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官僚制度と計量の世界(14)
Bureaucracy and Metrology-14-

 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その1-
Life of a metrological civil servant by katuo saitou Part1

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

勉強もさることながら「齊藤は千葉県からの通いだから毎日サツマイモをもってきて教習生に食べさせてやってくれ」


齊藤勝夫の人生と千葉県計量行政の歴史記録(1)

官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介

(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介

(見出し)

官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介

(本文)

大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その1-


千葉県の人口は6,277,796人、2024年8月1日現在。県内総生産は7位、県の財政力指数は全国第5位。1970年(昭和45年)の人口は3,366,624人。2020年ころから人口は漸減している。1970年現在人口との差は29,111,172人。この間に二倍ほどのの人口増があった。

勉強もさることながら「齊藤は千葉県からの通いだから毎日サツマイモをもってきて教習生に食べさせてやってくれ」

 1926年(大正15年、昭和元年)生れの男は除隊となって家に戻ると父親に世のために生きよと、地方公務員になることを勧められた。男は官立の旧制高等専門学校をでていた。血気盛んなこの男が勤めた先は千葉県庁であった。奉職すると回された職場は計量検定所であった。計量教習を受けろと命令され東京銀座の木挽町にある商工省中央度量衡検定所で9月から5カ月の教習を受ける。戦後第1回度量衡講習生であり当人たちは花の第1期生といい、強く結ばれ、戦後の地方計量行政のけん引役として活躍した。斎藤勝夫は二度、千葉県計量検定所長に在任している。二度目のときには千葉県の部長級に昇格してのことであり異例であった。検定所長ののちには東葛飾元支庁長を経て退職し、流山市元助役をつとめていた。

以下の文章は斎藤勝夫の手記である。


   
齊藤勝夫氏

軍隊から生還

 私の歩んだ道を回顧させていただく。表題どおり、私を中心にした主演版であることを、予めご理解賜りたい。

 顧みて思えば、遠い過去の出来事になるが、あの太平洋戦争の終戦の日の昭和20年8月15日の翌々の日、学徒出陣で軍隊勤務していた陸軍航空本部(立川航空隊)から、なにはともあれ生きて生まれ故郷に帰ってきた。入営中、両親揃って面会に来て、母は何回も何回も振り返り父と一緒に涙して帰っていったときの光景を思い出して、両親と再会した。

昭和21年6月13日、公務員としてスタート

 虚脱状態の日々。やがてとある実篤の方から、父に千葉県庁への勤務を奨められた。父から弱き立場の人々にたって働くことこそ、敗れた日本のために一番大事なこと、と説得された。役場にいた叔父からも県庁こそ働き甲斐あると強く役人になるべしとの諠託があり、受験し、面接まで進み、一週間で採用決定(当時は郵便事情悪く、自ら出頭して採否をきく)となった。時は昭和21年6月13日。この日から、私の役人人生の歩みの第一歩が踏み出された。これが長い計量公務員の門出になるとは、そのときは全く感ずることなく、夢々知る由もない。

 唯々、焼け野原とうろつく旧軍隊服と痛々しい服装の貧しさと飢えに苦しむ戦災母子、家もない人々の困窮どん底生活の姿。猛然と湧く正義感。勤務配属は、内務部建設課である。

 生活必需物資の調達(旧陸海軍とヤミ商人の隠匿物資の摘発押収)と配給の統制経済の要の仕事で、県警本部の保安課と、大物は米国占領軍の軍政部と行動を共にして、敗戦利得者の情報を得ての土足での一斉捜索の踏み込みで発見しては没収する荒仕事。配給を受けて喜ぶ戦災者。

 やがて、軍政部の管理下にある賠償工場の日本側管理を行っている賠償係に、軍政部と人脈があるという理由で移動した。赴任先は、経済部商工課である。

 ここに、度量衡係が隣にあった。係長以下3人がいる筈だが、なにをしているかも知る由もない。係長は、そのうち復員して復職してくることまでは分かっていた。やがて復員してきた人が、小林義雄度量衡係長である。髭を生やして大陸帰りらしい風貌である。毎日席にいない。あるとき尋ねると「くる日も、くる日も、度量衡器の検定をしている」と短い口調で答えてくれた。

