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官僚制度と計量の世界(9)
Bureaucracy and Metrology-9-
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
陸士、海兵卒業者には旧帝大入学が認められた
海軍兵学校第75期は、昭和18年(1943年)12月1日入校、昭和20年(1945年)10月1日卒業。敗戦により閉校が決定したことから、急きょ卒業式を行い75期生には卒業証書が渡された。それ以降の生徒には修了証書であった。75期生は旧制高等学校への編入資格が与えられた。78期は4月に入学、8月に閉校、となったために旧制中学への復学措置。
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
(計量計測データバンク編集部)
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官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
(見出し)
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
(本文)
将校たちの戦後の生き方 陸士、海兵卒業者には旧帝大入学が認められた
空襲後の大阪市街。大阪大空襲は1945年3月13日深夜から翌日未明にかけて最初の大阪空襲が行われ、その後6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行われた。これらの空襲で10,000人以上の一般市民が死んだ。
海軍兵学校と陸軍士官学校は敗戦によって閉鎖・解体されると、在校生には旧制高等学校への編入資格が与えられた
海軍兵学校と陸軍士官学校は敗戦によって閉鎖・解体されると、在校生には旧制高等学校への編入資格が与えられた。海軍兵学校予科(予科生徒)であった者のその後の身の振り方を拾い上げよう。余暇の何年生かによって進路が変わる。
この措置によって後に京都大学法学部を卒業して裁判官となり、1973年(昭和48年)9月7日、長沼ナイキ訴訟一審判決で自衛隊に違憲判決を出したのが福島重雄である。
中央大学文学部哲学科教授をつとめた木田元は、野宿生活をしていたために編入資格のことを知らずに手続きしなかったので資格を失効した。知っていたとしても親など家族全員満洲にいるので学費を捻出できなかったと語る。
木田元は母の郷里の山形県鶴岡市に落ち着き、鶴岡市役所臨時雇、小学校代用教員などで家族を養う。1947年(昭和22年)4月、新設されたばかりの山形県立農林専門学校(現在の山形大学農学部)に入学し卒業。東北大が当時の国立大学で唯一傍系入学(旧制高校や大学予科以外からの入学)ができたことから、1950年(昭和25年)4月に東北大学文学部哲学科(旧制)に編入学。1953年に学部を卒業して同大学院哲学科特別研究生課程に進み、フランス語を習得。1958年に同大学院を修了し、同年から東北大学文学部助手となった。1960年から中央大学文学部哲学科専任講師。
推理小説家となった佐野洋は旧制第一高校から東京大学に進み、文学部心理学科卒業して読売新聞の記者に。
小沢昭一は、江田島の海軍兵学校第78期生として1945年(昭和20年)4月に入校(第703分隊)するが、終戦のために退校。旧制麻布中学に復学後、早稲田大学に進み第一文学部仏文科卒業。
俳優になる加藤武は小沢昭一と麻布、海軍兵学校第78期生として同じ道を歩む。早稲田大学英文科卒業。新宿区立大久保中学校教諭をしていた。
海軍兵学校第78期生には漫画家になる佃公彦がいた。東京府立第21中学校を卒業するが、1946年に父が亡くなったことから伯父が経営する徳島県の、造り酒屋を手伝いながら漫画のカットを徳島新聞に投稿する生活を送った後、1950年頃に東京に戻る。1956年、東京新聞に「ほのぼの君」の連載を開始。
海軍兵学校第75期は、昭和18年(1943年)12月1日入校、昭和20年(1945年)10月1日卒業。敗戦により閉校が決定したことから、急きょ卒業式を行い75期生には卒業証書が渡された。それ以降の生徒には修了証書であった。75期生は旧制高等学校への編入資格が与えられた。78期は4月に入学、8月に閉校、となったために旧制中学への復学措置。
最後の海軍兵学校卒業生となったのが第75期である。第75期の三好達は、1927年(昭和2年)10月31日生れ。旧制東京高等学校を経て、昭和28年(1953年)、東京大学法学部卒業。最高裁判所長官をつとめた。
第75期の松本善明は、1949年(昭和24年)大学を卒業、1950年(昭和25年)に画家いわさきと結婚。1951年(昭和26年)司法試験合格、弁護士に。衆議院議員をつとめる。
第75期の佐藤英夫は 、慶應義塾大学に進学するが1947年に中退、東京大学文学部フランス語科に入学。大学在学中に民藝や俳優座の養成所に通う。1953年に大学を卒業後、東映東京撮影所に助監督として入社するも1955年には退社して俳優として舞台に立つようになる。1961年「七人の刑事」に南刑事役でレギュラー出演。
72期は、昭和15年(1940年)12月1日入校、昭和18年(1943年)9月15日卒業、625名。終戦時には大尉に進級していた。
旧制高等学校卒業の措置が取られていた72期は、旧帝国大学の入学が認められた。こうした一人が池田武邦。1949年(昭和24年)東京大学第一工学部建築学科卒業。山下寿郎建築設計事務所勤務。建築家として霞が関ビルにかかわった。1967年(昭和42年)
