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官僚制度と計量の世界(18)
Bureaucracy and Metrology-18-
大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その2-
Life of a metrology national civil servant by Zenzou Minowa saitou Part2
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
戦中、戦後、復興期の中央度量衡検定所
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
(計量計測データバンク編集部)
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官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
(見出し)
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
(本文)
大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その2-
東京理科大学近代科学資料館。東京神田小川町にあった東京物理学校を模して建設されたのがその後に神楽坂に移転した。東京理科大学近代科学資料館は、1906年7月、物理学校は神楽坂二丁目24番地に木造新校舎を竣工しを模して建築された。
戦中、戦後、復興期の中央度量衡検定所
戦時色が強まる中の中央度量衡検定所
技手に任官
前年の11月1日に商工省は大部分が軍需省になりましたが中検は農商務省の所属になっていて、所長に叱られたものの3月31日づけで農商技手に任官していました。
計圧器係には谷川さんの外には次席の技手須藤達郎さん、雇員の白井岩一さん、玩具作りになりたいと言っていた中村さん、フクちゃんとあだ名のついた和田さんが居ましたが、須藤さんは病気療養中でこの年退職しました。白井岩一さんも居られたように思いますが、白井さんは一度退職し、敗戦後に再就職した筈です。
計圧器係に
計圧器係は圧力計、真空計、聯成計の検定係で約10基の試験機を使っての作業で、油だらけの作業服が所内でも有名でした。感化院と呼ばれた原因の1つは谷川さんの小言にあったらしく、2時間、3時間に亘ることは普通のことでした。
2カ月間くらいの間でしたでしょうか、何故か谷川さんに反抗する毎日で必要以外口も利きませんでしたが、仕事の方は検定心得と言う極めてよくできた手引書があり仕事には支障はありませんでした。
感化院谷川盈科さん
朝9時に出勤して9時30分に早退したことがあり、日計簿(毎日の処理した検定数を記録する帳簿)にでかでかと蓑輪9時30分早退と書かれたことも有りました。ある日のこと、玉野さんが検定室にこられたとき、谷川さんと、玉野さんの言葉を伝えたかどうかの、言った聞かないの水掛け論を言い合ったことがありました。
これがキッカケだったとは思いませんが、多分谷川さんは次席と認めたのか、その後少ししてから、今度は谷川さんと極端な友好関係になり、全面的な信用を得ることができ仕事も楽しく色々のことを教えてもらう様になりました。
出征職員で人手不足に
兵役のために出征する職員は現役で入営する職員と共にますます増え、男子職員の不足は甚だしく、事務方の人で1年間に200日近くも出張する人が出たほどでした。この人手不足を補うためでしょうか、この年戦時体制からの女子低身隊と称した大妻技芸学校の卒業生が大挙入所し、女子職員の数は更に多くなりました。
アメリカ軍による空襲の危険から、疎開と称して木造家屋の取り壊しが中検付近でも進行し、中検の東側にあった木造2階建ての通産本省が取り壊されたのもこの頃だったと思います。
千駄ヶ谷の下宿も取り壊しの対象となったため、下宿探しを余儀なくされましたが、今度は飯島肇さんにお世話になり、淀橋浄水場の近く柏木に移りました。荷車を借りて荷物を積み、飯島さんと柏木まで運びましたが、ここでは賄いが付かず、再び外食券食事に戻りました。
3条だけの計圧器の検定規則
検定業務は度量衡法に基づいて作られ、器種毎に1冊にまとめられて、受付から下げ渡しまでを説明した検定心得によって処理されていました。谷川さんの口癖は、計圧器に関する検定規則が3条しかないと言うことと、器差の検査は検査したときの事と言うことでした。
これは裁量権が大きいということになるので、前例、その他が大事という事と、逆に意地悪も勝手ということになるのでしょう。この頃検定における合格、不合格の決定権は、ほぼ係長に有った様で谷川さんが伺いを立てたことを知りません。
