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官僚制度と計量の世界(17)
Bureaucracy and Metrology-17-
大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その1-
Life of a metrology national civil servant by Zenzou Minowa saitou Part1
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
東京物理学校の夜学と銀座木挽町の中央度量衡検定所
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
(計量計測データバンク編集部)
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官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
(見出し)
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
(本文)
大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その1-
中央度量衡検定所。東京神田の木挽町にあった庁舎。その後に計量研究所になり、さらに板橋区に庁舎を移した。
東京物理学校の夜学と銀座木挽町の中央度量衡検定所
大正14年生れ、佐原中学を卒業して中央度量衡検定所に入所したの男がいた。蓑輪善蔵である。中央度量衡検定所に勤務しながら蓑輪善蔵は戦前の物理学校の夜学に入学、稀なことだが苦労することなく卒業。東京大学出身の技師が幹部として働く職場で技術職として重きをなし、工業技術院計量研究所が筑波に移転するころに第四部長として働き、その後に通産省計量教習所長をつとめた。蓑輪善蔵の教習所長としての内部の職階は通産省の課長級であった。後任は通産省本省課長補佐級になり、教習所はそれ以後は別組織になって現在に至っている。東京大空襲を京橋区木挽町の中央度量衡検定所の地下室で経験した度量衡の国家公務員の手記を蓑輪善蔵がのこしている。
以下は蓑輪善蔵の手記である。
佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる
写真は蓑輪善蔵氏
本家は代々蓑輪由兵衛を名乗り酒造業を営んでいた
私の出生地は、幕末、精巧な実測日本地図と、このとき使用したと言われる折衷尺で有名な伊能忠敬を生んだ千葉県佐原市で、1925年3月、蓑輪仲三、雪江の長男として生まれました。私の家は分家で、本家は代々蓑輪由兵衛を名乗り酒造業を営んでいて、分家した初代が儀助、二代が善吉、三代が仲三です。本家も明治の中頃まではなかなかの羽振りだったようですが、何故か家業が傾き一気に没落してしまいました。
この時わが家の当主は1865年生まれの善吉で本家の蔵番等をして生計を立てていたようですが、本家の没落後の我が家は、ある時払いの催促なしの借金とはいえ200円の負債を持つ生活に入りました。この借金は本家の土地200坪を買い取る資金とこれから住む家の修理代(それまで蔵として使っていた所)で、本家は総てを整理して残った資産は2000円だったと聞いています。本家、分家の間柄とは武家社会の主従と同じ様なものだったのでしょうか、今考えると随分と不合理のようにも思われます。わが家の借金最後の返済は、確か1940年中学生の私が1人で親戚に届けに行き借用証書を受けとってきたと覚えています。
祖父善吉とその妻
善吉は中風を患い左足が悪く歩くのも不自由だったこともあってか、書を良くし、郡役所の書記や女学校の事務員などを勤めていました。菩提寺である日蓮宗浄国寺内にある七面大明神縁起の碑文は善吉の書によるものです。善吉には5人の弟がおりましたが東京に2人、北九州に1人いて、あとの2人は身寄りがなく我が家の墓に入っています。
善吉の先妻「くに」は佐原町の加瀬尚八の三女で、善吉には「くに」との子「みの」と「くに」死亡後の後妻「はつ」との子仲三がいますが、「はつ」が後妻にはいった時「みの」は「はつ」の実家、久住の医家沢田良安のもとに引き取られて育っています。詳しい話は聞いていませんが、「はつ」の性格が知れようと言うものです。「みの」の嫁ぎ先坂井家は今松戸市に続いています。母雪江は銀行員吉田忠蔵の長女で妹4人と弟1人がいます。雪江の母は直ぐに亡くなり、次に来た後妻も妹1人を残して他界、後の弟妹は三度目の後妻の子です。
母は女学校には入ったものの継母に大分虐められた様ですが、実家は私より10才程上の、母の弟義一が継ぎ、吉田家は佐原市浜宿に続いています。
善蔵の名は祖父から貰う
私が生まれた時、名前を何とつけるか大分揉めたようですが、結局二人の祖父善吉と忠蔵の一字づつを取って善蔵とつけたとのことで、お蔭様で字画が多く苦労したのは私でした。祖父善吉は1865年生まれ、父は1901年生まれそして私は1925年生まれで3人とも丑年でした。私が生まれて2年後に生まれた弟昭二を始め6人もの弟や妹が生まれましたので、私は早くから祖父母特に祖母「はつ」の手に移っていたのは当然のことでしょう。
祖父母の思い出
祖父との思い出は、冬は居間の炬燵に、夏はテーブルを前に同じ場所に座っていて、子供達はその傍には寄り付けませんでしたが、小学校に入学する前に祖父と2人で、当時向島区隅田町に住んでいた「みの」の嫁ぎ先坂井家を訪ねたことがありました。
