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官僚制度と計量の世界(20)
Bureaucracy and Metrology-20-
大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その4-
Life of a metrology national civil servant by Zenzou Minowa saitou Part4
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
通産省計量教習所長の時代と日本計量士会の時代のこと
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
(計量計測データバンク編集部)
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官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
(見出し)
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
(本文)
大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その4-
工業技術院計量研究所の庁舎。現在は国立研究開発法人産業技術総合研究所計量標準センターの名称になっている。蓑輪善蔵氏は移転を拒む第四部の検査職員の事情に耳を傾け、住まいや家族の滋養によってどうしても筑波にいけない者には東京都計量検定所への職場替えなどの労をとって難題解決に努めた。
通産省計量教習所長の時代と日本計量士会の時代のこと
通産省計量教習所所長時代のこと
1976年7月に計量教習所長に
1976年3月になると、堀忠良計量教習所長の後任として私が出向することが内定したように思います。自動車教習所に通うことにしたのもそのためだったかと思います。
計量教習所は人事が停滞し、設立当時から在職している矢萩さんのことと、女子事務員の矢島さんに関するものであり、堀さんは自分が辞めるまでには総てを整理しておく、と私に言っていました。
計量研通例の4月1日には人事異動が無く、通商産業省人事の関係で7月27日付の辞令になったこともあって、いろいろ準備もできました。堀さんは玉野さんが理事長を務める(社)計量管理協会に席を置きましたが、後(社)日本計量協会に移り専務理事になっています。
既に川田さんとの間で4部長としての引継ぎは済んでいましたので、早速と計量研の車で必要な書類、私物を東村山の教習所に運んでいただきました。辞令は工業技術院長からの出向辞令と通商産業次官からの教習所長辞令だったように思います。
34年間の計量研生活に別れ
計量研には34年間勤めたことになりましたが、いやな思い出はほとんどど無く、随分気持ちよく勤めていたのかと今更ながら感じています。結局は大きな期待もされず、適当な、そして人並みな仕事をしていたことによったのでしょう。
年寄りに育てられたためか、計量研で年配者や先輩に良くしていただいたように思います。米田さんを始め、玉野さん、岡田さん、佐藤さん、朝永さん、酒井さん、大山さん、小泉さん、飯島さん等々です。4部のほか卓球部、テニス部、春秋会(計量研に勤めている理科大OBの会)の人たちに送別会をしていただきました。
当時の計量教習所の事情
この時の計量教習所のスタッフは、教務班長が矢萩修一さん、技術班長が中原喜敏さん、教習係長の水島敏男さん、環境係長の桜井久夫さん、女子職員の矢島さんとアルバイトの飯島さんでした。
まず教習所に赴任して驚きましたのは、堀さんが私にくどくど話をしていた矢萩さんと矢島さんの退職についての人事問題は、何ひとつ手がついていなかったことでした。このことと環境計量について、国家試験合格者のための環境計量講習(2週間)、一般計量教習修了者のための環境計量特別教習(2ヶ月)は堀所長が係員に計画の相談もなく1人で決め、1人で始めたもので矢萩さん以下従来からの職員は、協力しないことになっていたということでした。
人事停滞の弊害があらわに
そのためか環境関係の業務は東村山の機械試験所から出向してきた桜井久夫さんがアルバイトの飯島さんと2人で仕事をしていました。人事問題では堀さんは、矢萩さんと休みがちな矢島さんには話もしていませんでした。
この2人に退職してもらうため、随分と時間を費やし、神経も使いました。何せ矢萩さんは計量教習所設立以来の人ですし、私など教習所に講義に出向くたびに顔を合わせ、話をした仲で、年齢も上、苦労しました。
僅かの職員で環境関係の業務を独立的、単独的仕事にしていては、教習所としての業務も、外部への対応もスムーズに行かないので、木挽町の中検時代から仲の良かった中原さんと相談、中原さんを含めて計画、遂行することとしました。
片道2時間の通勤
1969年に計量教習所は東村山市に設立されていた宿泊設備の整った通商産業研修所内に移っていて、教習生は2人一部屋の全寮制でした。宿泊設備が整ったこともあって講師の方では宿泊して講義をしていた人もありました。
市川のわが家からは片道2時間程かかり、通勤が大変でした。教習所の講義時間は朝10時から12時までと午後1時から5時までの50分授業で、職員は1人、2人が早い出勤で他は9時半頃までの出勤で間に合い、私などは遠いこともあって、10時少し前の出勤でした。
研修所内には小さくとも計量教習所長室がありましたが、計量研の4部長室とは違い部長付き係員も無く、静かな環境を楽しんでいました。また久米川駅から研修所までは、研修所の車やタクシーを使っていました。
環境計量教習のことなど
私が赴任して直ぐの8月、一般計量教習と第4期環境計量特別教習の修了式があり、初めて私の名前の修了証書を渡しました。字の下手な私は、修了証書印刷に使う氏名の手本を、書が堪能であった計量研の藤田伊八さんに下書きを書いてもらいました。この字は環境計量講習にも使っていますので、随分たくさんの修了証書に印刷されているはずです。
環境計量講習といえば2週間の講習の内、実技1週間は教習所と(社)日本環境測定分析協会(日環境)と分担して行っていましたが、座学の1週間は教習所のみで1年に数回開催していました。1回の講習人数が300~400人にもなるため、会場探しに骨が折れ、東京大学の法学部教室、代々木の青少年センター、計量会館、日しょう会館など、いろいろの所を会場にしました。
話はそれますがその時使った(社)計量管理協会が発行した値段の高かった「計測者のための教育・訓練」の本を教科書として使いましたので、(社)計量管理協会は相当潤ったはずです。
教習所の体制正常化
間もなく矢萩さんの退職が決まり、中原喜敏さんが教務班長に、また水島敏男さんが技術班長として教習生を監督することになり、退職した矢島さんの代わりに本省から田中紀美子さんが赴任してきました。
この頃になり漸く教習所の体制も、業務も正常になったように思います。教習内容にも目を配り始め、数学の授業は物理の授業の中で必要な部分を教えることになっていましたが、物理以外の教師から、授業に差し障りがあるとの意見もあって、数学の授業を復活させ、さらに電気の基礎と実験を新設するため、玉川大学にいた菅野允さんと法政大学にいた望月武さんとにお願いをしに行き菅野さんに講義を、法政大学の松田さんに実験を見てもらうことになりました。
計量の実技習得教習に苦心
教習所は知識も大切ですが、計量器に対する実務が必要と考え、実習を充実する総合的実習を加え修了実習として長さ、電気抵抗、力と液体密度の測定の四つを新設、また千葉県の斎藤所長と相談して、行政不服審査法の特別講義と千葉県計量検定所の協力を得て大型はかりの検定実習を再開しました。