計量人生の第一歩

 商工課長から、度量衡係を手伝ってくれとの命令だ。小林さんのところに行くと、開口一番「なにはともあれ、資格を持つことが先決だ。丁度良い。戦後第1回の度量衡講習が東京で始まる。大変でも、4カ月間東京通いをして欲しい。そこを修了してくれば、度量衡の仕事は、形式上なんでもできる。帰ってきたら度量衡取締もやれるようになる。米の供出米(農家から政府に生産した米は、自家用を除いて強制売渡命令)の検査のハカリを正しいかどうか検査をしてくれと食糧事務所から催促されている」。

 話をきけば、尤もなことで、最優先の仕事だ。度量衡の歴史も法の仕組みも仕事のあらましの説明もない。ときに、県庁勤めして2年の昭和23年6月1日のこと。度量衡講習は9月1日から12月25日までだった。

 もう、やるしかない。国民が一日「二合四勺の配給の米」と「さつまいも」の配給で命をつないでいるのだ。毎日毎日食べることしか頭にない世の中である。千葉県中の残っている「ハカリ」を検査する難事業だ。しかも一人でやるのだ。新品は係長が検定をやることで精一杯だ。ときに日曜もなし。

 係長はさらに言葉をつないだ。「講習に行くまで、ハカリの構造と中の機械の部品の名前だけでも覚えておいてくれ。俺についてきて一緒に見て覚えてほしい。よく検定のやり方を教え込むから」。新しい仕事に飛び込む使命感と情熱がこの瞬間から、五体に漲ってきたことを今でも覚えている。

 ここから、私の計量人生の文字通り第一歩となった。

花の第1期生

 さて、新しい仕事即ち度量衡係となって、なにはともあれ、度量衡講習に行くことが先決と決まった以上、使命感と情熱が湧いてきた。同時に長期の派遣命令という県庁勤務して初めての経験、一方では、ひどい食糧難と、一日に数えるしかない列車の本数の事情で多いに不安があった。

 9月に入って講習が始まる。場所は商工省中央度量衡検定所というところで、銀座の木挽町にあった。ここに集まったのは全国、北は北海道から南は鹿児島まで40余名。千差万別の年令不揃い、服装は学生服から軍隊復員服まで選り取り見取りで、紳士服は形ばかりのものをちぐはぐに着こなしている者が数える程。すぐ様生い立ちと出身地の自己紹介が始まる。数日で仲間となり戦友意識が芽生える。

 勉強もさることながら、「齊藤は千葉県で、通ってくるから、毎日『さつまいも』をもってきて仲間に食べさせてやってくれ」。誰いうとなく自然に役割が決まり、母の日課となった。講習終了の日に多くの仲間から礼を言われ、これが後に戦後第1回度量衡講習生(花の第1期生といわれる)の血縁的契りの起こりであり、所以でもある。

人格形成の礎

 何故、講習の中身より人と人との人間関係を述べたか。それは現代の計量行政機関相互の交りと意思の疎通の仕方には、私が千葉県の計量検定所長時代のブロック内所長同志とブロック単位同志と、さらに、中央の計量課や計量研究所と地方計量行政機関との相互関係が、時代の変遷のためだからという言い方だけでは済まされない際だった違いが感じ、読み取れて致し方がないからである。当時は計量行政の運営、施行の問題、法改正の問題、要望や論点の集約、首尾一貫した行動、一糸乱れない結束、どれをとっても阿吽の呼吸でやってこられた信頼関係が築かれていた。

 我田引水だが、何か月にもわたって苦楽を共にした、同じ飯を食べて過ごした仲間意識が根っこにあるからである。ましてや、この戦後第1期生から、北海道では野呂幸治所長、福島では小野伝所長、千葉では齊藤、群馬では藤田孟司所長、神奈川では小関喜知所長、滋賀では小森所長、愛知では小鹿和夫計量課長補佐、四国の徳島では福永勝所長、鹿児島では久永忠義、有村敬吉所長をはじめ、計量検定所の主要職を占める強者が澎湃として続出してきている。このような仲間だから強い絆で結ばれている。理屈以前の人間行動が計量人の人格形成の礎となっている。

