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計量計測データバンク ニュースの窓-123-
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計量計測データバンク ニュースの窓-123-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-123-高野瀬宗則は農商務省権度課長、田中館愛橘、関菊治は大阪府権度課長、田中館愛橘東京大学物理学科教授の立場で働いていた
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田中館愛橘の傍らに度量衡法を制定する役人として高野瀬宗則がいた
明治の日本人を拾い上げて、この時代の息吹を確かめよう。そこには秋山好古、秋山真之、正岡子規、夏目漱石、田中館愛橘がいた。田中館愛橘の傍らでは高野瀬宗則が度量衡法を制定する役人として活動していた。生れた順は、高野瀬宗則1852年11月3日(嘉永5年9月22日)、田中舘愛橘1856年10月16日(安政3年9月18日)、秋山好古1859年2月9日(安政6年1月7日)であった。高野瀬宗則は事実上、日本で最初の計量行政におけるキャリィア官僚といえる。先の三人から大部隔てて夏目漱石1867年2月9日(慶応3年1月5日)、正岡子規1867年10月14日(〈暦慶応3年9月17日)、秋山真之1868年4月12日(慶応4年3月20日)。この三人は東大予備門で同じ教室にいた。
日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘
田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族の子弟は作人館で和漢ほかを教わった。作人館は盛岡中学の元になった。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでない。高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。
田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に愛橘の教育のこともあって父子ともに東京へ移る。愛橘は慶應義塾で英語を学び、つづいて官立東京開成学校予科に入学、学制の変化に翻弄されるなか、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に助教授になり、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事し、ドイツのベルリン大学で学んで帰国。帰国してすぐに東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期であった時代に田中館愛橘教授の薫陶があって多くの人材が世に羽ばたいた。
農商務省の初代権度課長に任ぜられた高野瀬宗則
明治13年に東京大学仏語物理学科を卒業して後に農商務省の初代権度課長に任ぜられた高野瀬宗則は、彦根藩「佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石」取りの高野瀬喜介の子である。高野瀬宗則は父高野瀬喜介を彦根藩御目付け役であったと述べている。150石取りとはどのようなものであったか。幕末の長州藩士、高杉晋作の家禄は150石であった。高杉晋作は長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士高杉小忠太、大組、200石鳥の長男として生まれるとの記録もある。
高野瀬宗則は父は彦根藩御目付け役高野瀬喜介と家系を語っている。力のある者を使う。武芸と軍学と漢籍を通じての武士の倫理と行政手腕を持つものは多くはない。彦根藩がある江州の豪族として名をはせた高野瀬一族はその後もこの地に根を張っていたということであろう。肥田城主の、高野瀬秀隆・隆景父子が越前安居の戦いで討死しても系列はもとより地元における支配が消え去るものではない。
高野瀬喜介の子息は東京大学仏語物理学科を明治13年に卒業して駒場農学校(駒場農学校は後に東京大学農科大学となる。現在の東京大学教養学部の所在地)で教鞭をとり、後に指名されて農商務省技師として初代権度課長として度量衡法の制定と計量制度の確立に大きな役割を果たしたのが高野瀬宗則(たかのせ・むねのり)であ。高野瀬宗則は父は彦根藩御目付け役高野瀬喜介と家系を語っている。
高野瀬喜介は農商務省権度課課長高野瀬宗則の父である。『度量衡 第42号(大正4、5)』に「高野瀬宗則は嘉永5年(1852)年9月江州彦根藩邸生まる。父喜介は藩の御目付け役なり」と『メートル法沿革史』が引用している。「佐和口門番頭
高野瀬喜介」とある「近世大名家臣団の官僚制と軍制」とは一致しない。役職に変化があるからだ。
明治初年(1868年)から明治40年(1907年)までの度量衡制度と度量衡法令の動き