前例、その他は3冊の指令通牒集と通達、県からの質問に対する返答の文書などが厚くとじてありましたが、計圧器に関するものは少なく殆ど諳んじていました。この頃になって漸く先輩の中検職員の顔と名前が覚えられたように思います。
6月徴兵検査を受け甲種合格、入営は1945年9月の卒業まで延期 8月に終戦を迎える
この年の6月徴兵検査を受け甲種合格となりましたが、理科系の学校であったので1年間の入営延期制度(前年からでしたか徴兵延期から入営延期になっていました)があり、入営は1945年9月の卒業まで延期されていました。
飛行機雲を作りながらのB29の飛来も頻繁になり、中検でも空襲による防災体制として、所長を除く男子職員を7、8名ずつ7、8班に分け毎晩交代で宿直することになっていました。
原器を地磁気観測所に疎開
この年の9月、空襲による焼失を防ぐためメートル原器とキログラム原器とを茨城県の柿岡地磁気観測所に疎開しています。この時の責任者は米田麟吉さんと佐藤朗さんでした。11月には貴金属の供出が強制されメートル副原器とキログラム副原器とが海軍省に移管されています。これらの副原器は1946年5月中検に戻りましたが、後GHQの命令で1947年4月韓国に輸出されました。
11月になった雪の降る日に空襲があり、1年ほど厄介になった神田美土代町の蓑輪甲子三氏宅が焼けました。年が明けた1945年早々には物理学校では後期の試験も終わり、3年の授業が始まっていました。窓ガラスが割れても入れることができず、オーバーにくるまって授業を聞いていました。
宿直日に3月大空襲
3月10日未明の大空襲は宿直の当番日で木挽町の庁舎に居ましたが、東京最初の大空襲でもあり非常に驚きました。
庁舎付近に被害はありませんでしたが下町方面の火は天を焦がし庁舎内で新聞が読めるほどで、門の前にきた憲兵は関東大地震よりも酷いと話していました。数日後、計量研から神奈川県に移った宮里勇さんが火傷され、父親に背負われて中検に見えられたのを思い出します。
5月の空襲でも当番
この後横浜、東京などの空襲日には岡田さんを長とする私達の宿直当番の日が多く、5月25日未明の新宿、四谷、銀座等が被害を受けた時も当番の日で、玄関前で莚を天水桶に浸していた時、突然と電車の近づくような音が聞こえた途端、皆で玄関の中に飛び込みました。直後、焼夷弾が落ちて玄関前にあったダットサンは火達磨になってしまいました。
B29の高度は3500メートル程で中検敷地内にも多数の焼夷弾が落下し屋上などは火の海でした。この時の焼夷弾はエレクトロン焼夷弾と油脂焼夷弾でしたが屋上などは燃えるに任せ、B29の高度が低かったため窓を破って庁舎内に落ちた焼夷弾数発を消して回りました。
図書室の文献を消失
吹き抜けの中庭をはじめ殆ど消しましたが、2階の図書室のみ発見が遅れ、濛々とした煙の中、中谷さんなどが防毒マスクをつけて消火に努めましたが、貴重な書籍、文献を失ったことは残念なことでした。この時の宿泊者は岡田嘉信さんを長とした安並博さん、庄司行義さん、中谷昇弘さん、大島頼年さん、野崎平さん、多賀谷宏さんと私だったように思います。
戦争が終わっていたこの年の12月渡辺所長から金一封を頂きました。中検の隣に立っていた工業品検査所の建物は軍需省の倉庫になっていましたが、私たちが庁内の焼夷弾を消して一息ついた頃に3階から火の手が上がりましたが、宿直者も居なかったようですし、鍵も探しようが無く消すことも出来ず燃えるに任せてしまいました。
空襲で天野清さんらが亡くなる
岡田さんといえば、この頃食用蛙(蛙)を釣ってきて料理するのを趣味のようにしていて、岡田さんの手料理で食用蛙を食べた職員も大勢いた筈です。
この日柏木の下宿も焼け、学校の寄宿舎に入るまでとして、直ぐ下の弟昭二がその下宿に宿泊していた時のことで近くに焼夷弾が落ちたりしたものの、淀橋浄水場付近に逃げたりした後、弟は昼少し前に木挽町の庁舎まで歩いてきました。午後、今度は弟と一緒に焼野原と化した四谷を抜け柏木の下宿まで行き、防空壕に入っていた弟の寝具を2人で担ぎ、電車が通っていた御茶ノ水まで歩き夜遅く佐原の家までたどり着きました。
この後、弟は東京に出ることを諦め税務署に就職してしまいました。中検に就職してからの計量教習のノート、物理学校での教科書、ノート、やっと買った参考書など、総てが烏有(うゆう)に帰してしまいました。
これより前、4月の空襲で工業大学に移られた天野さんが焼夷弾の直撃をうけ亡くなられたのを聞いたのも、所員の矢島昭子さんが火傷して入院した後亡くなり、牛込に住んでいた谷川さんが焼け出されていて、住む所も無いため、計圧器係の部屋に泊まり始めたのもこの頃のことです。
空襲後は検定の仕事はなくなる
