は認められない現代日本人の心情はどこから来るのか

 日本人の多くは能力がある者がよく働きよく稼ぐことは当然と考えるようになった。自分の収入が少ないのは能力や意欲がないかしたよく働かないかだと。自分を卑下し、民間企業に勤めて高賃金を得る者は英雄になる。しかし国家公務員ある自治体職員の賃金の多さには不満なのである。ひろゆきが言うメシウマ現象がここにあり、役人の給料を減らせと合唱する。民主党はこの声に同調し、自民党も一緒になって騒ぐ。国家公務員に抱っこに負んぶの国会議員は役人の仕事が気に入らないと「飛ばすわよ」が口癖になる。現在大臣職にある女性はこうしたことで有名である。

 経済産業省の若手官僚二人がコロナ災害に伴なる給付金を詐取した事件直後に日本記者クラブに呼ばれた前川喜平が次のように語った。「国家と官僚」の演題であった。政治家は官僚を脅(おど)してはならない。官僚は政治家を馬鹿にしてはならない。この言葉は与謝野馨が文部科学大臣のときに前川に語ったのだという。前川が文部省に入省のころは大臣はお客さんであり、すぐに去っていく人であるという意識が省内にはあった。政治主導ということで課長人事まで官邸が口を挟むことがあるのが現在である。局長ならまだしも審議官への昇格についても官邸は口を出す。少なくとも課長級の人事はその省に任せておけというのが前川の主張である。人の能力は課長補佐までの働きを知る省内でしか分からないからである。城山三郎の『官僚たちの夏では、通商産業省企業局長の佐橋滋がキャリア官僚の名前を書いた札を机に並べて人事構想を練っている姿が描かれている。仕事内容への向き不向き、能力のほどは入省から18年ほどの経緯を知っている省内の人々が知るところである。そのようにして課長の選ばれ配置が決まる。
国家公務員非正規職員の年収が120万円である現代日本の事情

 雇用が非正規化政策が実行されたこととにより日本人の生活は年収120万円の水準に低下していく。コンビニエンスストアにしか勤め先がない人に年収300万円をもたらされることはない。国家機関の地方出先機関は非正規職員の労働で運営される。一日8時間集日の労働をさせないから、年収は120万円に近い状態になる。このような人々に不満を抱かせないための意識を醸成するのが能力主義の風潮を促進することである。

通商産業省事務次官佐橋滋と余暇開発センター

 佐橋繁は特許庁長官から呼び戻されて通産省事務次官に就任する。退官後は天下り先への就職を断り、政官界との縁を切る。ただし退官6年後に新設された余暇開発センター理事長に就く。余暇開発センターについての私の記憶は、日本計量協会の専務理事をしていた小杉茂がここから人を呼んで計量全国大会の講演をさせたことである。

 小杉茂は計量研究所から通産省計量課に移り、技術方面の課長補佐をしていた。小杉の同僚が余暇開発センターに就職していたので講師に招いた。その講師が言った言葉が強く印象に残る。退職金は日々目減りするので心細い。退職後も何かの収入の道があることが望ましいと。日本計量協会の専務理事をしていた小杉茂は当時、同会の会長をしていた小野田元に頼み込んでその会社に再就職した。私は小野田元と金大中が拉致された東京都千代田区のホテルグランドパレスホテルでカウンターに座っての二人での酒席であった。この席にに小杉が現れて小野田に面会、金門製作所への就職を頼んだのであった。事前に連絡は付いていたのでであろうが、ある国家公務員の退職後の一場面をみた思いであった。ここにもう一人の人が現れた。年格好は小野田の娘ほどの人であり、さっと現れて金銭と思われるものを受け取って、すぐに消えた。金門製作所の関係者によると娘であるというが事実を確かめようがない。

 通産省の知己を講師に招いて老後生活を語らせた小杉茂自らが国家公務員退職後の暮らしのために就職口のために気をもんでいたことを見て因果を感じた。小杉が小野田元にグランドパレスホテルで面会したのは金門製作所への再再就職が内諾されていたためにその挨拶であったのだろう。その場面に筆者が居合わせただけのことである。国家公務員の再就職のためには内部で活発に動く顔の広い人の役割は大きい。こうした方面では蓑輪善蔵はよく働いた。計量研究所の板橋庁舎から筑波への移転に際して職員の東京都検定所へ転籍や早期退職と民間会社の計量士業務への転職の斡旋は手際のよいものであった。持つべきはよき上司の事例である。