日本設計事務所(現・日本設計)の設立に参加し取締役に就任。京王プラザホテル、新宿三井ビル、沖縄熱帯ドリームセンター、徳島県庁舎、新日鉱ビル、東京ベイヒルトン・インターナショナル、筑波研究学園都市工業技術院筑波研究センター、東京都立大学新キャンパス、ハウステンボス、高知県立美術館、アクロス福岡などを手がけた。
72期あるいは73期、中尉あるいは大尉で終戦を迎えて、東京大学工学部に入学、卒業して、後に計量計測企業の新光電子株式会社を創業したのが西口譲であった。西口譲は零式艦上戦闘機のパイロット。東京大学工学部卒業のときには卒業生総代であった。総代となったのは年齢が一番上だったからだと西口は述べる。社長室には零式艦上戦闘機の絵が額縁に入れて飾ってあった。新光電子株式会社は音叉振動式によって質量の精密測定をするハカリならびに関連の計測機器を製造している。
陸士 航空パイロット鍋島綾雄とハカリ事業との出会い
神戸大空襲後の神戸市街。神戸大空襲は、1945年(昭和20年)3月17日と、東半分および阪神間の町村を壊滅させた同年6月5日の爆撃を指す。妹尾河童は当時15歳の中学生で母親とこの空襲を体験している。野坂昭如の小説『火垂るの墓』は、野坂自身の戦争体験を題材とした作品。兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた。愛情と無情が交錯するなか蛍のように儚く消えた2つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現している作品描いている。
陸軍の航空パイロットであったのが日東イシダ株式会社の創業者である鍋島綾雄。日東イシダ株式会社は東北一円のハカリ事業の最有力企業とした名高い。鍋島綾雄は日本計量振興協会の副会長ならびに宮城県計量協会会長でもあった。
陸軍士官学校を経て陸軍軍人の道を歩み、戦後の動乱のなかを日本の産業の発展とともに歩むことになった。鍋島綾雄の生き方を当人の文章からたどる。これは戦中の少年が憧れたもの、国に殉じようとしたその気高さ、戦後の動乱に放り出されても地道に自らの信念で歩んだ道を確かめることでもある。
大正14年7月生れとその時代
1941年12月に始まった太平洋戦争だが、1941年4月18日には、東京、川崎、名古屋など太平洋沿岸の大都市を標的とした米軍による空爆があった。1944年にサイパンが陥落。ここを爆撃機の出撃拠点として米軍は激しく本土空襲をする。1945年3月には硫黄島が陥落。空襲は大都市だけにとどまらず地方都市へも拡大していった。敗戦を宣言する8月15日まで日本各地では毎日のように空襲があり、200以上もの都市を焼き尽くした。
名古屋市への空襲。名古屋市は第二次世界大戦当時も日本有数の工業都市であった。日本の航空機産業を担う重要な工場が数多くあった。航空機産業を標的とした空襲によって大きな被害がでた。
私は大正14年7月22日、香川県高松市の郊外の貧しい農家の次男坊として生まれた。
後年母からよく聞かされたのは「お前は赤ん坊の時、肺炎で三度もおリンが鳴ったんだよ(即ち医者に見放されて臨終の意味)」。それにもかかわらずよく丈夫な体に育ったものだという感慨の籠もった言葉だった。
運がいいと言うか、運が強いというか、この赤ん坊の時の命拾いを一回と数えて、私は20才の時(終戦で特攻要員から開放された)と58才の時の心臓手術含めて生涯に3回も命拾いをしている。誠に有難いことである。
小学校低学年時代はガキ大将で好き勝手をして遊んだ覚えはあるが、その中の一つに遊びではないが思い出に残っていることがある。
戦前の田舎ではお盆の13日、14日、15日の3日間、夜になると灯篭を持って家族揃ってお墓参りをした。お墓の前に灯篭を吊るして供え、うちわを片手に隣近所の人たちと夕涼みしながら、灯篭の蝋燭の火が消えるのを待って又灯篭を持って帰り、最後の15日の晩にはその灯篭を送り火のようにお墓の広場で焼くという風習があった。
近くの親類の美代子叔母さん(父の姪に当たる人)の家で、毎年夏になるとそのお盆に供える灯篭を作っていた。小学校3年生のとき、5年生の従兄弟と二人でその灯篭を売りに行くことになった。長い竹竿に、50センチくらいの灯篭を20数個ぶら下げてそれを担いで隣村まで売りに行く。1個7銭くらいだったと思うが、小学校5年生と3年生の二人で軒並み訪問するわけだ。行く先々で「まー、こんな小さな子供が・・・感心なこと」と褒められながら買ってくれて全部売れてしまった。
二人で意気揚々と引き上げてきたら美代子叔母さんにも褒められてお駄賃(バイト代)に10銭を貰って大変嬉しかった。余程嬉しかったのか、今でもはっきり覚えている。
そのときは将来営業をやることになるとは夢にも思わなかったが、物が売れたときの喜びというか達成感を小学生のときに味わったのも不思議な因縁を感じさせられる。
小学校5年生になったある朝の朝礼のとき、演台の上に立った校長先生が「今度秩父宮様がイギリスに行かれることになったが何のために行かれるのか知っていますか」と聞かれた。
約600名の生徒が誰も答えられなかったので、私は思い切って手を挙げて、「ジョージ6世陛下の戴冠式です」と答えて褒められた。
昭和10年頃は勿論テレビはない、ラジオも一般家庭にはなかったし、新聞を取っている家庭は珍しかった。秩父宮様がイギリスへ行かれるというようなことが子供たちの耳に届く機会もないし、関心も少ない時代であった。この朝礼で私は三木校長先生に目をかけられるようになった。
私が何故答えられたのか、それはおそらく雑誌を読み漁っていたからだろうと思われる。
ジョージ6世は現エリザベス女王の父君である。兄のヘンリー8世がアメリカ人のシンプソン夫人と恋に落ち結婚する為に王位を投げ出した。そこで弟のジョージ6世が王位を継ぐことになったもので世紀の恋と世界中の話題になった。