集団あげての人作り

 さらに加えて講習から帰って仕事につくと、時により、ブロック内の計量行政会議がある。勿論、新参者の顔見せ行事が待っている。他県の所長や古参先輩方からは、まるで自分の県の部下のごとき仕打ちと扱いである。当然ながら君呼ばりの出陣である。神奈川県の齊藤総彦所長の初見えでは「同じ姓ですぐ覚えた。戦後、度量衡法時代は終わり、新しい法ができる。これからは、君たちの時代だ。歴史を見極めて、伝統をしっかり引き継いでくれ」、と威厳があった。

 何年経っても教えは忘れない。河原義勝小田原支所長(後に所長となる。千葉県の小林義雄さんと同期という)は理屈先行型だが、物分かりが速い。群馬県の大津所長、三木所長は、君とも言わず呼び捨ての常連、栃木県の助川一所長、根っからお人好しの言動、真面目な髭の茨城県横谷忠政所長、埼玉県の廣吉秀俊所長は一番寡黙の方だ。

 とにもかくにも、会えば、お節介にも、寄ってたかっての説教と仕事の経験話し、先輩の言い付けは守るべしとの集団あげての人作り。教育を受ける方は、耐える一途である。日がたつにつれ、有難みが身にしみる。こんな光景は今はなし。遠い出来事として消え去っている。

 いまでも自ら育った環境と歴史を顧みて、現代に、それに似た何かがあってよさそうだと沈思黙考するが、地方分権推進の時代には無理というものであろうか。賢者のお教えを得たい。

 話は、当時の講習内容と教えてくれた恩師にふれてみたい。

講習は中検が中心で進める

 全国から集まった戦後第1回度量衡講習生であるので、年輩者もいるし、かけ出しの若者もいるし、驚く程の年齢差のある集団である。常識的には、まとまりが難しいところであるが、度量衡講習といっても、中身は知らないで集まった連中である。

 とにもかくにも、講習の内容の良いも悪いもない。全員一丸となって、唯々夢中で取り組む、いやいや、取り組まざるを得ない環境の職場事情だ。上京していることは、例外なしに境遇が一致しているので、真剣に正面から取り組み、まとまって、否応なしにおちこぼれなく助け合って勉強した。

 講習は、商工省中央度量衡検定所が全面に背負って進められた。勿論、商工省の度量衡係も管轄であろうが、手薄で多忙で殆ど顔を出さない。必然的に中検(当時の略称)の名だたる誇り高い、自ら学者であり、その道の大家と自称する程の日本有数の専門官僚集団が勢揃いした。

 当時、度量衡界最強の講師のチーム編成に違いなく、そのように講習生も聞かされた。中検側も、敗戦から地方の度量衡職員の人材育成に取り組む新しい使命感を持ってのぞんできた。

 講習内容は持ち時間の3分の2は座学の専門学科と度量衡法令で、残り3分の1は基礎学科と検定の実施方法の実習である。戦災を免れた器具機械を使っての実務講習である。

 当時は、米軍の占領下に入って3年ばかりで、世の中は食うや食わずの貧困の状況下である。今の時代の人には、当時の状況を説明しても実感として分からないだろう。感じ得ない日本の悲惨の世上である。それでも、度量衡講習生は助けあい、お互いがそれぞれの県の検定所の仕事を通して、日本の復興に立ち上がり、働こうと決意を一つにして、毎日を過したことは確かである。

度量衡界最強の講師陣

 まず、教師側の筆頭は、商工省度量衡検定所の所長である。不思議である。威厳がある。今でも教壇に立った雄姿が目に浮かぶ。日本の度量衡行政の仕組みとメートル条約と中央度量衡検定所の内容と組織図の基本的説明がなされた。その人の名は的場鞆哉所長である。学校でいえば校長である。

 次に、話す口調、頭の毛が薄く横に少ない毛を揃えての風采も、諄々と技術論を説く次長にあたる方、玉野光男さんのお出ましである。話を先に進めるとこのお方は、我々第1期が地方に帰ってから比較的長く中検の所長としてお付き合いし、親交を重ねることとなり、この講習生時代の師弟の関係が、後にものをいうことになった。人懐しい温厚な学者風の珍しい技術役人(高等官)であった。

