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官僚制度と計量の世界(7)
Bureaucracy and Metrology-7-

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

中国における科挙制度の歴史
 科挙制度の内容や実態を知る人は少ない。その解釈はさまざまである。
概略つぎのような内容として理解されている。また科挙が廃止された訳。
1、官吏任用制度で貴族による高級官職独占防止目的でもあった
 2、皇帝が有能な人材を家がらに関係なく選び、豪族や貴族の台頭をおさえるための制度
 3、科挙は廃止された理由
 
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介

(見出し)


官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介

(本文)

中国の科挙制度とその変遷 古典の暗記と解釈に偏る科挙による官僚の登用制度は近代化進行を遅らせた


東京大学 本郷の秋の景色。イチョウは東京大学のシンボルツリー。東京大学法学部は官僚養成の学校として発足している。

日本の公務員採用試験と中国の科挙制度を対比することはできない


 中国の科挙制度を現代の公務員採用試験になぞらえるのは適当ではない。現代の国家公務員試験および地方公務員試験は定められた方式による筆記試験と併せて能力を確認するための面接試験によって採用の選考を行う内容である。これに対して中国の科挙制度は、これに応じる地方の支配階級との間での縄張り的な合意の下で実施されていたからである。徳川治世下における行政執行体制としての行政機構のそれぞれの組織の責任者を試験によって選ぶことにたとえられる。官職への自薦を受け付けて、これに試験を課すようなものである。

 徳川将軍家は任命権者であり、旗本や諸大名の高級家臣が選抜試験を受けて、譜代大名役職の下にある大目付、奉行、若年寄ほか多数の職に就く。これが中国における科挙を説明するのに適している。

 譜代大名が就く役職は次のようであった。

 大老は幕閣の最高位。老中は平時における幕閣の最高位。若年寄は老中に続く幕府の重要職。側用人は五代将軍の綱吉のときに新設された役職。京都所司代、大坂城代、大坂定番、寺社奉行。これらの役職の下に100を超える多数の組織が形成されていた。勘定奉行の下には金座、銀座、朱座、金奉行、蔵奉行、林奉行、漆奉行、書替奉行、川船奉行(川船改役)、切手米手改、京都入用取調役、諸国代官、評定番所、美濃郡代、飛騨郡代、西国筋郡代、勘定組頭。

 試験による登用ということでは自衛隊における一佐、将補、将の任官条件としての難関な指揮幕僚課程の修了。国家公務員であれば本省課長になったあとの省内における上級職の職務能力の判定。地方公務員の場合には管理職としての課長職試験に合格していること。中央官庁の本省課長ならびに室長の役職に対して、地方公務員が述べた言葉がある。われわれは入庁にあたっては横並びであり、その後の昇進試験と業務実績で昇任が決まる。中央官庁における入省のときの総合職と一般職のことを指しているらしい。この話をしたのは京都府の計量検定所長であったがその後にどのように昇任したかは確かめていない。

 学科の試験を課しての官職登用ということで国家公務員を対比して考えがちである。試験をすることは同じでも狙いは違う。試験の成績を基準にして採用の公平を期するのが日本の公務員採用制度である。試験突破には学校の特別体制か学外の学習塾を利用する人が多い。

 中国の科挙制度の背景となったことの一つは次の事情である。

 中国の領土が広大であるが,中央と地方を結ぶ交通網が発達していなかった。中国は多民族国家であり,それぞれの民族が使われていた。人口数に比較して官僚の数が少なかった。地方の氏族は大きな勢力を持ち、中央政府と対抗していた。中央政権を打ち立てるために地方の官僚を任命制にして、支配することが求められた。科挙はその目的を達成するための手段として使われた。

 科挙が長く続いたのは中央政権と地方有力勢力の合意があったからである。皇帝は科挙の形式で地方をおさえ、科挙で登用された豪族は財と名誉を得る。科挙で行政官を統御し、中央政権維持のために反政権を排除する。

