官僚制度と計量の世界(8)
|
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
(見出し)
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
(本文)
日本の官僚制度の職階と昇進事情 国家公務員総合職と一般職の比較
写真は指揮幕僚課程(CGS)の一幕。もう若くはない幹部自衛官たちがさらなる教育を受ける。A幹部で指揮幕僚課程(CGS)や技術高級課程(TAC)の成績上位の者は、その後に幹部高級課程(AGS)教育に選抜されて、修了後は方面隊の指揮官になる。高校卒業で入隊する自衛官候補生や一般曹候補生には縁のない世界である。
旧日本陸軍では陸軍大学校を出れば大佐まで昇進できた。陸上自衛隊にも陸大に相当する幹部学校が指揮幕僚課程という教育機関である。通称CGS。幹部になれば入る学校と勘違いされる。幹部候補生学校ではなく、幹部になってから難関の試験を突破した少数の幹部自衛官が入校できる超エリートの学校。指揮幕僚課程は自衛隊において上級指揮官・幕僚の育成を目的として設置されている教育課程である。大日本帝国陸軍の陸軍大学校、大日本帝国海軍の海軍大学校甲種学生に相当する。当課程を修了した者が、いわゆるキャリア官僚相当の処遇を受ける。
明治の世になると資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた
「坂の上の雲」(テレビドラマ)のナレーションだ。
まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中がヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。財政が成り立つはずは無い。が、ともかくも近代国家を創り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の「少年のような希望」であった。この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振る舞ったかという物語である。主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれない。ともかくも、我々は3人の人物の跡を追わねばならない。四国は伊予の松山に、三人の男がいた。この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたって、勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇蹟を遂げた。もうひとりは、俳句、短歌といった日本の古い短詩型に新風を入れてその中興の祖になった、俳人正岡子規である。彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。登っていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を登ってゆくであろう。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公たちと夏目漱石そして田中館愛橘
明治期の陸軍の士官学校と海軍の兵学校のことは司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公は、旧伊予国(愛媛県)松山出身で、日本陸軍における騎兵部隊の創設者である秋山好古、弟で海軍における海戦戦術を担当した秋山真之、真之の親友の正岡子規(まさおか しき)の3人を主人公に物語を展開する。秋山真之は東京大学への道を進んでいた。同じ時代を同じ学校で夏目漱石が生きていた。秋山真之と正岡子規の親交、正岡子規と夏目漱石との交流とを複合すると秋山真之と夏目漱石のかかわりが推察できる。同じころ、旧南部藩士の子の田中館愛橘は国を治めることを夢見て予備門に学ぶ。途中から物理学に志を変えて当時日本には何人もいなかった理学博士となる。末は博士か大臣かとは明治期では博士の数と大臣になる人の数が似たようなことであったことに、この言葉が符合すると考えたらいい。現代の日本の博士は低い水準であり旧帝大の理工学部学生の数ほどいると揶揄される。田中館愛橘は日本の理学教育に従事し、この分野で日本と世界の交流でも業績を残した。秋山好古、秋山真之、正岡子規、夏目漱石、田中館愛橘は明治という時代にその世界で名をなした人々である。
田中館愛橘とプロペラの風洞実験
田中館愛橘(たなかだて あいきつ)は愛国者であったから日本の飛行機開発に関わった。プロペラの回転の風洞実験をしているときに弟子を夜中に見舞って差し入れのサツマイモの皮を回るプロペラにひょいと放って回転の特性を暗示した。科学のこと物理学のこと技術のことは田中館愛橘先生に教わろうと『論語と算盤』で渋沢栄一が述べている。渋沢栄一は日本の産業の基礎となる銀行や重要な企業を創業した人である。日本海海戦の軍艦は石炭をくべて動いた。石炭は日本の炭鉱で採掘して使用した。このころの日本の産業は絹糸を素材にした軽工業が主力であり、後に石炭産業が栄えた。
小学校教員から軍隊に進んだ陸軍大将秋山好古
愛媛県松山市に復元されたある秋山好古、秋山真之兄弟の生家。秋山家は足軽の一階級上の位で家禄10石の徒士身分の下級武士だった。兄弟は藩校の明教館(現在の愛媛県立松山東高等学校)で学ぶ。
秋山好古(あきやま よしふる)は松山から大阪にでて、大阪の師範学校を卒業して員になった。教員になったのは年格好からは遅れてのことであった。その後、創立間もない陸軍士官学校の騎兵科に進んだ。最終階級は陸軍大将。予備役となって松山市の私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長職を長く勤めた。参謀や軍政の道に進まなかったのは本人の意思でもあり性格に由来すると判じられる。秋山好古の陸軍少尉任官までの経緯は次のとおり。安政6年(1859年)1月7日(1859年2月9日)、伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩士・秋山久敬、貞の三男として生まれる。名前の由来は論語の一節「信而好古」より。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士(徒士身分)だった。藩校・明教館(現在の愛媛県立松山東高等学校)に学ぶ。天保銭一枚(100文に相当)にて、銭湯の水汲み、釜焚き、番台に立って学費を補っていた。秋山好古は明治8年(1875年)に納金不要で月に8円の学費を支給される官立大阪師範学校(現在の大阪教育大学)に入学。明治9年(1876年)7月、官立大阪師範学校を卒業。第三大学区十八中学区堺県河内国第五十八番小学校(現在の寝屋川市立南小学校)を経て愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学附属名古屋小学校)に勤務。明治10年(1877年)5月、教職を辞し、陸軍士官学校(旧3期)入校。明治12年(1879年)12月23日、陸軍士官学校卒業。任陸軍騎兵少尉。東京鎮台に配属される。明治13年(1880年)2月28日、東京鎮台騎兵第1大隊付となる。秋山好古の通称は信三郎。秋山家の三男であることに由来する。二人の兄が病弱であったため好古が家督を継ぐ。
夏目漱石と同時代に文学の道にいた海軍中将秋山真之
秋山真之(あきやま さねゆき)は1868年4月12日生れで兄の好古より9歳若い(好古は1859年2月9日生れ)。大学予備門では兄の好古に学費を頼っていたため、帝国大学文学部への道を断念して明治19年(1886年)に海軍兵学校に17期生として入校する。明治23年(1890年)に海軍兵学校を首席で卒業し、軍歴を重ね明治37年(1904年)に海軍中佐にして第1艦隊参謀(後に先任参謀)。同年からの日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。ロシア海軍旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅と封鎖のための旅順口攻撃と旅順港閉塞作戦において機雷敷設などを立案。ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた。秋山真之は東郷平八郎の影に隠れていて世に知られるのが遅れたが司馬遼太郎が功績を見いだした。海軍兵学校首席卒業が示すように頭脳と身体の働きは特別にすぐれていた。日露海戦における電文「天気晴朗にして波高し」の文は真之のものとされる。意味していたのは「本日天気晴朗ノ為、我ガ連合艦隊ハ敵艦隊撃滅ニ向ケ出撃可能。ナレドモ浪高ク旧式小型艦艇及ビ水雷艇ハ出撃不可ノ為、主力艦ノミデ出撃ス」。漢字を含めて13文字、ひらがなのみでも僅か20文字で文にした。正岡子規や夏目漱石と文科の予備門にいたことが文学の香りを漂わせる電文となった。最終階級は海軍中将。正岡子規とは幼少よりの友、東京へ一緒にでて共立学校にともに学ぶ。大蔵官僚となる勝田主計は真之や子規の松山時代からの知り合いである。
