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官僚制度と計量の世界(11)
Bureaucracy and Metrology-11-
昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その1-
Life of a metrological civil servant Part 1
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
専門学校などを紹介する雑誌で計量教習所のことを知った 入所試験を受けると合格した
千葉県の計量行政の変遷 小さな計量史(1)
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
(計量計測データバンク編集部)
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官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
(見出し)
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
(本文)
昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その1-
古くは旧制北海道庁立釧路中学校、長い間は北海道立釧路高等学校、現在は北海道釧路湖陵高等学校の学校名。旧校舎北海道釧路市富士見3-2-3にあった。現在は北海道釧路市緑ケ岡3丁目1−31。
専門学校などを紹介する雑誌で計量教習所のことを知った 入所試験を受けると合格した
1949(昭和24)年4月8日れ、団塊の世代の四男がいた。団塊の世代とは昭和23年から25年の3年間をさし、その人数は800万人を少し超える。父親は海軍の職業軍人で戦後は日本放送協会(NHK)釧路支局に勤務し受信料の集金員をしていた。
両親は父親の勤務地横須賀で知り合って結婚し長男が生まれた。1945(昭和20)年の終戦近くには戦火が本土に及ぶようになったので、母が長兄を連れて北海道に疎開した。父親は人間魚雷で出撃することになっていたが敗戦によって任務を解かれ除隊した。
兄弟は四人で、長男は、1942年(昭和17)年の戦前生まれ、二男は1946年(昭和21年)生まれだが直ぐに亡くなり、三男は1947年(昭和22年)に生まれています。四男の末っ子がこの男であった。
この末っ子の男児が進んだのは高等学校は釧路湖陵高校であった。ここは地元で一番の進学校。9学級で一学級が50名。1967年(昭和42年)、高校二年のときに父親が職場で脳出血で意識不明となり入院、言語障害と半身不随の後遺症を抱えてのリハビリ人生となった。長兄は高卒で既に大手生命保険会社に勤務していて父に代わりを支えた。次兄は高校卒業後に石油関係の会社に就職していた。
男は高校三年生になって進学か就職かの選択することになる。私立へ進学するための家計の余裕はない。このころ国立大学の一カ月の授業料は1,200円。二段別途生活の寮に入れば家で生活するより安かった。試しにと国立大学を受験したが失敗した。
大学進学を諦めて就職する道を余儀なくされる。短期間に手に技術をつけるとか何かの資格があった方が有利であると考えた。社会への知識が不足していたこともあった公務員になることは全く考えなかった。このころ福祉行政の拡大などで地方公務員が増やされているころであり、この高校からは10人を超える生徒が地元の市役所、北海道県庁ほかに就職していた。こうした事情を知ったのは後のことである。
専門学校などを紹介する雑誌の記事で、目に止まったのが気象関係の学校と、通産省の計量教習所であった。計量教習所は教習期間が五カ月と比較的短期であること、費用が余りかからないこと、国の機関であることなど、が気に入った。さっそく後期の入所試験を受けると合格した。
男が卒業したのは釧路市立弥生中学校で、校舎は太平洋に面した高台にあった。算数が数学に代わり公式を覚えることで簡単に答えが導かれることが楽しくなり得意科目であった。英語は苦手科目であり試験用の勉強に留まった。
昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の手記
以下は男の手記である。
1968年後期計量教習を受ける 教習生は57名
1968年(昭和43年)の後期計量教習は、第33期で大所帯の57名が学んでいた。場所は新宿区河田町の通産省地質調査所分室の4階にあり、近くに東京女子医大、当時のフジテレビ、税務大学校があった。