祖母とは幼稚園に入るまで天気がよければ幼稚園の庭や、小野川の土手で遊び、菩提寺の日蓮宗浄国寺に併設されている清正公のお祭りの日(毎月23日)に太鼓を叩きに行ったり、天理教につれていかれたことなどがありました。
佐原の家を整理した時の遺品などを見ると祖父母は信心深かったように思えます。浄国寺に今も残る二体の浄行菩薩は由兵衛と善吉の寄付したもので、わが家にはこの浄行菩薩や不動明王などの掛軸が残っています。この頃の話でしょうか、浄国寺のお上人が私の顔を見て「この子は親、子に縁の薄い子だ」と言ったとか。
水運の集散地佐原町
私が覚えている頃の千葉県香取郡佐原町は、人口2万人程の町で利根川を挟んで千葉県側の佐原と茨城県側の北佐原とに分かれ、小学校も佐原小学校と北佐原小学校の2校がありました。千葉県側の佐原はさらに利根川に注ぐ小野川によって東側の本宿と西側の新宿とに分かれています。
伊能忠敬宅は小野川沿いの本宿側にありましたが、新しく建てた現在の忠敬記念館は小野川を隔てた新宿側に建てられています。私の家は伊能忠敬宅から300メートルほど離れた小野川の上流部分にありました。
佐原は江戸時代、利根水運による江戸への物資輸送のための集散地として栄えていました。利根川周辺から生産品の荷揚げと、江戸への輸送のため、小野川沿いには大きな店が並び、店の前の道路から川まで階段が作られていました。その中に、利根川を越えた茨城県から白瓜を購入して奈良漬を作っていた親戚(分家としての初代儀助の妻、喜舞の実家)があって、小さい時から度々使いに行っては可愛がられていました。
佐原の祭り
関東の三大祭の一つとも言われる祭りは、本宿にある八坂神社の夏祭りが7月半ばに、新宿にある諏訪神社の秋祭りが9月末に行われていました。この祭りは、各町内にある山車に7、8人のお囃子を乗せ佐原ばやしを奏でながら、街中を引き回すもので、近在からの見物客で大いに賑わったものです。山車は大きな歴史人形、藁で作った鷹や鯉などを乗せた大きなもので、本宿に約10台、新宿に約14台があります。また、今は佐原市になっていますが、香取には武神、経津主命を祭る官幣大社香取神宮があります。香取神宮のお祭りは、お田植え祭、12年毎の軍人祭、などが記憶に残っています。
佐原小学校時代
私の年代は1931年9月18日に起こった柳条湖における鉄道爆破事件即ち満州事変発端の年に小学校に入り、1937年7月7日盧溝橋で始まった日支事変の年に中学校に入り、最上級生になった1941年12月8日には第二次大戦が始まっています。物心つく頃から戦争の歩みの中に身を置いてきたことになります。
1931年に小学校に入りましたが、佐原小学校は家から200m位の所にあり、運動場も広く子供達の遊び場の1つでした。私は3月生まれの早生まれでしたので,3年生まで弱年組の男女組でした。佐原は伊能忠敬の出身地であり、小学校時代は毎年4月半ばの忠敬記念日に、諏訪公園にある銅像の写生をさせられていました。
小野川の上流には田に水を引くための堰があり、田植え時期以降になると堰は閉ざされ、その上流は2m位の深さがありました。私なども小学校2年生位から背の立たないここで泳いでいました。
男女組が解消された4年生の頃に家と小野川との間にあった水田が埋められ5、6年生用の校舎が建ちました。丁度5年生になった時その校舎が竣工し、この校舎に入ったため、この時から家の裏庭から学校に行けるようになりました。
放課後の遊びは専ら校庭でしたが、町内に年上で野球の好きな人達が何人かいたためか、近所の子を集めて野球チームが作られたのが丁度5年生の頃で、私も初めから参加させられ6年生までショートを守っていました。昭和11年の2・26事件の日は佐原でも深いところで50cmもの雪が積もっていました。
佐原中学に進む
佐原付近での中等学校は農業学校を除けば県立の銚子商業、佐原中学そして私立の成田中学でした。前にも記したように私の家は代々商人で、父は銀行員、小学校5年生の時には、5、6年生合同の算盤大会(読上げ算と加減算)があって上位に入ったりもし、また本家の人達は皆銚子商業でしたので、私も銚子商業かとも思っていましたが、通学時間や交通費などのこともあり、佐原中学校になりました。
1937年約150人ほどが佐原中学校に入学しましたが、その内35人程が佐原小学校からの入学者でした。この辺での通学は下宿を含めた徒歩以外に自転車、汽車、バス、船ですが、船通学などはこの辺ならではのことでしょう。
軟式庭球部に入る
佐原中学校には剣道部、柔道部、野球部、籠球部、弓道部、庭球部(軟式)、陸上部、射撃部、そして端艇部などがありました。人気のあった端艇部はボートの老朽化からこの年に廃部になってしまいました。利根川で行うボートレースは夏の風物詩の一つで、見物人は堤防にあふれ、たくさんの出店が並びました。
小学校から野球はよくやっていましたので、同級生の中では上手だった筈で、野球部の上級生からは執拗に入部を勧誘され、脅されもしましたが何故か軟式庭球部に入っていました。部活動とは別に剣道と柔道が正課になっていて、そのどちらかに所属しなければならず私は剣道部でした。
1938年でしたか、7月に台風による大水があり、畳を上げて道具類をその上に上げ、弟妹達を母の実家に避難させたりしましたが、床下に水が入り乾くまで大変でした。このとき利根川近くの養鯉場も水をかぶり多くの鯉が逃げ、水が入った水田で鯉を釣る人で賑わったりしていました。