その頃の私は大人の読む本を良いとか悪いとかの見境なく片っ端から読んでいた。戦前農家で広く読まれていた「家の光」という本は勿論、「キング」「婦人クラブ」等の恋愛小説を、子供の癖に胸を躍らせながら読んだものだった。キング等に連載されていた「呼子鳥」とか「新妻鏡」等の恋愛小説を小学校5,6年生が熱心に読んでいたのだから、私は大変早熟でおませな子供だった。そんな中で秩父宮様のイギリス行きのことを何かの本で読んで知っていたのだろう。
大人の本を片っ端から読んだことによるもうひとつの余得は字を覚えたことであり、国語が得意の学課になったことだった。
昭和15年4月広島陸軍幼年学校に進む 15才から17才までの3年間の英才教育
昭和初年頃「敵中横断三百里」という冒険小説を書いて我々子供達が憧れていた山中峯太郎という有名な作家が、昭和9年「少年クラブ」(当時の子供たちのベストセラー)に「星の生徒」(陸軍の帽子の徽章は星のマークで星の生徒は陸軍幼年学校生徒を意味する)という題で1月号から12月号まで連載した。
そこには陸軍幼年学校の生徒の生活振りが活き活きと紹介されていた。私はそれを胸を躍らせて読んだ。そこに紹介されている全寮制のこの学校の生徒の生活は、小学生の私には夢のような別世界であり、陸軍幼年学校に入ることが私にとって大きな憧れになった。
小さい頃から、「僕は軍人大好きよ、今に大きくなったなら勲章付けて、剣下げてお馬に乗ってハイ・ドウドウ」という童謡を歌って育った世代だから、今の少年達が野球選手やサッカー選手に憧れるように当時の少年達は軍人に憧れたものだった。
中学1、2年生で受験する陸軍幼年学校は県下一の進学校である高松中学から毎年3~40名くらい受験したが一人か二人しか合格出来なかった。大変な難関と言われていたが、幸運にも私は合格して昭和15年4月広島陸軍幼年学校に入学した。
幼年学校は3年制で月謝(食費・寮費も含む)は25円だった。小学校の先生の給料が50円くらいの頃だから我が家にとっては大きな負担だったが、両親は必死で稼いで月謝を納めてくれた。今思えば両親の苦労はさぞ大変だったと本当に感謝にたえない。
幼年学校では先ず食事のマナーから厳しく躾けられた。箸の正しい持ち方から始まってご飯と味噌汁の置き方、お代わりを頼むときのお茶碗は両手で差出し、両手で受け取る、その間手を膝の上にきちんと置いて待つ。食卓は6人ずつで全校生徒450人一緒に食べる。先ず週番士官が箸を取る、次に3年生が食べ始まる、そして次に2年生、1年生は最後に箸を取る。
次に度肝を抜かれたのは入校間もない頃、生徒監(クラスの担任で現役の陸軍大尉)に剣道場に連れて行かれ、切腹の作法を教えられたことだった。その生徒監は2・26事件で決起した青年将校(生徒監とほぼ同年輩)が切腹自決をしないことを憤慨して、15才の少年に軍人はいざと言う場合は潔く切腹する覚悟が必要と教えた。
幼年学校では卒業まで3年間クラスが固定されて変わらない。朝起きてから寝るまで食事も勉強も運動も一緒の生活を送る。同期生は俺・貴様と呼ぶ軍隊用語で訓育され、1,2カ月もすると出身環境の垣根が消滅してしまい、50人のお互いの気心もすっかり分かってしまう。
人生で一番感受性の強い時期である15才から17才までの3年間を徹底した英才教育を受けながらともに過ごした強い絆は、一般の学校ではとても考えられないものであり、将来立派な将校になってお国のために忠誠を尽くすという武士道精神をしっかり叩き込まれた、人生の中で得がたく尊い体験であった。
80才を超えた今日でも会えばすぐア・ウンの呼吸で通じ合える仲は変わらず、生涯の友として交わりを続けている。
幼年学校から予科士官学校・航空士官学校へと進んだ5年間には思い出が山ほどあるが、今回の趣旨とは離れるので割愛させて頂くが昭和20年の終戦直前のことだけは一言触れさせていただく。
陸軍予科士官学校を経て陸軍航空士官学校に入校
昭和18年3月広島陸軍幼年学校を卒業し、埼玉県の朝霞にあった陸軍予科士官学校を経て、昭和19年入間川にあった陸軍航空士官学校に入校した。
そして昭和20年になると東京は空襲が激しくなり、内地では飛行訓練も出来なくなり、3月航空士官学校は満州(現中国東北部)に疎開することになった。私たちの中隊の移転先は東満の東京城(トンキンじょう)という小さな町の飛行場だった。
4月から毎日操縦訓練に励んで練習機を単独で操縦出来るようになった7月のある日、クラスをA班とB班に分けられ、区隊長(クラスの担任教官で陸軍大尉)に「お前たちB班は本土決戦において敵艦船を洋上で覆滅する特攻作戦の要員として促成訓練をすることになった」と申し渡された。私はそのB班に指名された。
20才の誕生日を東京城の飛行場で迎える
数日後の7月22日、20才の誕生日を東京城の飛行場で迎えたが、宿舎から飛行場の向こうに見える故郷の屋島に似た山を眺めながら、来年の誕生日は果たして生きて迎えられるのだろうかと寂しい気持ちになったことをはっきり覚えている。
それから一月(ひとつき)も経たない昭和20年8月9日午前0時を期して、中立条約を破ってソ連軍が満州になだれ込んできた。
午後になるとソ満国境に近い牡丹江(ぼたんこう)方面から南下してきた貨車に、着のみ着のまま女子供が満載されて避難してきた姿を東京城の駅で見て、悲惨さと緊迫感を感じさせられた。
11日朝になると更に緊迫して、戦車で一日行程の60数キロの所までソ連戦車部隊が迫っているという情報である。そうした慌しい中で、急遽中隊長命令が出て「中隊は鴨緑江の上流にある水豊飛行場に展開する。途中、本隊からはぐれた者は各個に到着せよ」ということになった。