5月25日に焼け出された私も計圧器係の部屋に組み立て式のベッドを持ち込み、谷川さんと一緒に寝泊りするはめになってしまいました。学校に行っているときと出張に行っている時を除いて、朝から晩まで谷川さんと一緒でしたが、息のつまる事もなく昔話を聞きながら仲良く生活していました。この頃は最早検定の仕事も殆ど無くなり、学校の勉強をするか、焼け跡を散歩することが日課になっていました。谷川さんは新橋演舞場の裏でハゼを釣ったりして夕食の菜の足しにしていました。
戦後復興と中央度量衡検定所の再建
玉音放送は佐原で聞く
8月15日は月遅れのお盆でもあり、私は佐原に帰省していて正午の天皇陛下のラジオ放送を聞きましたが殆ど聞き取れませんでした。ただ戦争に負けたことだけは分かり、緊張感が脱落、ホッとしたと同時に無力感が襲ってきたことが思い出されます。
1942年4月から勤め始め1945年までの3年間、中学校を卒業したばかり17才の若者が大戦争に押し流されながら、出征する人を見送り、戦死者の遺骨を迎え、何れは自分もその中にはいることを当然のこととして、死ぬことさえ怖がることなしに、極めて微小な歯車の一つとして仕事をし、夜学にも通う、私の後から中検に入所してきた中学卒の人たちも、高等小学卒の人たちも仕事をし、夜学に通っていました。
食べ物さえもママならないそんな時でしたので、却って学校にも通っていたのかもしれません。
東京物理学校を卒業
戦争に負けて呆然とした中でも、学校にも行き、少なくなった仕事を処理していましたが、アメリカ軍の進駐による治安不安が取り沙汰され、止むを得ない数人を除いて総ての女子職員が退職しました。
私は9月末東京物理学校を卒業することになりましたが、卒業式もなく卒業証書も藁半紙四半分のガリ版ずりで、大河内正敏校長の名と学校印が押してあるものでした。
東京物理学校を卒業、中検に残ることに
東京物理学校の卒業は、一つの大きな区切りともになり、転機にもなる筈でしたが、軍隊も無くなり、産業も細々、新天地を切り開く度胸も無いまま安易な道を選んでいました。
焼野原になった東京にも電気がつくようになりましたが、工場などは、いまだ操業出来ず極端に少なくなった検定業務と設備の手入れに明け暮れていました。
渡辺襄所長から的場鞆哉所長に
1941年、42年には1000万個にも達していた検定個数もこの年には僅か120万個と激減しています。
年末には渡辺襄所長の挨拶がありましたが、翌1946年3月には1933年以来の渡辺所長が退職し、前年の1945年福岡支所長から糸雅俊三氏の後任として大阪支所長になっていた的場鞆哉さんが本所長として赴任してこられました。的場さんの後任には本所から米田麟吉技師が単身赴任し、1953年まで支所長を勤めています。
本所長の交代は突然のことだったらしく、官吏に対するGHQの指示とか、年齢のためとか種々の噂が立ったものです。的場さんも焼野原の東京では住む家も直ぐ見つかる筈もなく、しばらくは所長室に寝泊りしていました。
この頃になって検定室に寝泊りしているのは如何にも不様なので、本館4階南側に宿泊室と呼ぶものが作られました。所長室に寝泊りしている的場さんを除いて4階には谷川さん、飯島肇さん、野崎平さんと私が泊まっていたように思います。
ガラス温度計、浮ひょうの権威であった的場所長とは殆ど没交渉でしたが、後に浮ひょうの研究に従事することが分っていたら、随分と教えて頂くことがあった事でしょう。
佐原から木挽町に通う
この頃の私は、下宿が焼けて以来住所を佐原に移していたため、原則的には佐原からの通勤で、週に1、2度佐原に帰っていました。朝5時に家を出て、夜11時に帰るのでは、とても続きませんので、1週間分の食糧を持って、中検に泊り込む日が多くなりました。月曜日の朝一番早い佐原発の汽車に乗る連中は、東京の学校に通う人、勤めに行く人などで、中学の先輩、友人も多くなり、両国駅まで退屈もしませんでした。
駐留軍が銀座を闊歩してはいましたが、治安もそれ程悪くならず、渡辺所長が代わる頃になると女子職員の採用も始まり、中検の中も様変わりし、女子職員との垣根も無くなり自由さの謳歌にもなり始めました。
軍隊に入隊、徴兵されていた職員もボツボツ復職し始め、同じ4階の北側、いわゆる度量衡講習室を宿舎として使うことになりました。前の南側の部屋には畳が30畳ほど敷いてありましたが、講習室では机の上や教壇の上に布団を敷いて寝ていました。
計量器は作れば売れる時代に
1946年になると今まで極端に少なかった度量衡器、計量器の生産も次第に上向き、作れば売れる時代に突入することになります。検定数もうなぎのぼりで残業手当も不足している中、忙しい毎日が続くことになりました。