明治初年(1868年)から明治40年(1907年)までの度量衡制度と度量衡法令の動きを年表形式でまとめた。
1868年(明治1年)3月、松平慶永(雅号は春嶽)度量衡制度を確立すべきことを建議。
1869年(明治2年)11月、度量衡大蔵省の所管となる。11月、従来の度量衡の制の踏査を東京府に命ず。
1870年(明治3年)8月、大蔵省に度量衡掛を置く。9月、メートル法を基礎とする制度案を衆議院に下問。国際分野では8月にパリで24か国が参加してメートル法国際会議が開かれる、この場で調査準備委員会を設置。
1872年(明治5年)9月24日、第二回国際会議が30か国が参加して開かれる。メートル法および条約の具体案はほとんど決定をみる。また常置委員会を設立した。調査準備委員会白金90%、イリジウム10%お合金を元気材料とする案、線度器とする案、国際局を置く案などを決定。
1875年(明治8年) 8月15日、度量衡取締条例および検査規則、種類表等を頒つ(達135号)。同月、原器および計算表を府県に頒つ(大蔵達2108号)。9月外務省メートル条約加盟のこと上申するも許されず。フランスは駐日公使を通じてメートル条約加盟を勧誘宇。大蔵省は賛成、内務省は反対。3月加盟せずと決定。海外では9月に、メートル法外交官会議が始まる。5月20日、メートル条約成立。10月、国際局の敷地、国際委員会の手に入る。Govi初代局長となる(1877年まで)。
1878年(明治11年) 米人メンデンホールが東京大学教官として重力と地球密度を測定、気象観測等を行う。国際局建築終わる。国際局の最初のメートル原器できる(ジョンソンマッセイ製)。
1881年(明治14年) 4月、度量衡事務農商務省に移管さる。
1882年(明治15年) 6月、気象観測にメートル法を採用(内務省上申)。この年陸軍は陸地測量をメートル法によって行うことを決定する。
1885年(明治18年) 1月、農商務省よりメートル条約加盟のことを上申、4月さらに上申して7月許可となる。10月、メートル条約加盟手続きを終わる。。
1886年(明治19年) 4月16日、メートル条約加入を公布(勅令無号)。Guillaume、超不変鋼を創製(Guillaume、1920年ノーベル物理学賞を受く)。国内では明治13年(1880年)日本の度量衡法と度量衡制度の確立のために東京大学フランス語物理学科を卒業して駒場農学校で教鞭をとっていた高野瀬宗則を農商務省権度課長に招聘する。
1889年(明治22年) 第1回国際度量衡総会(大山綱耕介出席)、国際原器による単位の定義決定。各国原器の配分。国際局の事業、メートル法の普及の決定。国際局の地点にける重力測定。10月、国際度量衡局においてメートル原器、キログラム原器を受け取る。
1890年(明治23年) 4月、日本原器(国際度量衡局においてメートル原器、キログラム原器)到着。12月、度量衡法案議会に上提。
1891年(明治24年) 3月、度量衡法公布(法律3号)、施行に関する勅令公布(勅令177号)、施行規則公布(農商務令11号)。電気試験所設立。気象台「米」(メートル)、「糎」(センチ)、「瓦」(グラム)などの略字を創出。国際委員会、米、Michelson(後に干渉計による諸研究によりノーベル賞を受く)の招聘を討議。
1893年(明治26年) 1月、度量衡法施行さる。メートル原器を標準とする尺貫法の制定。7月、復原器その他の標準器類を国際局に発注。
1895年(明治28年) 第二回国際総会(曽根荒助出席)。米、Michelsonによるメートルと光波の比較結果を報告、光波を参照として承認。
1899年明治32年 2月、副元器等日本公使館に引渡し終わる。
1901年(明治34年) 第3回国際度量衡総会(田中舘愛橘、高野瀬宗典出席)。キログラムの定期検査結果を報告。質量と重量を区別、標準重力値980.665cm/s2を採用。
1903年(明治36年) 度量衡講習を開始。
12月23日、中央度量衡器検定所を設立の勅令。橘川司亮中央度量衡器検定所長を兼務す。大阪に支所設置。検定を甲種と乙種に分つ。
1907年(明治40年) 第4回国際度量衡総会(田中舘愛橘、橘川司亮出席)。水1kgの体積の測定終わる。カラットを200mgと決定。田中舘愛橘、国際度量衡委員となる(1931年まで)。米、Michelsonが干渉計による諸研究によりノーベル賞を受く。
高野瀬宗則とメートル法と度量衡法制定
高野瀬宗則が東京大学フランス語物理学科の卒業という経歴と日本でメートル法を基本にした度量衡法を制定して近代度量衡行政を施行していくこととは連動する。東京大学フランス語物理学科を卒業した東京大学理学部教授の寺尾寿はわが国のメートル原器をフランスから持ち帰っている。
物理学校に度量衡科ができ度量衡器検査官を育てる
物理学校に度量衡科が設置されて度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべきものの養成が行われた。