中国における科挙制度の内容

 科挙制度の内容や実態を知る人は少ない。その解釈はさまざまである。概略つぎのような内容として理解されている。また科挙が廃止された訳。

1、官吏任用制度で貴族による高級官職独占防止目的でもあった
 科挙は学科試験に基づく官吏任用制度で試験の点数によって合格、不合格を判定した。 この制度により身分や家柄に関係なく優秀な人材を集めることができた。 科挙は貴族による高級官職の独占を防止することも目的であった。

2、皇帝が有能な人材を家がらに関係なく選び、豪族や貴族の台頭をおさえるための制度
 科挙は、皇帝が 自分の手足となって働く有能な官僚の人材を家がらに関係なく選んで、彼らを使って独裁権力をふるい、豪族や貴族の台頭をおさえるための制度である。

3、科挙が廃止された理由
 科挙は古典の暗記力や詩歌を作る才覚を問う問題を中心に構成されてていたため、近代化を成し遂げ西洋と互角に渡り合うための人材を採用するには不適切であった。

科挙とは隋から清の時代官僚登用試験 唐代では合格者は30名

科挙


 科挙は、中国で598年から1905年、隋から清の時代まで1300年の間にあった官僚登用試験の制度。科挙制度は中国の影響下にある朝鮮、ベトナムにもあった。

科挙の競争率はときに三千倍

 科挙の競争率は時代によって異なるが非常に高かった。最難関の試験であった進士科では、最盛期には3000倍に達した。合格者の平均年齢は36歳前後。曹松などのように70歳を過ぎて合格する例がある。ほとんどの者はは一生をかけても合格できなかった。

科挙とは官僚登用の試験のこと

 科挙とは試験科目による選挙を意味する。選挙とは官僚へ登用するための手続きのことをそのように呼ぶことが習わしになっていた。科目とは進士科や明経科など受験に必要とされる学識の課程のこと。北宋朝からは科目は進士科だけになったが、この試験はその後も科挙と呼ばれた。

 古代には父祖の官職の上下に従って、子孫や親族に官位職階を当てる恩蔭(おんいん)、任子(にんし)、蔭子(おんし)、門蔭(もんいん)などと呼ばれる制度になっていた。

 隋朝に楊堅(文帝)が科挙を導入。家柄や身分に関係なく誰でも受験できる公平な試験によって、才能ある官吏に登用するためであった。しかし隋から唐までの時代には有効に機能しなかったとされる。

 北宋の時代には、官僚たちが新しい支配階級「士大夫」を形成し、体制を大きく変えた。要因として科挙制度があった。士大夫たちは、科挙に合格して官僚になることで地位や名声や権力を獲得し、大きな富を得ていた。

 科挙に合格するには幼いころより学問できること、書物の購入費や教師への謝礼ののことなどがあって、官僚や富者に受検者が限られるようになっていた。このため士大夫の再生産する仕組みであった。ただし貴族の家系による科挙合格者による官僚登用が六朝時代を通じて数百年間も続いていたのに対して、士大夫の家系は4代から5代ほどに留まる。士大夫の子が科挙に合格できなければその一族は没落した。科挙に合格して官僚となることは一族や宗族の繁栄につながった。

 「官本位」ということで中華王朝社会では、一人の人間が官僚となり政治権力にかかわることは、宗族に富をもたらす構造になっていた。宗族は「義田」という教育組織をつくって教育した。文章軌範の例文集や四書五経が学ぶ対象であった。

 宗族から多くの科挙合格者を出すことことで、官僚になった者たちは宗族に便宜を図った。宗族は子弟の一人でも科挙に合格して官僚になれば半世紀は繁栄することになった。


 科挙は皇帝が直々に行う国事だった。不正行為への罰則には死刑もあった。科挙に合格できれば官僚としての地位と富がもたらされるため、さまざまな手口の不正行為が跡を絶たなかった。命と引き換えの不正行為であり、そこには袖の下の買収工作があったことが想像される。

