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質量の単位であるキログラム(kg)の定義変更と関連する諸事項 2018-11-16-various-matters-related-to-the-definition-change-of-kilogram-which-is-unit-mass-measurement-news-site- 国際度量衡総会のキログラムの定義変更と産業技術総合研究所の発表資料など 2018-11-17-announcement-materials-national-institute-advanced-industrial-science-and-technology-change-definition-kg- |
日本計量新報一面記事です。 日本計量新報 電子版の全紙面2018年11月のIDとPW (日本計量新報は紙面をインターネットで閲覧することができます。 新聞と同じ形式のPDF ファイルです。webに掲載の全紙面です。どうぞご利用ください) (IDとPWは計量新報購読者に限り電子メールで月ごとにお知らせしております) IDは5138 PWはbhc5pet3 日本計量新報社 編集部 hiroyuki-takamatsu@keiryou-keisoku.co.jp 東京都江東区亀戸7丁目62-16-803 電話番号03-5628-7070 FAX03-5628-7071 日本計量新報あて電子メールmail@keiryou-keisoku.co.jp 質量の単位であるキログラム(kg)の定義変更と関連する諸事項 2018-11-16-various-matters-related-to-the-definition-change-of-kilogram-which-is-unit-mass-measurement-news-site- 国際度量衡総会のキログラムの定義変更と産業技術総合研究所の発表資料など 2018-11-17-announcement-materials-national-institute-advanced-industrial-science-and-technology-change-definition-kg- 2018年10月28日号(3214)1面 2018年10月21日号(3213)1面 2018年度関東甲信越地区計量団体連絡協議会開く10月12日、栃木県宇都宮市のホテルニューイタヤで 2018年10月14日号(3212)1面 2018年10月07日号(3211)1面 2018年09月23日号(3210)1面 2018年09月16日号(3209)1面 2018年09月09日号(3208)1面 2018年09月02日号(3207)1面 2018年08月26日号(3206)1面 2018年08月12日号(3205)1面 2018年08月05日号(3204)1面 2018年07月29日号(3203)1面 2018年07月22日号(3202)1面 2018年07月15日号(3201)1面 2018年07月01号(3200)1面 |
私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版) 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その36- 1986(昭和61)年からはカラーラインのプラント輸出でソ連と日本を行き来する 1986(昭和61)年からはカラーラインのプラント輸出でソ連と日本を行き来する 連続カラーラインを輸出 1986(昭和61)年からは、カラーラインのプラント輸出に関する件で、ソ連と日本を行き来することになった。 このカラーラインとは、コイル状に巻かれた鋼板に前処理を施した後にカラーペイントを塗り、そのあと乾燥と焼き固めるのを連続的に行う設備である。設備の全長は約150m、操作室も前処理・中央・出側の3カ所に分かれていた。処理したコイルは、決まった寸法に切れば屋根や壁板は勿論のこと、自動車や冷蔵庫にも使用できる。当時はまだ共産政権党最後の書記長であるゴルバチョフが健在であったが、党自体も軍事より民生が重要とも考え始めたのであろう。このプラントは平和社会向きの利用度が高い鋼板処理設備であった。この仕事を日本は、我が社をリーダーとする中外炉工業(株)と三菱電機(株)の3社によるコンソーシアムの形で受けた。 初めてのモスクワ出張 何よりもまずロシア語である。NHKのロシア語講座は欠かさず聞いた。ビデオに撮り何回も繰り返し学んだ。テキストにもソ連邦の国土の面積はアメリカの2・5倍、世界の陸地の6分の1を占めるとあり(当時)、大国にして共産主義の国だということが、私の仕事に関する緊張感を自然と高めていった。 1987(昭和62)年、初めてのモスクワ訪問で、チェレメチェボ空港に降り立った時の印象がまた悪かった。建物全体が暗くて、自動小銃を持った見張りが立っている。荷物を長い間待った上に、入国審査は正面を向き直立不動の形でうけた。無事帰れるのかなあと不安を抱いたものであった。 仕事はまず、契約に従ったドキュメントの提出から始まった。相手は鉄鋼省に所属する輸入審査官のM氏である。計測と計算機は“オートメーション”としてまとめられ、これが私の範囲となっていた。 M氏は英語が達者であり欧米の論文にも目を通していて、製鉄プラントのコンピューターコントロールの情報にも詳しく、交渉相手としては最も扱いにくい人であった。また、我々が納入するプロセス用コンピューターの上位には生産管理用の大型電算機をシーメンスから入れていたが、彼はその方の担当者でもあった。 従って、我々から関連情報を引き出そうとする彼と、商売に徹して早くまとめようとする我々とで論じ合うことも多々あった。最大の問題は、連続焼付け炉での板温制御の精度に関する契約書での文言が、非常に厳しいことにあった。この場では、私は熱量計算の精度とフィードバックによる安定性を説いてM氏にわかってもらった。 レトルト食品で夕食 1回の出張は2週間、平日は先方との折衝は4時半頃に終わり、皆が一団となって市内のレストランへ行き、キャビアありウオツカありの楽しい夕食となる。話が順調に完了すればそれで良いのであるが、時にはソ連軍団との話し合い以降に日本人同士のインナーの話し合いが始まる事も多かった。 熱中して気がつくと、すでにレストランもホテルの食堂も夕食の予約を受け付けてくれない時間になっている。共産主義社会ではサービスを旺盛にして、売り上げを上げようという気が全くなく、時間が来れば「はい終わり」とくるのだから無理もない。 夕食は仕方なくホテルの我が部屋で、手持ちのレトルト食品を温めていただく。立派なホテルなれど、ビールもサンドイッチも何もない。お酒は出国時に成田の免税店で買ってきた米国のバーボンを常とした。ご飯・ラーメン・ライスカレー・缶詰など、我が国のレトルト食品がこれ程良くできているとは思わなかった。200V用携帯用湯沸かし器のお世話になり、袋ごと暖めて食べたものであった。 ココム規制で苦労 当プロジェクト活動がようやく軌道に乗りかけた矢先、1987(昭和62)年に東芝機械のココム規制(共産圏輸出規制)違反が明らかになり、通産省の共産圏への輸出審査が急激に厳しくなった。「ソ連なんかにはもう輸出してくれるな」と言わんばかりであった。コンピューターやデータロガー、計測器や通信機に至るまで全てのものについて、違反していない事を証明する書類を作成し、通産省に説明に行くのである。 全く余計な仕事が転がり込んできたものであった。この処理に当たりながら「どうして日本の通産省がアメリカのために気を遣って国民に仕事を押し付けるのか」とつくづく思ったものである。 (つづく) 私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版) 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その36- 1986(昭和61)年からはカラーラインのプラント輸出でソ連と日本を行き来する |