物理学校に修業年限1年2学期の度量衡科が設置されて度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべきものの養成が行われた。度量衡科では数学、物理などの基礎科目にくわえて各国の度量衡制度、測度器論、度量衡論などが教えられた。度量衡科の開設期間は明治24年9月から26年7月までの二年ほどであった。この二年間に度量衡科を卒業したのは68名である。物理学校の修業年数は明治24(1891年)以前は2年であった。その後は5学期22年半になった。明治14年に開学した物理学講習所、後に物理学校は1年に2回、2月と9月に入学させ、2月と7月を卒業月としていた。
度量衡法公布は明治24年(1891年)3月、施行は明治26年(1893年)1月である。物理学校に度量衡科が設置された時期に重なる。物理学校創立の一人である東京大学仏語物理学科卒業の高野瀬宗則は明治19年(1886年)に農商務相の権度課長に招聘されて度量衡法の改正に尽力していた。明治32年には度量衡器の第一回定期検定が実施されることになっていて、この難事業を成し遂げるのに物理学校度量衡科卒業生の働きがあった。
明治36年12月23日に農商務省は中央度量衡器検定所を設置(勅令第283号)した。業務開始は明治37年1月1日からで、東京都京橋区木挽町の農商務省内に建設された。同時に中央度量衡器検定所大阪支所が大阪市西区江の子島の大阪府庁構内に設置された。それぞれ所長には農商務省技師の橘川司亮が任命された。明治42年には中央度量衡器検定所福岡支所が開設された。
大正2年6月13日に農商務省官制が改正されて商工局権度課が廃止され、この日中央度量衡器検定所は中央度量衡検定所に名称変更し行政事務をも担当することになった。
農商務省中央度量衡器検定所が明治36年12月23日に設置されると度量衡講習が開始された。物理学校度量衡科が廃止されたのが明治26年7月であるから10年ぶりに度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべきものの養成が再開した。
明治19年(1886年)に農商務相の権度課長に招聘された高野瀬宗則は、明治36年12月23日に農商務省中央度量衡器検定所が設置されたのを機会に官を辞した。高野瀬は退官後の明治40年、大日本度量衡株式会社を設立している。
東京物理学校50年小史が伝える高野瀬宗則
東京物理学校50年小史は高野瀬宗則を次のように伝えている。
「明治19年農商務省権度課長ニ挙ゲラル。爾後専心本邦度量衡改正ニ盡瘁セラレ当時大臣次官局長ノ更迭頻数ニシテ容易ニ目的ヲ達する事能ハサリシモ、先生ノ意益々顰シ。明治22年陸奥宗光氏大臣ニ、斉藤修一郎氏次官トナルニ當リ先生又度量衡改正問題ヲ提ゲテ其己ムヲ得サルヲ痛論スルコト数回、遂ニ其賛成ヲ得テ第一帝国議会(明治23年)ニ提出セラレ、直ニ協賛ヲ得ニ至レリ・・・・・爾来其実施ニ付テ引続キ心血ヲ注ガレ計図畫策皆宜キヲ得、明治32年ニ至リ予テ難事業ト思惟セラレタル第1回定期検査モ無事終了スルコトを得タリ」
物理学校は 当時、母校は2月と7月の2回卒業生を出していた。修業年数は明治24(1891年)以前は2年であった。その後は5学期2年半になった。1学年を2学期制として、3年を6学期編成にしていた。そして1年に2回、2月と9月入学、2月と7月が卒業月であった。明治32年2月の学校規則改正により中学校、師範学校を卒業したものは無試験で第2学期から入学できるようにした。
明治14年に開学した物理学校の度量衡科設置当時の生徒数は次のとおりである。
明治21年、2月、217人、12月小川町校舎を購入。
9月、303人、7月職工学校受験科設置。
明治24年、2月、352人、7月職工学校受験科廃止。
9月、413人、9月度量衡科設置。
明治26年、2月、314人、7月度量衡科廃止。
東京物理学校50年小史は「明治24年9月、農商務省権度課長の内議に応じて本校に度量衡科を置く」とあるとし、明治26年7月廃止になるまでの2年間に68名の卒業生をだした。
明治の初め政府は司法官僚を法務省法律学校で、大蔵官僚を大蔵省簿記講習所などで速成した。
農商務省権度課長の高野瀬宗則は度量衡法制定の後の計量行政の実施、とりわけ度量衡器検定のために係員を都道府県に配置することが課題になっていたため物理學校に修業年限1年の度量衡科の設置を求めたのであった。度量衡科は度量衡器検定のために係員と度量衡器制作者の養成を目的にしていた。高野瀬宗則は東京大学仏語物理学科卒業の20名ほどの同志とともに物理学講習所設立にかかわっており、権度課長の職務ののち午後8時から物理学を講義していた。
物理学校の度量衡科は2年の間の設置期間であり、68名の修業者があった。最後の年度の修業者に関菊治がいる。関菊治は後に大阪府権度課長と中央度量衡器検定所大坂支所長を兼務する。大阪府権度課長としての関菊治の度量衡行政分野における活動は関課長のもとに全国の度量衡行政の権限があるかのごとくであった。