 科挙によって登用された官僚のなかには、「読書のみが崇く、それ以外はすべて卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮がはびこる。治山治水など政治や経済の実務を投げ出し、庶民の生活苦に思いを寄せなかった。

 時代が下って欧米列強による中国への支配の圧力が増すほどに、科挙制度による官僚登用と政治運営が機能しないことが露わになる。

 改革に取り組んだ林則徐や王安石は、他の官僚たちの謀略によって失脚している。清時代の末期の1904年(光緒30年)の試験をもって科挙は廃止された。

中国における科挙制度の歴史

隋代の科挙制度


 科挙は隋の文帝によって始まる。隋より前の六朝時代には、世襲の貴族が家柄によって官僚になるという貴族政治が行われていた。それまで採用されていた九品官人法は、貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものとはなっていなかった。文帝は自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙制度をつくった。九品官人法は廃止され、地方長官に人材を推薦させたうえで科挙による試験が行われた。推薦よりも試験に重きをおいて官僚が選ばれるようになった。

 隋代の科挙は、秀才、明経、明法、明算、明書、進士の六科からなり、郷試・省試の段階であった。二代で滅びた隋の後でも、科挙制度は唐に受け継がれた。

唐代の科挙制度

 唐の科挙は、秀才、進士、明法、明書、明算などの科目であった。秀才科が重んじられていたものの、受験者が不合格になるとそれを推薦した地方長官まで処罰されたため、受験者が減少し、やがて廃止された。その後に明経と進士が主な科目となる。経書の単純な暗記能力を試すのが中心であった明経科は軽んじられ、「詩」と「賦」を主な試験内容としていた進士科が地位を上げた。中唐では、進士科は受験者1000人に対し合格者が1%から2%、明経科では受験者2000人に対し合格率10%から20%であった。進士科は、士大夫に重んじられた教養である経書、詩賦、策(時事の作文問題)が試験に行われ、合格者は重要な地位に就いた。進士科合格者は唐代では毎年30名ほどに限定された。

 選考の最終試験である省試への受験資格を得るために、国子監の管理下にあった六学(国子学、太学、四門学、律学、書学、算学)を卒業するか、地方で行われる郷試に合格しなければならなかった。省試は吏部の管理下にあり、開元24年(736年)に礼部に移された。試験は毎年実施され合格者の再試験である覆試もたびたび実施された。再試験では袖の下でお金が渡され、不正が発覚すると試験官は左遷となった。中国でのこのような様子は現代の状況に垣間見られ、時代をさかのぼっても同じようなことがある、特有の文化と想像される。

 女性、商工業者、俳優、前科者、喪に服している者は受検させなかった。李白は商人の子であったために科挙を受験できなかったのではないかと言われる。

 唐代では科挙は郷試、省試の二段階であった。省試の合格者が任官されるためには、吏部において行われる吏部試に合格することが要件であった。吏部試では「宏詞科」あるいは「抜萃科」が課せられ、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる四項で審査された。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるかという点を問われ、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律と制度を正しく理解しているかということを問うた。

 次のようなできごとがあった。省試の責任者である知貢挙は、進士合格者を門生として知貢挙を座主とする師弟関係を結んだ。のちの朋党を生むことになる。人物の評価判断へ買収工作がなされた。

 唐代には隋代と違って、世襲の特権階級が占めるようになっていた。唐代の中期以降は科挙出身者の勢力が増して科挙出身の官僚組織を支配するようになった。

 唐代の科挙においては「五経正義」が成立し、この書物により儒教の経書に公式の統一解釈がなされ、明経科の試験は行われた。

宋代の科挙制度

 唐が滅んだあとの五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落した。北宋を建てた趙匡胤は文治を旨として科挙制度を整備し、皇帝臨席の審査である殿試によって合格者を決めた。殿試に及第した進士は「状元」「榜眼」「探花」を総称して三魁と呼ばれた。殿試の実施によって、科挙に合格した官僚は皇帝自らが登用したものという感覚が強まり、皇帝の独裁体制を強めた。