このときの一般計量教習課程での修了前1ヶ月ほどは、行政機関からの生徒と民間からの生徒を区別し公務員コースと計量士コースとの2つの授業体制をとり、授業の効率化をしたため、時間を有効に使えたことから、新しい発想も出てきました。
計審使用事業場分科会長
計量行政審議会関係では幾つかの委員はそのまま引き続いていましたが、計量教習所長として堀さんが担当していた計量管理及び計量士専門部会の計量器使用事業場分科会長を引き継ぎ、計量法上における計量管理のあり方、計量器使用事業場の拡大等を検討、1976年に答申しています。
この時の会議で計量器使用事業場の指定権限について政令指定都市の大阪市の岩田さんと名古屋市の畠山さんから都道府県と同じ立場にある政令指定都市に指定権限を与えるべきとの意見があり、千葉県の斎藤さん達との間で随分と活発な意見の交換があったことが思い出されます。
環境計量特別教習修了者面接試験
環境関係は、国家試験合格者のための環境計量講習は1週間の実習と、1週間の座学で環境計量士になるための条件が整うことになっていましたが、一般計量教習(5ヶ月)修了者のための環境計量特別教習(2ヶ月)の修了者は、経験年数を面接試験で確認することになっていました。この教習は計量行政公務員を対象にしたものですが、環境計量士を希望する人も受講できるようになっていましたので、1年に数人がこの面接を受験していました。
答えに窮する修了生も
この面接は計量教習所長が委員長を務め、面接委員は東京都計量検定所長と計量研、物質研、資源技術研、電総研から計量管理、大気汚染、水質汚濁、騒音・振動の各担当官が当たり、経験の程度を査定していました。この面接は受験者1人がこれだけの担当官に囲まれて質問されるため、平常心では答えられず、苦労した人が随分多かったようでした。
教習所長は教育の責任者でもあり、質問に答が出ないときにはハラハラしたものでした。面接が始まる最初、気分をほぐそうと色々な話をしながら面接に持っていきました。2ヶ月の環境計量特別教習が修了する時には、面接で必ず問われる質問の幾つかを話しておくのですが、面接の時それが答えられないことが多く、腹立たしい気がしたこともありました。
ゴルフは10回しただけ
通商産業研修所は主幹が総てを仕切り、所長は官房長の兼任で、大きな所長室はあっても所長のいたためしはありませんでした。
私が赴任した当時の主幹は鬼塚さんで昼休みには体育館でバドミントンをしていて、はじめの頃私も参加してラケットを振っていました。
教習所の桜井さんは機械試験所時代、野球、卓球の正選手、ゴルフもシングルの腕前でスポーツ万能選手、私も随分一緒させられました。ゴルフも計量課の旅行会に参加しては何回か若い人たちとグリーンを回りました。私はゴルフにかかる費用や朝早くから丸1日の拘束には耐えられず、ここまで全然練習もしたことがありませんでした。ゴルフをしなければ人にあらず、の風潮、電車を待つ間も洋傘を振る姿、大きな荷物を混む電車に持ち込むのを見れば、天邪鬼な私は亡国のスポーツなどと毒づいていました。ゴルフはその後熱中しませんでしたが、弟達とのコンペを含めて10指近く、練習もせずにグリーンを回っただけです。
初めて計量課のゴルフコンペに参加する前、研修所の鳥かごでクラブを振り練習をしましたが、なかなかまともに当たらず、野球やテニスに自信を持っていた私としては不甲斐ない思いをしたものです。この頃にゴルフの盛んな兵庫県の方々がきましたが、話の中で初めてのグリーンではドライバーは使わず、5番アイアンからにしたらなどと注意されたことが思い出されます。
教習所職員の昼休みは午後の授業が始まってからの1時間でしたので、教室近くのテニスコートは使うことができませんので専ら体育館でのバドミントンや卓球でした。
高橋照二さんの計量研退職
計量教習所に移って1年ぐらい経った頃でしょうか、高橋照二さんから計量研退職の相談がありました。
はかりの専門家として長い間計量法の施行に、教育に、指導に携わってきましたが、先輩、同僚も少なくなり、幹部も若くなり、そろそろ退職の時期と考えたことのようでした。
高橋さんは計量研入所、物理学校とも1年先輩でしたが、計量研内では一緒に野球チームを作ったりして同じように過ごしてきていました。高橋さんの希望も聞き、面識はありませんでしたがタニタ製作所の神谷茂社長にお願いに伺いました。快く会っても頂き、話がスムーズに進み、計量研にバトンを渡し、高橋さんはタニタに移りました。
酒井五郎さんと天野重昭さん
物理学校の先輩で、4部2課長の前任者酒井五郎さんが、千野製作所を退き、後任の推薦と、計量士の仕事に変わりたいとの希望を話しにきたのもこの頃だったでしょう。後任には天野重昭さんを推し、酒井さんの仕事は千葉県の斎藤勝夫さんにお願いし決めてもらいました。
通産研修所との交流
通商産業研修所は官房総務課の所管でしたが、私の在任中に野球や卓球などでの顔見知りの人達も職員として在職していたこともあって、研修所とも仲良く付き合っていました。終戦後間もなくの頃、中検に在職していた飯島和子さんがアルバイトで研修所の受付にいたのも奇遇でした。また計量課にいた鷲沢さんも一時研修所の主幹になっていて、研修所と教習所一緒の旅行に石和温泉に行ったこともありました。
元大阪通産局長で病気のリハビリを兼ねて研修所長になり、毎日所長室にいた人で、囲碁の上手な人がいて、碁がリハビリに良いということもあって、私も随分とお相手をしましたし、プロ棋士の白江治彦七段が見えたときには、研修所長と一緒に白江さんに打っていただいたことも何回かありました。
数学、物理の補習授業
都道府県や特定市から一般計量教習に入所する人の中には、配置転換で他部局から移ってきた人、新卒でも物理の単位を履修していない人や、数学にも馴染んでいない人がいて、講義に苦労する人もいました。少なくとも高校初期位までのものを思い出しておいてほしいので、中原さんにも無理をお願いし、教習が始まる2週間ほどを当てて中原さんに物理、私が数学の基礎を補修授業したこともありました。
一般計量教習を終え環境計量特別教習を受講する人達は毎期30名程で、環境計量士の取得を目的にする者約10名内外、それに都道府県や特定市から、指導、監督の立場から必用な知識を得るための人達でした。
化学的知識と環境計量特別教習
都道府県や特定市からの受講者は、物理、工学方面の知識は持っていますが、化学については使うことも殆ど無く、化学的知識を必要とする環境計量特別教習にきて戸惑うことが多かったようでしたので、受講が決まった時、原子記号、分子量などの初歩的勉強を要請したこともありました。
そんなことで2ヶ月間の環境に関する授業は、相当に骨が折れたようでした。そこで慰労の意味合いから、特に年配者を中心に都道府県からの受講者何人かを、教習の終了間際わが家に招き、一夜の宴を催したことが数回ありました。
度量衡技術講習等の修了者名簿
計量教習所の前身は中央度量衡検定所が1903年から行っていた度量衡技術講習ですが、この講習の修了者名簿も無ければ、計量教習の修了者名簿も作られていませんでした。そこで、初めに1903年からの修了者を度量衡協会の雑誌「度量衡」から調べ、1341名の名簿を作り、ついで計量教習の54期までの名簿を、費用が無いためガリ版刷りで完成させました。雑誌「度量衡」を調べるため何日も、暇を見つけては計量会館に通いましたが、本宮大介さんと小泉袈裟勝さんや佐藤次郎さんとご一緒してはお酒を飲んでいたことが思い出されます。
本宮大介さん
この頃からでしょうか本宮さんは、早く教習所を辞めて計量士会にこい、きてくれと勧誘されていたのを思い出します。艶福家の本宮さんも家族のこともあってでしょうか、早く宮崎県西都市にいる奥さんの所に帰りたかったようでした。
通産研修所バーでの酒宴