高野瀬宗則は日本度量衡協会副会長として日本のメートル法推進に強くかかわる。田中館愛橘は日本度量衡協会に役員として名を連ね、この間に国際度量衡委員として活躍した。関菊治は日本のメートル法推進は日本の産業振興をなすものと命を賭すほどの打ち込みをする。高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治はともにメートル法推進のためにそれぞれの立場から大きな働きをする。田中館愛橘は科学分野における国際会議に日本を代表して出席していた。田中館愛橘は物理学校の卒業式に何時もは顔をだしており、ときに挨拶代わりにラジウムの実験をしてみせていた。関菊治(旧姓宮内菊治)は1893年明治26年2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業した。田中館愛橘はいつも卒業式に出席していた。田中館愛橘は明治26年から明治29年までの四カ年、夏季休業中は全国を回って地磁気を測量している。
高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治は、農商務省権度課長、東京大学物理学科教授、大阪府権度課長・中央度量衡器検定所大坂支所長の立場で働いていて、日本度量衡協会のもとでメートル法推進に心血を注いでいた。
物理学校度量衡科を卒業した長州人関菊治
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)のことである。
関菊治は1874年 明治7年5月12日 山口県阿武名郡那須佐村194番地で、宮内善平、チセの次男として生まれる。那須佐村は萩市の隣に位置する。家は農業を営む傍ら、醤油、石油、たばこ、の販売をし、二から三人の職人を雇っての農機具の製造販売をしていた。7歳のころ母を失い、継母のウメを迎えた。
生家のある長州の萩市あたりは文武の盛んな土地柄だけあって、関菊治(旧姓宮内菊治)は幼少時代は、相当厳格な躾のもとに育てられた。几帳面で礼儀正しく、そして負けず嫌いの性格は、その幼年時代からの厳しい躾に負うところが大きい。
関菊治は山口県阿武名郡那須佐村にある育英小学校の高等科を卒業する。私塾に通いながら、育英小学校の分校へ代用教員として勤務した。この時の年齢は10歳をわずかに出たばかりであった。誠に可愛い先生であったことから、生徒からは「こんまい先生」の愛称で呼ばれていた。
関菊治(旧姓宮内菊治)の実弟である加藤亀松は次のように菊治のことを語る。「私たち兄妹は、男5人、女3人で、菊治兄と私以外は早死にしました。(注・いずれも70歳以上で他界したことを指しての表現である)。なにぶん80年も前のことで」と。
づづけて実弟、加藤亀松は次のように述べる。「私たち弟妹には、大変優しい兄で、よく面倒を見てくれたものです。当時の育英小学校というのは、尋常科4年、高等科2年で、生徒数も120人程度いたようでした。兄は成績がよい方で、ず-と一番で通していたようです。当時この小学校が新築され、その完成披露に県知事原安太郎氏が見え、兄が生徒代表で答辞を読んだのを覚えております。毎年、村の天満宮のお祭りに、習字の展覧会行われていましたが、これにも兄はいつも最優秀に選ばれていたようです。代用教員は四、五年やっていたいたでしょうか。毎日分校まで一里余の道を、袴にぞうりを履き、弁当を小脇にかかえて通っていました。そのうち教員を辞めて、丁度東京に叔父が居るのを幸いにこれを頼って上京してゆきました」
関菊治(旧姓宮内菊治)は1893年(明治26年)2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業する。卒業にまつわる逸話がある。
卒業の直前、学校幹部須藤某氏から、卒業する全員に「就職斡旋の必要上履歴書を提出するように」との申し渡しがあった。ところが関菊治(旧姓宮内菊治)だけは「学校は、物を教えていただくところで、そこに就職のお世話までかけるのはもっての外、私は卒業の栄冠だけで結構です。私自身でなんとかします」と就職の斡旋を断り、履歴書を提出しなかった。
関菊治(旧姓宮内菊治)は数府県庁に向けて、自ら作成した「就職申込書」なるものを送り、自信満々好機到来を待ったが、これへの返事は、大阪府、島根県の「本書受理すべき限りに非ず」の付箋付き返送と、他には反応なしという無惨な結果であった。
この後、大阪の米屋さんに奉公などして生活の糧を得ながら就職運動に体当たりした甲斐あってか、明治26年(1893年)12月10日兵庫県雇として採用され、兵庫県内務部第二課で、当時の度量衡主任松尾磯四郎氏の元に勤めることになった。
関菊治(旧姓宮内菊治)は明治31年7月12日、神戸市において、上司の世話で関勲と結婚する。関勲は明治11年石川県に生まれ、京都府立高等女学校卒業の才媛である。関勲の父、勝重は先祖代々前田家に使える武家で禄100石であった。維新後は北海道に渡って漁業をするも台風に遭って明治13年6月漁船転覆して帰らず。34歳であった。関勲はこのとき3歳。関勝重夫人は京都にでて関勲を養育する。宮内菊治は関勲との婚姻を機会に関菊治を名のる。禄100石は高野瀬宗則の父の150石、長州藩士で上士である高杉晋作の150石と比較するとその多寡がわかる。高杉晋作は長州藩の富裕層となじられていた。