この頃の計圧器係は、谷川さんの下、軍隊から帰った堀越義国さん、川村竹一さん、そして茂木一雄さんなど10人を超える係員になっていました。所内における検定数は、設備の関係でその消化量は限られ、需要に追いつけない状況になってきましたので、圧力計の生産量が多く、検定設備の整えられる(株)東京計器製作所の茅ヶ崎工場、小諸工場と川崎の東京機器工業(株)(トキコ)の3ヶ所で谷川さんが設備検査をした後出張検定をすることになり、漸く愁眉を開きました。
圧力計の検定に追われる
普通出張検定は2人1組で行くことになっていましたが、何故か茅ヶ崎工場のみは谷川さんと私とで交替で出張していました。小諸工場には略毎月1回、1週間程度の出張検定が行われていましたが、製紙工場跡で圧力試験機は土間に置かれた状況でした。
私の最初の小諸工場は、堀越さんと9日間の検定出張で、小諸工場の中島さん、牧野さんなどの名が浮かびます。度量衡器、計量器の生産は日増しに多くなり忙しい日々が続きました。
圧力計なども作れば売れる時代、粗製乱造もいいところ、ブルドン管の材料は間に合わせの真鍮、これでは耐圧検査に合格する筈もなく、時には半数近くも不合格になることもありました。
よその係も残業はあたりまえと言う状況が続いていましたが、予算上の残業手当では足りる筈もありません、流用にも限度があり、検定依頼者からの拠出に拠ったこともあったような気がします。
さつま芋の買出し
公務員の給与はインフレに追いつかず月に二度払いになったりした時代、食糧確保に苦労した時代で、中検協和会(戦前からの親睦会で囲碁などの趣味の会への補助、旅費の貸し出しなどに利用されていた)がさつま芋の買出しを主催したこともありました。
私などは千葉県への買出しですので、土地感はあるし、乗りなれた汽車で、真っ先に買出しに参加していました。一回にサツマ芋10kg以上も担いで汽車に乗ったこともありました。
戦後自由思想と中央度量衡検定所の息吹
全商工労組と中検分会
敗戦は、自由思想の謳歌から軍国主義への反動として共産主義の台頭、共産主義政党の躍進には目を見張るものがありました。官庁にも全官労が組織され、商工省にも全商工という労働組合ができ、その下に都内の試験、研究機関を集めた関信支部ができ、中検もそれを構成する分会として組合が誕生しました。
小泉、間宮さんらが中心に
はじめは技師以外が組合員だったように思いますが、組合運動での中心的存在は小泉袈裟勝さん、間宮修一郎さん、戦場からの復員者と若い共産党員やそのシンパ、或いは熱烈な軍国主義者から一転共産主義者となった人たちで、共産党員やそのシンパの人たちは組合運動の先頭に立っていました。
私は青年部長に
全官公の1946年末からの賃上げ闘争は翌年2月1日の所謂2・1ストとなり、そしてマッカーサーの中止命令となりましたが、この頃の組合には青年部が作られていて、私も青年部の部長を引き受けさせられて、圧力計のメーカーにゼネストの説明に駈け回ったりしていました。
組合の役員も何度か勤めさせられましたがなんとなく冷めたところがあって、昨日までの主義主張を突然と変えるほどの意識もなく、意味も感じないまま過ごしていたように思います。
東大卒の入所が相次ぐ
1947年になると東京大学卒業の人も入所してくるようになるし、1947年、48年には多くの人が入所してきました。加藤芳三さん、川田裕郎さん、増井敏郎さん、坂倉知巳さんや、専門学校出の村田守さん、角田和一郎さん、金田良作さん、天野重昭さん、渡辺修一さん、吉田彰二さん等々の人々でしたが、この頃は人の出入りが激しい時代でした。
本宮大介さんの移籍
度量衡行政官として海南島に赴任していた高橋凱さん、原田祐之さんと本宮大介さんが復員したのが1946年の早い時期だったと思いますが、4階に寝泊りしていた本宮さんが中検から日本度量衡協会に移ったのがこの年の10月頃でした。
確か小泉さんと本宮さんの発案だと思いますが、中検内の親睦団体である協和会の事業として、本宮さん名義で収入印紙と切手、それにタバコの販売を始めたのもこの少し後でした。タバコの販売は直ぐに取りやめましたが収入印紙と切手の販売は検定手数料の納付が収入印紙でしたので継続され、数年後からは検定数の増加とともに販売手数料も増え、協和会にも相当額の販売手数料が入金される様になり、観劇、運動会或いは講演会の開催など所員の福利厚生に随分と役立ちました。
講習室に寝泊まり
サツマイモの買出しなどを主催した庄司行義さんが厚生係長で、食糧が不足していたこの時代に、協和会からとして1、2ケ月おきにA液、B液と称したビール瓶一本宛のエチル・アルコールと白絞油が配られていました。
名義は多分、圧力計、温度計と浮ひょうの検定用でしょう。この頃になると兵役から復員してくる人も多くなってきましたが、住む家もままなりませんので4階の講習室に寝泊りする人が増えてきました。