通産研修所には理髪所の他バーもあり、夕刻5時半頃からウイスキーやお酒を傾けることもできました。
教習所長は地方から受講者の陣中見舞いなどに来所する方々も多く、時にウイスキーなどをいただくくことがあり、これをバーにキープしていましたので、それを飲みながら講師の先生方と懇談していたことが思い出されます。今考えても家が遠いのに、ここでお酒を飲み夕食はどうしたのか思い出せませんが、毎晩遅い帰りだったことは確かです。
教習生の中には酒豪もいて、家から焼酎を送らせたり、バーでウイスキーを相当数飲み干した人もいたようです。
筑波からの旅費満額獲得
機械試験所の筑波移転に伴う村山分室の跡地利用問題は、堀所長のときに通商産業省として運動場や計量教習所の環境関係と大型はかりなどの実習設備を含めて土地取得を要求していたようで、この頃に漸く本格化の要求になってきていました。
要求の必要性と肉付けをさせられましたが、要求の理由付けに教習所が利用されただけであることはこの頃から判ってはいましたが。
1979年の予算要求は1978年の6月には第一次ヒヤリングがありました。教習所としての主な要求は環境講習、環境教習と一般教習の実験器具の整備、講師の謝金、旅費等で計量課を通してのものでした。この時の要求では、計量研が翌年の後半筑波に移ることになっていたため、計量研からの講師旅費の要求がありましたが、1979年1月はじめ満額が認められました。
米田麟吉さんの逝去
1月15日から福岡、山口、広島、大阪を回って20日に帰ってきましたら、米田さんが亡くなられており、21日の神式による通夜に伺いました。
計量課の意向と計量教習所長退任
1979年になって間もなく、計量研の桜井所長から連絡があり、初めての肩叩きがありました。計量教習所長になる時の、2~3年という話もありましたので、計量課からの申し入れとのことでした。
退職するについては、私もまだ54才、次の就職を考えてほしいとお願いしたところ、(財)製品安全協会の検査部長が空いているが、との話がありました。前に計量課にいて、その時には工業品検査所に帰っていた大坪睦治さんに調べて貰いましたが、(財)製品安全協会の検査部長は定年が57才であり、薦められませんとのことでした。
日本計量士会に移る
桜井所長には自分で見つけるからと就職の世話を断りました。
本宮大介さんや小泉袈裟勝さんとの義理もあり、(社)日本計量士会に移ることに覚悟を決めたのもこの頃で、この年の3月には退職願を庶務室に預けました。
ただ後任人事がスムーズにいかず、私は桜井所長には大阪支所長の高井登さんを推薦していましたが、高井さんの断りなのか、計量課に押し切られたのか、話をしなかったのか、等級的に無理があった渡辺修一さんを持ち出され、強引な取り扱いで、とうとう12月までかかって漸く私も退職することが出来ました。
計量研からの所長では思うようにならなかった思いが計量課にあったのかも知れません。私が計量士会に移る時に計量課長はただ、計量士会のような格の低いところで良いのか、と言っただけでした。
機振協技術試験所長時代の朝永さん
国家試験合格者の環境計量講習の実習は、東久留米の鋳物センターで行われていましたが、ここは(財)機械振興協会技術試験所の敷地内で、技術試験所長は朝永さんでしたので、実習があると必ず一度は、鋳物センターに行って、その度ごとに朝永良夫さんにお目にかかっていたように思います。朝永さんが(社)日本計量協会の会長になられたのもこの頃でしよう。
朝永さんには都道府県計量検定所長と(社)日本計量協会との関係、その他協会の事情などを話したことが思い出されますが、朝永さんは、専務理事の堀忠良さんを相当に信用されていたようでした。
計量教習所の同窓会を作る計画など
これらの他計量教習所に移っていろいろの思い出がありますが、玉野さん、堀さんと一緒に当時日本計量協会副会長だった大原和三郎さんに何回かご馳走になったり、計量教習所の同窓会を作る計画をしたり、環境計量の講師を依頼するため、立地公害局、東京工業試験所、資源技術試験所などに講師の依頼をお願いに行きました。
環境庁企画室に行ったとき、通産省から出向していた事務官に、いわれのない嫌味をとうとうとしゃべられ、団体主管の計量教習所と思われ、謝金の額などから計量教習所は潰れるぞ、などと言われたこともありました。その他国立衛生研究所、大学、日立製作所、島津製作所、オルガノ、リオン等々から講師をお願いしていました。
日本計量士会での仕事
計量士会専務理事に
1979年(昭和54年)12月17日漸く退職することになりました。この日は午前本省で辞令を貰い、計量課に顔を出し、教習所に取って返して、研修所と教習所合同の送別会に出席しました。翌18日から(社)日本計量士会に勤め始めました。
計量士会では歓迎会を、東京近郊の環境計量教習修了者の方々には退任の宴を開いて頂きました。また何故か、前計量課長だった秋山収さん、小泉袈裟勝さん、本宮大介さん、佐藤次郎さんと歓迎会ともつかぬ宴がありました。
この頃の計量会館には、(社)日本計量協会に堀忠良さん、佐藤次郎さん、(社)計量管理協会に松代正三さん、昇和美さん、(社)日本計量機器工業連合会に村田瑛一郎さん、小泉袈裟勝さん、日本試験機工業会に管野勝さん、東日本ガラス製温度計工業組合に石本義二郎さんなどの方々が居られました。
しばらく後のことですが外野から聞こえてくる噂には、計量協会、計量管理協会、計量士会の専務理事、計工連の常務理事が計量研OBとなり、計量会館は計量研に乗っ取られたなどというものもありました。
健全経営の筈が
私が日計士会に移る前本宮さんは、計量士会は「経理上は問題なく、健全経営である。長野計器との関係は清算し、職員の出向も無くしたし、大きな問題は特にない」とのことでした。
しかし職員は、本宮専務理事、経理担当の内藤文子さん、会員管理と材料試験機の成績書を担当する高橋博司さん、力計の検査を担当する村岡俊昭さん、材料試験機の検査と、地方で行っている材料試験機観測紙のチェックを担当している石丸努さん、それに非常勤で温度計、汚染水銀の検査を担当している大先輩の高橋凱さんでした。村岡さんはこの年の9月に計量教習所を修了して勤め始めた人で、この程度のスタッフで事務がよく処理できたものと思いました。
当時の計量士会のようす
私の出勤は12月も半ば過ぎからのことで、この年は挨拶と整理で暮れてしまいました。1980年になり間もなく、計量士会の副会長高萩浅吉氏が亡くなり、贈位の手続きがありましたが、本宮さんはもう帰心矢の如くなのでしょうか、やる気がなくなっているように見えました。
専務理事の仕事も止むを得ないものだけで、後は私の肩にかかってしまいました。私は高萩さんの贈位の手続き、会員のための情報紙の原稿作り、計量教習所時代から続く各種委員会関係の仕事もあり、忙しい日々が帰ってきました。
昭和55年度の事業に初めて「計量士の実態調査」という(財)機械振興協会経済研究所からの委託事業が決定したのも2月のことでした。2月には計量百年史の完成祝賀会、溝呂木金太郎氏の祝賀会、そして計量士会の事業運営委員会、検査事業委員会と理事会がありました。全国から集まった理事は、私より20歳も年上の人をはじめとする都道府県計量検定所OBが大多数を占めていました。
会長は溝呂木金太郎さんで、この時にはもう不自由な身体になっていました。副会長は東京都出身の原善造さんと広島県出身の藤田武夫さん。大阪府出身の高萩浅吉さんは1月に亡くなり1人欠員でした。理事会の運営は、2人の副会長と本宮専務理事、それに豊橋の鈴木敏夫さんで仕切っていたようでした。議長は藤田さんが努め、来年度の事業計画の前文は鈴木さんが作っていました。理事会が終ると今度は総会のための準備に入りました。そのために先ず、今年度経理の決算をしなければなりません。1人で受け持っていた内藤さんは、毎日残業しては伝票を書き、本宮さんの判を貰っていました。