私はフリーでの入所だったので当座の住まいに困っていた。そこで、入所式のときに水島教官(故人)に相談したところ大変助かる措置をとっていただき、教習所の修了後は公務員コースに進むということで、寮に入ることができた。私の場合、北海道出身なので本来は、北海道・東北組の部屋なのだが、定員のことがあり九州・四国組の部屋にお世話になった。
私を除く皆が、地方庁から派遣された社会人
計量教習所には、地方計量職員のための寝泊りができる大部屋が4部屋ほどあった。4階に北海道・東北組6名、北陸・中部・東海・千葉組5名、関西中国組5名の3部屋、3階に九州・四国・中国組5名の1部屋で、研修生の約4割にあたる21名がここで生活していた。私を除く全ての寮生が、地方庁の検定所と特定市から派遣された社会人であった。同室の寮生が、夜に新宿方面へ飲みに行くことが多々あった。
未成年の私が門限破りの手助け
当時の私は未成年で、酒、タバコはやっていなかったから、一緒に外出することはなかった。施設には門限が午後10時。先輩たちは門限に間にあわない。そこで私の出番となりる。帰ると外から声が掛かり、私が1階のトイレの窓のカギを開けて無事帰還させていた。
祝祭日は、教習は休みなので皆は外出した。隣にあったフジテレビ局の見学に行く者、近場の自宅へ戻る者、都内見学、映画鑑賞など、休日の過ごし方はいろいろであった。大手生命保険会社に勤めていた長兄が転勤で横浜支社に転勤になっていたことは東京住まいの私には心強いことであった。長兄は東横線沿いの元住吉の社宅寮にいたので、ここに出かけて休養と栄養を補充することができた。
第33期は新宿区河田町での計量教習最後の期
私たち第33期は、新宿区河田町で教習した最後の期であった。当時の計量教習所長は、物静かな佐藤朗さん。教務班長はちょっと怖そうな矢萩さん、技術班長が優しそうな中原さん、大変お世話になった教習係長の水島さん他数名の体制であった。
教科の講師では、物理学が松原先生、数学が小泉先生、単位が岡田先生、秤が高橋先生、体積が穂坂先生、温度が酒井先生であった。計量器の構造や検査方法、計量管理の基礎知識から物理、数学にいたるまでの講習を、頭を抱えながら受けていた。
当時の修了式では、修了証の他に2枚目の賞状があった。成績1番は計量研究所大阪支所の中野さんだった。
思い出に残る第33期同期生たち
寮生活はその後の計量人生における人脈を広げることに役立った。年上で部屋長の宮崎県の今西さんは大変几帳面な人で、毎週土曜日には部屋掃除の号令がかかり、全員で畳の拭き掃除、ガラス磨きまをした。2年先輩の福岡市の清水さんと愛媛県の近藤さんは明るく楽しい人で、笑いが絶えなかった。卓球で国体出場した山口市の前野さんには放課後に卓球で相手をしてもらい、その結果が程々に上手になった。
修了後も2年ごとにそれぞれが幹事になり、地元での観光も兼ねて集合していた。その後も年賀状などで互いの近況を確認している。
計量教習は1951年(昭和26年)が第1期生
計量教習所は翌年の1969年(昭和44年)4月の第34期からは、東村山市の通商産業省研修所での教習となった。
1979(昭和54)年11月付け通商産業省計量教習所編集の「計量教習修了者名簿」が関係機関に配付された。懐かしい名前を見つけた。ここには次のようなことが記録されていた。計量教習は、1952年(昭和27年)を第1回として開始された。そのまえには度量衡講習があった。これは1903年(明治36年)に発足して、1951年(昭和26年)の旧計量法が施行された年の第43期まで続いた。
計量教習生に対して計量公務員の募集が来る
入所から5カ月になる1969年(昭和44年)2月に教習が終了し、その後の進路についてはいくつかの選択を考えた。水島教官の配慮で5カ月間安心して勉学ができ、約束したとおり公務員になることは決定していた。問題はどこに行くかであった。教習所について
都道府県の計量検定所においても、当時の経済の右肩上がりに連動するかのように職員の募集が続いていた。計量教習所をフリーで修了した者にはありがたい募集状況でった。
後述談になるが、地元釧路の両親のところへ、北海道計量検定所釧路支所の中村支所長さん、石井さんがわざわざあいさつにきたことを聞いた。
国立大学夜間部に通うのに便利な千葉県へ奉職
私は、新しい土地で一からスタートしたいと思っていたので、地元へ戻ることは全く考えていなかった。もう一つは、大学へ進学できなかったことが気持ちの中に拘(こだわ)りとなっていたので、できれば大学の夜間部に行けたらと考えて国立大学で夜間部がある茨城県か千葉県に絞っていた。
茨城県へは、小松さん(元所長)が就職を決めていたので、千葉県にお世話になることにした。また同期で千葉から教習にきていたのは、計量検定所からは鈴木清さんと大野和夫さん、千葉市からは鶴岡賢一さん、市川市から檜貝達郎さんであった。