小杉茂、渡辺修一、鈴木康友 ともに通産省職員

 小杉茂と同じ時期に課長補佐をしていた渡辺修一は蓑輪善蔵の次の通産省計量教習所の所長となった。その渡辺修一は小杉とおなじように計量研究所から計量課への異動組であった。渡辺は教習所長退官後は長野計器製作所で仕事をしていた。小杉より渡辺が年配のようであり、小杉は渡辺の後の官職には就かなかった。

 こうした事情があって私は佐橋滋を身近に感じ、城山三郎のその小説を通じて官僚たちの世界に興味を持った。

 小杉茂の後任として鈴木康友が日本計量協会の専務理事になった。二人の間に誰かがその任にあったのか覚えていない。鈴木康友も通産省の職員であり旧制中学校を卒業した入省していた。景気の良い時代に退職していたから同僚たちは年収1,500万円ほど、鈴木の言葉では皆1,000万円以上の職場に天下っていた。鈴木はこれよりもずっと少ない650万円ほどだと愛知県庁職員OBに愚痴を言っていたのを脇で聞いていた。愛知県のその職員は愛知県計量連合会の事務局長を長く勤め、そのころにはここを退職してハカリのグループのお手伝いをしていた。鈴木の愚痴はわかるけれども待遇はそんなに悪くはない、というのが聞いていた私の感想である。この感想も後にある事件で揺らぐ。東京都計量検定所を退職して東京都計量協会勤務となったある技術職が鈴木康友と同じ年収であることを私に自分から打ち明けたのである。聞いた私の心は千々に乱れた。このころ既に森永卓郎の年収300万円時代の本が出ていた。嫌がる公務員の仕事に就いていた二人の子どもの年収は300万円に満たないためでもある。

 鈴木康友と筆者は親しかった。諏訪湖でワカサギ釣りがあるからということで、諏訪にある国家公務員共済組合の宿に鈴木の仲間たちと一緒に泊まった。大阪の関連の宿では鈴木の仲間として割引と特典を得た。後で気付いたのは妻が地方公務員であるために私は鈴木の持つ特典を利用しなくてよいことであった。鈴木の日本計量協会退職後を知っているのは私だけであろう。細かなことに触れないが、肺気腫を患って酸素ボンベを持ち歩く生活になった。そのご通産省や計量の世界の人々との連絡は途絶えた。聞けば鈴木の奥さんは通産省の食堂で勤務していた。ここでの縁で結婚し二人の男児が育っていた。東京都葛飾区金町の東京都の浄水場近くに住まいがあった。筆者の同僚が鈴木に連れられて銀座の安いバーに何度か遊びに行った。バーは銀座というだけで値段は普通のバーと変わらない。妻と二人の子どもを連れて自転車で立ち寄ったことがあった。銀座は霞が関の間地かにある。国家公務員は銀座にでかけて昼食を食べることは普通のことである。何しろ一直線に進めば銀座になるのだから。鈴木康友の子どもの一人は、国家公務員にならずに、鈴木の仕事先の縁によって団体職員になった。筆者の同僚の子どもの一人、女の子は大学を卒業してもやりたいことがないためにカルチャーセンターに通って身体を動かす遊びで時間つぶしをしていた。何時しか国家公務員になって霞が関に勤務するようになった。その人の妻は娘と国家公務員共済組合が運営する宿に割引価格で泊まることが楽しい。大きな割引率での宿泊は快感をもたらす。筆者が就職するころにな地方公共団体ではどのような形かで職員に滑りこむ道が開いていた。国家公務員の場合には任期付き職員の募集、ほかの緊急臨時募集がされているので、こうした募集に応じて、これをきっかけに正規職員になる道がある。極めて細い道だからここを進みその先の結果は運になる。こうした事情は地方公共団体でも同じ。

渡辺修一と小杉茂と蓑輪善蔵は計量研究所にいた

 蓑輪善蔵の手記に渡辺修一と小杉茂に触れた次の一文がある。

 「1949年6月、的場所長が退任し工業技術庁標準部長の横山不学氏が所長に就任しましたが、建築専攻のしかも外部からの所長は初めてのことで、工業技術庁内の権力争いとか、一時的な腰掛とか、所長人事の絡みとかの噂が飛び交いました。総務部長の席にあった玉野さんが実権を握っていたようですが、9月、突然と所長室に呼ばれ、玉野さん同席の下、高橋照二さんに量衡器係長、私に計圧器係長の辞令が渡されました。何も知らされていなかったので、びっくりしたと言うのが実感でした。この時、高橋さんが25才、私が24才で最も若い係長でした。計圧器係の係員は、渡辺修一さん、高橋政雄さん、伊勢善一さん、岩田成敏さん、関口浄一さん、園田さん、田畑さん等で、少し後に小杉茂さんが配属されてきました。」