日本海海戦を秋山真之は海軍中佐、本五十六は少尉候補生として戦った
山本五十六は日本海海戦では少尉候補生として、巡洋艦日進に乗り組んでいた。砲弾が近くで炸裂したために左手指と右下腿部に重傷を負っている。海軍中佐にして第一艦隊参謀の秋山真之と後の連合艦隊司令長官で海軍大将の山本五十六が日本海海戦の連合艦隊の戦艦三笠と巡洋艦日進の艦上にいた。アメリカ国内を視察した山本五十六は、油田や自動車産業、飛行機産業の盛況や日本では専売の砂糖と塩が、アメリカでは大量生産され大量消費されていることをみている。日本とアメリカの物資の生産量の差が大きいことを知っていた。
USスチールの日本製鉄による買収は米国の安全にかかわる
アメリカ合衆国は第二次大戦を遂行した軍事産業を現代に至るまで拡大している。装備を代替えするときに旧式のそれを日本に押し付け、日本は軍事予算を二倍にすることを決めた。金から分離されて思いのままに膨らますことができるドル紙幣で日本の企業を買う。京都など観光地の経営不振に陥ったホテルはただ同然に米国資本が買いあさった。企業経営の手助けと称して日本の経済に口出しする米国の金融機関の奴隷として働くのが目先の報酬に目がくらんだ東大など有名大学卒業者たちだ。外国資本が3割を占めているのが日本の大企業である。どのまで日本国の利益のために活動するのか。日本製鉄のUSスチールの買収に米大統領は国の安全保障に支障を来すと阻止にかかる。大企業における米国など外資が3割りを超える状態こそ日本の安全にとって脅威である。自衛隊は米軍の指揮下にあるのが日米安全保障条約だ。
このような状態を知る幹部自衛官の反乱が起きない、そのわけは以下で取り上げる昇任試験によっているようにも思われる。憲法とそれに準拠した自衛の組織としての自衛隊であることを確認するのが幹部養成の各段階の教育組織である。この部分に文民統制の縛りが解かれたときには自衛隊は軍事クーデターの温床になる。
軍隊は一種の官僚組織であった。官僚組織が自己の利益の確保に動いたのが戦前の軍隊であった。組織がその組織を守るために作戦の間違いは認めず、事実を隠し、国が亡びるまで戦争をつづける。独善にして自己破壊的な組織が軍隊であった。
田中館愛橘の傍らに度量衡法を制定する役人として高野瀬宗則がいた
明治の日本人を拾い上げて、この時代の息吹を確かめよう。そこには秋山好古、秋山真之、正岡子規、夏目漱石、田中館愛橘がいた。田中館愛橘の傍らでは高野瀬宗則が度量衡法を制定する役人として活動していた。生れた順は、高野瀬宗則1852年11月3日(嘉永5年9月22日)、田中舘愛橘1856年10月16日(安政3年9月18日)、秋山好古1859年2月9日(安政6年1月7日)であった。高野瀬宗則は事実上、日本で最初の計量行政におけるキャリィア官僚といえる。先の三人から大部隔てて夏目漱石1867年2月9日(慶応3年1月5日)、正岡子規1867年10月14日(〈暦慶応3年9月17日)、秋山真之1868年4月12日(慶応4年3月20日)。この三人は東大予備門で同じ教室にいた。
日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘
田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族の子弟は作人館で和漢ほかを教わった。作人館は盛岡中学の元になった。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでない。高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。
田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に愛橘の教育のこともあって父子ともに東京へ移る。愛橘は慶應義塾で英語を学び、つづいて官立東京開成学校予科に入学、学制の変化に翻弄されるなか、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に助教授になり、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事し、ドイツのベルリン大学で学んで帰国。帰国してすぐに東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期であった時代に田中館愛橘教授の薫陶があって多くの人材が世に羽ばたいた。
農商務省の初代権度課長に任ぜられた高野瀬宗則
明治13年に東京大学仏語物理学科を卒業して後に農商務省の初代権度課長に任ぜられた高野瀬宗則は、彦根藩「佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石」取りの高野瀬喜介の子である。高野瀬宗則は父高野瀬喜介を彦根藩御目付け役であったと述べている。150石取りとはどのようなものであったか。幕末の長州藩士、高杉晋作の家禄は150石であった。高杉晋作は長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士高杉小忠太、大組、200石鳥の長男として生まれるとの記録もある。
高野瀬宗則は父は彦根藩御目付け役高野瀬喜介と家系を語っている。力のある者を使う。武芸と軍学と漢籍を通じての武士の倫理と行政手腕を持つものは多くはない。彦根藩がある江州の豪族として名をはせた高野瀬一族はその後もこの地に根を張っていたということであろう。肥田城主の、高野瀬秀隆・隆景父子が越前安居の戦いで討死しても系列はもとより地元における支配が消え去るものではない。
高野瀬喜介の子息は東京大学仏語物理学科を明治13年に卒業して駒場農学校(駒場農学校は後に東京大学農科大学となる。現在の東京大学教養学部の所在地)で教鞭をとり、後に指名されて農商務省技師として初代権度課長として度量衡法の制定と計量制度の確立に大きな役割を果たしたのが高野瀬宗則(たかのせ・むねのり)であ。高野瀬宗則は父は彦根藩御目付け役高野瀬喜介と家系を語っている。
高野瀬喜介は農商務省権度課課長高野瀬宗則の父である。『度量衡 第42号(大正4、5)』に「高野瀬宗則は嘉永5年(1852)年9月江州彦根藩邸生まる。父喜介は藩の御目付け役なり」と『メートル法沿革史』が引用している。「佐和口門番頭 高野瀬喜介」とある「近世大名家臣団の官僚制と軍制」とは一致しない。役職に変化があるからだ。
明治初年(1868年)から明治40年(1907年)までの度量衡制度と度量衡法令の動き
明治初年(1868年)から明治40年(1907年)までの度量衡制度と度量衡法令の動きを年表形式でまとめた。
1868年(明治1年)3月、松平慶永(雅号は春嶽)度量衡制度を確立すべきことを建議。
1869年(明治2年)11月、度量衡大蔵省の所管となる。11月、従来の度量衡の制の踏査を東京府に命ず。
1870年(明治3年)8月、大蔵省に度量衡掛を置く。9月、メートル法を基礎とする制度案を衆議院に下問。国際分野では8月にパリで24か国が参加してメートル法国際会議が開かれる、この場で調査準備委員会を設置。
1872年(明治5年)9月24日、第二回国際会議が30か国が参加して開かれる。メートル法および条約の具体案はほとんど決定をみる。また常置委員会を設立した。調査準備委員会白金90%、イリジウム10%お合金を元気材料とする案、線度器とする案、国際局を置く案などを決定。
1875年(明治8年) 8月15日、度量衡取締条例および検査規則、種類表等を頒つ(達135号)。同月、原器および計算表を府県に頒つ(大蔵達2108号)。9月外務省メートル条約加盟のこと上申するも許されず。フランスは駐日公使を通じてメートル条約加盟を勧誘宇。大蔵省は賛成、内務省は反対。3月加盟せずと決定。海外では9月に、メートル法外交官会議が始まる。5月20日、メートル条約成立。10月、国際局の敷地、国際委員会の手に入る。Govi初代局長となる(1877年まで)。
1878年(明治11年) 米人メンデンホールが東京大学教官として重力と地球密度を測定、気象観測等を行う。国際局建築終わる。国際局の最初のメートル原器できる(ジョンソンマッセイ製)。