「はかり」の三先生

 座学の筆頭講座は「はかり」である。担当は戦後の新型の「ハカリ」の生みの親とも称された、民間にも名が知れわたっていた岡田嘉信先生である。

 我々も先生とも呼んだ。トリード型の代用円の振り子型の日本版式を導入され、学問的に教えられた。「てこ」の原理と応用を繰り返し教え込まれた。棒ばかりの単一のものから、上皿棹ばかり、台ばかりにと、さらに、バネを使った懸垂はかり、ロバーバルの定義とロバーバル機構とバネ式はかり(斜面型)と今でも記憶に残る名演説。

 戦後の「はかり」の復活、新型の導入、制温装置の研究と型式の導入と貢献度は枚挙にいとまがない程の貢献人であることは衆人の認めるお方である。その岡田さんを支え、補ってくれた二人の高橋さん。温厚な凱さんは座学と実習を分かり易く教授された。もう一人は照二さんで、コツコツと研究向きの方であった。

 つまるところ当時としては度量衡の衡の代名詞は「はかり」と言える程、代表的な存在の講座が「はかり」であった。名高き有能な三先生に出会うことができたことは、戦後第1回生なるが故に、幸運そのものであった。

 次は、他の講座に移ることにしたい。なお、当時の先生方は、今はご存命の方が少なくなってきているので、特にこの稿をしたためるに当たって、我々の恩師の一人でもあり、同郷でもあり、私が所長時代公私にわたってご交誼とご指導を得た蓑輪善蔵さんに、ご助言と実名のため誤記のないようお教えを乞うたところ、喜んでご指摘とご指導の配慮を賜れたことを特に付記させていただき、次の課目にふれてみたい。

はかりはすべて機械式だった

 さて、「はかり」は全く機械式一辺倒であって、棒はかり(木棹と金棹に略称)が地方、農漁村に行けば、大事な・貴重な「はかり」の代表選手であることが、懐かしい。現代の計量人には、想像もつかない、今にしては、目に触れないし、検定方法(絞りや感じの検定方法)も知る由もない。私ども戦後第1期生(通算第40期、昭和23年度、正確には入講生総員37名の変わり種にして、異色とやる気の面々)は、ここからスタートとしたことを述懐するものである。

圧力計の講師は蓑輪善蔵さん

 次の課目は、度量衡の言葉では範疇に入らないが、当時の度量衡法上は、歴とした法定の種類である温度計(ガラス製、金属製、光高温計)、密度計、比重計等の浮ひょう、圧力計、ガスメーター、水道メーター、ガソリン量器、化学用体積計(メートルグラス)。この辺が計量器の用語を当て込めていた。

 そこで座学は、機構学が基本で、講習生の大半は耳新しい講座。現れた方が、東京帝国大学出で若い見るからに利口そうに見える人で、名は加藤芳三さんという。教え方は熱心に、黒板に書き、分類して説くが、講習生は、授業時間が終わると、一勢に難しい、分からないの声続出。特に福島の小野(当時は雪野)伝は、うめき声。「飽きずにやれよ」と激励するが通じない。

 熱力学と温度については、米田麟吉さんが受けもって、常に、あらぬ方向を向いて熱弁。講習生は熱弁にしては、熱が上がらず、浮かぬ顔。米田さんの一人旅は続いて半分程度は合点がいく。

 光高温計はマドロスタバコが似合って洒落者の酒井五郎さんの独壇場。佐藤朗さんは博学で、なんでもこなしてくれた学者風の色白きインテリゲンチア。皆は朗さんと呼んでいた。

 講習生がこぞって好感をもって学んで、後々まで出身検定所へ戻って実務で役立つことになった器種の教師は、圧力計の理論と検定方法を手をとり、足をとって、分からずやの集団の第40回生の花の戦後1期生に根気よく伝授してくれた若き中検の技術のホープ蓑輪善蔵さんである。いつも笑顔で、何回でも説明し、実技を手解いてくれた。