その日のうちに士官候補生は東京城から通化まで、操縦教官が練習機でピストン輸送をすることになった。たまたまその週の週番勤務(一週間交代のクラスの責任者)は幼年学校以来仲の良い篠原君だった。週番勤務の責任上、当然彼はピストン輸送の最後の便に乗ることになった。
一便早いことが運命の分かれ道に
私は彼に「俺もお前に付き合って最後の便にするから」と申し出たが、その気持ちの半分は本音で、半分は折角畑で育てた馬鈴薯を食べたいということであった。収穫直前のジャガイモ畑をそのまま残してゆくのも勿体ないし、癪に障る。そこでピストン輸送を待っている間、仲間と早速芋掘りをして鍋で塩茹(しおゆで)して食べたが、その旨かったこと。
ジャガイモをたらふく食べて満腹になって気が変わった。「篠原、俺は一便早く行くから」と一便先に乗ることにした。
運命の分かれ目というか、私の乗った便を最後に天候が変わってピストン輸送は中止になった。篠原たちは自動車輸送に切り替えて後を追ったがとうとう追いつけず、ようやく辿り着いたピョンヤンでソ連軍に捕まりシベリヤまで連れて行かれ、結局内地に帰るのは3年半遅れることになった。
我々は通化から貨車輸送で鴨緑江上流の山深い国境を越えて15日か16日ごろ朝鮮に入った。どういう訳か覚えていないが、本隊から離れて我々士官候補生10数名だけになっていた。
国境を越えた頃から戦争は終わったという噂が聞こえてくるようになった。家々には大極旗が掲げられている。朝鮮民族の変わり身の早さにびっくりしたが、日本国に足を踏み入れて不思議にホッとしたような気分になった。
山越えした列車はピョンヤンの北方の定州という朝鮮半島を縦断する本線と合流する町で止まった。そこへ北上する列車が入って来た。その列車に落下傘部隊が乗っていて、その中の若い将校が「内地に帰れば将校は全員切腹だ。関東軍は降伏しない、我々は関東軍に合流して一戦を交える覚悟だ」という。
士官候補生の中には元気のいいのがいて、我々も一緒に北上しようと言い出した。私は正直反対だった。混乱の中だからこの北上する列車は一時間ぐらい止まっていたが、そこへ南下する列車が着いた。その列車から中隊長がヒョコヒョコ降りてきて、ホームに居た私たちを見つけて「お前たち、ここに居たのか、すぐ乗れ」ということになってそのまま一気に釜山まで南下した。
南下する列車の中で、死ななくて済んだという何とも言えない開放感を味わった。
豊岡の航空士官学校が解散 8月31日の夜高松桟橋に帰り着く
幸運というか、ピストン輸送の最後の便に乗ったこと、定州のプラットホームで中隊長にパッタリ会ったことという奇跡的な幸運が二つ重なったお陰で、山口県の仙崎という港に無事上陸することができた。いったん豊岡の航空士官学校に帰ったが、学校が解散になり8月31日の夜中に高松桟橋に帰り着いた。夜が明けるのを待ちかねて6キロの道を歩いて、9月1日の早朝、我が家に辿り着いた。私は偶然が重なったお陰で無事に帰ることができたと思っていたが、身内の年輩の人にこの話をしたところ、それはご先祖様が守ってくれたお陰だと言われて、なるほどそういう感謝の仕方もあるものだと教えられた。
半年間教壇に立つ
高松市は昭和20年7月4日の空襲で殆ど焼けてしまったが、一駅となりの故郷鬼無は戦災を免れ、昔のままの平和な農村風景だった。戦前の農家は殆ど自給自足の生活を強いられていたのが、皮肉にも戦後の食料不足時代にはそれが強みとなって農家は食べるものも自給自足で何とかなった。「国敗れて山河あり」という言葉のとおり戦争の傷跡が余り感ぜられない、貧しくとも平和な昔のままの生活がそこには残っていた。そして何よりも世の中がひっくり返って死の重圧から解放されて自由になったという幸福感と充実感をしみじみと味わった。
小学校には小学生のときの担任の先生が校長先生になって赴任して来ていた。遊びに行くと、「教員が足りないから手伝え」と言われて半年間教壇に立ち、2年生の男女組を教えた。元々先生という職業は好きだったので、12才年下の8才の子供たちと楽しく充実した半年間を過ごした。
大学に入る考えでいた昭和21年のころ
しかし、先生の資格を取るために今更師範学校に行く気にもならず、大学にでも入り直そうかと思ってブラブラしていたところ、昭和21年になって本家の当主義忠氏(父の甥で百十四銀行の支店長をしていた)が「うちの銀行の取引先に大変いい会社があるからその会社に入らないか」と誘ってくれた。義忠氏は幼年学校以来何かと大変世話になっており、陸士入学に際しては備前長船祐定の銘のある立派な軍刀を贈ってくれた恩人である。
熱心に誘ってくれたので断りきれず、来年3月の受験までの腰掛のつもりで行ってみようかぐらいの気持ちで面接を受けた。この会社が日本秤錘株式会社というハカリの錘を造る会社であった。
入社直後、専務に呼ばれて「先日来社された岐阜のハカリ屋さんへ礼状を書け」と言われた。幼年学校・士官学校で手紙の書き方はしっかり叩き込まれていたので、苦もなく書いて持って行ったら「これは素晴らしい、大したものだ」と褒められ逆に面食らった。
そんなことで仕事もだんだん面白くなり、専用の自転車(物資の無い当時は今の自動車に匹敵する価値があった)を支給されたりしてだんだん抜けられなくなって行った。
腰掛のつもりで入った仕事が自分の生涯の仕事になろうとは夢にも思わなかった。人生とは本当に分からないものだ。
日本秤錘常務取締役として群馬検定所長の長尾虎太がいた
日本秤錘時代に得たもう一つの財産は常務取締役だった長尾虎太氏の薫陶を受けたことであった。戦前の検定所長は中央人事であった。長尾虎太氏は確か群馬の検定所長等を勤められたが戦争中郷里の高松に疎開され日本秤錘に請われて常務として経営指導をされていたが、私は直接の上司として指導を受けた。東京帰りの紳士らしい品のいい人格者で中央の業界に明るく人脈も広かった。