勤務の傍ら千葉大学工業短期大学部に通い卒業する
1969年(昭和44年)3月上旬に千葉大学工業短期大学部夜間部を受験した。試験当日には、印象的な出来事があった。1969年(昭和44年)は、東大の安田講堂事件があり学生運動の真っただなかであった。千葉大学においても例外ではなかったようで、試験中にヘルメット、タオルで顔を覆った5~6人が乱入し、ハンドマイクを持って一頻り騒いでは混乱させていた。
それでも試験は続けられた。適正な判定ができたかどうかは別にして結果は合格して3年間通ったが、正直、学問は身につかなかった。学校に通った意義は、友人や親友ができたことであった。
後に計量教習での講師を勤めることに
計量教習所は、2001年(平成13年)12月17日の閉所式を迎えるまで32年間、東村山にあった。計量教習は現在は、つくば市の(独)産業技術総合研究所計量標準管理センター計量研修センターに引き継がれている。
計量研修センターと私の係わりを述べる1998年(平成10年)ころから一般計量教習課程のなかに「ガスメーターと水道メーターの実習」が組まれており、それまで東京都が講師の派遣をしていましたが、千葉県計量検定所が講師の派遣を引継いだ。(株)竹中製作所、京葉計器(株)の2メーカーあったことにもよる。講師派遣は、現職のときは私を含めて数人で対応していましたが、2011年(平成23年)4月からは、私が講師経験者であったことと、退職後計量士としての活動を開始したことから、当面、個人として協力することになった。
ある時期まで年に2~3週間程は、つくばの計量研修センターに出向いていた。歴代のセンター長の桜井慧雄先生、秦勝一郎先生、小島孔先生、根田和朗先生との面識を得たことは、計量界の一員として大きな財産となっている。
1969年(昭和44年)年4月1日、県庁で辞令を受け千葉県計量検定所に勤務
無事に千葉県に採用され、勤務先は既に内定していた千葉県計量検定所であるが、1969年(昭和44年)年4月1日、県庁で辞令を受けてから、千葉市作草部(さくさべ)町の計量検定所の事務室で所員の皆さんに紹介され計量公務員としての第一歩を踏み出した。
以下は千葉県計量検定所での41年間の計量公務員生活と連動した計量法と計量行政にかかる主な出来事である。
1969(昭和44)年の千葉県計量検定所の組織は、総勢29名で、総務課、検定第一課、検定第二課、検査課の4課があった。私は、体積計(ガスメーター、水道メーター、燃料油メーター旧法ではガソリン量器という。)の検定の第二課に配置された。
千葉県はガスメーターの製造メーカーを抱えていたので、毎日がガスメーターの検定の仕事でした。千葉県では、ガスメーターの手数料が検定手数料総額の7割前後で推移していた。当時のガスメーターの検定は、2人1組で一人が基準器の指針を見て、もう一人が受検器の指針を見ながら最初の読みの時に「ハイ!」と声を出します。基準器担当者がその声の時の基準器の指針を記録する。一定量通過する時に終りの読みで「ハイ!」と声を出して知らせるやり方であった。
はかりの定期検査は1967年6月から有料に
この2人1組の掛け声方式はこの年で終りとなり、受検器の手元にスイッチを取り付けて1人で検定ができる方式に変わったので、貴重な体験をしたことになる。1994年(平成6年)から自動検定装置が導入され、検定の効率が図られてきていた。
旧計量法は、1951年(昭和26年)6月7日に公布され、数回の改正を経て1993年(平成5年)11月1日に全面改訂するまでの42年間以上、検定や検査は国の機関委任事務として国内において共通の施行がされてきた。
はかりの定期検査については、1967年(昭和42年)6月から有料となり、検査周期は、市の区域は毎年で町村の区域は3年毎であった。全地域2年周期となったのは新計量法施行の1994年(平成6年)年11月からであった。
計量行政協議会を組織
千葉県の定期検査を円滑に実施するための施策を紹介する。旧法の下、機関委任事務として市町村には計量器の事前調査の説明や計量月間に立入検査権限の一部を委譲するために、市の段階(定期検査周期は市が毎年であった)の対応でったが、26~28市計量行政協議会を組織していた。
具体的な内容は、各市の定期検査の実施時期の決定と「計量に関する適正計量」についての巡回指導という事業を千葉県計量士会の協力を得て実施していた。11月の計量強調月間に各市管内の商店街へ計量士を派遣して、市の職員に同行を頼んで、「はかり」についての定期検査の受検の可否、設置と水平状態、風袋引きの意識付け、計量表示方法などについて調査と指導をおこなった。