関菊治の官界生活とその経歴
関菊治の官界生活は次のような経歴である。明治26年、兵庫県雇として計量界への第一歩を踏み出す。翌明治27年2月には大阪府に転じ、ついで明治28年9月には早くも富山県度量衡主任技手に抜擢されている。明治29年4月6日、富山県からふたたび兵庫県に移り、度量衡主任技手に任命される。この年から中央度量衡器検定所大阪支所長を兼務する。兼務期間は兵庫県から大阪府に転ずるまでの11年間、さらに大阪府の初代権度課長時代に就任して大正13年に退官するまでの18年間つづく。官界生活は通算30余年になる。
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
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├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
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├自衛隊幹部候補生|自衛官募集ホームページ (mod.go.jp)
├令和2年度自衛隊一般幹部候補生採用要項
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├<記録配信>2021/09/17 第1回公開研究会【河合潤教授(京都大学)に聞く】和歌山カレー事件と『鑑定不正』 (youtube.com)
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├<記録配信>2021/09/24 第2回公開研究会【河合潤教授(京都大学)に聞く】和歌山カレー事件と『鑑定不正』 (youtube.com)
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├不正鑑定 カレーヒ素事件 河合潤著 日本評論社
定価:税込 3,300円(本体価格 3,000円)
紙の書籍・POD・アーカイブズの価格を表示しています。
電子書籍の価格は各ネット書店でご確認ください。
在庫僅少
発刊年月 2021.08
ISBN 978-4-535-52598-6
判型 A5判
ページ数 220ページ
Cコード C3032
ジャンル 刑事訴訟 法化学
会社名 株式会社 日本評論社
所在地 〒170-8474 東京都豊島区南大塚3-12-4
電話番号 03-3987-8611
FAX番号 03-3987-8593
メールアドレス infom@nippyo.co.jp
紹介
(著者より)本書は、刑事裁判の鑑定書を一つひとつチェックする作業の中で見つかったゴマカシをまとめた本です。不正をあばかれた一審鑑定人たちの言い逃れや、それを擁護する裁判所の決定文を対比して引用したところ、不本意ながら裁判の滑稽さを際立たせる本になってしまいました。鑑定不正の真実を知ってほしいと思います。1998年に起きたカレーヒ素事件。被告人は分析化学鑑定を根拠に死刑を言い渡されました。被告人の夫がシロアリ駆除業に使っていた亜ヒ酸と、事件の亜ヒ酸とが異なることを知りながら、「同一」に見せるため、濃度比を百万倍して対数を計算した図を示した鑑定書がありました。3価ヒ素(亜ヒ酸のこと)が検出できない分析方法を使って、被告人の頭髪に亜ヒ酸が高濃度に付着していることを検出したとする鑑定書もありました。2021年の現在でも分析化学的に不可能な鑑定を、二十年以上前にできたことにしていた鑑定書もありました。ゴマカシはまだまだあります。化学が苦手でも理解できるように解説しました。「還元気化」と呼ぶヒ素鑑定法では、ヒ素が「還元されることはなく(い)」と裁判官は判示しました。還元の有無は死刑判決を左右するカギです。「還元」と呼ぶ方法なのに、還元されないという判示はスゴイ判示です。「還元」は化学用語なので説明しましたが、化学を知らなくても、裁判所の論理が破綻していることがわかります。こうしたスゴイ判示はほかにいくつもありました。判決や決定は開示されているので、出典を明記しました。虚偽の鑑定書は、事件の被害者やそのご家族から真実を知る機会を奪いました。2021年6月には、冤罪死刑囚の娘さんと2人のお孫さんが命を落としました。鑑定不正は、事件とは無関係の人たちを二十年以上も苦しめ続け、3人の命まで奪いました。
目次
はじめに
第1章 カレー毒物混入事件(1998年7月25日)
第2章 2017年地裁決定における重大な転換
第3章 亜ヒ酸は同一ではなかった
第4章 科警研鑑定と中井鑑定の関係
第5章 第2審から再審請求まで
第6章 頭髪鑑定の問題点
第7章 職権鑑定
第8章 世界の動向と裁判の問題点
おわりに
著者プロフィール
河合 潤 (カワイ ジュン) (著/文)
京都大学大学院工学研究科材料工学専攻教授
1982年 東京大学工学部工業化学科卒、
2001年から現職
専門はX線分析、分析化学など