計量士登録事務
当時は計量課OBの大橋一郎さんが計量士会に席を置き、国の業務である一般計量士登録の作業をここ計量士会で行っていました。これには後の話があって、大橋さんが亡くなった後もこの作業が続いていて、計量士会では松枝さんを臨時職員として雇用、この作業を続けていました。
そのためですか計量法制定後の計量士資格認定の資料、計量士登録の正本、副本ともに計量士会に保管されていました。しかし、このことは若し事故でもあって、これらの資料が紛失したらとんでもない事になります。数年後ですが計量課長に話し、計量士登録の正本を計量課に移し、その後この事務は総て計量行政室に移りました。
共済組合からのお土産
通産省を退職した時、共済組合から記念品として旅行券が支給されましたので、伊勢志摩への旅行を計画し、家内と2人、私としては始めて伊勢神宮参拝を果たし、賢島で2泊しましたが、食べ物に飽きたのか、退屈だったのか昼食にラーメンを食べに行った事もありました。このとき三重県の松本克一さんにお世話になりました。家内と2人での旅行はこれが二度目でした。
「交代の話は聞いていない」と溝呂木金太郎さん
5月28日に開催されたマツヤサロンでの総会は、溝呂木さんも出席していましたが、議長は藤田さんだったように思います。専務理事が本宮さんから私に代わることになっていましたが、ここで、ハプニングが起きました。
溝呂木金太郎さんが、専務理事の交代を聞いていないし、承認できないと言い出したことです。困ったのは副会長と専務理事、既に4月に長野計器に行き、その了解は取れていたのですが、記憶に残っていなかったのでしょう。その時のことは余り記憶にないのですが、原さんの話ですと、私は帰ると言ったらしい、私はそんな事を言ったとは思っていませんでした。副会長や専務理事の説得でなんとか納まりましたが、溝呂木さんのお守りも大変だとの印象でした。
この総会で、会長溝呂木金太郎氏、副会長原善造氏、吉藤忠次郎氏、藤田武夫氏、専務理事蓑輪善蔵となりました。
計量士実態調査
計量士会にきて最初の事業が、委託費での「計量士の実態調査」。一般計量士と環境計量士を含めてのことでしたので、(社)日本環境測定分析協会に環境計量士を分担して貰い、調査を実施しました。委託費は最初600万円でとの話が、最後は200万円になり葉書による調査になってしまいました。
このときの計量課の担当は、後に計量士会の専務理事を務めた監理班長伊藤政一さんです。この調査は渡辺修一計量教習所長を委員長とする委員会を組織して実施し、計量研OBの黒田さん、松本さんのご婦人2人にアルバイトをお願いし集計などをして貰いました。
夜打ち朝駆け
6月12日に中部7県計量管理協議会が能登の和倉で、翌13日には関東甲信越地区計量協会協議会が越後湯沢で行われ、計量士会から私がこの2つの会議に出席させられましたが、どちらか一方は本宮さんが出席してもよかった筈、随分ひどい話とは思いました。と言うのも12日の会議の後、翌日の朝早く発ち漸く協会の会議に間に合うスケジュールだったのでした。さらに7月3日の東北北海道計量大会に出席、8日には石川県山中温泉での理事会と、忙しい事でした。
バイメタル温度計問題
北海道の消費者協会から、百貨店に並んでいる湿度計の示度が極めて不揃いであることを指摘された計量課は、その対策として、いわゆる一般家庭で使用されている湿度計の、品質向上を図るため委員会による検討を行う事とし、バイメタル式と称する湿度計は、団体は金属製温度計工業組合が適当として、湿度計メーカーに金属製温度計工業組合に加入してもらい、この組合を事務局として委員会の運営を行いました。
計量課の担当は小杉さんと野村さんで、委員会は電総研OBの加納さんとメーカーそれに計量研と私が加わりました。最終的に計量士会に補助金による検査装置を作り、標準を統一することからはじめ、抽出による検査を実施することになりました。湿度測定は難しく、専門家の必要に迫られ、当時計量研で湿度標準の研究に従事していた田中良行さんに、無理を言って1982年計量士会に来ていただきました。実際の検査はそれ以後に始まりました。
計量旺美会のお世話
1968年に東京の小川直久さん、広島の藤田武夫さんなどが中心になって作った都道府県計量検定所長OBで組織された計量旺美会があります。広島県の藤田さんが会長で、本宮さんが幹事で事務局を担当していました。会員は、検定所長に加えて会員2名以上の推薦による者で、このころ計量研OBでは小泉さんのみが会員として参加していました。
この年、計量旺美会の総会が島根県松江で行われ、私も入会させられ本宮さんと同行しました。参加者の多くが計量士会の役員、会員で、しかも永年計量行政に従事していた大先輩ばかり、その時はただ話を聞くだけでした。しかしその時の旺美会総会は、新会長を小泉さんに、幹事を私にすることが根回しされていて、一言の相談も無く突然と決定されてしまいました。以後、総会、旅行の計画、会員の管理は私の責任になってしまいました。
それまで藤田さんが担当していた会計と本宮さん担当の旅行計画を引き継ぎ、長い間幹事を務めることになりました。本宮さんは下見をして旅行計画を立てていましたが、とてもそんな時間は取れませんので、奈良部さんの紹介で銀座松屋内に事務所を持っていた土佐電トラベルの金子静子さんに旅行計画の原案を作って頂き、添乗員としての世話も頼みました。
この旅行ははじめの頃は1泊だけでしたが、交通費なども考え、2泊を原則に今も会員約130名程で年1回の総会旅行をしています。計量関係に永年携わっていた方々と数人のご夫人が旅行に参加していますので話が弾んでいるようです。旺美会の旅行だけでも既に日本全国40ヶ所以上になっています。この会なども計量士会運営には随分役立っていたと思います。
関口幸雄さんの出向
専務理事になり2~3ヶ月程たつと、長野計器の箕浦務さんや戸谷幸一さんなどの説得と本宮さんを悪者にすることによって、溝呂木さんも総会で揉めたことなど忘れ私を信用してくれるようになりました。
計量士会にきて僅か6ヶ月ほどの期間でしたが、事務局体制の不備が目に付き、その強化が早急の課題と見ました。しかしこの時の計量士会では経理上の手当てが出来ませんので9月に入ると溝呂木会長を訪ね、庶務と経理の分る人の出向をお願いしましたところ、その場で、突然と関口幸雄さんが呼ばれ、計量士会への出向を決められた即決には、私も驚いたものでした。
計量士会での経理は闇の中のようで最初の建て直しが必要と考えました。元中央度量衡検定所の職員で小泉さんと付き合いのあった内藤さん1人が経理担当で、すべての出納を処理していました。溝呂木会長は叙勲に対する希望が極度に強く、通産省への働きかけを理由に、資金が不足すれば本宮さんが溝呂木会長にお願いして充足していたようで、お貸し下されが随分あったようでした。叙勲の結果が得られたことも本宮さん退任の理由の一つだったのでしょう。これから関口さんによる庶務、経理の組織化が始まることになります。
『計量ジャーナル』の創刊
この秋のことだったように思いますが、長野計器の溝呂木会長を訪ね、これからの計量士会についての計画を話し、了解を得るとともに、会員に対する情報の提供のため情報委員会、検査事業部内に計量機器検査のためのマニュアル作成委員会を立ち上げる事と、さらに社団法人に定期刊行物がないのは会員に対するサービス不足として、来年度から年4回の定期刊行物を情報委員会の仕事とし、溝呂木会長に1年間だけその費用を負担して貰う事にしました。この定期刊行物が『計量ジャーナル』として定着したのは歴代編集委員の努力と会員の協力の賜物と思っています。
米国・カナダ調査旅行