中学も3、4年生頃まで勉強もぼちぼち、祖父か父が読んだものか、漢文や古文の本やその解説書などがあり、十八史略や徒然草、土佐日記などを読み始めたのもこの頃で、物理、数学よりは興味を持っていました。
映画「愛染かつら」
遊ぶことには不自由しませんでしたが、テニスに明け暮れる中で霞ヶ浦、利根川での水泳、鮒釣りそして「愛染かつら」の映画にうつつを抜かしていました。この当時中学生の映画館入りはご法度でしたが、「愛染かつら」の時などは教師も来ていて補導されることもありませんでした。家から200mも歩けば鮒釣り場があり、暇があれば釣りに行っていた頃もありました。
事教練と「非国民」
軍事色が強くなる中、配属将校の権力が校長を凌ぐほどになり、教練の授業での体罰は殴る、蹴るなどは当たり前でした。1940年、当時の5年生が紀元2500年を記念して宮城前で行進したこともあり、この頃から毎月朔日の早朝、香取神宮に参拝させられました。1941年中学も最上級生となり、軍事教練も多くなり、富士の裾野や下志津練兵場などでの軍事教練も行われるようになっていました。
12月8日の米英への宣戦布告により軍事体制は更に加速されていきました。
中学5年生の時、忘れもしません、私を非国民と罵(ののし)ったまだ若かった国語の先生がいました。漢文を教えていたのですが、教科書の順序を飛ばして講義するので、講義の順序を前もって教えておいてほしい、と言ったら、途端にがなり始め、果ては非国民にまで発展してしまいました。卒業式の日にでも、殴ってやろうかと思っていましたが、間もなく結核になり学校に来なくなってしまいました。
天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
中検、天野清技師(1)
この頃、中央度量衡検定所(以後中検と略す)の天野清技師は日本科学史への執筆のため度量衡の歴史の調査をしていて、佐原の漢学者清宮秀堅の著わした地方新書度量権部(我が国度量衡の歴史を書いたもの、元老院刊行)の調査と、伊能忠敬が使ったという折衷尺調査のため何度か佐原に来ていました。
佐原中学校の事務員でもあった伊達牛助氏は伊能忠敬の研究者で、天野技師と面識があり、そんな事から、伊達牛助氏を通じ佐原中学校での中検職員の募集があったものと思われます。
清宮秀堅の子孫は、代々清宮利右衛門を名乗る旧家で、私の家とも付き合いがあったし、現在の当主は小学、中学の同級生で、中学校では同じ軟式テニス部、毎日一緒に練習で汗を流していたのに、清宮秀堅のことをつい数年前まで知らなかったとは迂闊もひどい話でした。
天野技師の誘いで中検に
この頃の我が家は、祖父母、両親、それに弟妹4人の9人家族、父親1人の稼ぎでは余裕のある筈もなく、家も狭くなり、私は鼻の詰まりそうな生活から逃げるべく中学を卒業したら早速と外に出ることを考えていました。佐原などには適当な就職先も無く、また人手不足の時代でもあり就職は極めて楽な状態で、中検への就職も天野技師が佐原中学校に来た時にお会いすることだけで決まってしまいました。
普通は3月の卒業後4月から勤めに出ますが、人不足の時代で、中学卒の就職の場合繰り上げて卒業を認め、卒業年の1月から勤められることになっていました。私は3月上旬の卒業式が終わった後上京、3月中は向島区隅田町にあった父の姉「みの」の嫁ぎ先坂井家に、4月からは神田美土代町の父の従兄蓑輪甲子三氏宅に厄介になりました。
「雇を命じ、日給1円25銭給与す。中央度量衡検定所勤務を命ず」の辞令
ここは神田橋の近くで、神田橋から都電に乗れば直ぐに数寄屋橋、中検まで歩いて10分足らず、入学することにしていた学校にも歩いて直ぐ、足場のよいところでした。1942年3月20日過ぎ、京橋区木挽町の中検に天野清技師を訪ね、直ぐに庶務室の岡田嘉信技師の下に連れていかれ、勤め始めの日を2、3日後からと決めて戴きました。
佐原中学から私と前林四良さんの2人が中検に入所しましたが、前林さんは直ぐに辞めて警察官になってしまいました。3月31日付けで「雇を命じ、日給1円25銭給与す。中央度量衡検定所勤務を命ず」という辞令を貰い、勤め始めました。
中検、天野清技師(2)
この日給は月の日数分のことで、大の月なら31日分で38円75銭のことです。この頃は既に主食は配給制で外での食事には外食券が必要な時代で、私は3食とも外食することとしていましたが、1日の食事代は1円もあれば足りた時代です。この年中検に入所した中学校卒業者は6、7人いた筈ですが、残ったのは1月から勤めていた栗島茂吉さん、茂木一雄さんと私の3人になってしまいました。
量衡器係に配属
中検に入所して最初に配属されたのは量衡器係、係長は桑田幸男さん、次席が中谷昇弘さんだったように思います。係員は15、6人位だったと思いますが、10人程が女子職員で男子職員の約半数が都内に出張していました。残された2、3人の男子職員はメスフラスコ、メスシリンダー、ガラス製ますの検定と金剛砂を使って吹き付ける証印押し(足踏み式)でした。
入所したばかりですので、ガラス製ますの検定を教えてもらいながら、日がな1日証印押しをしていた時もありました。小柳さん、安達さん、千田さんなどと言う先輩女子職員は等比天秤を前に向き合い、衡量法によってピペット、ビュレットなどの検定をしていました。
直ぐに計量教習生に
4月も後半になった頃、計量教習生の試験があるから受けてみたらと、量衡器係女子職員の責任者であった松本恵美子さんから話があり、係長の桑田さんに申し出て、計量教習が何なのか、どんな問題が出るのもわからない中で、数日後の試験を受けました。出来はあまり良くありませんでしたが合格の通知があり、5月から始まる計量教習の授業を受けることになりました。