蓑輪善蔵の手記にある計量研究所職員の定年退職の事情

 計量研究所職員は国家公務員であった。国家公務員の退職事情を語る蓑輪善蔵の手記がある。蓑輪善蔵が通商産業省計量教習所長を最終職場として退官したのは55歳のときであった。この年齢前後で民間企業や通商産業省の関連団体に就職することが多かった。計量研究所で部長級の職にあって博士号をもっている者は国立大学に55歳前後で出向などの形式で出向き65歳前後まで仕事を続けることが多かった。私立大学への再就職する者もある。私は計りょおう研究所を退官して、東洋大学理工学部教授になった人の原稿を受け取りに川越キャンパスに出かけたことがある。

 国家公務員の定年延長が65歳に引き延ばされることになっている。65歳まで勤めるのは一般職であると想定される。軍隊の階級になぞらえると将官の地位かそれに近いところまで進級したキャリア官僚は別の道が用意される。

 以下は蓑輪善蔵の手記の引用である。引用部分は官僚制度と計量の世界(20)に記載してある。

高橋照二さんの計量研退職

 計量教習所に移って1年ぐらい経った頃でしょうか、高橋照二さんから計量研退職の相談がありました。はかりの専門家として長い間計量法の施行に、教育に、指導に携わってきましたが、先輩、同僚も少なくなり、幹部も若くなり、そろそろ退職の時期と考えたことのようでした。高橋さんは計量研入所、物理学校とも1年先輩でしたが、計量研内では一緒に野球チームを作ったりして同じように過ごしてきていました。高橋さんの希望も聞き、面識はありませんでしたがタニタ製作所の神谷茂社長にお願いに伺いました。快く会っても頂き、話がスムーズに進み、計量研にバトンを渡し、高橋さんはタニタに移りました。

酒井五郎さんと天野重昭さん

 物理学校の先輩で、4部2課長の前任者酒井五郎さんが、千野製作所を退き、後任の推薦と、計量士の仕事に変わりたいとの希望を話しにきたのもこの頃だったでしょう。後任には天野重昭さんを推し、酒井さんの仕事は千葉県の斎藤勝夫さんにお願いし決めてもらいました。

計量課の意向と計量教習所長退任

 1979年になって間もなく、計量研の桜井所長から連絡があり、初めての肩叩きがありました。計量教習所長になる時の、2~3年という話もありましたので、計量課からの申し入れとのことでした。退職するについては、私もまだ54才、次の就職を考えてほしいとお願いしたところ、(財)製品安全協会の検査部長が空いているが、との話がありました。前に計量課にいて、その時には工業品検査所に帰っていた大坪睦治さんに調べて貰いましたが、(財)製品安全協会の検査部長は定年が57才であり、薦められませんとのことでした。

日本計量士会に移る

 桜井所長には自分で見つけるからと就職の世話を断りました。本宮大介さんや小泉袈裟勝さんとの義理もあり、(社)日本計量士会に移ることに覚悟を決めたのもこの頃で、この年の3月には退職願を庶務室に預けました。

 ただ後任人事がスムーズにいかず、私は桜井所長には大阪支所長の高井登さんを推薦していましたが、高井さんの断りなのか、計量課に押し切られたのか、話をしなかったのか、等級的に無理があった渡辺修一さんを持ち出され、強引な取り扱いで、とうとう12月までかかって漸く私も退職することが出来ました。

 計量研からの所長では思うようにならなかった思いが計量課にあったのかも知れません。私が計量士会に移る時に計量課長はただ、計量士会のような格の低いところで良いのか、と言っただけでした。

前川喜平は仕事の内容や責任のことを考慮すれば国家公務員は大企業なみの給与にしたらよいと


前川喜平氏 前川喜平氏は東大法学部卒、文部科学省事務次官で退官。

 東大生の国家公務員離れに対して、前川喜平は仕事の内容や責任のことを考慮すれば国家公務員は大企業なみの給与にしたらよいと話す。文部科学事務次官を追われた前川喜平には退職後の収入はない。自宅前にある日本大学文理学部教育学科の非常勤講師をしているに留まる。民主党政権に通産省審議官の職を追われた古賀茂明も同じである。要するに天下り先が用意されなかったのである。