囲碁は確かアマ2段くらいの腕前とお聞きしたが、我々のザル碁の指導を時々して頂いた。初心者の我々がびっくりしたのは最初の一手目から最後の一手まで正確に再現してくれることだった。プロだったら当たり前のことだが当時の私は本当に感嘆し尊敬したものだった。
この長尾常務は日本度量衡協会の専務理事だった重台安蔵氏や日本計量新報の創始者久保田誠氏と仲のいい友達で囲碁仲間でもあった。日本度量衡会館その他でこの3人が和やかに対局されているのを側でよく拝見したものだった。
虎ノ門にあった日本度量衡会館と銀座の中央度量衡検定所
日本度量衡会館といえば東京の一等地虎ノ門に小なりといえども自前の鉄筋3階建てビルを構えていた。戦前の諸先輩の力と先見性には敬服させられる。私は長尾常務の使いでよく虎ノ門にあった度量衡会館へ行った。そこには戦前から戦後にかけて業界の大御所であった会長の徳永学氏、専務理事の重台安蔵氏、若手のバリバリの本宮大介氏等がいた。私の用事は当時昭和通にあった中央度量衡検定所へ紹介して貰うことであった。戦後しばらくの度量衡法時代は検定・検査用20kg分銅を中央度量衡検定所が毎年何百個も購入して各県の検定所に何年かに分けて配布していた。
24~25才の若造が分銅の売り込みに中検に行っても相手にしてもらえないので、重台さんと本宮さんに紹介して貰って中検へ行った。中検の担当は小泉袈裟勝さんだった。後年小泉さんとは計工連のハカリ部会等でよくご一緒して親しくして頂いたが、バリバリの現役時代の小泉さんは一寸気難しい近寄りがたい感じだった。
戦争末期の海兵と陸士は特攻要員の訓練場に
昭和17年(1942年)当時、海軍兵学校の生徒は特攻要因として集められ卒業1,672名のうち戦死者は1003名、戦死率は60%であった。陸軍士官学校74期。昭和17年(1942年)12月1日入校、昭和20年(1945年)3月30日卒業、1,024名。海軍兵学校56期。1942年12月卒業1,672名。
1942年の陸軍士官学校と海軍兵学校を併せた卒業者は2,696名。海軍兵学校では卒業1,672名のうち戦没者1,003名であり、戦死率は60%。海軍兵学校の生徒は特攻要因として集められていた。(計量計測データバンク編集部調べ)
日本陸・海軍、軍人の実数
1945(昭和 20)年は陸・海軍あせて830 万人であった。日本国の軍人の数は1941(昭和 16)年は240万人、1945(昭和20)年は830万人。1937
年に日中戦争が始まった後にじわじわと軍人の数が増える。1941年になると一段と増え200万人以上になる。その後もさらに増え続け敗戦の年は陸軍は600万人。海軍200万人、陸・海軍あせて
800 万人、1945(昭和20)年は830万人であった。
陸軍大学校と海軍大学校の卒業者数
陸軍大学校と海軍大学校の卒業者数は次のとおり。
陸軍大学校59期(昭和19年卒)卒業者。昭和18年12月1日入校、昭和19年12月20日卒業、199名。
海軍大学校甲種19期卒業者。大正8年12月1日入学、大正10年11月30日卒業、29名。松崎伊織中将、佐藤脩少将、杉山俊亮中将、宮田義一中将、近藤英次郎中将、堀江六郎中将、坂本伊久太中将、山本弘毅中将、戸苅隆始中将・次席、岩村清一中将・首席、草鹿任一中将、藤森清一朗少将、大熊政吉中将、松永寿雄少将、小沢治三郎中将ほか。
命を捨てる覚悟の軍人と国民の福祉の向上のために働く人との対比
軍人と国家官僚について。軍国主義日本時代においては命を捨てる覚悟の軍人であった。現代は国民の福祉の向上を大目的として働く官僚(公務員)であり、これを対比する。
海軍軍人の人数割合は陸軍の三分の一ほど。
軍人は陸軍が数としては海軍よりも遥かに多かった。陸軍大学校の卒業者の数はおおよそ軍人の割合を反映していて、陸軍が多く海軍は少ない。
陸軍大学校59期(昭和19年卒)卒業者199名である。海軍では多い年でも海軍大学校甲種19期卒業者29名(大正8年12月1日入学、大正10年11月30日卒業)である。
海軍は海軍大学校を卒業していなくても将官に昇進することが少なくない。陸軍は陸軍大学校卒業が佐官から将官に昇進する条件になっていた。陸軍大学校を卒業することが陸軍参謀本部に勤務する佐官級には求められた。
陸軍大学校の卒業者と現代における国家公務員試験総合職試験合格におる採用者とが符合する。
戦争作戦計画と国家政策の立案とがここに対比され、陸軍大学校対国家公務員総合職が写し鏡になっている。
陸軍士官学校56期(1942年12月卒業)1,672名のうち戦死者は1,003名であり戦死率は60%。
士官候補の学校に入学する競争率と現代における国家公務員総合職試験の競争率、その難儀さを単純に比較してはならない。片や帝国主義列強に伍そうとする軍国国家の下で命を捨てる覚悟の軍人になり、片や平和な社会で国のため国民の福祉の向上のために働く人である。
見習士官で除隊した航空士官学校生徒
鍋島綾雄は大正14年7月生れ。昭和15年4月広島陸軍幼年学校に入校。幼年学校は3年制で、15才から17才まで英才教育を受けた。昭和18年3月広島陸軍幼年学校を卒業し、埼玉県の朝霞にあった陸軍予科士官学校を経て、昭和19年入間川にあった陸軍航空士官学校に入校した。3月航空士官学校は満州(現中国東北部)に疎開する。この7月22日、20才の誕生日を鍋島綾雄は東京城の飛行場で迎える。航空士官学校生徒はA班とB班に分けられ、B班は「本土決戦において敵艦船を洋上で覆滅する特攻作戦の要員」と決まったことを区隊長(クラスの担任教官で陸軍大尉)に告げられてから数日後のことであった。特攻作戦のために促成訓練がこれから行われるのであった。陸軍幼年学校は別にして、陸軍士官学校は終戦間際には特攻要員として大量に入校させたことを記録が物語る。