計量教習の内容
計量教習は中堅職員の養成を目的にした中検独自のもので、中学校卒業者を対象に、数学、物理、電気などの基礎学科と度量衡器、計量器についての知識と技術を習得させるため、約1年間、勤務時間のすべてを当てて教授するものでした。
計量教習は大学や高等専門学校を卒業して中検に入所する人が少なかったことにも起因しているようで、1937年(第1期)から開始され44年(第8期)まで続きました。
1937年の第1期には服部章二さん、木戸作二さん、堀越義国さんなど、第2期には庄司行義さん、中谷昇弘さん、上野三郎さん、勝田仁郎さんなど、第3期には小泉袈裟勝さん、森田ふみさんなど、第4期には川村竹一さん、立川喜久夫さん、小川了さん、大岸修一さん、など、第5期には高橋照二さん、小島鹿蔵さん、後藤信雄さん、中村政人さん、松本恵美子さんなどがおります。
第6期教習生10名
1943年3月に終了した私達の第6期教習生は10名程でしたが、そのうち長く計量に残っていた方々は、東京本所では飯島肇さん、栗島茂吉さん(後大阪支所)、茂木一雄さん、大坂支所の西岡輝治さん、広島出張所の高橋直倫さん(後広島県計量検定所)、福岡支所の松永三男さんなどでした。教習生側の代表は本所の斎藤勝雄さんでしたが、教習後半の1ヶ月ほどは、飯島さんと共に病気休養していました。
教授陣と先輩
教授陣は教習責任者で熱学が米田麟吉技師、物理学が玉野光男技師、数学が天野清技師、電気が佐藤朗技師、衡器が岡田嘉信技師と北村品市技手、精密測定が朝永良夫技師と山本保技手、製図が小池清技手、水力学・機構学・化学実験などが外来講師、実習では酒井五郎技手、竹内喜一郎技手の方々だったと思いました。
朝出勤してから帰るまで、1日中の授業でしたので私などはまるっきり学校の延長気分でした。中学を出たばかりの私が最年少で皆に良くしていただきましたが、特に、飯島さん、高橋さん、松永さんには可愛がって頂き、いつも3人の後ろについていました。
中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
日大の高等工学校に
中央度量衡検定所(中検)は職員に夜学に行くことを奨励していて、通学にはいろいろな便宜を与え、退庁時間も夜学に間に合う時刻で良いとされていました。夜学に行っていない人がいると、「何故行かないのか」と言われ、多くの人が中学校、専門学校、大学などの夜学に通っていました。
私も4月から日本大学の高等工学校機械科に通っていましたが、家は代々商人で父は銀行員、中学に入るときも銚子商業か佐原中学かで迷わされていた程なのに、何故理科系の学校を選んだのか今になってもよく分りません。ただ、この時代、理科系優遇の措置がとられ、国としての要求も多くなっていました。同じ機械科に佐原中学の3年ほど先輩で都庁に勤めていた根本さんが通って来ていたのは、驚きでもありました。
ボート部に籍を置く
この学校は夜学であってもボート部があり、郷愁もあって入部し、授業が終わったあと屋上でスライド式の道具を使い、エイトを漕ぐ練習をしていました。夏休みになって、艇庫に近い向島に合宿所を設営、朝の4時頃から2時間ほどエイトを漕ぎ、朝食後都電で銀座4丁目迄行き、木挽町の中検まで通う日々を2週間程続けました。
日曜日にはエイトを漕いで埼玉県の方まで上ったりしたものです。合宿の終わりに上級生と浅草で打ち上げをしましたが、ビールの大ジョッキが54銭、大ビンが32銭だったように思いましたが、初めての面白い経験をしました。殆どの人がへべれけで、まともだったのは酒の飲み方を知らない私のほか二人ほどでした。上級生を合宿所まで連れて行くのが大変でした。
東京物理学校に入学
10月頃までは日大の夜学にも通っていましたが、高等工学校は準専門学校であったし、17才の私に来年からボート部のキャプテンをやれ等と言われた事もあり、さらに、中検には東京物理学校の卒業生が多いし、在学している人も多かったこともあって、翌年から東京物理学校にゆくこととし、夜学は退学してしまいました。
何故東京物理学校の卒業生が多いのか、その時は分かりませんでしたが、後に、1891年公布された度量衡法施行に伴う、度量衡取締公務員を養成するため、その教育を東京物理学校に委託したことに起因していることを知りました。中検には岡田さんの明治専門学校出を除けば技師は総て東大出で、専門学校出の多くは物理学校出でした。
私は夜学に行かなくなると、時間を持て余すようになり、万世橋にあった洋画専門の映画館シネマパレスに毎週通い、ここで「格子なき牢獄」などのフランス映画を見たり、飯島さん達に付いて見物や遊びに連いて回っていました。
中検技師の面々
中央度量衡検定所(中検)は1933年の庶務細則では、本所に1部、2部、3部と庶務係を置くとの規程がありましたが、私が入所した頃は、研究、検査、検定等を技師が分担処理していた模様で、一度も技師を呼ぶのに部長という言葉を聞いたこともありませんでした。
長さ測定における光波干渉測定で世界的な研究成果をあげた渡辺襄氏が二代目所長で、その下に、本所には米田麟吉技師、今泉門助技師、玉野光男技師、岡田嘉信技師、天野清技師、佐藤朗技師と属兼技手の友森肇さん、大阪支所長に糸雅俊三技師、福岡支所長に的場鞆哉技師が居られ分担して総ての指揮をとっていたようでした。私などから見れば雲の上の方々ですが、先輩達は皆「さん」づけで畏まっているようなところはみえませんでした。