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├【書評】河合潤『鑑定不正』(日本評論社、2021 年 8 月)石塚 伸一(龍谷大学犯罪学研究センター長・刑事司法未来代表理事)
【著者紹介】著者河合潤は、京都大学大学院工学研究科の教授であり、世界的な分析化学の研究者である。河合は、東京大学工学部合志陽一教授の研究室で科学者としてのトレーニングを積み、同大学院で博士号を取得し、同大学生産技術研究所の教務技官・助手、理化学研究所基礎科学特別研究員を経て、1993
年に京都大学工学部助手、助教授を経て 2001年から教授の職にある。数々の学術賞を受賞するほか、国際学会からの招待講演も多い。このよう世界的分析化学の研究者が、何故、司法の領域の科学鑑定についての著書を世に問うたのであろうか。
【本書構成】本書は、「はじめに」と8章の本論および「おわりに」で構成される。本論は、第1章「カレー毒物混入事件」、第2章「2017 年和歌山地裁決定における重大な転換」、第3章「亜ヒ酸は同一ではなかった」、第4章「科警研鑑定と中井鑑定の関係」、第5章「第2審から再審請求まで」、第6章「林真須美頭髪鑑定の問題点」、第7章「職権鑑定」、および第8章「世界の動向と裁判の問題点」の8章から成る。本書の対象は、1998年7月に起きたいわゆる「和歌山カレー毒物混入事件」の科学鑑定である。
【事件と裁判】事件は1998年7月25日、和歌山市園部地区自治会主催の夏祭りにおいて、提供されたカレーライスを食べた住民の67人が腹痛や嘔吐感などを訴えて病院に搬送され、4人が死亡した事件である。犯人と疑われた林眞須美さんは、その年の
12 月29 日、和歌山地方裁判所に起訴され、2002年12月11日、殺人・同未遂・詐欺・同未遂の8つの公訴事実で有罪となり、死刑の判決を受けた。控訴審の大阪高等裁判所も、2005年6月28日、控訴を棄却し、最高裁判所(第三小法廷)も、2009年4月21日、被告人がカレー毒物混入事件の犯人であることは、合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明されていると認められるとして上告を棄却し、死刑判決が確定した。
【再審請求】大阪拘置所の死刑監房に収容された林さんは、判決から3ヶ月後の2009年7月22日、和歌山地方裁判所に無罪を求める再審を請求したが、2018年3月29日、同請求を棄却する決定を言い渡した。抗告審の大阪高等裁判所は、2020年3月24日、抗告を棄却した。同年4月8日、最高裁判所に特別抗告し、第三小法廷に係属していた(以下「第1次再審」という。)。ところが、林さんは、2021年5月31日、殺人の凶器は、ヒ素ではなくシアン化合物であると主張する新たな再審請求を別の弁護士を請求代理人とする再審を和歌山地方裁判所に請求した(以下「第2次再審」という。)。
【重なる悲劇】事態はさらに急変した。同年6月9日、林さんの長女と2人の孫が、突然、不慮の死を遂げ、2日後の11日に新聞でこの事実を知った林さんは、9日後の20日、心身ともに疲弊し、精神に著しい混乱をきたす中、拘置所の職員に自筆の特別抗告取下書を預けた。施設側は、同月24日、本人にも、弁護人にも無断で、この書面を最高裁裁判所に送付し、受理した最高裁は、特別抗告は取下げられたと見做した。第1次再審の弁護人は、8月19日に、上記の取下書は,真意に基づかない私信であり、送付は不当であるから、取下げは無効であるとして審理の続行を求める「取下げ無効申立書」を提出している。なお、刑事裁判とは別に、大阪地裁民事部には、林さんが原告、確定審の2人の鑑定人を被告とする名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟が提訴されている。河合は、再審請求審の段階から、弁護団の科学に関する問いに答えはじめ、様々な難題に回答してきた。
【著者の意図】河合は、刑事裁判で採用された証拠の科学鑑定が、正しいかどうかを一つひとつチェックする作業の中で見つかった事実を指摘していった。抗告審まで裁判所に提出された意見書は、55丁、2000ページ以上に及ぶ。それらをわかりやすく、科学の知識のない人でも理解できるようにまとめた物が本書である。書名は「鑑定不正」という些かショッキングな表現が使われている。それは、鑑定の過誤の背景に、科学者個人の過誤だけでなく、意図的・組織的な不正の存在が明らかになってしまったからであろう。鑑定人と同じ科学者コミュニティに所属する科学者としては、「驚きであり、残念きわまりないことである」と語っている。他方で、不正が暴かれた鑑定人たちの言い逃れや、それを見抜けなかった裁判官たちの素朴な「過誤」を明らかにしていった結果、日本の刑事裁判と科学鑑定の「滑稽さ」を際立たせることになった。