国家公務員制度改革推進本部事務局の責任者だった古賀茂明


古賀茂明氏 古賀茂明氏は東大法学部卒、経済産業省審議官で退官。

 改革派官僚として知られ、2008~2009年に国家公務員制度改革推進本部事務局で関連法改正などを進めていたのが経済産業省の古賀茂明。 鳩山由紀夫内閣発足当初、仙谷由人行政刷新担当大臣の補佐官起用が内定したものの、各省から強い反発があったために実現しなかった。

 2009年末に国家公務員制度改革推進本部事務局を退任。経済産業省で大臣官房付という状態に置かれているときに、『週刊エコノミスト』に署名論文を寄稿して、民主党政権の公務員制度改革を批判した。公務員制度改革を訴え続けたために2010年10月、参議院予算委員会で仙谷由人官房長官に叱責される。本人の弁では恫喝された。

民主党の政治主導が失敗四つの理由

 古賀茂明は民主党の政治主導の失敗、政権維持の失敗などを次のように述べる。

 一つ目のテーマの政治主導について。民主党は政治主導を公言した失敗した。それは政治主導の意味を間違えたためである。政治主導とは、政治家が官僚を使って政策を実現すること。自民党時代は逆で、官僚が政治家を使って自分たちの利益を守る政策を実現していた。批判して民主党は「政治主導を実現する」と言った。民主党は官僚を使って自分たちの政策を実現しようとしたのではなく、官僚は自分たちの競争相手だと考えてしまった。官僚と民主党の閣僚が横に並んで競争した。民主党は、自分たちの方が有能なんだから、官僚を排除して行政を実行しようとした。

 二つ目の問題は、閣僚に政治主導を実行する能力がなかった、ということ。政治主導でやろうとすると能力のない閣僚が自分でやりだしたら混乱が起きた。これがわかった閣僚は、官僚に頼る道を選んだ。気付かない閣僚の部署では混乱が続いた。

 仙谷由人が官房長官になったとき、仙谷はこの問題によく気付いていた。だから大臣たちにもうちょっと官僚と仲良くしろ、と指示を出した。ただし政治主導の大事なところは全部自分で仕切ろうとした。1人では不可能なので財務省の官僚に頼った。

 三つ目は、有能で信頼できるサポートスタッフがいなかった、こと。政治家が一人でできることは限られている。信頼できる優秀なスタッフがいなければならない。民主党政権では首相を含め閣僚が、そういうスタッフを揃えていなかった。

 四つ目は、首相や大臣がそもそも何をやりたいのか、という目的を持っていなかった。

 以上の四つが民主党政権による政治主導が実現しなかった理由であり、同時に政権を明け渡した原因である。

政治リーダーに求められる四つの条件

 第一は、リーダーがビジョンを持っていること。最小不幸社会とか平成の維新とか第三の開国とか、の抽象的なことでは駄目。小泉純一郎首相時代の時の「民間でできることは民間で」というスローガンと、具体的施策として郵政民営化といったこと。

 第二は、リーダーの資質が高いと。首相になる人が時間をかけて選ばれていないことが問題になる。長い時間、政権にいるなかで経験を積むことができていなかった。リーダーの資質がテストされなかった。

 第三は、ビジョンを実現していく具体的で明確な戦略を持っていること。戦略に基づいて閣僚に、実現する方策を考えろと指示しなければならない。戦略がないまま政権についたので、政策を実行が宙に浮いた。

 第四は、非常に優秀な自分のスタッフを持っていること。首相になってから誰を集めようか、考えていた。誰を使ってどのようにやるのかを事前に持っていないといけない。

公務員制度改革とその方法

 古賀茂明は民主党政権が掲げた公務員制度改革の必要を次のように説く。

 官僚は今ある仕組みを守りながら、自分たちの利益を確保するという行動をとる。公務員制度をそのままにして、ほかの改革をやろうとしても改革を逆戻りさる力が働く。

 公務員制度改革が叫ばれると、給料を下げろ、人を減らせ、という合唱になる。はるかに大事なことは、官僚が国民のために働くインセンティブの構造を作り直すこと。
 公務員は法を犯したりしない限りポジションが下がることがない。業績を残せなければ下がることがある仕組みにする。

 新しいアイデアが出せる若手を登用したり、民間からの人材の登用を推進する仕組みをつくること。課長級でも仕事ができない1~2割を降格させて若手や外部人材で補充する。この提唱の背景には古賀茂明は、仕事をしない、あるいは出来ないキャリア官僚がいることを知っていることによると想定される。