この協議会は1967年(昭和42年)ころから開催され、当時は、県と市の担当職員との懇親も重要なことと考え、年1回、1泊2日という泊まり込み方式による各市が持ち回りで実施していた。
県と市の協力関係は円滑
このようなことをしていたため、県と市の協力関係は大変円滑なものであった。新計量法の施行期の1993(平成5)年からは定期検査の自治事務化と、検査周期が市区域と町村区域とも2年間に変わって実質の運営が困難となり、1993年(平成5年)の開催を最後に計量行政協議会は26年間の任務を終えることになった。その後は事務的な定期検査説明会のみとなっている。
千葉県の特定市は5市
千葉県の特定市は、現在5市ある。1962年(昭和37年)4月指定(後1992年(平成4)年4月政令指定都市)の千葉市、1968年(昭和43年)7月指定の市川市、1962年(昭和37年)指定(後2003年(平成15年)4月中核市)の船橋市、1983年(昭和58年)4月に松戸市、2008年(平成20年)に中核市の柏市である。県と特定市との連携を図る目的で、計量行政機関協議会が1967年(昭和42年)ころ発足し、現在に至っている。
千葉県下80市町村の計量事務担当者の協力
2年目から検査課に異動し、1973(昭和48)年まで4年間、県下の市町村、80市町村全てを廻ることができた。市町村の計量事務担当者の人々には大変に世話になった。
検査用具は、前もって市町村の役所へ運搬しておいたし、検査期間中は役所の車で用具が運ばれたので、私たち検査員は、定期検査証印を持参し体一つ、列車で移動していた。通常の検査時間は、10時に開始し午後3時までの告示だったので、行き帰りは最寄駅まで送り迎えされたのには大いに助かった。
トラックスケールの検査方法に「基準こうかん方式」を全国に先駆けて導入
千葉県計量検定所は、大型質量計(通称トラックスケール)の検査方法に「基準こうかん方式」を全国に先駆けて導入した。活用期間は1971(昭和46)年から10年間ほどのこと。
これは、検査能力の10分の1の分銅で検査する方式た。額板の上に三角形のやぐらを一対組み、基準こうかんを設置する。20kgの検査分銅1個を載せると200kgの荷重を加えたことになる。使用する検査用分銅が少なくてすむことから効率的に検査ができる。
組立の準備や20kg分銅の載せ降ろし等に人手が必要で運搬するクレーン付大型車両1台と検査員等の移動用にライトバン1台の2台で5人が要るために、今の時代ではコストがかかり過ぎことになる。一時期、計量教習所の実習見学に取り入れられたことがあった。
1974年、計量士の登録区分が一般と環境の2区分に
1972年(昭和47年)には、計量法の改正があり「秒」「ケルビン」「カンデラ」の現示方法の改正、積算熱量計、振動計を計量器に追加、家庭用計量器制度の新設、電気式タクシーメーターや30kg以下の光電式はかりの追加、指定検定機関制度の創設等がなされた。1973年(昭和48年)の省令改正で騒音計が検定対象になり、1974年(昭和49年)、計量法の一部改正で計量証明事業に環境計量が加わり、計量士の登録区分が一般と環境の2区分となった。
1975年千葉県計量検定所の職員数は33名で最大に
千葉県計量検定所の組織は、1973年(昭和48年)から検査課が検査第一課と検査第二課に分かれ5課制になった。所員数は、増加しつつ1975年(昭和50年)には、33名となりこれが組織として最大であった。
計量畑でない田中義一氏が所長に着任
私は、1975年(昭和50年)から検定第一課に異動となり1980年(昭和55年)までの6年間で質量計の検定、圧力計、温度計、浮ひょう、タクシーメーターの検定を経験していた。
1979年(昭和54年)の所長は、初めて計量検定所出身者ではない機械金属試験場から田中義一氏着任。1981年(昭和56年)年まで2年間の在任機関であった。この年から次長制が導入されている。
この年の省令改正は地方庁にとって、今後の業務に影響のあるもので基準器検査の一部委譲であった。内容は、タクシーメーター用基準器、基準面積板、液体メーター用基準タンクであった。1980年(昭和55年)の政省令の一部改正では、電気式タクシーメーター、光電式はかり、電気式アネロイド型血圧計の型式承認が対象となった。また、環境計量器のジルコニア式酸素濃度計、磁気式酸素濃度計、振動レベル計の検定が開始された。
労働組合検定所分会長の活動をする
私の活動の別な一面として。労働組合活動がある。
計量検定所は、出先機関なので労働組合といっても支援団体的なことが中心で、難しいことはやっていなかった。このように告白すると当時の関係者には叱られるかもしれない。
どちらかというと親睦団体的な活動で職場の潤滑油になっていたと思う。昔から管理職の所長以外は組合員だったので、私が計量検定所に勤務した時点で自動的に組合費が天引きされていた。いわゆるユニオンシップ性の労働組合である。