講習室に寝泊りしていた人々は、前掲の人達のほか、小川了さん、深津惣太郎さん、立川喜久夫さん、小泉袈裟勝さん、川村竹一さん、中原喜敏さん、川田裕郎さん、関口秀雄さんなどでした。
麻雀と卓球に興ずる
騒然としていた時代で収入もインフレに追いつかず食べるのが大変な頃で、娯楽もなく兵隊から帰った人々を中心にアルコールを飲んでは夜遅くまで騒いでいました。
兵隊から帰った元気な人たちは、立川喜久夫さん、川村竹一さん、古関武雄さん、岡山憲一さん、山田夏雄さん等でしたし、女子群と交流していたのは、坂本さん、福島良蔵さんを中心としたグループでした。
麻雀全盛というか、2階の宿直室は2つ、3つと卓が並び、タバコの煙で充満した中でチイ、ポンが飛び交っていました。
私などは麻雀の仲間に入ったり、別館4階の食堂にあった卓球台で、沓澤寛さんと雌雄を決していたり、それでなければ、アルコールの仲間になって騒いだりしていました。川村さんが盲腸炎になり新橋の菊地病院に連れて行くのが大変だったり、泥棒が入り、洋服を盗まれた人が出たり、小泉さんが東海林太郎の物まねをしたり、ヴォルガの舟唄やステンカラージンを教えていたのもこの時でした。その中で、エチオピアの国歌は東京オリンピックで皮がはがれました。
転職した人々
敗戦後の東京は食糧の調達が大変だったことも原因の一つだったのでしょうが、技師の下で実務を担当していた古参技手の方々の転職が多くなり、友森肇さん、森安寿さん、桑田幸男さん、安並博さん、山本保さん、谷澤勝二さん、竹内喜一郎さん、北村品市さん、小池清さん、内田牧さん、加藤容三さん等々が中検を去っていきました。
この頃の私は、谷川さんとの間に堀越さん、川村さんがいるため、責任をもつことも無く、検定をしていればよく、気楽なもので他所の係りへ遊びに行き、野球やテニスの相談ばかりしていました。
谷川さん排斥運動
計圧器係では係員の数も多くなったため谷川さんの小言も多くなり、横暴だとか、民主的でないとかで反抗的になる人も出るようになりました。
民主化などと言う反対が出来にくい言葉が横行する中で、川村さんを前面に出した谷川さん排斥運動が組合委員長(小泉さんだったように思いますが)を巻き込んで始まりました。早くから、谷川さんとの信頼関係を得ていた私としては蚊帳の外的存在ではありましたが時代の流れかとも思っていました。
谷川さんの小言は、それは「しつこい」ものでしたが仕事上のもので、間違いなく仕事をするための約束事が殆どだったように思いますし、上司を含めた外から指摘されないためのものだったように思います。確かにワンマンで何時雷が落ちるか分りませんでしたが、外に対して係員をかばうことも並大抵ではありませんでした。
谷川さんは建築を専攻していたようですが、身体に似合わず器用な人で試験機の修理などは完璧だし、手先は器用、作った試験機は特に使いよいものでした。排斥運動が功を奏してか谷川さんが、量衡器係長に移ると共に堀越さんと川村さんも計圧器係を離れ、石井節三さんが係長になり、私もまた次席に戻ってしまいました。
石井さんは年配ではありましたが、中検外からの人でしたし、次に係長になった鈴木豊明さんも名古屋支所からの人で、お二人ともなじむのが大変だったと思います。感化院といわれた係で、若い、油だらけの男ばかり、私など係員を扇動しては係長に反抗してばかり、随分と小面憎く扱いにくい男と思われていたでしょう。
1948年戦後最初の第40期度量衡講習が始まり、この年、圧力計検定の実習を担当した筈です。この期には20人近くの後に検定所長になられた方々が居られました。
軟式テニス部を作る
1947年頃からは戦時中とはうって変わり急速に社会が変化し始め、いろいろのものが復活し、また新しいものが出てきました。
スポーツなどはその最たるもので、工業技術庁傘下の試験所を集めた野球、卓球、軟式テニス、バレーボールなどの大会が始められたのもこの頃でした。戦前の中央度量衡検定所には野球部があり写真なども残っていましたが、この頃では道具もなくグランドの手当ても出来ず休部状態でした。
若い人たちの入所もあり、練習はキャッチボール程度でも、スポーツの好きな人は多く野球チームを作って業者との対抗試合や工業技術庁の大会に出たりしました。卓球、テニス、バレーボールの趣味の会が結成されましたが、この中で一番大変だったのが軟式テニスで、経験者が殆どいない中で、大学時代に硬式テニスをしたことがあった宮尾公美さんと、経験者の坂本さんと軟式テニス部を発足させ、部員を募集したところ20人も集まったのには少々驚きでした。
当所には早くから囲碁部のような趣味の会があり協和会が認めた会には協和会から備品購入の補助が出るようになっていました。
その対象に野球部、卓球部、軟式テニス部、バレーボール部も加わり部活動も軌道に乗ってきました。私などは工業技術庁の大会があると何にでも引っ張り出され大会に参加していました。