 首相(官邸)主導の公務員の幹部人事の実施。首相が省の利益を超えた判断をして、人事を行うことが大事。

 以上のことは民主党政権時代の2011年に古賀茂明が提唱したことである。民主党政権では実現できなかったが、自民党政権は改革案をちゃっかり実行に移している。

登校拒否と前川喜平 自身も登校拒否児童であった

 前川喜平(1955年〈昭和30年〉1月13日生まれ)は、文部科学省大臣官房総括審議官、文部科学省大臣官房長、文部科学省初等中等教育局長、文部科学審議官(文教担当)、文部科学事務次官などを歴任した。本人は事務次官になれなくても初等中等教育局長だけはやりたかったと語る。現在でも夜間中学でボランティアとして教える。小学校、中学校における不登校に対して、学校に行かなくても良いという方法を講じることを模索してきた。前川喜平は登校拒否児童であったが母親は咎めることなく小学生の前川を見守った。

 ゲーテは自宅に各方面の識者を呼んで学校代わりとした。日本の天皇の学問も似たようなことをしてきた。義務教育とされている学校は国民皆兵のために運営されてきた。体育は兵隊としての肉体をつくるためにあり、教科は兵隊に求められる知識を教え込むためにあった。出来の良い者は陸軍士官学校、海軍兵学校に進んで職業軍人になった。

 日本の学校とはこのような歴史を背負っており、この名残は現在にも残っている。学校は嫌なところである。筆者は午後も遅くなって下校のと途につく小学生を見かけると痛ましい。中学生、高校生についても同じである。普通の人は中学校一年程度の知識しか獲得できないのに、その後に何年も学校に行かされる。中学校三年生の教科が理解できれば日比谷高校に合格してしまうのだ。そうするとそのまま東京大学に行けるのである。これは昔のことであるが数学の馬鹿な教員は日比谷高校と同じ授業をして私を悩ませた。私が直接に知っている日比谷高校の卒業生は三名でありみな東京大学に進んだ。

 前川喜平の話を聴く機会があった。住まい近くの公民館で用足しをしていると前川喜平の講演会が開かれるところだったので、そのまま聴衆になった。コロナ災害のまっただ中のころである。主催者に知り合いの顔を何人か見た。小さな町の小さな集まりに前川喜平はやってきたのであった。賢くて立派な人であると思った。

 前川喜平は2014年から2016年に文部科学審議官(文教担当)。前任は板東久美子であった。板東久美子は後に消費者庁長官(2014年8月から2016年8月、同月退官)。板東久美子の夫に私は面識がある。夫妻とも東京大学法学部出身、夫は通産省に入省。夫妻は前川喜平と違って退官後の職に恵まれている。


古賀茂明と入省同期の石黒憲彦 官僚制度を退官後の処遇が物語る

 古賀茂明(1955年8月26日生まれ)は、日本の元通産省・経産省官僚、 内閣官房国家公務員制度改革推進本部事務局審議官(内閣審議官)。筆者は古賀茂明に会ったことがない。石黒憲彦(1957年5月3日生まれ)が、古賀の同期であることを知ったのは後になってのこと。石黒は計量全国大会で来賓の挨拶をした。冒頭一番に「このような挨拶は私たちは祝詞(のりと)と言うんです」と述べた。大胆不敵な人だと思った。石黒の挨拶すなわち祝詞説は私を感心させ、また納得させた。「計量制度は貨幣制度とともに」という祝詞が唱えられても、これを文章にし記事にしたことはない。こうした祝詞は計量行政機関ほかの神棚に残されており、ときどき引っ張り出される。

 石黒憲彦は、2011年8月に経済産業政策局長に就任、2013年6月経済産業審議官、2015年7月退官。事務次官候補の筆頭格の経済産業政策局長を退いた時期のことであった。事務次官になれなかったための、ふて腐れた態度だったのか、怖い者知らずによるものなのか、恐らく後者である。東京都立上野高等学校から東京大学法学部に進み、通商産業省入省(大臣官房総務課)。退官後は2015年11月に東京海上日動火災保険株式会社顧問、2016年10月に2016年10月 日本電気株式会社執行役員副社長、2023年4月1日に独立行政法人日本貿易振興機構理事長に就任。

 古賀茂明には退官後に天下り先は用意されなかった。前川喜平も同じ。石黒憲彦との対比で、官庁を追われた者の退官後の処遇が明らかになる。

官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介

2024-09-15-3-bureaucracy-and-metrology-by-ryunosuke-natsumori-6-

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介


官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介



計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
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