1881年(明治14年) 4月、度量衡事務農商務省に移管さる。
1882年(明治15年) 6月、気象観測にメートル法を採用(内務省上申)。この年陸軍は陸地測量をメートル法によって行うことを決定する。
1885年(明治18年) 1月、農商務省よりメートル条約加盟のことを上申、4月さらに上申して7月許可となる。10月、メートル条約加盟手続きを終わる。。
1886年(明治19年) 4月16日、メートル条約加入を公布(勅令無号)。Guillaume、超不変鋼を創製(Guillaume、1920年ノーベル物理学賞を受く)。国内では明治13年(1880年)日本の度量衡法と度量衡制度の確立のために東京大学フランス語物理学科を卒業して駒場農学校で教鞭をとっていた高野瀬宗則を農商務省権度課長に招聘する。
1889年(明治22年) 第1回国際度量衡総会(大山綱耕介出席)、国際原器による単位の定義決定。各国原器の配分。国際局の事業、メートル法の普及の決定。国際局の地点にける重力測定。10月、国際度量衡局においてメートル原器、キログラム原器を受け取る。
1890年(明治23年) 4月、日本原器(国際度量衡局においてメートル原器、キログラム原器)到着。12月、度量衡法案議会に上提。
1891年(明治24年) 3月、度量衡法公布(法律3号)、施行に関する勅令公布(勅令177号)、施行規則公布(農商務令11号)。電気試験所設立。気象台「米」(メートル)、「糎」(センチ)、「瓦」(グラム)などの略字を創出。国際委員会、米、Michelson(後に干渉計による諸研究によりノーベル賞を受く)の招聘を討議。
1893年(明治26年) 1月、度量衡法施行さる。メートル原器を標準とする尺貫法の制定。7月、復原器その他の標準器類を国際局に発注。
1895年(明治28年) 第二回国際総会(曽根荒助出席)。米、Michelsonによるメートルと光波の比較結果を報告、光波を参照として承認。
1899年明治32年 2月、副元器等日本公使館に引渡し終わる。
1901年(明治34年) 第3回国際度量衡総会(田中舘愛橘、高野瀬宗典出席)。キログラムの定期検査結果を報告。質量と重量を区別、標準重力値980.665cm/s2を採用。
1903年(明治36年) 度量衡講習を開始。
12月23日、中央度量衡器検定所を設立の勅令。橘川司亮中央度量衡器検定所長を兼務す。大阪に支所設置。検定を甲種と乙種に分つ。
1907年(明治40年) 第4回国際度量衡総会(田中舘愛橘、橘川司亮出席)。水1kgの体積の測定終わる。カラットを200mgと決定。田中舘愛橘、国際度量衡委員となる(1931年まで)。米、Michelsonが干渉計による諸研究によりノーベル賞を受く。
高野瀬宗則とメートル法と度量衡法制定
高野瀬宗則が東京大学フランス語物理学科の卒業という経歴と日本でメートル法を基本にした度量衡法を制定して近代度量衡行政を施行していくこととは連動する。東京大学フランス語物理学科を卒業した東京大学理学部教授の寺尾寿はわが国のメートル原器をフランスから持ち帰っている。
物理学校に度量衡科ができ度量衡器検査官を育てる
物理学校に度量衡科が設置されて度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべきものの養成が行われた。
物理学校に修業年限1年2学期の度量衡科が設置されて度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべきものの養成が行われた。度量衡科では数学、物理などの基礎科目にくわえて各国の度量衡制度、測度器論、度量衡論などが教えられた。度量衡科の開設期間は明治24年9月から26年7月までの二年ほどであった。この二年間に度量衡科を卒業したのは68名である。物理学校の修業年数は明治24(1891年)以前は2年であった。その後は5学期22年半になった。明治14年に開学した物理学講習所、後に物理学校は1年に2回、2月と9月に入学させ、2月と7月を卒業月としていた。
度量衡法公布は明治24年(1891年)3月、施行は明治26年(1893年)1月である。物理学校に度量衡科が設置された時期に重なる。物理学校創立の一人である東京大学仏語物理学科卒業の高野瀬宗則は明治19年(1886年)に農商務相の権度課長に招聘されて度量衡法の改正に尽力していた。明治32年には度量衡器の第一回定期検定が実施されることになっていて、この難事業を成し遂げるのに物理学校度量衡科卒業生の働きがあった。
明治36年12月23日に農商務省は中央度量衡器検定所を設置(勅令第283号)した。業務開始は明治37年1月1日からで、東京都京橋区木挽町の農商務省内に建設された。同時に中央度量衡器検定所大阪支所が大阪市西区江の子島の大阪府庁構内に設置された。それぞれ所長には農商務省技師の橘川司亮が任命された。明治42年には中央度量衡器検定所福岡支所が開設された。
大正2年6月13日に農商務省官制が改正されて商工局権度課が廃止され、この日中央度量衡器検定所は中央度量衡検定所に名称変更し行政事務をも担当することになった。
農商務省中央度量衡器検定所が明治36年12月23日に設置されると度量衡講習が開始された。物理学校度量衡科が廃止されたのが明治26年7月であるから10年ぶりに度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべきものの養成が再開した。
明治19年(1886年)に農商務相の権度課長に招聘された高野瀬宗則は、明治36年12月23日に農商務省中央度量衡器検定所が設置されたのを機会に官を辞した。高野瀬は退官後の明治40年、大日本度量衡株式会社を設立している。
東京物理学校50年小史が伝える高野瀬宗則
東京物理学校50年小史は高野瀬宗則を次のように伝えている。
「明治19年農商務省権度課長ニ挙ゲラル。爾後専心本邦度量衡改正ニ盡瘁セラレ当時大臣次官局長ノ更迭頻数ニシテ容易ニ目的ヲ達する事能ハサリシモ、先生ノ意益々顰シ。明治22年陸奥宗光氏大臣ニ、斉藤修一郎氏次官トナルニ當リ先生又度量衡改正問題ヲ提ゲテ其己ムヲ得サルヲ痛論スルコト数回、遂ニ其賛成ヲ得テ第一帝国議会(明治23年)ニ提出セラレ、直ニ協賛ヲ得ニ至レリ・・・・・爾来其実施ニ付テ引続キ心血ヲ注ガレ計図畫策皆宜キヲ得、明治32年ニ至リ予テ難事業ト思惟セラレタル第1回定期検査モ無事終了スルコトを得タリ」
物理学校は 当時、母校は2月と7月の2回卒業生を出していた。修業年数は明治24(1891年)以前は2年であった。その後は5学期2年半になった。1学年を2学期制として、3年を6学期編成にしていた。そして1年に2回、2月と9月入学、2月と7月が卒業月であった。明治32年2月の学校規則改正により中学校、師範学校を卒業したものは無試験で第2学期から入学できるようにした。
明治14年に開学した物理学校の度量衡科設置当時の生徒数は次のとおりである。
明治21年、2月、217人、12月小川町校舎を購入。
9月、303人、7月職工学校受験科設置。
明治24年、2月、352人、7月職工学校受験科廃止。
9月、413人、9月度量衡科設置。
明治26年、2月、314人、7月度量衡科廃止。
東京物理学校50年小史は「明治24年9月、農商務省権度課長の内議に応じて本校に度量衡科を置く」とあるとし、明治26年7月廃止になるまでの2年間に68名の卒業生をだした。
明治の初め政府は司法官僚を法務省法律学校で、大蔵官僚を大蔵省簿記講習所などで速成した。
農商務省権度課長の高野瀬宗則は度量衡法制定の後の計量行政の実施、とりわけ度量衡器検定のために係員を都道府県に配置することが課題になっていたため物理學校に修業年限1年の度量衡科の設置を求めたのであった。度量衡科は度量衡器検定のために係員と度量衡器制作者の養成を目的にしていた。高野瀬宗則は東京大学仏語物理学科卒業の20名ほどの同志とともに物理学講習所設立にかかわっており、権度課長の職務ののち午後8時から物理学を講義していた。
物理学校の度量衡科は2年の間の設置期間であり、68名の修業者があった。最後の年度の修業者に関菊治がいる。関菊治は後に大阪府権度課長と中央度量衡器検定所大坂支所長を兼務する。大阪府権度課長としての関菊治の度量衡行政分野における活動は関課長のもとに全国の度量衡行政の権限があるかのごとくであった。