計量器の勉強会始まる
こんな中でも30才前後で中堅と言われていた小泉袈裟勝さんと間宮修一郎さんとが、若手を集めて各係が担当する度量衡器、計量器についての勉強会を開くなど足を地に付けた会も始まっていました。
最初は各係の担当する器種を次席クラスが、構造、性能、問題点などの説明からはじめられました。その中でばね式秤のばねについての検討やバイメタルを使った温度補償などが話し合われたことが思い出されます。私などもブルドン管の動的疲労のデーターを取ったりしていました
計圧器係長の辞令
1949年6月、的場所長が退任し工業技術庁標準部長の横山不学氏が所長に就任しましたが、建築専攻のしかも外部からの所長は初めてのことで、工業技術庁内の権力争いとか、一時的な腰掛とか、所長人事の絡みとかの噂が飛び交いました。
総務部長の席にあった玉野さんが実権を握っていたようですが、9月、突然と所長室に呼ばれ、玉野さん同席の下、高橋照二さんに量衡器係長、私に計圧器係長の辞令が渡されました。何も知らされていなかったので、びっくりしたと言うのが実感でした。
この時、高橋さんが25才、私が24才で最も若い係長でした。計圧器係の係員は、渡辺修一さん、高橋政雄さん、伊勢善一さん、岩田成敏さん、関口浄一さん、園田さん、田畑さん等で、少し後に小杉茂さんが配属されてきました。
中村芳子と結婚
次の年の初め中村芳子と結婚し市川市に住み始めました。はじめ、中村家の「離れ家」が空くことになっていたのですが、住んでいる人が出ないため暫くは同居になりました。
ここは借地、借家でしたが敷地は1500平方メートル程でその中に900平方メートル程の池があり、池の半分ほどを睡蓮が覆っていました。
その年の9月末に長女恵子が生まれました。芳子の父中村金蔵氏は土木、建築を業とし、吊り梯子、掘削工法などの特許を持っていたことから、鹿島建設の仕事につきはじめ石油タンク建設に従事していました。
間もなく義父は、真間川際に土地を求めて家を建てて移りましたので、池のある広い借家は私たちが引き継ぐことになりました。この池のある家については、竹やぶから筍が出たり、池には鯉や鮒、手長えびなどがいたり、2メートルにも及ぶ青大将が出たり、長女恵子が通っていた幼稚園から睡蓮を見学に来たり、この家から引っ越す間際には1メートルを越す雷魚を釣り上げ、谷川さんに持っていったり思い出は尽きない数年でした。
家主から退去の要求が出ていたこともあって、菅野の京成分譲地約142平方メートルの土地に約40平方メートルほどの家を、義父に建てて貰い移り住んだのが1955年頃でした。
[資料]
【東京物理学校に関連する資料】
田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた
明治専門学校
明治専門学校は山川健次郎と安川財閥の創始者である安川敬一郎らによって、1909年(明治42年)福岡県北九州市に私立の旧制工業専門学校として創立された。1921年(大正10年)に官立に移管され、1949年(昭和24年)に国立九州工業大学になる。明治専門学校には支援と特別講義などのため尾崎行雄、犬養毅、大隈重信、原敬、長岡半太郎、手島精一、益田孝、渋沢栄一、團琢磨、藤山雷太他など訪れている。
米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏
米田麟吉氏は『日本計量新報』のwebサイトに掲載している、蓑輪善蔵氏の「私の履歴書」と齊藤勝夫氏の「私の履歴書」のなかに登場している。小口太郎は1919(大正8)年、東京帝国大学理学部物理学科に入学しており、当時1学年20名か30名であった理学部学生の同級生として芝亀吉、米田麟吉の両氏がいた。小口太郎の名前は科学者としての業績よりも、三高の水上部員時代に作詞した「琵琶湖周航の歌」で知られており、生家のある長野県岡谷市の諏訪湖畔、釜口に銅像が建っている。米田麟吉のことを中央度量衡検定所の後輩の高橋凱は「上下に隔てのない、また後に残さない、本当にさっぱりした気持ちの良い方でした」と日本計量新報に追悼文を寄せている。同じく中央度量衡検定所の後輩の高田誠二は「英文、仏文の論文や資料をこしらえるときに先生のお世話になった方は数しれないだろう。論文の英文抄録をでっち上げる場合、初心者はたいてい「これこれについてしかじかの条件下で何々が」と長々しい収吾をしつらえ、文末に「……が研究された」と書く。先生それをサッとご覧になって「頭が重いよ」と批評なさる。つまり「主語が長すぎるよ」という意味なのだ。芝亀吉は徳島中学校をてて、のち1918年(大正7年)に第三高等学校を卒業している。熱学、熱力学の権威であり、計量管理協会の事業にも深く関わっている。米田麟吉は東京府立一中から第八高等学校に進んでいる。3人とも1922年(大正11年)に東京帝国大学理学部物理学科を卒業している。米田麟吉は電気試験所に入所、大正15年に中央度量衡検定所に転任、後に第一部長、第二部長などを歴任して1961年(昭和36年)に退官して工学院大学教授に転じている。芝亀吉は東京大学教授などを勤めた後に東洋大学教授となっている。.米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏。