11月に通産省貿易局長から技術的貿易障害対策に関する調査員を依頼され、計工連の高田英男さんと11月末から12日間程アメリカとカナダを回りました。上智大を卒業している高田さんにすべての計画とアポイントメントをお願いし、話なども心強い味方で、ほとんどを高田さんに頼り、目的であったガスメーター、水道メーターの現状、特に規制状況を調査し無事帰ることが出来ました。
この時最初に訪問したNBSには計量研から留学していた増井良平さんが居り湿度の研究室などを案内してもらいました。この後、ニューヨークからカナダに渡りトロントからサンフランシスコを経て帰ってきました。
白石良平さん
昭和56年になると情報委員会は『計量ジャーナル』の編集委員会に様変わりし、4月の第1号発刊に向けての準備になっていました。この時の編集委員は石田三郎さん、和田武雄さん、中山敏雄さん達が主でした。
長野計器から白石良平さんの身柄を預かることになりましたが、白石さんとは計量研時代からお付き合いがありましたし、白石さんの知識が豊富でしたので、『計量ジャーナル』、マニュアル委員会の事務や計量旺美会の世話などの仕事をして頂きました。『計量ジャーナル』は昭和56年4月に記念すべき第1号を発行することが出来ました。
この年の総会は藤田さんを議長に財政基盤の確立のため、57年度からB会員、準会員の会費を4000円から6000円にする事を決定しました。久永忠義さんを支部長とする鹿児島県支部が誕生し、お祝いに既に宮崎県西都市に帰っていた本宮さんに出席してもらいました。
ガスメーター分科会長
ガスメーターについての委員会が既に開かれていた様にも思いますが、計量行政審議会の検定検査部会に小泉さんを長にした大型はかり分科会、和田功さんを長にしたガソリン量器分科会、盛田清隆さんを長にした水道メーター分科会などが発足し、検定検査の再検討が行われました。
この時私はガスメーター分科会長になりましたが、計量課からの話では、ガスメーターは問題が無く簡単に審議が進む、とのことでした。ところがガスメーターの有効期間延長問題が浮上、簡単どころかガスメーターの製作者、使用者間の思惑等もあり結構気を使ったものでした。ほかの分科会は手際よく早い時期に結論を引き出していましたが、ガスメーター分科会はメーターの性能試験とフィールドテストの必要から実験期間を経たため、大分遅れたはずです。
ガス会社とメーカーが共同開発した新しいN型メーターとそれに匹敵するとするメーターの調査、N型メーターの使用実績、また資源エネルギー庁のガス課に元計量課に在籍していた春山さんが居ましたし、使用者と製作者との駆け引きなどにも巻き込まれましたが、漸くに結論を出し、有効期間10年の答申になりました。
この時の調査では、各ガスメーター製作者やガス会社の担当者に大変お世話になりましたし、福島県計量検定所の原田勝男さんにはよい相談相手になってもらいました。
大型はかり分科会の答申から中抜け問題が生じたのも記憶に新しいことです。
指定拡大検討
この時のことと思いますが、計量器使用事業場の指定拡大と計量士による定期検査に代わる検査の拡大が諮問され、そのための委員会の委員としても色々な意見を言いましたが、計量士会として多くの意見を集約、意見書を提出しています。計量器使用事業場の指定拡大などの検討は6、7年前にも行っていますが、良い方法が見つからず実効が上がっていませんでした。
仕事に忙殺される
計量士会の体制整備は、検査事業の拡大強化、会員のための事業整備もゆるがせに出来ない急務で、この頃から事務局整備に力を注ぎ始めることになりました。
先輩の高橋凱さんの退職希望、内藤さんの就業規則による定年退職に対する対応などがあり、計量士会で席を暖めることの少なかった中で、計量研からの人材確保を計画、会費問題などの調整、地方支部への話し合いに奔走していました。丁度このころ倅が大塚のガン研で手術、4ヶ月程入院しましたが、手術にも立ち会えず、忙しい日々を過ごしていました。
永瀬好治さんを迎える
私が計量士会にきて直ぐから高橋凱さんは退職を希望していましたので、当時川口市の鋳物工場に勤務していた永瀬好治さんに声をかけました。永瀬さんは計量研から埼玉県の体温計メーカーに転出した後、そこを退職し鋳物工場に勤めていましたが肉体的に大変な重労働だったようでした。
これより前永瀬さんは、私が計量教習所に居たころ、多賀谷さんと一緒に来所され、就職の世話を依頼されたのですが、その時、私の守備範囲は計量士関係のみですので永瀬さんに計量士の資格をとることを薦めました。その後暫く交渉はありませんでしたが、国家試験による計量士資格を取得していました。
1981年頃になり計量士会における検査事業の拡充強化を重要課題として取り上げ、高橋凱さんに代わる永瀬好治さんの外、力、材料試験機の検査に村田守さん、湿度計検査のために田中良行さんの旧計量研究所OBを職員とすることが出来ました。この頃から計量器の検査を行う体制が整備されはじめたことになります。
横浜市の審議委も
またこの年、横浜市は計量自主管理検討委員会を立ち上げ、私がその委員長になって市の計量行政の在り方について検討しましたが、定期検査その他について、押尾寅松さんや伊勢善一さん等と議論したことが思い出されます。横浜市として今後の計量行政運営の指針を得るための委員会で、横浜市の実情などを知ることができて、地方行政の経験の無い私にとっては良い勉強にもなりました。
長野計器の支援
1985年になると一番の課題は大分改善してきたとはいえ計量士会の財政問題で、溝呂木さん即ち長野計器との関係を含めて財政の確立が出来るかどうかでした。長野計器との関係は、古い話ですが第2次大戦の前後7年間に中検の計圧器係に在籍し、長野計器が発足したころ係長もしていたこともあって良い関係を保つことも出来たと思っています。
密度浮ひょうの存置
この頃のことでしたか、計行審検定検査部会で、検定対象機種の削減、有効期間の延長等が審議されたことがありました。このとき、計量研から出された案の中に申請個数が少なく、比重浮ひょうがあればよい、として密度浮ひょうの削除が提案されていましたが、基本の単位は密度であり、比重はあくまでも従たるもので、密度浮ひょうの削除は容認できないと意見を述べました。
計量研はどう考えていたか分かりませんが、時の計量課長からはこのことの圧力もあり、納得させるまでには何回も話をし、時間もかかりました。
計研部長に支援断わられる
多分この頃の事だと思いますが、計管協の昇和美さん、日計協の佐藤次郎さんと親しく話す機会が多くありましたが、いつも協会の事業と財政問題が話題でした。そこで3団体共同で講演会、講習会の事業を進めようと、先ず計量管理を主体にした一つの案を作り、計量研のある部長に支援と相談を兼ねて話しに行きました。
ところが計量士会などの事業には協力は出来ない、いまに計量管理協会の事業を拡大し計量士会を吸収するのだと、けんもほろろに断られ、この事業は破棄してしまいました。以後その部長氏とは口もきかない仲になってしまいました。
各地で支部結成の動き
5月の総会では会費値上げを提案、A会員2万円、B会員8千円を議決して頂きました。B会員会費を1万円にする予定でしたが、理事会の了承が得られませんでした。徳島県では三河敏昭さん、田村ー(たむら・はじめ)さん、新潟県では堀川啓介さんなどの努力で支部が結成され全国的組織が目に見えてくる様になってきました。
母の葬儀
6月頃から佐原市に2人ですんでいた両親が相次いで入退院を繰り返していましたが、9月 日30に母親が胆管がんで死亡、佐原市浄国寺で通夜、葬儀を行ないました。計量関係の多くの方々に弔意をいただき有難うございました。ひる(昼)通夜などという変わったこともあり、戸惑った方もおられたと思います。祭の日で交通規制があり車の人には迷惑をおかけしました。計量士会の職員の方々に受け付けなどのお世話をいただきました。
郵便局の計量管理業務受諾