【鑑定不正】犯罪の残酷さや冤罪への怒りはひとまず置き、真実に耳を傾けてみよう。1998年に起きたいわゆる「和歌山カレーヒ素事件」では、化学分析による鑑定を根拠に死刑判決が宣告された。裁判の中で鑑定人たちは、殺人に使われたとされる凶器の亜ヒ酸と被告人関連の亜ヒ酸とが異なることを知っていた。彼らは、これらの亜ヒ酸が「同一」だと見せかけるため、濃度比を百万倍して対数(log)を計算して創作した図を作成した。3価ヒ素(亜ヒ酸のこと)を検出できない分析方法を用いて、被告人の頭髪は高濃度の亜ヒ酸が付着していると断定した。20年以上の年月が経った現在でも、到底不可能な化学分析方法を使って「検出した」と断言する鑑定書もあった。河合は、鑑定書や証言の中にこの種の不正を発見し、結果として、多くの「鑑定不正」を見破ってしまった。
【誤魔化される裁判官】そのほとんどが文化系出身の法律家たちは、科学者の不正を見破ることができなかった。もとより、分析化学の専門家ではない裁判官たちも鑑定の不正を見破ることはできなかった。とても分かりやすい例がある。再審請求審の大阪高裁の決定では、「還元気化」という名称のヒ素分析方法において「ヒ素を還元していない」という趣旨の判示をしている。もし、還元していると、確定審で最高裁が「揺るぎない」と言った死刑判決の事実認定が破綻することになるからだ。「還元」法は「還元しない」という文章は「すごい」認定だ。日本の裁判所でしか通用しない論法だ。河合は言う。「不正な、真実とは異なる虚偽の鑑定は、事件の被害者やそのご家族が真実を知る機会を奪ったことになる」。そして、
本書の編集作業が最終段階に入った2021年6月、死刑の確定した冤罪の被害者の娘さんと2人のお孫さんが命を落とした。『鑑定不正』は執行を待たず、3人の冤罪被害者の生命を奪ったことになる。本書は、一人の科学者の日本刑事裁判の「反科学主義」との格闘の記録である。
以上。
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├【河合潤教授(京都大学)に聞く】和歌山カレー事件と『鑑定不正』連続研究会を開催【犯罪学研究センター】 | 龍谷大学 You, Unlimited
(ryukoku.ac.jp)
企画趣旨
まず石塚伸一教授(本学法学部、犯罪学研究センター長、弁護士)より企画趣旨の説明がありました。和歌山カレー事件は、1998年7月、和歌山県の自治体主催の夏祭りで提供されたカレーを食べた住民のうち4名が死亡、63名が重症、後遺症が残った方もいた事件です。本件で被告となった林真須美さんは、2002年の和歌山地裁での第一審で死刑判決を受け、2005年の大阪高裁での第二審では控訴棄却、2009年の最高裁で死刑判決が確定しました。石塚教授は、これまで刑事司法における科学の役割に関する研究を行っており、林さんの弁護団には最高裁の段階から加わっています。本件では、林さんが青色の紙コップに亜ヒ酸を入れて、それをカレー鍋の中に入れたとされました。林さんの夫が以前シロアリ駆除業者であったことから、確かに林さんの関連場所にはヒ素がありました。しかし、そのヒ素がカレー鍋に混入されたものと同一であるといえるのか、また同一だったとしても、林さんがそのヒ素をカレー鍋に混入したといえるのかを明確に示す証拠が必要です。そのため、①林さん関連のヒ素と用いられたヒ素が同一物であるとする鑑定、②林さんの毛髪から亜ヒ酸が検出されたとする鑑定が証拠採用され、③「林さんがコップを持って鍋に何かを入れたら湯気が出て、のけぞった」という証言からカレー鍋に混入した際にヒ素が頭髪についたことが認定され、有罪判決が下りました。本件裁判のポイントとして、法律審である最高裁で事実鑑定にまで踏み込んでいる点があります。最高裁は、上記の証拠・証言から①カレー鍋に混入されたヒ素と組成上の特徴を同じくする亜ヒ酸が被告人の自宅等から発見されていること、②被告人の頭髪からも高濃度のヒ素が検出されており、その付着状況から被告人が亜ヒ酸を取り扱っていたことを推認できること、③夏祭り当日、消去法的に被告人のみがカレーの入った鍋に亜ヒ酸をひそかに混入する機会を有しており、その際、被告人が調理済みのカレーの入った鍋の蓋を開けるなどの不審な挙動をしていたことが目撃されていたこと、それらを総合することで合理的な疑いを差し込む余地のない程度に証明されていると認められるという事実認定を行いました。この①は、科警研の異同識別鑑定、中井泉教授のSPring-8による鑑定、谷口一雄教授・早川慎二郎助教授による職権鑑定という3つの鑑定、②は山内博助教授(当時)の鑑定、中井教授の鑑定という2つの鑑定によって、それぞれ裏付けられているとされました。河合潤教授(京都大学大学院工学研究科)には本件の再審請求段階から協力を仰ぎ、この①と②の点について鑑定意見書の作成を依頼しました。今回、河合教授が出版した『鑑定不正―カレーヒ素事件』には、この意見書の内容が紹介されています。
著者講演
つぎに河合教授より著書の内容に関する講演が行われました。