見習士官として除隊 東大に行き高等文官試験司法科試験を経て弁護士になった陸軍航空士官学校生徒
後に東京大学を卒業して高等文官試験司法科試験に合格し、2年間の司法修習を受けて弁護士になった者がいる。この者は大正15年生れ。昭和18年に陸軍航空士官学校に入校。父親は陸軍軍人であった。
昭和13年に旧制の七年制の東京高等学校に入学する。旧制東京高等学校を中退して陸軍予科士官学校に入校した。陸軍予科士官学校から陸軍航空士官学校に進む。陸軍航空士官学校は終戦間近になって、陸軍士官学校から分離して新しくつくられたのであった。昭和12年に地上兵科に進む者は陸軍士官学校に、飛行機搭乗の者は陸軍航空士官学校にという体制が採られた。地上戦では勝機を見出せないと判断した軍は飛行機などによる特攻作戦を敢行することを決めたのである。
この男の陸軍航空士官学校卒業の予定は昭和20年10月の予定であった。満州に疎開したこの学校がある満州に昭和20年4月に行って訓練を受けた。
本土では米軍による本土空襲が始まっており、本土での飛行訓練を行える状況になかった。東京大学法学部を卒業して弁護士になるこの男はソ満国境の牡丹江で訓練を受ける。1,000名の生徒が10カ所に分かれて訓練を受けていた。ここでは適性による振るいがかけられ、3割の者が脱落した。この男は戦闘機の操縦員に選ばれていた。実地の飛行訓練20数時間で単独飛行に移る。拙速の促成である。真っすぐ飛んで敵艦に突っ込む程度の操縦技能の訓練。卒業すれば特攻要員になること必至。ソ連の侵攻に対して突っ込むことも考えていた。
昭和20年8月9日にソ連が対日参戦を宣告し、機甲部隊がソ満国境を越えて侵攻する。部隊にはソ連軍の進行状況があと何キロメートルと逐一報告されていた。飛行場には飛行機に積む爆弾も大砲もない。ソ連の機甲部隊との地上戦をする兵力はなかった。地雷を敵戦車のキャタピラの下で爆発させる蛸つぼ作戦が考えられた。機銃掃射があるうえ、高速走行する戦車の下にもぐることは難しかった。
戦闘機乗りに選ばれて死ぬのは空だと思っていたこの男には、地べたに這いつくばって、キャタピラの下敷きになり地雷で爆死することは想像しないことであった。
予科練では練習生は激しく振るいにかけられて残る者がわずかであった
飛行機搭乗要員の適正は厳しく審査される。地上訓練では優良であっても空に上がってみなければその適否は判明しない。予科練では大量に集められた練習生は激しく振るいにかけられて残る者がわずかであったのが開戦の前後の事情であった。今日隣で一緒に学科研修を受けていた者が翌日にはその席から消えた。このようなことでの生き残りがなられて搭乗員がつくり上げられた。予科練をでてもその後に日本の各航空部隊で訓練飛行を繰り返し、ある作戦が練られればその作戦を実行するための演習が行われた。真珠湾を攻撃するための訓練・演習は極秘裏に行われたのであった。
男は敗戦に大きな感慨はなかった 同時に残りの人生において晴れ晴れと笑うことはないと思った
ソ連の侵攻から飛行機を守る。朝鮮と満州の国境にある通化に男は選ばれて飛行機を操縦した。それは練習機であった。飛行距離が短い練習機は100㎞の距離を尺取り虫のように燃料補給しながら移動した。通化には8月17日に着いた。このときに敗戦を知る。この男は敗戦への大きな感慨はなかった。しかし残りの人生において晴れ晴れと笑うことはないと思った。
入間の陸軍航空士官学校に戻る。閉校が決まっていた。校長は徳川好敏中将である。「きのうまでの剣をペンに持ち替えて日本の復興に尽くせ」と訓示した。男は日本軍最初のパイロットが日本軍最後のパイロットへの言葉だと思った。
戦争末期の海軍士兵学校にも陸軍士官学校にも軍としての百年の計はなかっった。優秀な旧制中学校生徒を大量に集めては特攻の訓練をした。訓練生に対して与えられる飛行機は四人に一機、それも練習機の赤とんぼである。特攻するための飛行機もほとんど尽きていた。私の父親が語る。二座の練習機の後部座席に教官として乗っていると墜落が心配でならなかった、と。戦闘機でも経験の浅い飛行兵が乗ると帰還できないことが多かった。熟練パイロットは無理はしない。確実に任務をこなす。乗った海軍機では艦上爆撃機の彗星が速度などを含めて一番良かった。彗星は、艦上爆撃機「彗星」と「二式艦上偵察機」は同じ十三試艦上爆撃機から制式化された機体である。日本軍の艦載機としては初めて搭載された水冷エンジンで、同盟国ドイツのダイムラー・ベンツから購入したDB601Aをライセンス生産した「アツタ」二一型を搭載したが、決して大馬力とは言えない離昇1,200馬力で最大速度552
km/h(のちにアツタ三二型1,400馬力に換装されて580 km/h)の爆撃機らしからぬ高速性能を保持した。そのため、太平洋戦争後半期にはその高速性能を活かして夜間戦闘機としても運用されている。開発は、海軍の航空技術研究機関である海軍航空技術廠で、生産は愛知航空機。この愛知航空機は後に愛知時計電機。彗星は偵察機としても使われた。レーダーのないころであるから索敵行動があってこそ戦術が立てられる。敵艦がどこにいるか知らないのでは特攻もできない。ことによると敵艦の位置もしらないで片道の燃料を積んで出撃した特攻機があったのではないか。父親は以上のようなことをつぶやくように語っていた。
太平洋戦争末期に数的には主力となった空冷型彗星は、その後に特別攻撃用に改造された四三型も製造されて、陸上基地からの攻撃任務や特攻に投入された。筆者、夏森龍之介は売られているプラモデルのうちで一番格好いいということで、彗星を組み立てていた。それをみて父親が上のような話をしたのであった。