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
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├官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
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[以下は覚書]
通産官僚と大分県知事
地方公務員齋藤勝男
地方公務員吉田としお
製鉄会社の計量技術者二人
夜学から大学へ 石川島播磨の男
工業技術院から変わった研究組織はトップを公募として民間の大企業経営者を据えるようになった。
ほか
[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html
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├私の履歴書 蓑簔輪善藏-その1-佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる
├私の履歴書 蓑輪善藏-その2-天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
├私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
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├指揮幕僚課程 CGS | 戦車兵のブログ (ameblo.jp)
├埼玉県計量協会会報2019年7月号
http://www.saikeikyou.or.jp/custom_contents/cms/linkfile/kyoukaihou-13.pdf
特別寄稿 放射線測定に関する資料を渉猟 日本計量新報 編集部 横田 俊英1)放射線被害を低く見積もらず、放射線測定器の特定計量器化で警鐘を
石島徹前事務局長退任の挨拶
平成25年から6年間、皆様方には大変お世話になりました。令和元年5月31日に退職いたしました。今後の埼玉県計量協会の発展と皆様のご多幸をご祈念いたします。
├(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す
├私の履歴書/高徳芳忠 (keiryou-keisoku.co.jp)
├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
├計量計測データバンク 私の履歴書
├計量法抵触事例を公表していなかった柳津町 | 水道メーター | 検定有効期限が8年 (seikeitohoku.com)
├エリート職業の鉄板!官僚の結婚相手になるためのポイントを3つ紹介!|結婚相談所パートナーエージェント【成婚率No.1】 (p-a.jp)
├品質工学の考え方 計量士 阿知波正之
├行政の継続性の確保と地方計量行政の在り方
├【計量士の資格認定コース】概略図(PDF形式:62KB)PDFファイル(経済産業省)
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├計量士の国家試験 (計量士 (METI/経済産業省))
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├計量士になる 計量士国家試験合格のための学習図書と講習会特集
├計量士資格認定の申請について
├数学と物理はできないという自己暗示から抜け出せば計量士国家試験は突破できる
├教習・講習・研修の概要説明及び費用:NMIJ (aist.go.jp)
├人の言葉の基(もとい)は教養である
├産総研:採用情報 (aist.go.jp)
2024/2/19 2025年卒修士卒研究職の募集を開始しました。【終了しました】
2024/2/20 2025年卒総合職の募集を開始しました。【終了しました】
採用情報|採用|産総研 (aist.go.jp)
├田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方