全体の構成 『鑑定不正』は、「カレーヒ素事件は不正な鑑定による冤罪事件だ」という結論を出した本です。林真須美死刑囚の存在は、司法やマスコミがこうした不正な鑑定についてどう扱っているのか、学会は真面目に取り上げようとしているのか、ということを判定するリトマス試験紙だ、と考えています。本書は全8章構成で、1章は裁判の経過、2章は2017年の再審請求で亜ヒ酸の異同識別鑑定が信用できないものだと認められ、大きな転換を迎えた和歌山地裁決定を解説しています。さらに、この点を詳しく述べたのが3章の「亜ヒ酸は同一ではなかった」です。科警研は鑑定のなかでいろいろなトリックを使っていました。しかも亜ヒ酸は希少なものではなく、同じ製造会社製の別のドラム缶を入手してそれを分析していたこともわかっています。この章では、実は科警研が林さん関連のものとカレー鍋から検出されたものを分析して「亜ヒ酸は同一ではなかった」ということを知っていたことを明らかにしています。さらにほかの鑑定人の用いた分析方法も、亜ヒ酸が同一か同一でないかを鑑定できるような精度がなかったということなど、トリックをひとつひとつ暴いています。4章は「科警研鑑定と中井鑑定の関係」についてです。中井鑑定はSPring-8を使っての鑑定でしたが、これは鑑定可能な精度がなく、科警研鑑定をカンニングして鑑定書を作成したということを指摘しています。6章は「林真須美頭髪鑑定の問題点」です。頭髪は聖マリアンナ医科大学の山内助教授(当時)と、東京理科大学の中井教授の2人が分析したところ、両方の鑑定結果が一致しました。この一致によって、確かに林さんの頭髪にヒ素が外部付着していて、それが林さんがヒ素を扱っていたという動かぬ証拠だと理解されました。しかし、山内鑑定には大きくいうと4つのごまかしがありました(このごまかしは後述)。また中井鑑定はX線分析を行いました。分析の際、X線が強く出る部分に鉛を貼っておくのですが、鉛のほうを測定してしまっており、さらにその誤りを選択励起、つまり故意に鉛をヒ素だとして鑑定したということを指摘しています。3章と6章が少し難しい内容ですが、要は両方とも実は鑑定人による意図的な過失だったということを指摘しています。3章はこれまでにいろいろなところで紹介していますので、今回は6章を紹介します。6章「林真須美頭髪鑑定の問題点」 大阪高裁が2020年3月24日に出した再審請求の即時抗告棄却の決定文には、「超低温捕集―還元気化―原子吸光法より林真須美の頭髪中砒素濃度を分析する際に頭髪中の5価砒素が3価砒素に還元されることはなく」と書かれています。3価のヒ素というのが亜ヒ酸、5価のヒ素というのがヒ酸ですが、私は意見書で、これは5価の砒素が3価の砒素に還元される分析方法であるから、3価が見つかったといっても、3価が頭髪に付いていたという証拠にはならないと述べました。ところが、大阪高裁は、「5価砒素が3価砒素に還元されることはなく」といって、3価が検出されたからには絶対、3価が付いていた、だから再審請求をする必要はないと、決定を出したわけです。還元気化というのは還元する分析方法です。確かに還元という言葉にはいろんな意味がありますが、もし違う意味であれば、その意味ではないということを書かなければならない。大阪高裁はその説明もなく、この分析方法では還元されないと断言しました。これでは、日本語が矛盾しています。また分析する際、頭髪50mg(15cmの頭髪にすると50本程度)を水酸化ナトリウム溶液に溶かして、3時間加熱分解して、それを検液とした、と鑑定書には記載されていました。3価ヒ素は水酸化ナトリウムで煮て溶かしてしまうと、5価になります。仮に林真須美の頭髪に3価ヒ素が付着していたとしてもそれは、水酸化ナトリウムで煮てしまうと5価になってしまいます。つまり、何も実質的な分析をしていなかったっていうことがわかります。さらに鑑定書のヒ素濃度は検出下限に達していませんでした。実は感度が不足していて、何も検出されていなかったはずなのです。
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├【和歌山カレー事件は冤罪?】証拠とされたヒ素の鑑定は科警研による「対数」を用いた数字のトリックで捏造された鑑定不正だった(前編) (youtube.com)
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├2002年 第12回日本数学オリンピック成績優秀者一覧
田中孝明 高2 松本深志高等学校 長野県
├研究者詳細 - 田中 孝明 (keio.ac.jp)
1993年03月 慶應義塾大学, 理工学部, 数理科学科
大学, 卒業
1995年03月 慶應義塾大学, 理工学研究科, 数理科学専攻
大学院, 修了, 修士
1998年03月 慶應義塾大学, 理工学研究科, 数理科学専攻
大学院, 修了, 博士
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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro
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├小梨平 3LDK+物置|蓼科ビレッジ(長野県茅野市) (tateshina-v.co.jp)
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