鍋島綾雄や後に東大法学部に進んで弁護士になる見習士官が満州の牡丹江で搭乗訓練を受けていたころには日本軍には戦争継続のための戦力は失せていた。東京が焼け野原になり、名古屋の飛行機工場が爆撃で破壊され、明石のそれもそのようであった。飛行機会社が戦後に計量器の製造会社になったことを知っておいたらよいであろう。
田中館愛橘が欧州の交通事業視察したその年、明治43年(1910年)の12月19日、徳川好敏大尉によって日本初の飛行が記録された
田中館愛橘は明治43年(1910年)に航空事業視察のため欧州へ派遣される。この年の12月19日、徳川好敏大尉によって日本初の飛行が記録された。
田中館が航空に関わったのは明治37年(1904年)、48才のころ。そして明治40年(1907年)国際度量衡会議第4回総会に出席したことなどを通じて、飛行機の将来とその重要性を感じる。帰国すると、これからは飛行機の時代であることを説く。当時は気球に大きな関心があり、飛行機が空を飛べるとは思われなかった。
陸軍は気球を思うように飛ばせないでいた。田中館に協力を求め、田中館はそれに応じる。また飛行機を飛ばすための飛行場を所沢に選んだ。
明治42年(1909年)寺内正毅陸軍大臣から斎藤實海軍大臣に設置が提案されて「臨時軍用気球研究会」が発足する。田中館はこの研究会の要職に就き、日本の航空の発達とに深く関わる。会長は長岡半太郎であった。田中館愛橘の東京帝国大学理学部教授の後任が長岡半太郎であった。
士官候補生はGHQによる公職追放の対象にならなかった
満州の牡丹江で操縦訓練を受けていたときの区隊長であった大尉が男に連絡してきた。「一緒に大学に行こう」と。陸軍士官学校と陸軍航空士官学校の卒業生には旧制高等学校修了と同じ資格が与えられていた。旧制高等学校と旧制大学は人数が同じなので選ばなければ全員が進学できた。陸軍士官学校と陸軍航空士官学校は10月が卒業時期であったが繰り上げで卒業の資格を与えた。男は東京大学法学部に進んだ。
鍋島綾雄が入間川にあった陸軍航空士官学校に入校した昭和19年であった。除隊後に東京大学に進んで弁護士になるこの男は、昭和18年に陸軍航空士官学校に入校した。年齢は同じか鍋島が上である。その鍋島より一年早く陸軍航空士官学校に入校した男は、同じように牡丹江に疎開していた陸軍航空士官学校で戦闘機の操縦訓練を受けていた。20数時間の操縦訓練で初飛行し、その後はさほど訓練を積んでいない士官候補生であった。鍋島綾雄とこの男が除隊後に少尉になったのかどうかは定かではない。
士官候補生は職業軍人の規定に入らなかったので戦後のGHQによる公職追放の対象にならなかった。少尉はポツダム宣言後に一階級昇給した事情があるために公職追放の対象にならず、中尉以上がその対象とされた。多くの者は1951年の第一次追放解除により公職追放を解除された。大尉であった区隊長もこのときには解除されたはずである。陸軍航空士官学校在校時に終戦となった鍋島綾雄と東大進学・弁護士の男は、実際の戦闘の経験はしていない。訓練途上の見習士官の身であったからだ。陸軍幼年学校にいた者について、私が面識がある者は鍋島綾雄である。もう一人、通産省に勤務していて、退官後に日本電気計測器工業会の専務理事をつとめた人の二人。ともに品格のある人物としての印象を残した。
ある特攻要員はマラリアを罹患して搭乗できなかった 敗戦により死を免れた
私の父親は海軍の航空機乗りであった。偵察機に乗り爆撃機に乗っていた。終戦の時期になると全ての航空機は特攻を余儀なくされた。彗星など高速艦上機に爆弾を積んで敵艦に向かう。偵察機は敵艦を探し特攻機を誘導する。作戦と任務によってはどちらにも乗った。特攻にでても敵艦が見つからないことがある。片道の燃料で特攻にでることをしない時期があった。艦上機の腹に下の大きな爆弾を積んでいては着陸ができない。帰艦と決まれば爆弾を処理することになる。せっかくだから爆撃訓練をすることになり、小さな島を標的に投下する。島は跡形もなく消えていた。
このような状況下においてマラリアを患ったことにより飛行機に乗れない状態になったために生きのびた。運命のいたずらではあるが死を覚悟した者には戦後は一時精神が空白の状態になる。それでも気を取り直して生きていく。生活も子育てもままならない。父親と全く同じようにして航空機乗りになった京都出身、京都在住の同僚の子どもが東京大学医学部を卒業した。このことを私が大人になってからポツリと話した。特別な意図はなかったのだろうが私は狼狽した。
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
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├目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
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├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
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[以下は覚書]
通産官僚と大分県知事
地方公務員齋藤勝男
地方公務員吉田としお
製鉄会社の計量技術者二人
夜学から大学へ 石川島播磨の男
工業技術院から変わった研究組織はトップを公募として民間の大企業経営者を据えるようになった。
ほか
[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html
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├指揮幕僚課程 CGS | 戦車兵のブログ (ameblo.jp)