 宋代の当初は進士科と諸科であったが、王安石による科挙制度の改革によって諸科が廃止された。進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、このときから経書、歴史、政治の論述が中心となった。また初めて「孟子」が対象の書となった。王安石のあとに司馬光率いる旧法党が政権担当者になるが、科挙については変更なしで運営された。ただし進士科に経義を選択するもの(経義進士)と、その代わりに詩賦を選択するもの(詩賦進士)が設けられた。北宋の第2代皇帝の太宗もまた太祖の路線を踏襲し、科挙による文官の大量採用を行い、監察制度を整え、軍人政治から文治主義への転換させた。

 答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からないように答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法や、記述された答案の筆跡による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法が採用されたのも宋代である。呉自牧著『夢粱録』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。

 唐中期から五代にかけての社会変革を経て、科挙制を軸とする官僚制が成立した宋の時代になっても、子孫や親族に官位職階を当てる任子(恩蔭)の制度は完全には崩壊せず、新しい時代に合わせて再編成されていった。宋代には科挙出身者が圧倒的に優勢になり、恩蔭出身者は下風に置かれていたが、賈昌朝、陳執中、梁適など恩蔭出身者から高官となった者もいた。

 南宋時代になると官学生や科挙応試者に対する役法、税法上の優免が慣習として成立し、官と民の間に「士人」と呼ばれる知識人階層が形成された。ここでは階層内部での婚姻を重ね、在地における指導者としての立場を形成していく。

 宋代の科挙制度は特定地域の出身者に偏らないように、会試段階での及第者数の定員が地域ごとに定まっていた。省試段階になっていくと試験官が自己の出身地域に有利な評価を下すことがあり、特定の地域への合格者数の偏りを見せることもあった。南宋期には、福州、温州、明州では合格者数が異常に突出した。

 宋代に朱熹が科挙に19歳で合格しており、そのほか、蘇軾(1037年から1101年)が22歳、黄庭堅(1045年から1105年)が23歳で合格している。

金・元代の科挙制度

 1127年に北宋では前年の解試を受けて省試・殿試が行われる予定になっていたが、金が首都開封を占領した靖康の変のために中止された。旧宋領地域を平定するために派遣されていた斡離不を補佐していた劉彦宗の提言によって、1128年に科挙の続きを実施した(趙子砥『燕雲録』建炎2年戊申正月条)。遼では989年以来、漢民族などを対象に科挙が実施されており、劉彦宗自身も元は遼の進士であった。斡離不・劉彦宗は相次いで没するが、その後を継いだ粘没喝も1129年と1132年に科挙を実施し、その後熙宗によって1135年に科挙を実施されている。

 こうした措置は遼の主要領域を占領した直後の1123年にも実施されており、新たな征服地を統治するための人員を確保するとともに、漢民族知識人を引き留める効果があったと考えられている。金では1138年に科挙が3年1貢の正式な制度として採用され、1149年にはそれまで実施されていなかった殿試も採用されるようになったが、金が公的な教育機関の整備に動き出したのは12世紀後期に入ってからで、また南宋のような士人に対する特権はほとんど認められず、科挙に合格しない限りは庶民と同等に扱われていた。

 世宗の即位後に従来の地方官吏から試験による中央登用を停止し、学校を整備して科挙登用を増やす政策を採用した。また女真族の軍事組織であった猛安・謀克の形骸化によって官途に就く道が閉ざされる形となった女真族を救済するために、女真族のみを対象とした女真進士科(のちに策論科)、女真経童科なども実施された。

 モンゴル侵攻を目の当たりにした宣宗は実務に長けた官吏の中央への登用を進めたため、官吏出身者と進士出身者の対立を引き起こすことになった。金の科挙受験者はもっとも多かったとされる13世紀初めでも多くて4万人程度と、40万人に達したとされる南宋に比べて大幅に少ない。金の領域に入った地域はもともと科挙が盛んではなかった。北宋時代には2万人前後の受験者しかいなかった。金が人士への特権を認めなかったこと、金の人事制度が官吏からの中央への登用が比較的容易で科挙一辺倒ではなかったことなど、金と南宋の制度的な違いによるところが大きい。