1969年(昭和44年)の採用から10年が経ったころに役員交代で私が分会長になった。職場のために何かできることはないかと考え、機関紙を発行することを決めた。
検定所分会機関紙「計量ニュース」を第67号まで5年間発行
良き先輩協力者を得て手作りの機関紙「計量ニュース」第1号を1979(昭和54)年4月21日に発行した。組合的な内容では皆さんに見てもらえないので主に計量検定所の出来事を中心に書いた。主な内容は、とりあえずトップは組合情報の報告、以下は自由に月間行事等のお知らせ、計量法関係情報、クイズコーナー、人物紹介など。人物紹介は、所員の皆さんに自己紹介的に原稿を書いてもらい協力してもらった。きっと厭に思っていた方もいたと思うが何とか全員を巡回した。月刊発行に務め1984年(昭和59年)10月の第67号まで5年間続けることができた。私としては、この時期の活動は、自己成長に役立ったと考えている。
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
2024-09-23-11-life-of-a-metrological-civil-servant-part-1-
├目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
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├
├官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
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[以下は覚書]
通産官僚と大分県知事
地方公務員齋藤勝男
地方公務員吉田としお
製鉄会社の計量技術者二人
夜学から大学へ 石川島播磨の男
工業技術院から変わった研究組織はトップを公募として民間の大企業経営者を据えるようになった。
ほか
[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html
├
├指揮幕僚課程 CGS | 戦車兵のブログ (ameblo.jp)
├埼玉県計量協会会報2019年7月号
http://www.saikeikyou.or.jp/custom_contents/cms/linkfile/kyoukaihou-13.pdf
特別寄稿 放射線測定に関する資料を渉猟 日本計量新報 編集部 横田 俊英1)放射線被害を低く見積もらず、放射線測定器の特定計量器化で警鐘を
石島徹前事務局長退任の挨拶
平成25年から6年間、皆様方には大変お世話になりました。令和元年5月31日に退職いたしました。今後の埼玉県計量協会の発展と皆様のご多幸をご祈念いたします。
├(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す
├私の履歴書/高徳芳忠 (keiryou-keisoku.co.jp)
├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
├計量計測データバンク 私の履歴書
├
├エリート職業の鉄板!官僚の結婚相手になるためのポイントを3つ紹介!|結婚相談所パートナーエージェント【成婚率No.1】 (p-a.jp)
├品質工学の考え方 計量士 阿知波正之
├行政の継続性の確保と地方計量行政の在り方
├【計量士の資格認定コース】概略図(PDF形式:62KB)PDFファイル(経済産業省)
├
├計量士の国家試験 (計量士 (METI/経済産業省))
├
├計量士になる 計量士国家試験合格のための学習図書と講習会特集
├
├数学と物理はできないという自己暗示から抜け出せば計量士国家試験は突破できる
├
├人の言葉の基(もとい)は教養である
├産総研:採用情報 (aist.go.jp)
2024/2/19 2025年卒修士卒研究職の募集を開始しました。【終了しました】
2024/2/20 2025年卒総合職の募集を開始しました。【終了しました】
採用情報|採用|産総研 (aist.go.jp)
├田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方
├品質工学や計量管理の技術を言葉で解き明かすことを課題とする(計量計測データバンク編集部)
├
├戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲 - Yahoo!マップ
├田中館愛橘博士と航空の歴史