私なども1年間教えて頂いたこともあって、親しみも感じられ中検時代から「さん」づけで呼ばせていただき、それが続いていました。この頃は食糧事情も厳しくなってきていましたが、まだ外食券なども比較的に余裕があり,銀座にも牡丹、若松などの喫茶店も開いていました。
教習修了祝いに箱根に
一年間の教習が終わりに近づいた1943年3月、教習責任者の米田さんと神奈川県度量衡検定所長の岩崎栄さんとのお世話で神奈川県度量衡検定所小田原支所の見学と、教習生だけによる箱根湯本での一泊旅行を計画実行していただきました。
確か吉池だったように思いますが、このときは大阪の西岡さんが引率者になっていました。計量教習の終了と同時に、支所の人たちは支所に帰り、本所でもそれぞれの部署に戻りましたが、私は量衡器係ではなく、新しく比較検査係に配属されました。
比較検査係に配属
比較検査係は今で言えば基準器検査係で検定に使う当時で言う標準器の器差検査の実施部署で、幹部は玉野光男さん、天野清さん、佐藤朗さんの各技師の下に物理学校出の北村品市さん、竹内喜一郎さんの両技手と後に属となった技手で、教習が一緒だった斎藤勝雄さんがおられ、それに雇員の坂本熈さん、石沢邦治さん、大越正夫さん、宮坂主計さんなどと女子職員では井上みよ子さん、疋田ますさん、神田真砂子さん、松本多美子さんなどのベテラン先輩連がおられ、女子職員の方々は分銅、ます、化学用体積計の基準器の検査を、その他の器種を男性が担当していました。
男子職員が毎日行っていた業務は湿式ガスメータの検査で、私も先輩達に教えられ早速と3灯、5灯の検査を手伝い始めました。
月給貰いながら物理学校へ
この4月から飯田橋の東京物理学校にも通い始めましたし、親戚にいつまでも迷惑を掛けていられませんので、石沢さんの世話で千駄ヶ谷の石沢さんと同じ家に下宿することになりました。東京物理学校への入学は、無試験で、戸籍謄本があれば高等師範科に行かれますが、無いと本科で私は本科でした。これは、早くから父親に戸籍謄本を頼んでいたのですが、出願期限までに届かなかったためでした。
月給45円、授業料8円
千駄ヶ谷での下宿代は朝、夕の2食ついた4畳半で月33円、月給が45円、物理学校の授業料が8円、これで、飢えもせずに生活できたのは、ボーナスと出張旅費とのお陰でしょう。下宿に移った当座南京虫に悩まされたのには閉口しました。
この下宿には入所直後に配属された量衡器係の職員で、この時は退職していた東山利一さんが時折訪ねてきていました。中検には短い期間しか勤めていなかったようでしたが、彼は右翼の大物影山正治氏に心酔していて影山塾にも入っていたようで、終戦の日に宮城前で割腹してしまいました。下宿から新宿までは歩いても直ぐで、時間を作っては遊びに行っていました。
東京物理学校の夜学
1943年4月には艦載機による東京初の空襲がありましたが庶務室の窓から見ていた事が思い出されます。物理学校では夜学の1年生が2000人で1組500人、さすがの大部屋も遅く行けば座るところもなく先生の声も聞こえませんでした。
しかし物理や数学は計量教習での講義の復習が多く、1年の時の出席は半分くらいでした。6月になった頃、石沢さんのお姉さんが伊豆大島のため朝館におられ、大越さんと遊びに行くのに無理にご一緒をお願いし、下駄で三原山に登り、途中で下駄が半分に割れ往生したのを思い出します。
石沢さんは私を連れて行くのに反対で、物理学校は試験が大変だから、大島などへ行っていては駄目だとのことでした。このとき、いま大島に帰られた白井岩一さんのお母さんにお目にかかった様に思います。
ガスメーター校正の思い出
学校が夏休みになるのを待って,守衛室の隣にあった11tのタンクによるステーションメーター(大型湿式ガスメーター)の校正を行うことになりました。責任者は玉野さん、そして竹内さん、北村さんに坂本さん達、私も参加し手伝いをしました。
測定は温度が一定する夜半過ぎから明け方まで、夜10時頃再び出勤する玉野さんは、私などには珍しかったホットケーキを持参されたりして、測定に立ち会っておられました。
測定の流速が遅いときは待ち時間が長くなるので、本を読んだり囲碁をしたりしていましたが、私は玉野さんと将棋を指したことが忘れられません。囲碁はまだ出来ませんでしたし、将棋も小学校の頃に遊んだ程度、時間を持て余していた私の相手をして頂いたものと思っています。
当然のことながら一度も勝たして貰えませんでした。10日程かかったこの測定が終わった頃、度量衡の指導者として中国の天津に居られた江浦重利さんが中国の人1人と共に、中検見学のためか1週間ほど比較検査係に通ってこられたことがありました。
秋に入ると、今度は小型の標準湿式ガスメーターの校正を本館2階の中庭で、縦型のベル型ガスホルダーを使って行いました。
丁度この頃が国内標準の確認時期にあったようです。ガスメーターの校正が終わった後は佐藤さんの仕事即ち原器室でH型標準直尺の水中での比較を手伝うようになっていました。地下室には横動比較機もあった筈ですのに原器庫の前での作業でした。
私たち入所1年程の男性4、5人が、ガスメーター、水道メーターの出張検定要員確保のため、白藤静一さん(後岩手県に移られました)から検定の実習を受け、都内出張に行く事ができるようになったのもこの頃です。
検査出張手当で助かる
出張先は、品川製作所、金門製作所、園池製作所、東京ガス、都の水道局その他で、毎日30人以上もの人々が出張していました。都内出張の手当は半日当で、技手が1円25銭、雇員が1円でした。この旅費は私の生活に随分役立ちました。