高野瀬宗則は日本度量衡協会副会長として日本のメートル法推進に強くかかわる。田中館愛橘は日本度量衡協会に役員として名を連ね、この間に国際度量衡委員として活躍した。関菊治は日本のメートル法推進は日本の産業振興をなすものと命を賭すほどの打ち込みをする。高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治はともにメートル法推進のためにそれぞれの立場から大きな働きをする。田中館愛橘は科学分野における国際会議に日本を代表して出席していた。田中館愛橘は物理学校の卒業式に何時もは顔をだしており、ときに挨拶代わりにラジウムの実験をしてみせていた。関菊治(旧姓宮内菊治)は1893年明治26年2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業した。田中館愛橘はいつも卒業式に出席していた。田中館愛橘は明治26年から明治29年までの四カ年、夏季休業中は全国を回って地磁気を測量している。
高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治は、農商務省権度課長、東京大学物理学科教授、大阪府権度課長・中央度量衡器検定所大坂支所長の立場で働いていて、日本度量衡協会のもとでメートル法推進に心血を注いでいた。
物理学校度量衡科を卒業した長州人関菊治
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)のことである。
関菊治は1874年 明治7年5月12日 山口県阿武名郡那須佐村194番地で、宮内善平、チセの次男として生まれる。那須佐村は萩市の隣に位置する。家は農業を営む傍ら、醤油、石油、たばこ、の販売をし、二から三人の職人を雇っての農機具の製造販売をしていた。7歳のころ母を失い、継母のウメを迎えた。
生家のある長州の萩市あたりは文武の盛んな土地柄だけあって、関菊治(旧姓宮内菊治)は幼少時代は、相当厳格な躾のもとに育てられた。几帳面で礼儀正しく、そして負けず嫌いの性格は、その幼年時代からの厳しい躾に負うところが大きい。
関菊治は山口県阿武名郡那須佐村にある育英小学校の高等科を卒業する。私塾に通いながら、育英小学校の分校へ代用教員として勤務した。この時の年齢は10歳をわずかに出たばかりであった。誠に可愛い先生であったことから、生徒からは「こんまい先生」の愛称で呼ばれていた。
関菊治(旧姓宮内菊治)の実弟である加藤亀松は次のように菊治のことを語る。「私たち兄妹は、男5人、女3人で、菊治兄と私以外は早死にしました。(注・いずれも70歳以上で他界したことを指しての表現である)。なにぶん80年も前のことで」と。
づづけて実弟、加藤亀松は次のように述べる。「私たち弟妹には、大変優しい兄で、よく面倒を見てくれたものです。当時の育英小学校というのは、尋常科4年、高等科2年で、生徒数も120人程度いたようでした。兄は成績がよい方で、ず-と一番で通していたようです。当時この小学校が新築され、その完成披露に県知事原安太郎氏が見え、兄が生徒代表で答辞を読んだのを覚えております。毎年、村の天満宮のお祭りに、習字の展覧会行われていましたが、これにも兄はいつも最優秀に選ばれていたようです。代用教員は四、五年やっていたいたでしょうか。毎日分校まで一里余の道を、袴にぞうりを履き、弁当を小脇にかかえて通っていました。そのうち教員を辞めて、丁度東京に叔父が居るのを幸いにこれを頼って上京してゆきました」
関菊治(旧姓宮内菊治)は1893年(明治26年)2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業する。卒業にまつわる逸話がある。
卒業の直前、学校幹部須藤某氏から、卒業する全員に「就職斡旋の必要上履歴書を提出するように」との申し渡しがあった。ところが関菊治(旧姓宮内菊治)だけは「学校は、物を教えていただくところで、そこに就職のお世話までかけるのはもっての外、私は卒業の栄冠だけで結構です。私自身でなんとかします」と就職の斡旋を断り、履歴書を提出しなかった。
関菊治(旧姓宮内菊治)は数府県庁に向けて、自ら作成した「就職申込書」なるものを送り、自信満々好機到来を待ったが、これへの返事は、大阪府、島根県の「本書受理すべき限りに非ず」の付箋付き返送と、他には反応なしという無惨な結果であった。
この後、大阪の米屋さんに奉公などして生活の糧を得ながら就職運動に体当たりした甲斐あってか、明治26年(1893年)12月10日兵庫県雇として採用され、兵庫県内務部第二課で、当時の度量衡主任松尾磯四郎氏の元に勤めることになった。
関菊治(旧姓宮内菊治)は明治31年7月12日、神戸市において、上司の世話で関勲と結婚する。関勲は明治11年石川県に生まれ、京都府立高等女学校卒業の才媛である。関勲の父、勝重は先祖代々前田家に使える武家で禄100石であった。維新後は北海道に渡って漁業をするも台風に遭って明治13年6月漁船転覆して帰らず。34歳であった。関勲はこのとき3歳。関勝重夫人は京都にでて関勲を養育する。宮内菊治は関勲との婚姻を機会に関菊治を名のる。禄100石は高野瀬宗則の父の150石、長州藩士で上士である高杉晋作の150石と比較するとその多寡がわかる。高杉晋作は長州藩の富裕層となじられていた。
関菊治の官界生活とその経歴
関菊治の官界生活は次のような経歴である。明治26年、兵庫県雇として計量界への第一歩を踏み出す。翌明治27年2月には大阪府に転じ、ついで明治28年9月には早くも富山県度量衡主任技手に抜擢されている。明治29年4月6日、富山県からふたたび兵庫県に移り、度量衡主任技手に任命される。この年から中央度量衡器検定所大阪支所長を兼務する。兼務期間は兵庫県から大阪府に転ずるまでの11年間、さらに大阪府の初代権度課長時代に就任して大正13年に退官するまでの18年間つづく。官界生活は通算30余年になる。
現代の国家公務員の昇進事情
画家の山下清を「裸の大将」という。なんでも兵隊の位にたとえていたこと、裸でいることが多かったことによる。山下清がある座談会の席で「ボクの絵は兵隊の位で云うとどのくらいかな」と尋ねた。聞かれた徳川夢声が「梅原龍三郎が大将か中将とすれば、キミは佐官だ」というと、納得した様子であったという。
この山下清にならって国家公務員、地方公務員、警察官、消防署員などの位を自衛官と比べることにした。のらくろ漫画を読み、テレビ映画「裸の大将」を見た人々には了解するであろう。ただし現代の若い女性はこの位の比較は理解できない。ある人が自分の娘にあんたのその職階は軍隊でいえば何処に当たるか、と聞くと国家公務員本省の係長職に対して少将かな、という答えが返ってきた。少尉と言おうとしたのかも知れない。少将と少尉の区別がつかない人間がいる日本は平和なのではないかと思う。
人事院調査によるⅠ種採用(総合職)職員の昇進
人事院調査によるⅠ種採用(総合職)職員の昇進(キャリアパス)(計量計測データバンク編集による)。
22歳(入省初年 採用時年齢) 本省A局A課係員
24歳(入省2年目) 本省B局A課係員
25歳(入省3年目) 本省B局A課係長
27歳(入省5年目) 他省庁勤務(転任)
29歳(入省7年目) 本省A局A課係長(転任)
30歳(入省8年目) 地方公共団体勤務
33歳(入省11年目) 本省課長補佐(複数の局をおおむね1年で異動)
37歳(入省15年目) 特殊法人勤務
39歳(入省17年目) 本省A局A課企画官
41歳(入省19年目) 本省A局B課室長
42歳(入省20年目) 本省課長(複数の局にまたがる課をおおむね1年で異動)
50歳(入省28年目) 本省本省審議官
51歳(入省29年目) 本省局長(A局、C局)
56歳(入省34年目) 本省事務次官
人事院調査によるⅡ種採用(一般職)職員の昇進
人事院調査によるⅡ種採用(一般職)職員の昇進(キャリアパス)(計量計測データバンク編集による)。この調査では入省初年を24歳にしている。平均すると24歳であるといった説明はない。
24歳(入省初年 採用時年齢) 管区官房(経理)採用係員
26歳(入省2年目) (転任)本省大臣官房経理係員
34歳(入省10年目) 本省係長(総務、人事)
45歳(入省21年目) 管区専門官(人事)
47歳(入省23年目) 管区課長補佐(人事)(配置換)
48歳(入省24年目) 本省専門官(管理)(配置換)
49歳(入省25年目) 外局課長補佐(管理)(転任)
52歳(入省28年目) 本省課長補佐(管理、給与)(転任)
53歳(入省29年目) 管区部長(総務)
55歳(入省31年目) 本省準課長(人事)(配置換)
57歳(入省33年目) 本省課長
山本五十六、東條英機の階級と年齢