 人格形成にも役立ったことしきりである。ましてや、後に、計量法施行後、最高の名教習所長として、多くの英逸材を計量界に送り出した人であり、私にとっても「私の履歴書」の中でかつ、我々仲間にとってもとりあげるべき後日談のあるお方であり、恩師でもあり無二の親友でもあるお方である。

岩崎栄課長の薫陶で敢然と取締

 一方、法令関係については、度量衡法の逐条解釈というようなやり方でなく、専ら、明日に役立つ実戦向きの講義方法である。

 取締の章は、時の全国度量衡界の有名人である東京都の権度課長岩崎栄さんである。がっちりした体格の威厳の薫りが、ふんぷんとただようお方で、今にしても50有余年たっても目に浮かぶ忘れ得ぬ強烈な個性のある典型的役人の中の役人である。

 度量衡法第8条の説明、製作製造の定義、修覆(当時は修理の法令用語)の定義、営業の法令解釈、判例の説明、強行法規の意義、罪刑法定主義の鉄則。驚いたことに、取締に当たっては、当時、国税反則者処分法を準用して処分する強い取締法規であり、度量衡法の占める重要度が身にしみついて、所長に後になっても、教えられた数々の内容が、物事の判断上、多いに役立つことになった。変造の実態と定義は、時代の古今に関係がない。

 取締の手法は、誠に見事に奥の手の秘伝的なものも話してくれた。この時の、若き情熱時代、燃ゆる思いが、後に敢然と無登録販売者の悪質者に対し、渋る担当部長を差しおいて、刑事訴訟法第239条を振りかざして、説得して、部下の検査課長に命じて、所轄警察署長に告発し、警察署はすぐに動いた実績を持っているが、これぞ遠因に岩崎栄権度課長の若き時代の薫陶が光っていると自問自答したものである。

 意義のある講習時代の一席の話でもある。

再会を約して健闘誓う

 かくして、食べることに困窮しつつ、苦難にして、助け合いつつ、なんとか入講者37名は、無事勉学を了し、それぞれ第一線の地方計量検定所の戦後の混乱と人手不足の真っ只中に帰任した。統制経済の中で、やっと調達した貴重な度器、量器、衡器の資材を昼夜兼行で製造された器物が検定所へ押し寄せている日々に直面することをお互いに覚悟していた。「また、会おう」。再会を約して相互の健闘を誓う。

 北海道の野呂幸治も、青森の田村律(穏やかだが、心根の強い後の所長)も、福島の雪野も、近い同じブロックの仲間の群馬の藤田孟司も、宇都宮市の大房忠一も(忠さんと愛称で呼ばれた大柄のお人好し)、中検組の矢島克己(物故)、須藤清二(物故)、沈思黙考型の神奈川の小関喜知(物故)、静岡の山田理三郎も、愛知県の理論家小鹿和夫も、一番の年長組の一人滋賀の有森賢次、行動の男広島県の武田信彦(若くして物故、惜しい親友)、今でも無二の親友徳島の福永勝、福岡の白水生久、熊本の南條謙介、真面目一筋の宮崎の和知一男、講習後も激励親交厚い鹿児島の久永忠義、有村敬吉、加えて米倉重範、良き学びの友は散って行った。惜しくも失った友もその後不幸にも出た。いい友だった。神奈川県の加藤辰男。君、今にして存命ならば、戦後の関東ブロックの計量の世界も今よりも変わっていただろう。今振り返り友を懐古する。

来る日も来る日も検定

 話は、今にして思えば自らの度量衡法末期の仕事ぶりの一節である。

 度量衡講習を修了した私を待っていたのは、前述の小林義雄度量衡係長(計量法施行後必置された初代千葉県計量検定所長、小職は二代目にあたる)その人である。

 来る日も来る日も検定、検定の連続である。はかり(木製・金属製の尺貫系の棒はかり、上皿桿秤、懸垂(手はかり)、塩掛はかり、台はかり、ばね式はかり、上皿天びん、薬剤天びん等、さらに分銅、増錘の数々)、度器では巻き尺、竹製物差し、箱尺、量器では木製枡、やっても、やっても増える一方。しかも、手数料収入は、国の事務で収入印紙である。そのため毎年二月会計検査院の監査がある。