├現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
├長島安治 大正15年生れ 昭和18年陸軍予科士官学校入校 陸士とは別に航空士官学校が創設された、ここに入校。
https://www.noandt.com/static/summary/kakigara/documents/libertyjustice_201808.pdf
├解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)
├私の履歴書 安斎正一 目次
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
├古賀茂明 - Wikipedia
├私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
├前川喜平 - Wikipedia
├私の履歴書 蓑輪善藏 目次 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書/吉田俊夫 (keiryou-keisoku.co.jp)
├横田英史の読書コーナー (eis-japan.com)
├
電力改革については、発送電分離が有力な選択肢という立場をとる。古賀茂明のベストセラー。
日本中枢の崩壊 古賀茂明、講談社、p.386、¥1680 2011.9.15
現役官僚が民主党政権の国家公務員制度改革などを批判したことで話題を呼んだ、古賀茂明のベストセラー。雑誌論文や国会証言などで政権批判を行ったため経済産業省大臣官房付という閑職に追いやられた。その後も現役官僚の肩書きで政権批判を続けていたが、9月22日付で辞表を提出したようだ。本書は“現役官僚”が徹底的に政権を批判している点で見るべきところはあるものの、内容自体は他の民主党政権批判や官僚批判と大きく異なってる訳ではない。政官界の問題について頭を整理するときに役立つといったところが、本書の評価として妥当なところだろう。
筆者が力点を入れて論じるのが国家公務員制度改革。自民党政権時に渡辺喜美・行政改革担当大臣がどのように改正させたか、成立までの紆余曲折、成立後の官僚の抵抗などを詳述している。自民党への失望が大きかっただけに、民主党にいる政権交代に筆者は期待する。期待はすぐに失望に変わる。期待が高かっただけ、その反動は大きかったといえる。
さすがに現役官僚だけに、官僚機構についての記述は詳細だ。天下りの仕組み、官僚が駆使する騙しのテクニック、大企業との癒着など、自らの体験を踏まえ紹介する。
「経済学に人間の心を持ち込みたい」という経済学者・宇沢弘文が自らの人生哲学を開陳した書。現在の貧困を解決するキーワードとしての社会的共通資本を紹介するとともに、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を徹底的に批判している。リベラルな論客としての宇沢の考え方がよく分かる。本書は2003年に刊行された「経済学と人間の心」に、二つの未公表講演録と池上彰の解説を追加した新装版である。池上の解説がコンパクトでよく出来ている。
第1部「市場原理主義の末路」は経済倶楽部での2本の講演で構成する。2009年の「社会的資本と市場原理」と2010年の「平成大恐慌~パックス・アメリカーナの崩壊の始まりか」である。質疑応答も収録しており、新自由主義や市場原理主義に対する宇沢のスタンスだけではなく、人柄が伝わってくる。もし東日本大震災や原子力発電所の事故後に宇沢が講演していれば、どういった内容になったのか興味のあるところだ。第2部以降は、思想や歴史観、官僚観、教育観を宇沢自らが語るエッセイである。右傾化する日本への危惧、60年代のアメリカ、学の場の再生、地球環境問題への視座という構成をとる。
計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
2019-02-05-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)
2019-02-07-1-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-
2019-02-07-2-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
2019-02-07-3-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
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