大日本帝国の海軍と陸軍のエリート軍人、山本五十六(海軍大将)と東條英機(陸軍大将)の階級と年齢。どちらも明治17年生まれ、同じ歳に海軍大学、陸軍大学卒。二人とも結果として超エリートの出世の道をたどったが大佐クラスまでは海軍大学、陸軍大学を優等で終えるとこのようなことであった。人事院調べによるⅠ種(総合職)が42歳(入省20年目)で本省課長になることと対比すると、本省課長は中佐か大佐。参事官で大佐。審議官で少将。局長で中将。事務次官で大将。あるいは課長以上ははもう一つ上の階級になる。Ⅱ種(一般職)は入省33年目57歳で本省課長が稀にある特別な出世の地位であり、このときに大佐あるいは少佐。Ⅰ種(総合職)を旧陸軍の海軍大学あるいは陸軍大学卒業者と見做すことができるかどうか。海軍大学あるいは陸軍大学卒業者は少将までは昇進した。Ⅱ種(一般職)を海軍兵学校あるいは陸軍士官学校をでた者とすることができるかどうか。陸軍の場合には陸士だけでは将官にな昇進しなかった。そうするとⅡ種(一般職)は海軍兵学校あるいは陸軍士官学校卒業に例えられる。中佐あるいは大佐が昇進の最終階級であり、稀に少将。海軍の場合は艦隊勤務などの事情から海軍大学校を卒業していなくても将官に昇ることがあった。
人事院調査によるⅠ種(総合職)25歳、入省3年目、本省B局A課係長は、実際にはこれより1年は遅れているようだ。山本五十六、東条英機は23歳で中尉、山本五十六は25歳で大尉、東条英機は31歳で大尉。総合職23歳係長は中尉に相当する。人事院資料, Ⅱ種(一般職)入省10年目34歳、本省係長(総務、人事)は大尉に相当する。あるいは中尉かもしれない。現代の自衛隊の大佐の階級はそのなかに3、2、1、の段階を踏んで将官補へと進む。将官補は席に空きができたときに、その3の位置にいる大佐が昇進して着任する。
階級 山本五十六 東條英機
少尉 21歳 21歳
中尉 23歳 23歳
大尉 25歳 31歳
少佐 31歳 36歳
中佐 35歳 40歳
大佐 39歳 44歳
少将 45歳 49歳
中将 50歳 52歳
大将 56歳 57歳
次官 52歳 54歳
大臣 -- 56歳
自衛隊の階級と事務官の役職の相当関係
自衛隊の階級と防衛省の事務官の役職の相当関係
2士から士長 1級 一般職
3曹 2級 一般職
2曹から1尉 3級 一般職・係長級
3佐 4級、5級 係長級・地方機関課長補佐
2佐 6級、7級 課長補佐級・地方機関課長
1佐(三) 7級 室長級・地方機関部長
1佐(ニ) 8級 室長級・地方機関部長
1佐(一) 9級 課長級
将補(ニ) 9・10級 部長級
将・将補(一)指定職1号 自衛隊病院長 事務方 装備長部長など
将 総監 5号 官房長など
将 幕僚長 7号 文官防衛大学校長 審議官など
将 統幕長 8号 事務次官
事務官や技官にも階級がある。自衛官の階級比較
(1級から10級 指定職1号から8号。自衛官と違い数字が大きくなる階級が上位になる)
2士から士長 1級 一般職
3曹 2級 一般職
2曹から1尉 3級 一般職・係長級
3佐 4級、5級 係長級・地方機関課長補佐
2佐 6級、7級 課長補佐級・地方機関課長
1佐(三) 7級 室長級・地方機関部長
1佐(ニ) 8級 室長級・地方機関部長
1佐(一) 9級 課長級
将補(ニ) 9・10級 部長級
将・将補(一) 指定職1号
(自衛隊病院長、事務方装備長部長など将・総監5号。官房長など将・幕僚長7号。 文官防衛大学校長、審議官など将・統幕長、事務次官8号)
日本の役所の階級比較
統合・陸・海・空の各幕僚長、警察庁長官、消防庁長官、海上保安庁長官、海上保安監は階級ではない役職名である。専用の階級章があり最高位級の階級としての扱いを受けている。
①自衛官(陸・海・空)、②警察官、③消防吏員、④海上保安官、⑤国家公務員と地方公務員など
1、①1士および2士、②巡査、③消防士、④二等海上保安士補、⑤自衛隊警務官にあってはこの階級が司法巡査。警察官、海上保安官にあってはこの階級以下が司法巡査。海上保安庁では現在空位となっている。
2、①士長、②巡査長、③消防副士長、④一等海上保安士補、⑤自衛隊警務官にあってはこの階級が司法巡査。警察官、海上保安官にあってはこの階級以下が司法巡査。海上保安庁では現在空位となっている。
3、①准尉・曹長・1曹・2曹・3曹、②巡査部長、③消防士長、④一等海上保安士・二等海上保安士・三等海上保安士、⑤東京都区主事(係員〔都〕、本部係員・署主任〔警視庁〕、副主任〔消防〕、主任主事〔特別区〕)、分隊長、機動隊分隊長。自衛隊にあっては上級陸曹(1曹以上)が小隊長級、初級陸曹(2曹・3曹)が班長・分隊長級。※警察官、海上保安官、自衛隊警務官にあってはこの階級以上が司法警察員。
4、①2尉・3尉、②警部補、③消防司令補、④三等海上保安正、⑤本府省庁係長心得、同主任、同係員、東京都区主事(主任〔都〕、本部副主査・署係長〔警視庁〕、担当係長・統括・主任〔消防〕、係長・主査・次席〔特別区〕)、小隊長(自衛隊)、機動隊小隊長、管区本部専門員・保安部署係長・中型巡視艇の長〔海保〕。
5、①1尉、②警部、③消防司令、④二等海上保安正、⑤本府省庁係長心得、同主任、同係員、東京都区主事(課長代理〔都〕、本部係長・署課長代理〔警視庁〕、係長〔消防〕、統括係長〔特別区〕)、中隊長・副中隊長(自衛隊)、小隊長(一部)本部係長・署、本庁専門員・管区本部係長・保安部専門官・保安署次長・大型巡視艇の長〔海保〕。
6、①3佐、②警部、③消防司令、④一等海上保安正、⑤本府省庁係長、東京都区主事(統括課長代理〔都〕、本部指定係長・署課長・課長代理〔警視庁〕、課長補佐〔消防〕)、中隊長(自衛隊)、機動隊中隊長、小型艦船の長、本庁係長・管区本部課長補佐・保安部課長・保安署次長・小型巡視船の長〔海保〕。
7、①2佐、②警視、③消防司令長、④三等海上保安監、⑤本府省庁課長補佐級、東京都区副参事(課長、担当課長、副参事、小規模署長)、大隊長(自衛隊)、機動隊大隊長、艦船の長、本庁課長補佐・管区本部課長・保安部次長・保安署長・中型巡視船の長〔海保〕。
8、①1佐、②警視正、③消防監、消防正監④二等海上保安監、⑤本府省庁室長級、東京都区参事(統括課長、署長〔消防〕、統括副参事)、独立大隊長、管区機動隊連隊長、大型艦船の長、本庁課長・管区本部部長・保安部長・大型巡視船の長〔海保〕。
9、①将補、②警視長、③消防正監、消防司監、④一等海上保安監(乙)、⑤本府省庁課長級、地方機関の長(管区単位・小規模)、東京都理事(局次長、理事【将補相当】)、東京都区参事(部長、担当部長、参事)、団長(将補)、連隊長(1佐)、本庁参事官・管区本部次長〔海保〕。
10、①将、②警視監、③消防総監、④一等海上保安監(甲)、海上保安監、海上保安庁次長、⑤(指定職)本府省庁局長級、陸上総隊司令官、方面総監。
11、①陸上幕僚長、海上幕僚長、航空幕僚長、②警察庁次長、警視総監、③消防庁長官、④海上保安庁長官、⑤(指定職)本府省外局長官級。
12、①統合幕僚長、②警察庁長官、③相当職なし、④相当職なし、⑤(指定職)本府省事務次官級。
自衛隊における一般曹候補生と自衛官候補生の階級の上がり方
1、一般曹候補生の場合。
2士から3曹への昇任。一般曹候補生は2士で入隊。半年で1士。さらに1年で士長。さらに1年後の曹昇任試験を受験、試験に合格すれば入隊最短2年9か月で3曹に昇任。
2、自衛官候補生の場合
(1)候補生から三曹への昇任。
自衛官候補生は、候補生で入隊、教育を受け3ヶ月で2士。半年で1士。さらに1年で士長。さらに2年後の曹昇任試験を受験。試験に合格すれば入隊最短3年9か月で3曹に昇進。最短で3曹になるのは稀れ。平均すると入隊から5~6年ほど、長い場合には7~8年。同期入隊の自衛官候補生の成績上位の5%が3年9か月の最短で3曹隊員が昇任する。これを1選抜と呼んでいる。
(2)3曹から2曹への昇任。
3曹から2曹に昇任するのが年々難しくなっている。陸曹教育隊という3曹に昇任する直前に行く学校での成績が、それ以降の進級にを分ける。同期とは知識、体力、気力を競う。できるだけえ早く陸曹教育隊に行くことが有利に働く。2曹への昇任は最短の1選抜で3年9か月、最長だと12年かかりる。昇任には陸曹教育隊での成績と3曹に昇任してからの勤務評価が考慮される。
(3)2曹から1曹への昇格。
2曹から1曹に昇任。陸曹教育隊での成績と2曹に昇任してからの勤務評価が考慮される。2曹に昇任した後の中級陸曹教育での成績がとくに影響する。1曹昇任は、最短でも6年、最長では18年かかる。40歳代1曹になるのは優秀な自衛官。
(4)1曹から曹長への昇任。
1曹から曹長への昇任は狭き門。曹長への昇任は、陸曹教育隊、中級陸曹教育だけではなく、1曹に昇任した者が行く上級陸曹教育での各教育課程の成績と勤務評価にくわえて中隊長等の評価が影響する。
防衛大卒と幹部候補生試験採用者など幹部自衛官の昇任
2023年3月撮影。吉田圭秀(よしだ よしひで)第7代統合幕僚長。一般大学卒業者からの統合幕僚長就任は実質的には初のこと。1962年(昭和37年)生れ。東京都出身。筑波大学附属駒場高等学校を経て、1986年3月東京大学工学部都市工学科を卒業。同年3月陸上自衛隊入隊。