 一方、免許制度の製造、修履、販売(試験制度)の事務も加わってくる。考える余裕などない。特に分銅、増錘の検定には手を焼いた。人力にも限界がある。

 小林係長は言う。「一騎当千でやる」。言葉の響きは良いが、現実には通じない。人の増員の必要を説いた。係長も腰をあげ、人事当局から、一名割り当ててきた。県庁へ入ってきた早々で後に論客とも言われた人である。宇佐美剛三郎技師である。物事に動じないが、柔軟性に富む人物である。機を見るに敏な性分とも見受けた。

社会の信用と人心の安らぎの回復めざして

 彼も暫くは、自分と同じ運命を歩まねばならないと思うとき、どう思い打開の道を探るのか、悩むだろう。年末も12月30日まで検定をやらねばならない。そして、やりとげた。何のために。「はかり」の品不足で商取引の正確性の確保が危ういのを少しでもなくそうとすることと、社会の信用と人心を「はかり」を通して安らぎを回復しようということ、常に言いきかせていた。

昭和38年5月、38才で所長に

 あれから何年たっても、「はかり」はいつの世でも、人と人との相互の人心を安らぎと安心を与える、世の中の架橋そのものと信じている。そう思って夢中で使命を果たそうとした。人の力を越える仕事量を背負って働いていたとき、この辛さを、後輩には、自ら責任者になったとき、味あわせてはならないと心に決め、所長に。昭和38年5月、ときに、38才。

経験と辛さは次の飛躍の原動力

 一年間で9名から倍増の22名に大増員した手法と論理的な人事当局への攻めの戦法はそのとき培い育ってきたそのものであった。経験と辛さは必ず、次の飛躍を生む原動力であることをいやという程、知り体得することができた重要な、ときの世相がなせる業であった。

今日の世相は正反対

 今日の世相は、正に正反対、いかにリストラするか、予算を減らすか、規制をはずして手間暇をなくすか、それが行革と信じている。国民のためにどのような計量社会が、秩序を実現させるかの理想と理念を忘れての現象そのものを追っていると思えて、仕方がない。寂しい限りである。 次は、度量衡法末期の第一種度量衡取締(今の定期検査)の実状を述べてみたい。

官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介

2024-09-24-14-life-of-a-metrological-civil-servant-by-katuo-saitoupart-1-

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介


[以下は覚書]

通産官僚と大分県知事

地方公務員齋藤勝男

地方公務員吉田としお

製鉄会社の計量技術者二人

夜学から大学へ 石川島播磨の男

工業技術院から変わった研究組織はトップを公募として民間の大企業経営者を
据えるようになった。

ほか

[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html


指揮幕僚課程 CGS | 戦車兵のブログ (ameblo.jp)
埼玉県計量協会会報2019年7月号
http://www.saikeikyou.or.jp/custom_contents/cms/linkfile/kyoukaihou-13.pdf
特別寄稿 放射線測定に関する資料を渉猟 日本計量新報 編集部 横田 俊英1)放射線被害を低く見積もらず、放射線測定器の特定計量器化で警鐘を
石島徹前事務局長退任の挨拶
平成25年から6年間、皆様方には大変お世話になりました。令和元年5月31日に退職いたしました。今後の埼玉県計量協会の発展と皆様のご多幸をご祈念いたします。
(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業
の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す
私の履歴書/高徳芳忠 (keiryou-keisoku.co.jp)
日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
├計量計測データバンク 私の履歴書
私の履歴書
    吉田俊夫 私の履歴書_吉田
    北本舜輝 私の履歴書_北本舜輝※閲覧するにはIDとPWが必要です
    高徳芳忠 私の履歴書_高徳
    徳美恵子 
    鍋島綾雄 私の履歴書_安斎
    安斎正一 私の履歴書_安斎
    齊藤勝夫 私の履歴書_斎藤

計量法抵触事例を公表していなかった柳津町 | 水道メーター | 検定有効期限が8年 (seikeitohoku.com)
エリート職業の鉄板!官僚の結婚相手になるためのポイントを3つ紹介!|結婚相談所パートナーエージェント【成婚率No.1】 (p-a.jp)
品質工学の考え方 計量士 阿知波正之
行政の継続性の確保と地方計量行政の在り方
【計量士の資格認定コース】概略図(PDF形式:62KB)PDFファイル(経済産業省)