岡田さんを長とした使用中の水道メーター調査が行われたのもこの頃で、成績はあまり良くなかったと思いますが、戦争に必要な金属不足を踏まえ、この結果から有効期間の延長になったようです。
確かこの年の冬からだったと思いますが、鉄供出のため、暖房がスチームからダルマストーブに切り替えられ、地下室からの石炭運びが男の仕事になりました。温度の急激な変化は測定に影響を与えるため、部屋の中央部付近にストーブ1つが置かれていただけでした。
休み時間になると先輩の女子職員達は半卓の下にガスコンロを置き、毛布を掛けておしゃべりをしていましたが、良くその中に入れて貰っていました。そんな時天野さんが脇を通ることがあっても、笑っていましたが、当時渡辺所長の主義なのか、男女間の垣根は非常に高いもので、所内では口を聞くのもご法度で、女性はお嬢様、男は何処の馬の骨か分からないと言ったとかで、年配の林さんと言う女子職員の監督者もいて目を光らせていました。
物理学校の2年生に進級
坂本さんが出征したのもこの頃で、壮行会をするため天野さんと、今のJRで吉祥寺の坂本さんの家までご一緒したことがありました。
物理学校は進級が非常に厳しくて簡単には2年になれなかった。私のとき1年生が2000 人位いて2年になったのは 500人です。私より前は2000人の中から200人ぐらいしか2年になれていません。私のときは戦争の最中だから理科系の人材を育てなくてはいけないということで、進級させる範囲が広がったようです。
翌1944年はじめ天野さんや竹内さんなどから勉強の便宜を与えられたお陰で、物理学校も運良く2年生になることが出来ましたが、比較検査係の皆さんからお祝いを言われました。
ご褒美とお仕置き
2年生になったということだけで比較検査係から渡辺所長直属の調査研究係に移されました。
物理学校出の小池清さんの下で、私と一緒に物理学校に通っていた「馬見塚勝」さんが出征した後任の様でしたが、後で聞いた話では、蓑輪君にはその仕事は向かないと、天野さんはこの移動には反対されたとの事でした。
小池さんは物理学校夜学で製図の講義を担当していて、私も生徒の1人でした。調査研究係の係長は近藤幸造さんで、ここでは当然のことながら定常的な仕事はなく、ブロックゲージをベンガラや酸化クロムで磨き平面を出すことや、ニッケル鍍金の実験などをさせられていましたが、3週間くらい経ったときのこと、昼の15分前頃にブンゼンバーナーで飯盒の飯を炊いていたとき、突然と渡辺所長が入ってこられ、途端に雷が落ちてきました。
中検の感化院に
直ぐ謝ればよかったのにと後で言われましたが、見つかってしまったことだし、今更言い訳もと頭を下げて黙っていましたところ、逆鱗に触れたのでしょう、翌日、中検の感化院と称されていた(後から聞かされた話)係長が谷川盈科さんの計圧器係に配置換えになりました。谷川さんから聞かされた話では、所長が玉野さんに、あいつは、馬鹿だか図々しいのかわからん奴だと、言ったとか。
[資料]
明治専門学校
明治専門学校は山川健次郎と安川財閥の創始者である安川敬一郎らによって、1909年(明治42年)福岡県北九州市に私立の旧制工業専門学校として創立された。1921年(大正10年)に官立に移管され、1949年(昭和24年)に国立九州工業大学になる。明治専門学校には支援と特別講義などのため尾崎行雄、犬養毅、大隈重信、原敬、長岡半太郎、手島精一、益田孝、渋沢栄一、團琢磨、藤山雷太他など訪れている。
米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏
米田麟吉氏は『日本計量新報』のwebサイトに掲載している、蓑輪善蔵氏の「私の履歴書」と齊藤勝夫氏の「私の履歴書」のなかに登場している。小口太郎は1919(大正8)年、東京帝国大学理学部物理学科に入学しており、当時1学年20名か30名であった理学部学生の同級生として芝亀吉、米田麟吉の両氏がいた。小口太郎の名前は科学者としての業績よりも、三高の水上部員時代に作詞した「琵琶湖周航の歌」で知られており、生家のある長野県岡谷市の諏訪湖畔、釜口に銅像が建っている。米田麟吉のことを中央度量衡検定所の後輩の高橋凱は「上下に隔てのない、また後に残さない、本当にさっぱりした気持ちの良い方でした」と日本計量新報に追悼文を寄せている。同じく中央度量衡検定所の後輩の高田誠二は「英文、仏文の論文や資料をこしらえるときに先生のお世話になった方は数しれないだろう。論文の英文抄録をでっち上げる場合、初心者はたいてい「これこれについてしかじかの条件下で何々が」と長々しい収吾をしつらえ、文末に「……が研究された」と書く。先生それをサッとご覧になって「頭が重いよ」と批評なさる。つまり「主語が長すぎるよ」という意味なのだ。芝亀吉は徳島中学校をてて、のち1918年(大正7年)に第三高等学校を卒業している。熱学、熱力学の権威であり、計量管理協会の事業にも深く関わっている。米田麟吉は東京府立一中から第八高等学校に進んでいる。3人とも1922年(大正11年)に東京帝国大学理学部物理学科を卒業している。米田麟吉は電気試験所に入所、大正15年に中央度量衡検定所に転任、後に第一部長、第二部長などを歴任して1961年(昭和36年)に退官して工学院大学教授に転じている。芝亀吉は東京大学教授などを勤めた後に東洋大学教授となっている。.米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏。