自衛隊A幹部、B幹部、C幹部とは
自衛隊A幹部、B幹部、C幹部とは、防衛大学校の卒業者や一般幹部候補生試験の合格者らはA幹部。すでに海上自衛官として研さんを積んだ隊員を対象としているのは、B幹部(部内課程)やC幹部(幹部予定者課程)。通称の呼ばれ方である。
幹部自衛官には次の3種類のコースがある。
1、A幹部 防衛大学の卒業者(448名)及び幹部候補生試験採用者(335名)。合計783名。
2、B幹部 部内幹部候補試験の合格者。
3、C幹部 3尉候補者課程の卒業者。
幹部候補生学校を卒業の3月に3尉に昇任する。幹部初級課程を卒業することで、A幹部もB幹部も3尉昇任から2年で2尉へ全員昇任。2尉への昇任以降は、A幹部とB幹部とでは昇任速度などが少し違う。
幹部上級課程(AOC)に入校
幹部に任官してから5年後に幹部上級課程(AOC)に入校する。幹部の必修課程は、幹部初級課程と幹部上級課程の二つがある。
幹部上級課程(AOC)は、各職種学校で中級の指揮官及び幕僚等として必要な知識及び技能を修得を目的とする。教育期間は6カ月で教育終了後は中隊長、大隊の幕僚などとして勤務する。
1、2尉から1尉へに昇任
2尉から1尉への昇任速度はA幹部とB幹部で少し異なる。
A幹部は幹部上級課程に入校中の7月に、2尉から1尉へ、約4年で全員並列に昇任する。B幹部は幹部上級課程を卒業後に逐次、2尉から1尉へ昇任する。最短でも約4年半をようする。
2、1尉から3佐に昇任
1尉から3佐に昇任するには最短でも5年かかる。佐官になるためには中隊長や大隊の幕僚など多くの職を経験することを要件とする。A幹部は全員が3佐に昇任する。B幹部は3佐には、昇任時期に数人ずつが昇任する。B幹部の同期の6割ほどが昇任。全員が3佐に昇任するのではない。
3、3佐から2佐への昇任
3佐から2佐への昇任もA幹部とB幹部とでは異なり、B幹部の幹部候補生試験採用者に対して防衛大学校卒業のA幹部に有利になっている。
A幹部は現役の間に全員が2佐に昇任する。B幹部が2佐に昇任するには指揮幕僚課程(CGS)や幹部特修課程(FOC)の履修を要件とする。
指揮幕僚課程(CGS)は上級指揮官・幕僚の育成を目的とした教育課程で、陸上自衛隊は1年6カ月、海上自衛隊は1年、航空自衛隊は1年の長期教育を受ける。
4、1佐への昇任
1佐に昇任するためには、A幹部もB幹部も指揮幕僚課程の教育を履修する。
A幹部が1佐に昇任するには指揮幕僚課程(CGS)や技術高級課程(TAC)、幹部特修課程(FOC)の教育の履修を要する。B幹部は指揮幕僚課程(CGS)履修が求められない代わりに、それまでの教育課程における成績が考慮される。B幹部の全員に1佐への昇任が保証されるのではない。
A幹部で指揮幕僚課程(CGS)や技術高級課程(TAC)の成績上位の者は、幹部高級課程(AGS)教育に選抜されて、修了後は方面隊の指揮ができるようになる。
(1)1佐は、1佐の三、1佐の二、1佐の一と階段を上る
1佐は、1佐の三、1佐の二、1佐の一と階段を上り、将補に昇任する。
(2)1佐の一は定まった将補の席が空くことで、将補の補職に就く
1佐の一は補職に階級がついている。1佐に昇任した年数が数えられ、定まった将補の席が空くことで、将補の補職に就くことができる。
5、将への昇任
将への昇任については指定の職として数が決まっているので、退官、異動などで席が空くことで昇任する。師団長、方面総監、幕僚長などの役職に着任と同時に「将」に昇任する。
防衛大学校卒業のA幹部候補生の昇任事情
防衛大学校の入学定員は480名。うち女性は100名。人文社会科学系が約100名、理工学系が約380名。防衛大学校生徒(学生)は卒業と同時に陸、海、空の自衛官「幹部候補生たる曹長」に任ぜられ、試験なしに幹部候補生学校に入校する。A幹部には防衛大学の卒業者(448名)及び幹部候補生試験採用者(335名)も含まれる。両者合せて783名。
指揮幕僚課程(CGS)1次試験の合格率は概ね10%、つまり競争率は10倍。防衛大学校卒業生と幹部候補生試験採用者はA幹部候補生として処遇される。防衛大学校卒業のA幹部の同期は400名、指揮幕僚課程(CGS)の試験は4回までは受験できる。従って受験者総数は1,600名になる勘定。1次試験には160名(最終合格者80名の2倍)が合格する。
1次試験の試験問題は、陸上幹部自衛官の聖典とされる野外令、ほか各職種教範、服務関係規則類等広範な試験範囲から出題される。回答は中論文、小論文形式による記述である。知識とその理解の度合いを問う内容。
競争率10倍、それも同期とその前後の卒業生の塊りの中からの10倍である。うまくひっかれば良いといった形での競争が続き、4回の受験機関でこれを突破するには我慢強い努力を要する。
2次試験があり、ここでは陸上幹部自衛官の場合には図上戦術と職務にの二つについて50分の面接による諮問。知識とあわせて自衛官としての資質をも問う。CGSを卒業した所属部隊の上司、先輩による組織的な指導があってこそ合格へも道が開ける。
2次試験の合否は隊の責任と言われている。CGSの1次試験を突破するには千時間の学習を要する。ある者は4回の受験機会のうち、3回目に1次試験に合格、その回に2次も合格することができた。当人は幸運であったと述べる。
1回目の受験は、幹部上級課程(AOC)卒業と同時に勤務となった第3科幕僚、2回目も同様の勤務状況にあった学習時間を確保できなかった。
3回目の受験は職種学校へ転属となり教官職となていた時期。業務多忙を言い訳にしてはならないと戒め、年間計画を作成し、4時起床で毎日3時間、試験直前の年末年始は追い込み学習をして、900時間を費やした。これによって本人曰く、幸運にも合格をすることができ。
その経験から次のような結論を出す。頭の出来具合、勤務環境にもよるが、気持ちを切らさず計画的に千時間の学習を積むことで1次試験を突破できる。2次試験は、指導を受けてきた上司、先輩と頑張ってきた自らを信じて、アピールしたいキャラを心に決めて臨むことで突破できる。当人のアピールしたいキャラは謙虚さだと。
CGS、TACに合格した後は、燃え尽き症候群にならないこと。幹部自衛官を職業選択した意義、目的の実現のためしっかりと自己管理をすることが大切と語る。合格と昇任のためにはCGS上位50パーセントに入ること、とも。
防衛省幹部候補生(防衛大学校卒ではなく大学卒業者から募集)の募集定員は335名
防衛省幹部候補生定員335名の(防衛大学校卒ではなく別枠として大学卒業者から募集)は陸、海、空による内訳は次のとおり。
陸上自衛隊
一般幹部候補生(大卒程度試験) 一般要員は男子約160名、女子約20名、音楽要員は陸上自衛隊の大卒程度試験のみ若干名。
一般幹部候補生(院卒者試験) 一般要員(理・工学)は約20名、一般要員(法学)は約5名。
海上自衛隊
一般幹部候補生(大卒程度試験) 一般要員、飛行要員はあわせて男子約45名、女子約15名。
一般要員(理・工学) 一般幹部候補生(院卒者試験)は約10名。
航空自衛隊
一般幹部候補生(大卒程度試験) 一般要員、飛行要員はあわせて約50名(男女の区分なく決定)。
一般幹部候補生(院卒者試験) 一般要員、飛行要員はあわせて約10名。
(令和2年度自衛隊一般幹部候補生採用要項による)
自衛隊幹部候補生とは
自衛隊幹部候補生とは、一般・歯科・薬剤科のコースから各自衛隊の幹部自衛官となる者(飛行要員含む)を養成する制度。「一般幹部候補生」「歯科幹部候補生」「薬剤科幹部候補生」と、幹部候補生の採用試験には3つのコースがある。
大学の文系および理工系から進む通常の幹部候補生コースが「一般幹部候補生」。ここには、陸上・航空自衛隊の音楽要員及び海上・航空自衛隊の飛行要員が含まれる。大学の歯学科から進むコースとして、自衛隊の衛生分野(病院勤務等)で活躍する歯科医官となる「歯科幹部候補生」。大学の薬学科から進むコースとして、自衛隊の衛生分野(病院勤務等)で活躍する薬剤官となる「薬剤科幹部候補生」がある。
各コースとも、採用と同時に陸上・海上・航空の各自衛隊曹長に任命され、幹部候補生として一定期間の教育を受けた後、一般幹部候補生は3等陸・海・空尉(院卒者試験合格者は2等陸・海・空尉)に昇任、歯科・薬剤科幹部候補生は2等陸・海・空尉に昇任、幹部自衛官となる。
普通の人の自衛隊入隊と昇任事情
自衛官候補生とは、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊において、自衛官として入隊後すぐに基礎教育訓練が行われる課程の自衛官のことである。三カ月程度の自衛官候補生としての教育の後に二等陸海空士に任官。身分は自衛官として特別職国家公務員。自衛隊の基幹である下士官たる曹への昇進を目指せるのが一般曹候補生である。