├品質工学や計量管理の技術を言葉で解き明かすことを課題とする(計量計測データバンク編集部)
├計量標準120周年:NMIJ (aist.go.jp)
├戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲 - Yahoo!マップ
├田中館愛橘博士と航空の歴史
├現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
├長島安治 大正15年生れ 昭和18年陸軍予科士官学校入校 陸士とは別に航空士官学校が創設された、ここに入校。
https://www.noandt.com/static/summary/kakigara/documents/libertyjustice_201808.pdf
├解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)
├私の履歴書 安斎正一 目次
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
├古賀茂明 - Wikipedia
├私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
├前川喜平 - Wikipedia
├私の履歴書 蓑輪善藏 目次 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書/吉田俊夫 (keiryou-keisoku.co.jp)
├横田英史の読書コーナー (eis-japan.com)
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電力改革については、発送電分離が有力な選択肢という立場をとる。古賀茂明のベストセラー。
日本中枢の崩壊 古賀茂明、講談社、p.386、¥1680 2011.9.15
現役官僚が民主党政権の国家公務員制度改革などを批判したことで話題を呼んだ、古賀茂明のベストセラー。雑誌論文や国会証言などで政権批判を行ったため経済産業省大臣官房付という閑職に追いやられた。その後も現役官僚の肩書きで政権批判を続けていたが、9月22日付で辞表を提出したようだ。本書は“現役官僚”が徹底的に政権を批判している点で見るべきところはあるものの、内容自体は他の民主党政権批判や官僚批判と大きく異なってる訳ではない。政官界の問題について頭を整理するときに役立つといったところが、本書の評価として妥当なところだろう。
筆者が力点を入れて論じるのが国家公務員制度改革。自民党政権時に渡辺喜美・行政改革担当大臣がどのように改正させたか、成立までの紆余曲折、成立後の官僚の抵抗などを詳述している。自民党への失望が大きかっただけに、民主党にいる政権交代に筆者は期待する。期待はすぐに失望に変わる。期待が高かっただけ、その反動は大きかったといえる。
さすがに現役官僚だけに、官僚機構についての記述は詳細だ。天下りの仕組み、官僚が駆使する騙しのテクニック、大企業との癒着など、自らの体験を踏まえ紹介する。
「経済学に人間の心を持ち込みたい」という経済学者・宇沢弘文が自らの人生哲学を開陳した書。現在の貧困を解決するキーワードとしての社会的共通資本を紹介するとともに、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を徹底的に批判している。リベラルな論客としての宇沢の考え方がよく分かる。本書は2003年に刊行された「経済学と人間の心」に、二つの未公表講演録と池上彰の解説を追加した新装版である。池上の解説がコンパクトでよく出来ている。
第1部「市場原理主義の末路」は経済倶楽部での2本の講演で構成する。2009年の「社会的資本と市場原理」と2010年の「平成大恐慌~パックス・アメリカーナの崩壊の始まりか」である。質疑応答も収録しており、新自由主義や市場原理主義に対する宇沢のスタンスだけではなく、人柄が伝わってくる。もし東日本大震災や原子力発電所の事故後に宇沢が講演していれば、どういった内容になったのか興味のあるところだ。第2部以降は、思想や歴史観、官僚観、教育観を宇沢自らが語るエッセイである。右傾化する日本への危惧、60年代のアメリカ、学の場の再生、地球環境問題への視座という構成をとる。
計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
2019-02-05-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
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