 元では、1313年まで科挙が実施されなかった。モンゴル帝国の旧金領地域進出からみれば、100年あまり遅れて征服された旧南宋地域でも30年以上行われなかったことによる。実際にはさまざまな人材登用ルートが存在しており、漢民族の知識人(人士、士大夫)が登用された。

 元代の科挙の1回の定員は100名で、しかも蒙古人、色目人、漢人(旧金領漢民族および女真族、契丹族、渤海族)、南人(旧南宋領漢民族)で4分の1ずつ分けられていた。、元代の合格者の総数は1000人ほどであった。

 科挙合格者は、成績によって従六品から従八品までの品階を与えられるなど、当時としては破格の待遇を受けた。科挙実施と同時に従来の官吏出身者の昇進の最高を従七品までに制限した。この規定が科挙復活以前の登用者にも適用されたことから問題視され、1323年に正四品に引き上げられた。科挙の及第によって官僚を目指すことはメリットとデメリットの両方があり、必ずしも他のルートに比べて優位とは言えなかった。当時の知識人は数ある人材登用ルートから科挙を選ぶか、他のルートを選ぶかを選択していたと考えらる。

明・清時代の科挙制度

 明代になると科挙は複雑化した。科挙の受験資格が基本的に国立学校の学生に限られたために、科挙を受ける前に、童試(どうし)と呼ばれる国立学校の学生になるための試験を受けるなければならなかった。試験内容も四書を八股文という決められた様式で解釈するという方法に改められた。試験科目が簡便なものになったことで貧困層からも官僚が生まれるようになった。形式重視になったために思考に柔軟性と応用性がある能力者が得られにくくなった。

 清代にもこの制度は続いた。挙人覆試や会試覆試といった新たな試験制度が追加されたことで、試験の回数が増えて複雑化した。科挙試験が複雑化した背景には、受験者の増加、盗み見のための豆本の持ち込み、替え玉受験などの不正行為が広がったことによる。

 複雑化は科挙制度では優秀な官僚を登用するのに適さなくなった。清代には順治帝治世下での丁酉科場案(中国語版)、康熙帝治世下の辛卯科場案、咸豊帝治下の戊午科場案と試験官に賄賂を贈って買収した大がかりな不正が起きた。死刑も含めた処罰に多数の者が処されている。

 アヘン戦争以後は西洋列強が中国を蚕食する。日清戦争後には近代化が課題になる。清朝末期の光緒新政の一環として1902年(光緒28年)に八股文が廃止され、1905年(光緒31年)に科挙そのものも廃止された。

 科挙が、中国では一般常識とされる儒学や文学が対象となっているので合格者は中国社会の常識人とされた。科挙試験が長く続いたのはこのためである。元朝初期には科挙が行われなかった。理由は中国以外の地域に広大な領域を持っていた元朝には、中国文化は征服先の一文化圏に過ぎないことによる。

 元朝と同じく征服王朝である清朝においても漢人科挙官僚を用いたのは旧明領の統治においてだけである。同君連合である清朝が明の制度をそのまま旧明領に用いた。清朝の第一公用語で行政言語である満洲語と満洲文字を学ぶことを漢人科挙官僚には許されなかった。許されたのは央政治に参加できたのは状元と榜眼の二人だけであった。

 満洲人は基本的に武官(八旗)であり、科挙を受けて合格すれば文官になれたが、漢人よりも優遇されていた。皇帝から指名を受ければ科挙を受けなくても官僚になることができた。

 清朝末期に中国が必要としていた西洋の技術と制度は中国社会にはなかった。中国の近代化にとって古典の暗記と解釈に偏る科挙による官僚の登用制度は役に立たないのであった。このようなことで中国の科挙制度は廃止された。