一般曹候補生予定採用人数と採用者数
一般曹候補生とは、陸・海・空自衛隊において曹(下士官)になる非任期制隊員たる士のこと。一般曹候補学生と曹候補士に代わり平成19年度(2007年度)から募集を開始した。受験年齢は入隊時点で18歳以上33歳未満の日本国籍を有する男女。
一般曹候補生予定採用人数と採用者数
予定採用人数
平成19年度(2007年度): 約5,500名
平成20年度(2008年度): 約6,500名
平成21年度(2009年度): 約6,025名
平成22年度(2010年度): 約4,410名
平成23年度(2011年度): 約3,800名
平成24年度(2012年度): 約3,850名
平成25年度(2013年度) : 約3,850名
平成26年度(2014年度) : 約4,420名
平成27年度(2015年度): 約4,420名
平成28年度(2016年度): 約4,720名
平成29年度(2017年度): 約5,050名
平成30年度(2018年度): 約6,300名
令和元年度(2019年度): 約6,140名
採用者数
平成19年度(2007年度): 6,994名
平成20年度(2008年度): 6,552名
平成21年度(2009年度): 4,176名
平成22年度(2010年度): 4,234名
平成23年度(2011年度): 3,834名
平成24年度(2012年度): 3,853名
平成25年度(2013年度): 3,784名
平成26年度(2014年度): 4,457名
平成27年度(2015年度): 4,328名
平成28年度(2016年度): 5,011名
平成29年度(2017年度): 5,044名
平成30年度(2018年度): 6,464名
一般曹候補生は非任期制隊員であるため、3曹に昇任できずに退職(除隊すると退職金は任期制隊員よりも少ない。ゆくゆくは10,000人にで採用数を拡大し、除隊退職金によって人件費の抑制を図るとされている。景気好転に伴い内定辞退者が増加傾向にある。
自衛官候補生と一般曹候補生の合格率を防衛省は発表していない。自衛官候補生の合格率は9割とされ、健康診断と面接によって落されることが多いとされる。一般曹候補生はこれに準ずる。自衛官候補生は上位の一般曹候補生、航空自衛隊航空学生、防衛大学校学生と併願する多数あり、これらに合格すれば辞退することになる。
一般曹候補生の昇任事情
一般曹候補生は、入隊後2年9ヶ月以降の選考を経て3曹に昇任。3曹昇任後は、約4年(大卒者は3曹昇任後1年)で部内選抜の幹部候補生への受験資格が得られつ。陸上、海上、航空自衛隊の曹となる自衛官を養成するのが一般曹候補生の制度。非任期制であり自衛官として長く仕事をする人向き。
一般曹候補生は、自衛官候補生採用者よりも1年早く昇任の選考対象になる。一般曹候補生は、最短で入隊3年後の1月1日に3曹に昇任できる。ほとんどの者は入隊5年までには3曹に昇任する。
一般曹候補生は非任期制隊員でり任期がないので終身雇用の身分。勤務成績が著しく不良の場合、一般曹候補生としての資格を剥奪され、任期制隊員と同格として扱われる。一般曹候補生は、3等陸曹、3等海曹、3等空曹に昇任後は、約4年(大卒者は3曹昇任後1年)で部内選抜の幹部候補生への受験資格が得られ、この試験に合格すれば幹部に昇任できる。
幹部候補生に合格すると幹部に昇任できる。自衛官候補生には、一般曹候補生と幹部候補生があり、一般曹候補生は曹(そう)の階級を養成する段階、幹部候補生は幹部(3尉以上の自衛官)を養成する段階。
自衛官候補生はどこまで出世できるのか。1佐、将捕、将になる道はあるのか。普通に実施されている部内の昇任試験によってはなれない。一般幹部候補生試験に部内の特別試験あるいは部外の枠での試験合格することが条件になる。
一佐、将捕、将への昇任の条件は指揮幕僚過程修了
1佐、将捕、将に昇任するためには一般幹部候補生の課程を経て、指揮幕僚過程の試験に合格することが求められる。指揮幕僚過程の試験は30歳台で1尉でなければならないから自衛官候補生や一般曹候補生として入隊した者には、1佐、将捕、将の高級幹部にはなれない。大学の通信課程や夜間部を卒業して、一般幹部候補生試験に合格する方法がある。そうすれば高校卒業と同時に入隊した者が、同じ年齢の防衛大学校卒業の者と一緒に一般幹部候補生であるA幹部になることができる。要するに大学卒業者が一般幹部候補生試験に合格するのと同じ経路となる。ただし既に隊員だった者は一般幹部候補生への任用替えの特典で処理される。335名ほどが採用される一般幹部候補生であるから試験対策をすることでこの道が開く。能力があっても諸事情によって18歳で入隊した者に開かれている最高幹部への道である。
このような道をたどる人は極めて少ない。自衛官候補生として入隊し、5~6年で除隊する者が多い。定年までいると2~1曹になる。まれに曹長あるいは3尉に昇任。これも内部の昇任試験を突破してのことである。
自衛隊には服務規定年数があって、階級ごとに「昇任するために何年間勤務しなければならないか」の定めがある。3曹から2曹には4年の勤務。18歳で入隊し服務規程年数ごとに昇任試験に合格すれば30歳台始めごろに幹部に上がり、定年には3~2佐になる。通常は定年時に曹長から2尉の間が多い。
幹部自衛官には次の3種類のコースとしてA幹部、B幹部、C幹部がある。A幹部でなければ陸上自衛隊であれば1等陸尉か3等陸佐までの昇任が一般的。海、空も同じ。部内の昇任試験に合格し続けても、部内幹部は1尉が最高位。指揮幕僚課程合格が佐官への道。
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
2024-09-19-bureaucracy-and-metrology-by-ryunosuke-natsumori-8-
├
├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
├
├自衛隊幹部候補生|自衛官募集ホームページ (mod.go.jp)
├令和2年度自衛隊一般幹部候補生採用要項
├
├階級章 (自衛隊) - Wikipedia
├
├自衛隊幹部学校修業年数
AI による概要
自衛隊の幹部候補生学校の教育期間は、一般的に約1年間です。ただし、歯科幹部候補生は約6週間、看護幹部候補生は約2ヵ月、全国の部隊の陸曹から選抜された候補生は約5ヵ月、曹長等部内選抜者は約2ヵ月など、学校によって異なります。
幹部候補生学校では、防衛基礎学、戦術、戦史、戦技訓練、体育、服務、防衛教養、実技などの科目があり、陸上・海上・航空の特色を生かした教育が行われます。
幹部候補生学校を卒業すると、幹部として活躍できる人材が育成されます。
├
├陸上自衛隊幹部候補生学校:学校・教育機関|自衛官募集ホームページ
陸上自衛隊幹部候補生学校は、防衛大学校、防衛医科大学校、一般大学卒業者及び部内からの選抜者に対して、陸上自衛隊の(パイロット要員含む)初級幹部自衛官としての職務を遂行するに必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練を行う機関です。
生活
入校と同時に全員が候補生隊(寮)で規則正しい集団生活を送ります。入校の期間は、防衛大学校卒業者と一般大学及び薬科大学卒業者が約9ヵ月、防衛医科大学校及び一般大学の歯学部卒業者が約2ヵ月、看護幹部が約2ヵ月、全国の部隊の陸曹から選抜された候補生が約5ヵ月、曹長等部内選抜者が約2ヵ月です。
所在地
前川原駐屯地 福岡県久留米市高良内町2728
├
├海上自衛隊 幹部候補生学校:学校・教育機関|自衛官募集ホームページ
海上自衛隊幹部候補生学校は、防衛大学校、防衛医科大学校、一般大学卒業者及び部内からの選抜者に対して、海上自衛隊の(パイロット要員含む)初級幹部自衛官としての職務を遂行するに必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練を行う機関です。
初級幹部としての必要な知識と技能を学びながら、幹部としての資質を養っていきます。
具体的には防衛基礎学、戦術、戦史、戦技訓練、服務、防衛教養、実技などの課目があり、全員が校内にして寄宿し規則正しい学生生活を送ります。集団生活を通じて幹部としての教養を培い、スポーツによって強靱な身体を鍛錬します。