計量士の国家試験 (計量士 (METI/経済産業省))

計量士になる 計量士国家試験合格のための学習図書と講習会特集
計量士資格認定の申請について
数学と物理はできないという自己暗示から抜け出せば計量士国家試験は突破できる
教習・講習・研修の概要説明及び費用:NMIJ (aist.go.jp)
人の言葉の基(もとい)は教養である
産総研:採用情報 (aist.go.jp)
2024/2/19 2025年卒修士卒研究職の募集を開始しました。【終了しました】
2024/2/20 2025年卒総合職の募集を開始しました。【終了しました】
採用情報|採用|産総研 (aist.go.jp)
田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方

品質工学や計量管理の技術を言葉で解き明かすことを課題とする(計量計測データバンク編集部)
計量標準120周年:NMIJ (aist.go.jp)
戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲 - Yahoo!マップ
田中館愛橘博士と航空の歴史
現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
長島安治 大正15年生れ 昭和18年陸軍予科士官学校入校 陸士とは別に航空士官学校が創設された、ここに入校。
https://www.noandt.com/static/summary/kakigara/documents/libertyjustice_201808.pdf
解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)
私の履歴書 安斎正一 目次
古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
古賀茂明 - Wikipedia
私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
前川喜平 - Wikipedia
私の履歴書 蓑輪善藏 目次 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
私の履歴書/吉田俊夫 (keiryou-keisoku.co.jp)
横田英史の読書コーナー (eis-japan.com)

電力改革については、発送電分離が有力な選択肢という立場をとる。古賀茂明のベストセラー。

日本中枢の崩壊 古賀茂明、講談社、p.386、¥1680 2011.9.15

 現役官僚が民主党政権の国家公務員制度改革などを批判したこと
で話題を呼んだ、古賀茂明のベストセラー。雑誌論文や国会証言などで政権批判を行ったため経済産業省大臣官房付という閑職に追いやられた。その後も現役官僚の肩書きで政権批判を続けていたが、9月22日付で辞表を提出したようだ。本書は“現役官僚”が徹底的に政権を批判している点で見るべきところはあるものの、内容自体は他の民主党政権批判や官僚批判と大きく異なってる訳ではない。政官界の問題について頭を整理するときに役立つといったところが、本書の評価として妥当なところだろう。
 筆者が力点を入れて論じるのが国家公務員制度改革。自民党政権時に渡辺喜美・行政改革担当大臣がどのように改正させたか、成立までの紆余曲折、成立後の官僚の抵抗などを詳述している。自民党への失望が大きかっただけに、民主党にいる政権交代に筆者は期待する。期待はすぐに失望に変わる。期待が高かっただけ、その反動は大きかったといえる。
 さすがに現役官僚だけに、官僚機構についての記述は詳細だ。天下りの仕組み、官僚が駆使する騙しのテクニック、大企業との癒着など、自らの体験を踏まえ紹介する。

 「経済学に人間の心を持ち込みたい」という経済学者・宇沢弘文が自らの人生哲学を開陳した書。現在の貧困を解決するキーワードとしての社会的共通資本を紹介するとともに、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を徹底的に批判している。リベラルな論客としての宇沢の考え方がよく分かる。本書は2003年に刊行された「経済学と人間の心」に、二つの未公表講演録と池上彰の解説を追加した新装版である。池上の解説がコンパクトでよく出来ている。
 第1部「市場原理主義の末路」は経済倶楽部での2本の講演で構成する。2009年の「社会的資本と市場原理」と2010年の「平成大恐慌~パックス・アメリカーナの崩壊の始まりか」である。質疑応答も収録しており、新自由主義や市場原理主義に対する宇沢のスタンスだけではなく、人柄が伝わってくる。もし東日本大震災や原子力発電所の事故後に宇沢が講演していれば、どういった内容になったのか興味のあるところだ。第2部以降は、思想や歴史観、官僚観、教育観を宇沢自らが語るエッセイである。右傾化する日本への危惧、60年代のアメリカ、学の場の再生、地球環境問題への視座という構成をとる。

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