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
2024-09-24-17-life-of-a-metrology-national-civil-servant-by-zenzou-minowa-part-1-
├目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
├
├官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
├
├
[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html
├蓑輪善蔵の東京物理学校入学(1943年4月)と卒業(1945年9月末)。
1、1943年4月から飯田橋の東京物理学校にも通い始めました。
2、翌1944年はじめ天野さんや竹内さんなどから勉強の便宜を与えられたお陰で、物理学校も運良く2年生になることが出来ました。
3、1945年9月末東京物理学校を卒業することになりました。
├オーラルヒストリー 蓑輪善蔵氏インタビュー 「計量制度に係わっ て 69 年」
物理学校は進級が非常に厳しくて簡単には2年になれなかった。私のとき1年生が2000 人位いて2年になったのは 500人です。私より前は2000人の中から200人ぐらいしか2年になれていません。私のときは戦争の最中だから理科系の人材を育てなくてはいけないということで、進級させる範囲が広がった。
├私の履歴書 蓑簔輪善藏-その1-佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる
├私の履歴書 蓑輪善藏-その2-天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
├私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
翌1944年はじめ天野さんや竹内さんなどから勉強の便宜を与えられたお陰で、物理学校も運良く2年生になることが出来ましたが、2500人いた1年生が500人になっていたことには、聞いてはいたものの大きな驚きでした。比較検査係の皆さんからお祝いを言われました。
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├私の履歴書 蓑輪善蔵025 (keiryou-keisoku.co.jp)
├私の履歴書 蓑輪善蔵024 (keiryou-keisoku.co.jp)
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├私の履歴書 蓑輪善蔵019 (keiryou-keisoku.co.jp)
翌1944年はじめ天野さんや竹内さんなどから勉強の便宜を与えられたお陰で、物理学校も運良く2年生になることが出来ましたが、2500人いた1年生が500人になっていたことには、聞いてはいたものの大きな驚きでした。比較検査係の皆さんからお祝いを言われました。
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├しばらく掲載の計量新報ニュース (keiryou-keisoku.co.jp)
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├指揮幕僚課程 CGS | 戦車兵のブログ (ameblo.jp)
├埼玉県計量協会会報2019年7月号
http://www.saikeikyou.or.jp/custom_contents/cms/linkfile/kyoukaihou-13.pdf
特別寄稿 放射線測定に関する資料を渉猟 日本計量新報 編集部 横田 俊英1)放射線被害を低く見積もらず、放射線測定器の特定計量器化で警鐘を
石島徹前事務局長退任の挨拶
平成25年から6年間、皆様方には大変お世話になりました。令和元年5月31日に退職いたしました。今後の埼玉県計量協会の発展と皆様のご多幸をご祈念いたします。
├(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す
├私の履歴書/高徳芳忠 (keiryou-keisoku.co.jp)
├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
├計量計測データバンク 私の履歴書
├計量法抵触事例を公表していなかった柳津町 | 水道メーター | 検定有効期限が8年 (seikeitohoku.com)
├エリート職業の鉄板!官僚の結婚相手になるためのポイントを3つ紹介!|結婚相談所パートナーエージェント【成婚率No.1】 (p-a.jp)
├品質工学の考え方 計量士 阿知波正之
├行政の継続性の確保と地方計量行政の在り方
├【計量士の資格認定コース】概略図(PDF形式:62KB)PDFファイル(経済産業省)
├
├計量士の国家試験 (計量士 (METI/経済産業省))
├
├計量士になる 計量士国家試験合格のための学習図書と講習会特集
├計量士資格認定の申請について
├数学と物理はできないという自己暗示から抜け出せば計量士国家試験は突破できる
├教習・講習・研修の概要説明及び費用:NMIJ (aist.go.jp)
├人の言葉の基(もとい)は教養である