1986年計量士会の運営に計量士以外からの見方、知識を導入するため理事として学識経験者3名を限度に選任できること、検査事業の明記その他現状に合わせた定款改正を行ないましたが、定款などの審査を担当する課に知った人がいたためスムーズにことが運びました。
この年、郵便局の計量管理受諾についての愛媛県支部の岡井優さんからの意見を実現すべく、郵政省用品研究所と折衝を持つとともに、計量課の課長、小杉茂班長と交渉、日本計量士会が責任を持つこととし、さらに、支部に権限委任を文書化して地方郵政局と実務の折衝、契約を結び、実施してもらうことにしました。
この事業は次第に浸透していきましたが、3年後、計量課長と総括係長が郵政省との間で計量法施行の面からか、縄張り争いからか奇妙な確執が生まれ廃止の憂き目を見てしまいました。時代の先取りが早過ぎたのかもしれません。
定期検査周期延長案
総務庁は定期検査の周期を、都市部1年、郡部3年を統一して3年周期とする提案をしてきました。計量士会は反対の立場を鮮明にしていましたが、計量課も反対で、共同歩調を取り撤回させることが出来ました。
このことでは、よど号事件で有名になった衆議院議員の山村新次郎氏は佐原市出身で私の父親とまた母親も先代の奥さんと親しく選挙対策の婦人部長等をしていた関係があって、山村さんを議員会館に訪ねたこともありました。
国試直前講習会
この頃になりますと職員も増え計量士会の運営も順調に進むようになり、一般計量士国家試験準備の直前講習会を新設、試験科目別の傾向別問題集を作成、財政的余裕を生むことが出来るようになりました。1987年計量士会副会長を兼ね、計管協の理事にもなっていました。1983年に計量士登録に現住所記載が削除されたこともあって1988年、一般、環境計量士、都道府県、特定市、計量器使用事業場についての実態調査を実施しています。倉瀬公男計量教習所を委員長とした実態調査委員会を組織し、日環協に協力してもらい実施しました。
後任専務理事人事
原会長からは数年前から退任の意向が示されていましたが、この年漸く叙勲の目途が付き会長交替と専務理事選任の準備に入りました。私は専務理事適任者としては早くから東京都計量検定所の平井一さんと思っていましたので、所長の中村さんに正式に懇望をしました。平井さんも定年前でしたが引き受けてくれることになり安堵しました。
しかしこれには一悶着が待っていました。計量課長にこの人事を話した所、機情局所管の社団法人の専務理事人事は、局次長の権限で、しかも都道府県の課長では承認できないと、この時は私も腹を立て、計量教習所長退職時における通産省の不実、計量士、計量士会に対する取り扱いの不満等をあげつらい、計量課長と直談判をしましたが、なかなか了承が得られず、文書での抗弁書を提出しようとしましたが、これは副会長の戸谷さんに止められ、最後は、以後の専務理事については事前に了解を取るという計量士会会長の念書を入れることで決着をつけました。
計量行政には随分と協力してきたつもりですが、いつの計量課長か分かりませんが計量課長引継ぎのメモに、私の名前にアンチMITIとあると話してくれた課長がいました。こんなことが尾を引いていたのかもしれません。(日本計量史学会会長)
計量士会創立30周年記念祝典
1989年5月の総会は計量士会創立30周年記念祝典を兼ね千代田区平河町のマツヤサロンで行ないました。この時の総会は任期満了に伴う役員改選で原会長が退任することになっていました。この時に計量法の改正が準備されることになったことや、計量士会内の事情から私が会長となることになり、副会長に戸谷、奈良部、橋本、高橋の各氏、専務理事は平井一氏となりました。
平井さんは有能な人で、私の意中の人、これで計量士会も人事的にも安定し、より大きな発展が期待できることになりました。平井さんには計量士会に移籍されて直ぐ、前年度の計量士の実勢調査をまとめてもらいましたが、計量士会を知る上で多分大きく約立った事でしょう。平井さんは計量管理受託の事業などを計画、実施するなど、計量士会の事業拡大に意欲を燃やしていました。
各種委員会の仕事
この頃の私の計量士会以外での出席した会議などを見ますと、計行審の検定検査部会、計量管理及び計量士専門部会、国計連の成分計測分科会、工業計測分科会、質量計測分科会、国際比較検討委員会、圧力測定研究懇談会、湿度懇談会、湿度・水分センサー研究会、石油ガスメーター調査委員会、計量管理システム委員会、国際化対応研究委員会、制度作業委員会、温度計作業委員会、計管協理事、日計協の常任理事、基本問題委員会、プラザ委員会、ひろば編集委員会などがあり、さらに計量士会その他の会議等に私用を含めて年に20回ほども地方を旅行していました。
これでよく仕事が出来ていたなと思いましたが、これは平井さんが総括し、村田さんが検査関係すべてを担当、関口さんが事務を処理し、事務局体制が整ってきたのと、その場その場の対応で事を済ませた私のいい加減さであったものと思っています。
本宮大介さんを見舞う
本宮前専務理事は退任の後、宮崎県に移り野菜などを作っていたようですが、喉頭がんを患い、手術し家庭で療養していると連絡がありました(退任した時、計量課と相談し藍綬褒章の申請を行ない、退任した翌年に授章しています)。
3月、中国・四国地区計量士会連絡協議会が愛媛県松山市で開催されたのを機に、宮崎県西都市を訪ね、本宮さんを見舞いましたが、当日は大雨でしたのでタクシーを使い漸くの思いで本宮さん宅にたどり着きました。本宮さんは声が出ずこの時の会話は筆談によるものでしたが、このときは元気で話していました。
計量法の全面的検討の開始
1990年8月通産大臣から計量行政審議会長に「新時代の計量行政の在り方について」の諮問があり、計量法の全面的検討が始まりました。
この時、私は第二法制臨時専門部会長となり審議を進められましたが、この時計量行政室の第二部会担当班長は宇田川さんで、委員であった東京都の山田さん、埼玉県の藤田さん等の方々にお世話になりました。
平井専務理事は第一専門部会委員になっていましたが、10月に発病、入院してしまい平井さんの代わりは私が務めることになって、審議会関係は第一、第三専門部会委員をも兼ねることになってしまいました。平井さんは入院加療していましたが翌年4月25日に亡くなられ、葬儀には東京都計量検定所の方々と相談の上、名ばかりの葬儀委員長を務めました。期待し色々の経緯の上、専務理事として計量士会に呼んだ平井さんに亡くなられ、大きな痛手を受けてしまいました。
台湾政府の計量法全面改正に協力
1991年になり台湾政府は日本の計量法全面改正について、その情報を知るため台湾来訪を打診、台湾とは正式な国交がないため公務員の訪台が許されなかったので、計工連の山崎信雄専務理事、東日本硝子製温度計工業組合の渡部勉理事長、奈良部尤専務理事と私の4人で3月 日から195日間程訪問、午前に私の計量法改正についての講演、午後に質疑の1日の他は懇談と観光でした。
会館内団体統合の議論
帰りの飛行機で山崎さんと隣り合わせの席になり、色々な話の中で、関係団体統合(日計協、計工連、計管協、計量士会)などが話題になり、議論の場を持ってほしいと依頼され、帰ってから小野田日計協会長に話をし、日計協から鈴木専務理事か佐藤常務理事、計管協から遠藤専務理事、それに山崎さんと私が加わり、数年かけて会合を持ち種々議論しました。
しかし日計協と計管協が極めて消極的であったことから結局はご破算にならざるを得ませんでした。
伊藤政一さんが専務に
計量法改正作業の進展とともに計量士会各支部への情報連絡も多くなるなか、改正のための第1、第2、第3部会に前からの検定検査部会があったりで、専務理事の欠員は許されず、計量行政室と相談、元計量課の監理班長を務めた伊藤政一さんを5月の総会で専務理事に選任しました。