├埼玉県計量協会会報2019年7月号
http://www.saikeikyou.or.jp/custom_contents/cms/linkfile/kyoukaihou-13.pdf
特別寄稿 放射線測定に関する資料を渉猟 日本計量新報 編集部 横田 俊英1)放射線被害を低く見積もらず、放射線測定器の特定計量器化で警鐘を
石島徹前事務局長退任の挨拶
平成25年から6年間、皆様方には大変お世話になりました。令和元年5月31日に退職いたしました。今後の埼玉県計量協会の発展と皆様のご多幸をご祈念いたします。
├(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す
├私の履歴書/高徳芳忠 (keiryou-keisoku.co.jp)
├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
├計量計測データバンク 私の履歴書
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├戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲 - Yahoo!マップ
├田中館愛橘博士と航空の歴史
├現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
├長島安治 大正15年生れ 昭和18年陸軍予科士官学校入校 陸士とは別に航空士官学校が創設された、ここに入校。
https://www.noandt.com/static/summary/kakigara/documents/libertyjustice_201808.pdf
├解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)
├私の履歴書 安斎正一 目次
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
├古賀茂明 - Wikipedia
├私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
├前川喜平 - Wikipedia
├私の履歴書 蓑輪善藏 目次 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書/吉田俊夫 (keiryou-keisoku.co.jp)
├横田英史の読書コーナー (eis-japan.com)
├
電力改革については、発送電分離が有力な選択肢という立場をとる。古賀茂明のベストセラー。
日本中枢の崩壊 古賀茂明、講談社、p.386、¥1680 2011.9.15
現役官僚が民主党政権の国家公務員制度改革などを批判したことで話題を呼んだ、古賀茂明のベストセラー。雑誌論文や国会証言などで政権批判を行ったため経済産業省大臣官房付という閑職に追いやられた。その後も現役官僚の肩書きで政権批判を続けていたが、9月22日付で辞表を提出したようだ。本書は“現役官僚”が徹底的に政権を批判している点で見るべきところはあるものの、内容自体は他の民主党政権批判や官僚批判と大きく異なってる訳ではない。政官界の問題について頭を整理するときに役立つといったところが、本書の評価として妥当なところだろう。
筆者が力点を入れて論じるのが国家公務員制度改革。自民党政権時に渡辺喜美・行政改革担当大臣がどのように改正させたか、成立までの紆余曲折、成立後の官僚の抵抗などを詳述している。自民党への失望が大きかっただけに、民主党にいる政権交代に筆者は期待する。期待はすぐに失望に変わる。期待が高かっただけ、その反動は大きかったといえる。
さすがに現役官僚だけに、官僚機構についての記述は詳細だ。天下りの仕組み、官僚が駆使する騙しのテクニック、大企業との癒着など、自らの体験を踏まえ紹介する。
「経済学に人間の心を持ち込みたい」という経済学者・宇沢弘文が自らの人生哲学を開陳した書。現在の貧困を解決するキーワードとしての社会的共通資本を紹介するとともに、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を徹底的に批判している。リベラルな論客としての宇沢の考え方がよく分かる。本書は2003年に刊行された「経済学と人間の心」に、二つの未公表講演録と池上彰の解説を追加した新装版である。池上の解説がコンパクトでよく出来ている。
第1部「市場原理主義の末路」は経済倶楽部での2本の講演で構成する。2009年の「社会的資本と市場原理」と2010年の「平成大恐慌~パックス・アメリカーナの崩壊の始まりか」である。質疑応答も収録しており、新自由主義や市場原理主義に対する宇沢のスタンスだけではなく、人柄が伝わってくる。もし東日本大震災や原子力発電所の事故後に宇沢が講演していれば、どういった内容になったのか興味のあるところだ。第2部以降は、思想や歴史観、官僚観、教育観を宇沢自らが語るエッセイである。右傾化する日本への危惧、60年代のアメリカ、学の場の再生、地球環境問題への視座という構成をとる。
計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
2019-02-05-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
2019-02-07-3-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
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