 清政府の留学促進政策を採り、日本の明治維新を手本にするために、積極的に日本への留学を推進した。

日本の官僚機構としての公務員制度と公務員の働き


人事院がある霞が関の中央合同庁舎第五号館別館。国家公務員総合職秋試験「教養区分」によって東大卒合格者が春試験と秋試験の合格者を10年前に戻っている。

 中国における官僚登用制度としての科挙制度とその変遷をたどった。日本の公務員試験における高文官試験、国家公務員試験と重ね合わせると、現代のその試験の不具合が垣間見える。

 中国の科挙制度は官僚登用となった一族(宗族)の金銭的繁栄に結びついていた。官僚制度は利権配分の制度の側面があった。合格者を出した一族はその後二代、50年の繁栄がもたらされた。それ以前は何百年の繁栄につながった。

 現代日本は費用対効果を普通の人が頻繁に口にする。何度も語っているとその言葉思想に変化する。大学生がこの言葉を使う。その人の家が裕福であるかどうかは別にして、大学卒業後に選択する就職先を給与の高さを評価軸とする。給与が多く楽であること求めるが、給与が第一になる。国家公務員上級職の初任給は民間大企業よりも低い。外資系コンサルティングファームに就職した者は何年かすると二千万円もの年収になることがある。お金よりも遣り甲斐だというけれども実際にはお金である。

 東京大学法学部卒業生が国家公務員を忌避して外資系コンサルティングファームや商社、銀行、大企業を選ぶことに対して、文部科学省事務次官だった前川喜平は国家公務員の給与を大企業並みにしたら良いと述べる。

 働きの内容ほかのことを考慮すると同じように大学を卒業して大企業に就職した同僚との退職時や生涯賃金の開きが大きいからだ。

 日本人が国家公務員の給料を減らすことに快感を覚え、公務員を叩き続けると巡り巡って日本は衰弱の方向に動いていく。45歳課長職の国家公務員の年収は1,200万円に届くかどうかである。企業によっては30歳係長でこのくらいの年収になることは稀ではない。

 東京大学法学部の卒業生が国家公務員にならないのは、エントリーシートを書くだけで大企業は採用するのに、国家公務員は難解な学科試験と神経を擦り減らす面接を何度も貸す。試験対策が面倒であるとか考えるようになったことが東大生が国家公務員を選ばない一番の理由である。

 国家公務員総合職試験は春試験と秋試験の二度実施されている。春試験の東京大学の合格者は2024年は10年前の半分になっている。秋試験は19歳、大学二年で受検でき、秋試験に占める東京大学の合格者は抜きんでている。2024年春試験と秋試験の東京大学の合格者は10年前の人数と変化がない。秋試験に占める私立大学生の合格割合は極度に低い。秋試験は教養試験として実施される。試験を経ての採用のための有効期間はその後に大学院を修了するころまである。学部に進み、大学院を修了してから採用の面接を受けることができる。2025年の春試験は3月に実施される。時期を早めたために民間企業との併願の幅が広がった。

 国家公務員総合職試験ではなしに、国家公務員一般職試験を受けて、一般職として入省する東京大学卒業生は稀ではない。幹部候補としてきりきり舞いして歩む国家公務員の人生ではなく、緩やかに歩む道を選ぶ。国家公務員はいまなお祖父母などが考える望ましい就職先の一番になっている。日本が没落することなく確実に歩み、人々が安心して暮らし、経済がまともに回るのには、政治機構と政治家と連携した官僚機構の下での国家公務員、地方公共団体の職員の働きが欠かせない。

官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介

2024-09-16-bureaucracy-and-metrology-by-ryunosuke-natsumori-7-

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介



[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html


江戸幕府の行政機構
中国伝統社会における選抜システムの役割—一科挙を中心に-劉恩玄(LAu Yan-Chee)京都大学教育学部紀要

(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す

日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する

現代日本の自衛隊とその階級と出世事情

解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)

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