伊藤さんは計量士会になかなか溶け込めず、副会長達も大変苦労していたので、副会長会議やその他の委員会を新設し、事業運営に対応させました。計量行政審議会も検討を終了させ、8月の初めに答申しています。
住まいのこと
わが家は1955年に京成電鉄の分譲地市川市菅野の約142平方メートルの敷地に40平方メートル程の家を建てて住んでいましたが、南側の家で娘さんが結婚して一緒に住むことになったためか敷地一杯に総二階を立て始めました。
1年程前には二階を建てないとのことでしたので、私は一部屋建て増しし、腹も立ちましたし、これでは庭に日が当たらなくなり、2人の子供も庭で遊ぶことも出来ませんので、早速、引越しを考え土地探しを始め、1964年に市川市国分に少し広い土地を見つけ、新しい家を建て引っ越しました。この頃は共済組合や住宅金融公庫などから借金も上手くいき、前の家も売れたので家を建てることが出来ました。
周囲は田甫、近くに3軒程の家しかなく静かなものでした。市川駅までバスの運行があり、バス停も直ぐ近くにあって便は良い所でした。ここも1990年頃には地盛りして家を建てる人が多くなり、わが家は低い土地になって、雨が降るとポンプで庭の水を汲み出す様になってしまいました。
そこでわが家も地盛りして家の建替えをすることにしました。荷物の梱包、運び出し後、8月頃から市川市菅野の家内の実家である妹の家に厄介になっていました。(日本計量史学会会長)
父の葬儀と網膜剥離
そんな中、元気でいた父が突然10月9日に死亡し、長男であるために通夜、葬儀の手当は大変でした。特に葬儀の当日は台風の直撃を受け、千葉県内のJRは全線不通、お付き合いのあった方々や親戚を含めて多くの人にご迷惑をかけてしまいました。大雨のなか墓地に埋葬したため、紋付などの後始末もまた大変でした。
母の時は佐原市諏訪神社祭礼の当日で、誰の心掛けが良いのやら悪いのやら。これで佐原の家には住む人がいなくなりますので、ある程度の後始末をしなければならず、仕事の合間を見つけ数日間泊まり込みで、荷物等の整理をしました。
その帰りのことですが、大雨の中1人で車を運転して宮野木ジャンクションにきた時、急に目に異常を来たし、右目の下一部が真っ暗になりました。1週間程出張や旅行をした後、駿河台の日大病院で診察を受けると、診断は典型的網膜剥離で翌日入院、病室の人達は殆どが糖尿病か眼患者で病状安定までの対策中でしたが、私は余病がないので直ぐ手術になり、剥離が大きいので後ろにカイモノをして網膜をつける手術とのことで入院翌日に手術、10日程で退院しました。私は大病をしたことがなく、後にも先にもこれがたった一度の入院でした。
それまでは1週間に2時間位、健康のためにとテニスをしていましたが、手術後はボールの遠近がつかめないので、テニスも出来なくなり、得意としていたボール競技は出来なくなってしまいました。
戸谷会長、松本専務体制
この年は1891年度量衡法公布から100年になることを記念し、11月1日天皇陛下、皇后陛28下をお迎えした記念式典がホテルオークラで行われています。雨の日だったと思いますが、この日通商産業大臣表彰を受けました。
1992年に入って直ぐ、東京都消費生活審議会に今後の東京都の計量行政のあり方について委員会が発足、活発な意見の交換がありました。最初は小野田元さんが委員長でしたが、途中から私が代理した様に思います。
新計量法も1992年公布、1993年11月1日施行されました。計量士会も翌年の5月役員改選の折、戸谷幸一会長、松本弘美専務理事を選任、私も漸く退任することが出来ました。
おわりに
計量士会会長を退いた後も顧問として、在籍して居り、その後も計量と名のつく中にいますが、退任後のことは、次の機会に譲ろうと思います。長いことくだくだと、愚にもつかない履歴を書いてきました。昔を思い出しながらのことですので、失礼があったり、間違いもある事と思います。ご寛容をお願いします。
振り返ってみますと、特に意志をもって何になろうとか、何をしようともしませんでしたし、その時々を適当に渡り歩いた気しかありません。ただ、先輩、同輩そしてお付き合いさせていただいた方々に恵まれ、一緒に仕事してきた人々にお世話になったことだけは確かなことでした。日本計量新報の横田社長、高松編集部長に厚くお礼を申し上げます。
[資料]
【東京物理学校に関連する資料】
田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた
明治専門学校
明治専門学校は山川健次郎と安川財閥の創始者である安川敬一郎らによって、1909年(明治42年)福岡県北九州市に私立の旧制工業専門学校として創立された。1921年(大正10年)に官立に移管され、1949年(昭和24年)に国立九州工業大学になる。明治専門学校には支援と特別講義などのため尾崎行雄、犬養毅、大隈重信、原敬、長岡半太郎、手島精一、益田孝、渋沢栄一、團琢磨、藤山雷太他など訪れている。
米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏
米田麟吉氏は『日本計量新報』のwebサイトに掲載している、蓑輪善蔵氏の「私の履歴書」と齊藤勝夫氏の「私の履歴書」のなかに登場している。小口太郎は1919(大正8)年、東京帝国大学理学部物理学科に入学しており、当時1学年20名か30名であった理学部学生の同級生として芝亀吉、米田麟吉の両氏がいた。小口太郎の名前は科学者としての業績よりも、三高の水上部員時代に作詞した「琵琶湖周航の歌」で知られており、生家のある長野県岡谷市の諏訪湖畔、釜口に銅像が建っている。米田麟吉のことを中央度量衡検定所の後輩の高橋凱は「上下に隔てのない、また後に残さない、本当にさっぱりした気持ちの良い方でした」と日本計量新報に追悼文を寄せている。同じく中央度量衡検定所の後輩の高田誠二は「英文、仏文の論文や資料をこしらえるときに先生のお世話になった方は数しれないだろう。論文の英文抄録をでっち上げる場合、初心者はたいてい「これこれについてしかじかの条件下で何々が」と長々しい収吾をしつらえ、文末に「……が研究された」と書く。先生それをサッとご覧になって「頭が重いよ」と批評なさる。つまり「主語が長すぎるよ」という意味なのだ。芝亀吉は徳島中学校をてて、のち1918年(大正7年)に第三高等学校を卒業している。熱学、熱力学の権威であり、計量管理協会の事業にも深く関わっている。米田麟吉は東京府立一中から第八高等学校に進んでいる。3人とも1922年(大正11年)に東京帝国大学理学部物理学科を卒業している。米田麟吉は電気試験所に入所、大正15年に中央度量衡検定所に転任、後に第一部長、第二部長などを歴任して1961年(昭和36年)に退官して工学院大学教授に転じている。芝亀吉は東京大学教授などを勤めた後に東洋大学教授となっている。.米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏。
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
2024-09-24-20-life-of-a-metrology-national-civil-servant-by-zenzou-minowa-part-4-
├目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
├
├
├官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
├
├
[以下は覚書]
通産官僚と大分県知事
地方公務員齋藤勝男
地方公務員吉田としお
製鉄会社の計量技術者二人
夜学から大学へ 石川島播磨の男
工業技術院から変わった研究組織はトップを公募として民間の大企業経営者を据えるようになった。