一般幹部候補生、航空学生出身の飛行幹部候補生、海上自衛隊部内から選抜された一般幹部候補生(部内)、海曹長・准海尉で昇任試験に合格した幹部予定者、防衛医科大学校及び一般の医科歯科大学の出身者からなる医科歯科幹部候補生等の教育を行っています。教育期間は、6週間から1年であり、卒業後、3等海尉(大学院卒及び医科歯科幹部候補生は2等海尉)に任官します。また、一般幹部候補生課程は同期間の連携を重視する旧海軍の伝統に基づき、防衛大学校出身者と一般大学等出身者とを混合した教育を行っている。
所在地
海上自衛隊幹部候補生学校 広島県江田島市江田島町国有無番地
├
├航空自衛隊 幹部候補生学校:学校・教育機関|自衛官募集ホームページ
航空自衛隊の幹部自衛官となるために必ず入校する全国唯一の学校です。本校では、防衛大学校、防衛医科大学校、一般大学校卒業者等に対し、幹部自衛官としての資質を養うとともに、初級幹部として職務を遂行するのに必要な知識及び技能を修得させるための教育訓練を行っています。
初級幹部自衛官としての必要な知識と技能を学びながら、幹部自衛官としての資質を養っていきます。具体的には防衛基礎学、戦術、戦史、戦技訓練、服務、防衛教養、実技などの課目があり、全学生は基地内に居住し、規則正しい学生生活を送ります。集団生活を通じて幹部としての教養を培い、スポーツによって強靱な身体を鍛錬します。
(主要教育課程等)
一般幹部候補生(防大)約22週間
一般幹部候補生(一般)約40週間
一般幹部候補生(部内)約25週間
飛行幹部候補生 約15週間
医科歯科幹部候補生 約6週間
3尉候補者 約13週間
公募幹部 約8週間
(主要教育内容)
精神教育 使命・徳操
服務 服務一般
防衛学 指揮・管理・統合・航空作戦
防衛一般・戦史
教練及び体育 基本教練・基地防衛・体育
普通学 英語
├
├指揮幕僚課程 期間
AI による概要
自衛隊の指揮幕僚課程(CSC)の期間は約47週(約1年)です。指揮幕僚課程では、幹部自衛官としての資質の向上や、上級の指揮官や幕僚として必要な知識の修得などを目的としています。幹部上級課程から指揮幕僚課程へ進むには、筆記試験や面接など2次選抜に合格する必要があります。選抜の合格者数は1割程度とされており、学生数は約80人(海自は約30人、空自は約50人)と少数です。
├
├海上自衛隊幹部高級課程の紹介 教育課程
├自衛隊指揮幕僚課程の紹介 教育課程
教育期間 約1年間
学生の構成 海上自衛官、航空自衛官、陸上自衛官、留学生
├海上自衛隊幹部特別課程の紹介 教育課程
教育期間 約4週間
学生の構成 海上自衛官、研修生
主な教務内容 安全保障、国際法、戦略、情報、作戦、ロジスティクス、指揮・統率・管理、特別講話
統幕学校(3幹校合同)
├
├航空自衛隊幹部学校-目黒基地-
├
├自衛隊の指揮官を補佐する「幕僚」は、どのように育成されるのか? - MAMOR-WEB
├
├指揮幕僚課程 - Wikipedia
├
├幹部特修課程 - Wikipedia
├
├ニュース詳細│朝雲新聞社2024年3月22日更新
【5空団=新田原】5空団整備補給群の伊藤陽童(ようどう)1尉と、同飛行群の伊藤美紗1尉(旧姓・松島)夫妻は昨年10月12日、難関の「指揮幕僚(CS)課程」の試験に合格し、今年4月から空自幹部学校に2人そろって入校することが決まった。陽童1尉は品質管理班長として、5空団と飛行教育航空隊が運用するF15戦闘機とT4練習機の品質管理を担当。美紗1尉は空自初の女性戦闘機パイロットで、産前・産後休暇、育児休業を取得後、昨年1月に職場復帰。現在は4機編隊長として飛行隊の中核で活躍中だ。 2人はこれまで、計画的に互いの業務を調整して仕事と育児を両立させ、指揮幕僚課程の試験に向けては、まな娘の就寝後に夫婦で模擬試験問題を出し合うなど、切磋琢磨。
├前事不忘 後事之師│朝雲新聞社
第91回 スターリン再考 ―靴職人の息子―ヨシフ・スターリン
イェール大学のジョン・ルイス・ギャディス教授はその著書「歴史としての冷戦」の中で、冷戦の起源とソ連の崩壊の原因について考察しています。この著書で、ギャディス教授は、「仮にルーズベルトやチャーチルがいなかったとしても冷戦は生起したであろうが、スターリンがいなかったとしたら、第2次大戦後の世界は全く違った展開になったであろう」と主張し、「スターリンは家族関係、側近との個人的な関係、党内、国内、同盟関係、国際関係の全ての前線で冷たい戦争を遂行した」「冷たい戦争を戦うことはスターリンの性癖だった」と書いています。冷戦は一人の人物の性格に起因すると主張しているように感じました。
スターリンは偏執症、冷酷、残忍、悪人などの評価の一方、思慮深く、用心深い現実主義者とも言われ、一筋縄では形容できない複雑な性格でした。
アイザック・ドイチャーの名著「スターリン伝」を読むと、その性格が生まれに深く関係していたことが分かります。
スターリンは、本名をヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシビリと言い、コーカサス地方、今のジョージアに1879年に生まれました。父親は農奴から靴職人になった人物です。当時の東欧では、靴屋という職業には二つのイメージがありました。一つは、「靴屋のように酔っぱらい」との言い回しに見られるように靴屋の職業病は酔っ払いであり、スターリンの父親も酒を飲み妻子に暴力を振るっていたようです。冷酷な父に対して、子供のスターリンが自分の身を守るためにとった手段は不信と警戒心であり、感情を偽りひたすら耐え忍んでいくことでした。「少年スターリンは、戦いでのずるさを身につけたが、これは後年、役立つことになった」とドイチャーは書きます。
もう一つの靴屋のイメージは、同じように東欧で言い慣らされた言葉「靴屋の哲学者」です。ドイチャーはスターリンが持つ内省的な思考能力は父親から受け継いだ性癖ではないかと分析します。その父親は若くして亡くなり、同じく農奴出身の母親は洗濯女をしながら子供を育てます。彼女は一人息子に愛情の全てを傾け、自分が読み書きできなかったことから、息子が9歳の時に地元の宗教学校に、さらに14歳の時には故郷から遠く離れたチフリス(現ジョージアの首都トビリシ)の神学校に入れます。当時、農奴出身の両親から生まれた息子が神学校に入るのは奇跡に近く、信心深い母親は息子が将来、教区の司祭になることを夢みていましたが、スターリンは神学校時代に革命思想に触れ退学処分となり、革命家としての道に進みます。
ドイチャーは、レーニンなどのロシア革命の他の指導者とスターリンとの間には重大な違いがあったと述べます。それは他の革命指導者の大部分が社会の上層階級の出身だったことです。これら上層階級の子弟が社会主義に走った要因は多くの場合、人道主義、被圧迫階級への同情心であり、彼らの支配階級に対する憎しみは社会主義の理論によって育て上げられた後天的な感情でした。一方、社会の最下層の辛苦をなめたスターリンは地主、資本家、聖職者という抑圧者に対し、生来の憎悪を抱いていたのみならず、彼自らその代弁者を任じていた農奴などの被抑圧者たちにも懐疑的な不信感を有していました。彼が革命活動を通じて知った社会主義の教えは彼の生来の階級的憎悪を道徳的に是認することとなり、そのため彼の社会主義はセンチメンタルなところのない、冷たい荒々しいものとなったとドイチャーは書いています。
レーニンは晩年にスターリンが粗暴であるとの理由で書記長の職務から更迭されるべきとの遺書を書きましたが、無視されレーニンの死後スターリンは同僚たちを次々に打倒、最終的に独裁的な権力を手に入れます。
ギャディス教授の前述した著書を読むと、ソ連が第2次大戦を勝利し戦後冷戦の一方の雄になった要因、さらには数十年後にソ連が崩壊した要因さえ、スターリンの性格に起因しているように感じられます。
私達は「ある国のかたち」を読み取ろうとする際に、経済力や軍事力といった表面的な力に目を奪われがちですが、巨大な指導者がその国に刻印した目に見えない「爪痕」のようなものこそ、本当は重要だと考えます。
鎌田 昭良(元防衛省大臣官房長、元装備施設本部長、防衛基盤整備協会理事長)
├幹部自衛官は生涯、試験と勉強。新任幹部が将になるまでの道のり。 | HARUKAZE
├
計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
2019-02-05-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)
2019-02-07-1-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-
2019-02-07-2-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
2019-02-07-3-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-