├産総研:採用情報 (aist.go.jp)
2024/2/19 2025年卒修士卒研究職の募集を開始しました。【終了しました】
2024/2/20 2025年卒総合職の募集を開始しました。【終了しました】
採用情報|採用|産総研 (aist.go.jp)
├田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方
├品質工学や計量管理の技術を言葉で解き明かすことを課題とする(計量計測データバンク編集部)
├計量標準120周年:NMIJ (aist.go.jp)
├戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲 - Yahoo!マップ
├田中館愛橘博士と航空の歴史
├現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
├長島安治 大正15年生れ 昭和18年陸軍予科士官学校入校 陸士とは別に航空士官学校が創設された、ここに入校。
https://www.noandt.com/static/summary/kakigara/documents/libertyjustice_201808.pdf
├解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)
├私の履歴書 安斎正一 目次
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
├古賀茂明 - Wikipedia
├私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
├前川喜平 - Wikipedia
├私の履歴書 蓑輪善藏 目次 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書/吉田俊夫 (keiryou-keisoku.co.jp)
├横田英史の読書コーナー (eis-japan.com)
├
電力改革については、発送電分離が有力な選択肢という立場をとる。古賀茂明のベストセラー。
日本中枢の崩壊 古賀茂明、講談社、p.386、¥1680 2011.9.15
現役官僚が民主党政権の国家公務員制度改革などを批判したことで話題を呼んだ、古賀茂明のベストセラー。雑誌論文や国会証言などで政権批判を行ったため経済産業省大臣官房付という閑職に追いやられた。その後も現役官僚の肩書きで政権批判を続けていたが、9月22日付で辞表を提出したようだ。本書は“現役官僚”が徹底的に政権を批判している点で見るべきところはあるものの、内容自体は他の民主党政権批判や官僚批判と大きく異なってる訳ではない。政官界の問題について頭を整理するときに役立つといったところが、本書の評価として妥当なところだろう。
筆者が力点を入れて論じるのが国家公務員制度改革。自民党政権時に渡辺喜美・行政改革担当大臣がどのように改正させたか、成立までの紆余曲折、成立後の官僚の抵抗などを詳述している。自民党への失望が大きかっただけに、民主党にいる政権交代に筆者は期待する。期待はすぐに失望に変わる。期待が高かっただけ、その反動は大きかったといえる。
さすがに現役官僚だけに、官僚機構についての記述は詳細だ。天下りの仕組み、官僚が駆使する騙しのテクニック、大企業との癒着など、自らの体験を踏まえ紹介する。
「経済学に人間の心を持ち込みたい」という経済学者・宇沢弘文が自らの人生哲学を開陳した書。現在の貧困を解決するキーワードとしての社会的共通資本を紹介するとともに、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を徹底的に批判している。リベラルな論客としての宇沢の考え方がよく分かる。本書は2003年に刊行された「経済学と人間の心」に、二つの未公表講演録と池上彰の解説を追加した新装版である。池上の解説がコンパクトでよく出来ている。
第1部「市場原理主義の末路」は経済倶楽部での2本の講演で構成する。2009年の「社会的資本と市場原理」と2010年の「平成大恐慌~パックス・アメリカーナの崩壊の始まりか」である。質疑応答も収録しており、新自由主義や市場原理主義に対する宇沢のスタンスだけではなく、人柄が伝わってくる。もし東日本大震災や原子力発電所の事故後に宇沢が講演していれば、どういった内容になったのか興味のあるところだ。第2部以降は、思想や歴史観、官僚観、教育観を宇沢自らが語るエッセイである。右傾化する日本への危惧、60年代のアメリカ、学の場の再生、地球環境問題への視座という構成をとる。
計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
2019-02-05-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)
2019-02-07-1-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-
2019-02-07-2-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
2019-02-07-3-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
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