ほか
[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html
├
├
├
├私の履歴書 蓑簔輪善藏-その1-佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる
├私の履歴書 蓑輪善藏-その2-天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
├私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
├
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├
├
├指揮幕僚課程 CGS | 戦車兵のブログ (ameblo.jp)
├埼玉県計量協会会報2019年7月号
http://www.saikeikyou.or.jp/custom_contents/cms/linkfile/kyoukaihou-13.pdf
特別寄稿 放射線測定に関する資料を渉猟 日本計量新報 編集部 横田 俊英1)放射線被害を低く見積もらず、放射線測定器の特定計量器化で警鐘を
石島徹前事務局長退任の挨拶
平成25年から6年間、皆様方には大変お世話になりました。令和元年5月31日に退職いたしました。今後の埼玉県計量協会の発展と皆様のご多幸をご祈念いたします。
├(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す
├私の履歴書/高徳芳忠 (keiryou-keisoku.co.jp)
├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
├計量計測データバンク 私の履歴書
├計量法抵触事例を公表していなかった柳津町 | 水道メーター | 検定有効期限が8年 (seikeitohoku.com)
├エリート職業の鉄板!官僚の結婚相手になるためのポイントを3つ紹介!|結婚相談所パートナーエージェント【成婚率No.1】 (p-a.jp)
├品質工学の考え方 計量士 阿知波正之
├行政の継続性の確保と地方計量行政の在り方
├【計量士の資格認定コース】概略図(PDF形式:62KB)PDFファイル(経済産業省)
├
├計量士の国家試験 (計量士 (METI/経済産業省))
├
├計量士になる 計量士国家試験合格のための学習図書と講習会特集
├計量士資格認定の申請について
├数学と物理はできないという自己暗示から抜け出せば計量士国家試験は突破できる
├教習・講習・研修の概要説明及び費用:NMIJ (aist.go.jp)
├人の言葉の基(もとい)は教養である
├産総研:採用情報 (aist.go.jp)
2024/2/19 2025年卒修士卒研究職の募集を開始しました。【終了しました】
2024/2/20 2025年卒総合職の募集を開始しました。【終了しました】
採用情報|採用|産総研 (aist.go.jp)
├田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方
├品質工学や計量管理の技術を言葉で解き明かすことを課題とする(計量計測データバンク編集部)
├計量標準120周年:NMIJ (aist.go.jp)
├戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲 - Yahoo!マップ
├田中館愛橘博士と航空の歴史
├現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
├長島安治 大正15年生れ 昭和18年陸軍予科士官学校入校 陸士とは別に航空士官学校が創設された、ここに入校。
https://www.noandt.com/static/summary/kakigara/documents/libertyjustice_201808.pdf
├解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)
├私の履歴書 安斎正一 目次
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
├古賀茂明 - Wikipedia
├私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
├前川喜平 - Wikipedia
├私の履歴書 蓑輪善藏 目次 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書/吉田俊夫 (keiryou-keisoku.co.jp)
├横田英史の読書コーナー (eis-japan.com)
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電力改革については、発送電分離が有力な選択肢という立場をとる。古賀茂明のベストセラー。
日本中枢の崩壊 古賀茂明、講談社、p.386、¥1680 2011.9.15
現役官僚が民主党政権の国家公務員制度改革などを批判したことで話題を呼んだ、古賀茂明のベストセラー。雑誌論文や国会証言などで政権批判を行ったため経済産業省大臣官房付という閑職に追いやられた。その後も現役官僚の肩書きで政権批判を続けていたが、9月22日付で辞表を提出したようだ。本書は“現役官僚”が徹底的に政権を批判している点で見るべきところはあるものの、内容自体は他の民主党政権批判や官僚批判と大きく異なってる訳ではない。政官界の問題について頭を整理するときに役立つといったところが、本書の評価として妥当なところだろう。
筆者が力点を入れて論じるのが国家公務員制度改革。自民党政権時に渡辺喜美・行政改革担当大臣がどのように改正させたか、成立までの紆余曲折、成立後の官僚の抵抗などを詳述している。自民党への失望が大きかっただけに、民主党にいる政権交代に筆者は期待する。期待はすぐに失望に変わる。期待が高かっただけ、その反動は大きかったといえる。
さすがに現役官僚だけに、官僚機構についての記述は詳細だ。天下りの仕組み、官僚が駆使する騙しのテクニック、大企業との癒着など、自らの体験を踏まえ紹介する。
「経済学に人間の心を持ち込みたい」という経済学者・宇沢弘文が自らの人生哲学を開陳した書。現在の貧困を解決するキーワードとしての社会的共通資本を紹介するとともに、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を徹底的に批判している。リベラルな論客としての宇沢の考え方がよく分かる。本書は2003年に刊行された「経済学と人間の心」に、二つの未公表講演録と池上彰の解説を追加した新装版である。池上の解説がコンパクトでよく出来ている。
第1部「市場原理主義の末路」は経済倶楽部での2本の講演で構成する。2009年の「社会的資本と市場原理」と2010年の「平成大恐慌~パックス・アメリカーナの崩壊の始まりか」である。質疑応答も収録しており、新自由主義や市場原理主義に対する宇沢のスタンスだけではなく、人柄が伝わってくる。もし東日本大震災や原子力発電所の事故後に宇沢が講演していれば、どういった内容になったのか興味のあるところだ。第2部以降は、思想や歴史観、官僚観、教育観を宇沢自らが語るエッセイである。右傾化する日本への危惧、60年代のアメリカ、学の場の再生、地球環境問題への視座という構成をとる。
計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)
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